< 本場結城紬 古書現代2中間資料集

中間染織資料

中間資料集 染織資料

 

古書現代2(55)中間資料集が2016.1.29.にて完成をみせ、(古書現代2(55)中間資料集はこちら

長々と記録したがあたらに新規ページを作成するに至った。(古書現代2(b)中間資料集はこちら

引き続き<古書現代3(2-3c)中間資料>と命名した本ページを参照に染織家の

あしばとなれば、記事作成としての喜びを感じる。

無用の長物(長文)と化している 気がしてジレンマも抱えた日々もあった。

更新が減っているが図書館でのまとめも時間のあいまに

作成している。おもえば勉強姿勢がみについている。それがこちら古書現代ZERO である。

 

古書現代 染織厳選読書 (100冊分)はこちら


古書現代 染織厳選読書2nd (101冊から200冊)

 

本場結城紬 北村陵

羅について 2016.8.7- これまで、織物の基本組織といえば平・綾(斜文)・繻子の三つがあげられ、総ての織物はそれらの組織により、あるいはそれらを種々に変化されたり、組合せた変化組織によって作られると言われてきた。したがって、羅や紗の如き、搦織物も変化組織の一つとされてきたのであるが、三原組織から、経糸が綟れる組織は決して生まれてこないところから、佐々木信三郎先生の提唱によって、経糸を綟らすための特殊な装置である振綜を用いる綟組織は、これを独立した一組織と見なし、近年では四原組織という定義の仕方が定着しつつある。中国には羅綺(らき)とか羅紈という言葉があり、いずれもうすもののあやぎぬと白の練ぎぬ意味し、転じて着飾った美女や美服を着る者の意ともなっている。わが国でも古くは羅を宇須毛乃(うすもの)あるいは宇須波多(うすはた)と読んでいるから、羅というのは本来軽くて薄い絹織物の汎称であったかもしれないが、複雑な綟組織によって網目状あるいは籠目状に織出された極めて特色のある織物としての羅について述べることとし、近年の中国におけるめざましい考古学上の発掘調査によって、複雑緻密な文羅はすでに紀元前2世紀の前漢の時代に織成されていたことが明らかになった。またそれは中国大陸の中心部からだけでなく、中国東部の山西省や後漢の時代ではウイグル自治区など、周辺の遺跡からも発見されているところから、その織成が当時すでにかなり盛んであり、また、その軽快、緻密な美しさが多くの人々に珍重されていたことがわかる。
柳田整理店、柳田さん(89)とプレス機  2016

柳田糊抜き名人

蒸気プレス機

駒ヶ根シルクミュージアム(長野県)  2016

駒ヶ根シルクミュージアム

 

 

長野県

一尺三寸の竹筬  2016

竹筬

おすもうさん竹筬

安曇野天蚕センター写真集1 2016

 

駒ヶ根シルクミュージアムへ行った次の日に訪問し記録した。

 

安曇野天蚕センター写真集2 2016

 

 

安曇野天蚕センター写真集3 2016

 

 

安曇野天蚕センター写真集4 2016

 

 

安曇野天蚕センター写真集5 2016

 

 

安曇野天蚕センター写真集6 2016

 

 

棋士2 2016.11.26

アナザーストーリー

もうひとつの現実

結城紬について 2017.1.5

中江克己

日本の染織・民芸染織

引用

ふるさとの味をもつ民芸紬 ・中江克己・ 伝統の古法で織る結城紬 民芸紬、あるいは民芸的な手織紬といえば、全国にどれだけあるかわからない。しかし、なかには民芸紬とは名だけで実際は機械製の紛い物もあるから、それほど多くはないだろう。そのなかで、私が今ふと思い浮かべるのは、静岡県の浜松で織られている「ざざんざ織」と茨城県の「結城紬」である。もともと紬は自家用として織られ始めた。農家の主婦が子のため、夫のためにと愛情をそそいで織ったし、その母の紬を織る心は娘へと伝えられたのである。材料の繭は玉繭や出殻繭など、絹として売物にならない屑繭である。玉繭は二匹の蛹が入っている繭だし、長い糸を引くことができない。また、卵(蚕種)をとるために蛾を育てることもあるが、この蛾が食い破って出たのが出殻繭だ。こうした屑繭から糸をとるには、まず真綿に引きのばして、指先で糸を紡がなければならない。しかし、そのように手紡ぎした糸は節も多く、むかしは売物にはならなかったのである。だから自家用の織物をつくろうと、丹念に手で紡ぎ、心を込めて染め、織り上げた。それゆえに手作りの素朴な暖か味があった。現在、紬と称する織物は全国各地に200種あるといわれているが、一般に生糸を使うために薄く、平らたくなっているなど、紬本来のざっくりとした味わいが薄れてしまったのは、何とも寂しい。もっとも時代の流れが織物そのものが染物志向で作られ、ドレッシーなものになっているというのが最近の傾向だ。それだけに、むかしの味わいを求めるのがむずかしくなっている。ところが結城紬の技法は、むかしながらのものである。まず、繭を煮て真綿に引きのばし、それから糸を紡ぐ。このような手紬糸を使うのは、今ではそれほど多くはない。糸を紡ぐのは女性の仕事だが、絣くくりは男の仕事になっている。くくりがゆるいと、染料がくくった部分にまで浸みてしまうからで、男の強い力に頼らなければならない。さらに藍などで染めたあと、居座機で織っていく。機織りは女の仕事である。すべて手仕事であり、たとえば1反の糸を紡ぐのに早い人で40日もかかるというように、なかなか苦労の多い仕事なのだ。紬の美しさは控え目に抑えた美しさで、これでもかと外へ向けて表した美しさではない。結城紬は、そうした紬の代表的なものの一つだが、しかし、技巧的になり、高級化して、むかしの素朴な味わいとは違ったものになっている、と嘆く人も少なくない。たとえば結城紬の特色の一つは亀甲絣だが、これが実に精巧で、時代とともにますます精緻さをきわめてきた。明治20年代には織幅に亀甲柄が30個入ったものだったが、30年代50個にふえ、さらに昭和30年代には80個から100個、そして34年には160個、42年には200個という精密な柄が現れたのである。見るとわかるが、たしかに驚くほど精緻だ。しかも、柄が多くなるほど細かくなり、手間もかかる。1反分の絣糸をつくるために、どれほど糸をつくらなければならないか、考えただけで気が遠くなるようなことである。他産地にはない特色を持とうとしたのだろうが、その精緻になった分だけ素朴な味わいを失ったようだ。そして、それだけ高価となり、庶民の手から遠くなってしまった。現在の結城紬のよさ、美しさは紬本来が持っていたものと、かけ離れているとはいうものの、機械化された華美で浅薄なものとは異なり、手作りの暖か味は残っている。むろん品質はすぐれている。とはいえ、庶民の不断着(普段着)として出発した紬が、庶民の手の届かないものになってしまったことに不満は残る。紬も時代の流れに身をまかせ、変化していくのかもしれないが、紬の原点を失えば、もはや紬ではなくなってしまう。近代化の波に乗らず、伝統的な古法が生きているということだけでも、結城紬は貴重な存在であろう。

コンビニ夜勤と伝統工芸士 2017.1.8 2016年12月の終わり頃に伝統工芸士の合格通知書がきた。私は、コンビニ夜勤をこの資格、伝統工芸士をとる前に、履歴書にこれといって有利になるような資格がなかった。幸いなことに、コンビニ夜勤先は、私は逆スカウトでやることになり、履歴書はそれほど重要なことではなかった。アルバイトの世界というのは過酷で、正直、コンビニ夜勤というのは、体の負担が昼間と違い、疲労回復が遅く、寝てまばたきしたら6時間もたっているということもある。それだけに給料は良いかといえば昼間に少し上乗せされている程度で、例えば、夜勤の新しい人材で若くて意欲のある、体力もある、というようなものが出てくるとたちまち、オーナーから、明日からいい人材がみつかったので申し訳ないが来なくていい、と戦力外通告をうける可能性もある。そういうときに、そうした差をうめるのは、日頃の挨拶や労働への信頼度である。まず、こなすべきことを教えられ、それを無駄のない動き(労働)とお客様への信頼度を勝ちとり、ポジションを常に保持しなければならない。これが例えば、履歴書での選考というものがあった場合、伝統工芸士を取得しているのといないのとでは、あなたはいままでどのように生きてきたのか、という問いに答える答えが全然異なるものになる。私は20歳で12年従事して32歳で取得しました、というのと、家事手伝いをしていました。というのでは明らかに前者が有利になる。ただ、ご存知の方はいるかもしれないが、コンビニ夜勤は過酷で常に人材が不足している。そのため、ものをいうのがキャリアである。経験済みだとある程度、優遇される。私はもう織物ではダメだ、というところにまで追い込まれたら、またコンビニ夜勤をこなすだろう。それと、私は見習い10年目ですだの、どこどこ織物のうん代目ですといったところで他所の職場で認められたり、尊重される可能性はないに等しいことを覚悟したほうがいい。ここで得られた教訓は、いかに早く、その道を志すか、つまり目をつけた、はやさの有利性を言いたかったのである。これから、なにか目標を持ちたい方の参考にばればと思い筆を持った次第である。2017.1.8.
染色投資2017 2017.1.8 染色投資2017




ざざんざ織り 2017.1.11

中江克己

日本の染織 民芸染織 引用

素朴な味のざざんざ織 中江克己 素朴な味のざざんざ織結城紬が手仕事の繊細さを追求した典型とすれば、ざざんざ織はざっくりとした素朴な味を持つ紬の、一つの典型といえるだろう。初めてざざんざ織を見たとき、一瞬これが着物の布かと、わが目を疑ったほどだが、それというのも、素材は絹なのに、ウールのような感触があって、洋服にしてもおかしくないように見えたからである。柄も縞と格子が主体で、たとえば薄い紫の地に赤、青、鼠などの細かい縞が入り混じったものなどは、ワンピースに仕立てても、しゃれた感じになるだろう。紺地に白の点々で二重の格子柄を織り出し、その格子の真ん中に花びらのような形を作りながら、赤の点々が連らなり緯縞になっているものは、コートにでもすればよいのだろうか。そして、赤といい青といっても、決して派手な色ではなく、全体に渋い色調で、いかにも民芸織物らしい雰囲気を身につけている。ざざんざ織は手織紬なのだが、着物の織物として、きわめてユニークなものである。ところで、この「ざざんざ」という名に、珍しさを感ずる人も多いだろう。「広辞苑」をひいてみると「ざんざめくさま。うたいさわぐさま」とあり、狂言「茶壺」の「浜松の音はざざんざ」を例にあげている。現在、浜松の八幡神社横に「ざざんざの松」という石碑が建てられているが、この「浜松の音はざざんざ」とうたったのは室町幕府の六代将軍足利義教(1394〜1441)だという。織物の名はこれによったものだ。ざざんざ織は今から40年前、浜松の平松実氏が創案し、現在は息子の哲司に受け継がれている。浜松は古くから織物の盛んな土地で、遠州織物の名は戦前まで代表的な木綿織物として知られていた。平松家も代々この遠州木綿の織屋だったという。ところが第一次大戦後、経済不況の波をもろにかぶり、遠州木綿も大きな打撃を受けた。木綿の機屋にあきたらなかった実氏は、それをきっかけに柳宗悦らの民藝運動に参加、機械織りから離れて、手織りを始めたのである。近代化に逆行する改革といってよく、つまりは民藝運動へ参加したことが契機となって手仕事にめざめ、このユニークな手織紬が誕生したわけだ。糸は節のある玉糸と、真綿から手引きして紡いだ太い糸を使う。見るからに素朴な感じで、それがまた大きな特徴になっている。太いだけに、使用する糸の量も当然、多い。普通の倍くらいあるというから重くてかなわないのではないかと思ったが、単で着るから普通のものとそれほど着た感じは違わないらしい。しかし、糸の精錬を丹念に行なうので、目減りが大変な量になる。といって精錬を適当にすませると、絹特有の艶が得られない。艶のあるしなやかな糸を使ってこそ、独特な風合が生まれるわけである。厚手の独特の地風を作り出すには、大変な苦労が必要なのだ。同じように糸染めも念入りに行なう。しかも糸が太いから時間がかかる。染め職人がかかりっきりで、数時間も染めるのだという。主に植物染料で染め、カラフルな縞柄を丹念に手織りで織り出す。経糸を機にかける前に整経という準備作業がある。普通は整経機で行なうが、手作業にしても横に寝かせた形の整経台を使う。だが、平松家では縦型の整経台で、これも珍しい。前に述べたように織り上げられた布の色調は渋く、むしろ重々しい感じだが、ウールのような風合とともに、ざざんざという響きに似つかわしい。いずれにせよ、ざざんざ織は実用的で、これで仕立てた着物は少しくらいの雨に濡れてもあわてる必要がない。雨が水玉になって、ころがり落ちるのだ。しかも、着物に限らず、羽織やコート、帯地などのほか、テーブルクロス、ネクタイなどと広く利用され素朴な美を発揮しながら新しい伝統をつくりつつある。

上田と飯田の民芸紬・中江克己・(2017.1.12.編集)引用 (2017.1.12.編集) 結城紬、ざざんざ織のそのほかで民芸紬といえば、長野県の上田紬、飯田紬、山繭紬などが素朴な味わいがあって好ましいものだ。上田紬は300年ほどの歴史を持っているが、すでに18世紀には全国に名を知られるほどだった。最盛期は文化文政から天保にかけて頃(1804〜1844)である。年間7万反を生産し、「上田縞」とも呼ばれて、江戸はもちろん、遠く京や大阪でも人気を得ていた。それというのも「上田産物改会所」を設け、糸質をはじめ、染色や織り味、尺幅などの検査をきびしくして、上田紬の品質高める努力を続けたからである。当時の柄は大きな基盤縞、いまでいう格子縞が主体だが、現在はこまかい格子縞になっている。紬が不断着(普段着)というよりは、趣味的な外出着になっているからだろう。糸紡ぎ織りも機械で行うものが多いのだが、小岩井勉さんのように伝統的な手織りで、しかも植物染料で染めている人もいて、こうして作られた上田紬は何ともいえない落ち着いた風合いで、暖かい味わいがある。飯田紬も素朴な味という点では同じである。もともと、この飯田付近も養蚕地帯で、古くから自家用の紬が織られていたらしいが、初めてこの地方から商品として市場に出たのは、文化13年(1813)に考案された「富田絹」であった。これは玉繭から手で糸を紡ぎ、丹念に織った薄絹で京で紅梅に染められ人気を集めていたという。そのほか、明治、大正期には野良着用の木綿紬を織っていて、盛況だったらしい。飯田紬はそうした背景のもとに生まれたのだが、飯田紬という名が付いたのは大正9年というから、それほど古くない。飯田紬を創案した織元が「若松屋」で、現在、林宏次さん夫妻がむかしの面影を残す素朴な縞紬を織り続けている。だいたい縞柄というのは古くて新しい柄というか、江戸時代のものを見せられてもそれほど古さを感じさせない。現在のものにしても、色使いなどに現代人の好みが反映されていると思えるぐらいで、江戸時代の人間が着てもおかしくないものもある。林さんの織っている飯田紬は、やはり民芸紬といってよいだろう。付近の山野から採集した植物、たとえば梅、椿、樫、栗、柿、胡桃、漆、松葉からさらには茶、なす、よもぎ、玉ネギ、トウモロコシ、サツマ芋など、茎や葉、実、皮から染料をつくり、微妙に変化する多様な色を染め出している。こうして糸染めし、手織で打ち込みを強くしながら、シャキッと織り上げる。いかにも民芸紬という感じで、地風も独特の味わいがある。
綿紬の弓浜絣 2017.1.13 こうして書いていけば、少ないといいながらも、各地にまだいい手織紬が残っていて、きりがない。それだけ伝統を守ろうとする人がおり、手作りの民芸織物を好む人が多いからであろう。民芸の味は、いいかえればふるさとの味で、それが人々に郷愁を感じさせるのかもしれない。ところで、これまで述べてきたのは絹紬ばかりだが、紬には綿花から手紡ぎする綿紬もあるので、これについて触れておこう。綿紬の民芸織物といって思い出されるのは山陰の弓浜絣である。米子から北へのびる弓が浜半島は、日野川が中国地方から土砂を運んで出来たものという。しかし、奈良時代は「夜見の島」と呼ばれる砂の島にすぎなかった。米子の付近一帯は砂地で、室町時代の後期から開拓が行われたものの、米は育たず、やむなく農民たちはサツマ芋を植えていた。やがて砂地の中は温度が高いことから、綿の栽培が始められ、19世紀には大変な盛況ぶりだったと伝えられる。もともと日本に綿の栽培が定着したのは16世紀のことで、当初は貴重品あつかいをされていた。17世紀から18世紀にかけて、各地で盛んに栽培されて、庶民の衣服にも用いられるようになり、やがて庶民の衣服の主流になったのである。ところで米子の木綿だが、夏は熱く焼けた砂を踏みながら、綿井戸と呼ばれる小さな池から水を汲み、朝となく夕となくかけるのが日課で、大変な苦労をして育てたという。そして秋の綿摘みの季節となると、近隣の村々から雇われてきた娘たちの赤いたすき姿の賑わいが、浜の風物詩でもあった。綿作は手間と技術が必要で、「綿は古来百人手間」などといわれていたのである。綿花を収穫すると種を取り除き、打ちほぐさなければならない。その種からは綿実油をとり、その殻は藍甕を加熱する燃料にしたという。種子を取り除いたものを繰綿(くりわた)というが、これを打ちほぐし、「篠巻(しのまき)」(中国地方では綿筒 じんき といった)に巻きつけ、筒状にする。これを糸車で糸にしていく。こうした手紡ぎした綿紬糸を用いたのが弓浜絣であった。もっとも現在は機械製糸がほとんどで、手紡ぎ糸は少ないが、しかし、綿紬には独特の風合があらわれ、これを好む人は少なくない。弓浜絣は緯の絣糸で模様を織り出す絵絣だが、その模様はその時代その時代の生活を反映させて、実に多様である。生活の詩といってもいい風情があり、それがまた弓浜絣の大きな特徴となっている。むろん糸染めは藍染で、紺と白の清潔な調和が美しい。こうした綿紬は、だいたい綿の栽培がほとんど滅びかけているだけに、ごく一部の地域でわずかながら行われているにすぎない。滅びさせてしまうには惜しいもので、まだ残っているということが、ありがたく思えるほどである。
好もしい上田の縞紬・佐々木愛子 2017.1.17 私がはじめて、身につけた手織紬は、上田紬でした。新聞社勤務の夫が長野県の支局長となり、昭和31年の春、私たちは、東京から長野市に移り住みました。長野市の県庁に近い住居に落ち着いてから、土地の人に、お手伝に来てもらいました。そのおばさんが「このあたりでは、こんな織物が出来るのですよ」と見せてくれたのが上田紬だったのです。それまで、私は上田紬という名も知らず、見たこともありませんでした。今まで着ていたどの織物にもない素朴で、しっかりした地風、てらいのない縞柄は、まことに好もしい味でした。それから私は、上田市、松代町、戸倉町、須坂市などの紬を織る家々を、次々とたづね歩きました。こんなに身近かで、織物が織られている土地柄におどろいたのです。私は北海道で育ったものですから、身につけるきものは、すべて本州から入って来たものでした。織物では、お召、大島、米流、久留米絣、などを着なれてはいたのですが、それはみな遠い土地で作られたものだったのです。東京で暮している間も、今日と違って、地方の紬などをデパートなどで見ることは全くなかったのです。紬を織る家々で、さまざまな見本裂を見せてもらい、縞や格子、無地などを次々に織ってもらいました。一番はじめに作ったきものは、経糸は薄藍で、緯糸には黒の紬糸を入れた藍無地の紬でした。この紬を着て、長野から寝台車に横になり、翌朝、上野に着き、身づくろいして街に出ても、夜中着ていたきものが、ほとんどしわになっていないのには、驚きました。経糸、緯糸に良質の糸を惜しげもなく使って織り上げてあったからだと思います。
紬の町で機を織る・佐々木愛子 2017.1.18 長野から上田まで国道沿いには桑畠が続き、つやつやと光った桑の葉が風にゆれていました。その時季には、農家では座敷の畳を上げてしまい、蚕棚を並べて養蚕に精を出すのです。紬を織る川中島の農家を訪ねましたら、三部屋くらい打っ通しで、蚕を飼っていましたが、蚕が桑をたべる音の大きいのに驚かされたものでした。また、真っ白な繭が山のように板の間盛り上げてある有様は、いいようもないほど、豊かで美しい眺めでした。農家のお嫁さんが寒々とした荒壁の納戸で機を織っていましたが、質素な部屋のたたずまいと、機にかかった紅色の輝くような素地とが、あまりにかけはなれて胸がつまったこともありました。織ってもらっているだけでは我慢が出来ず、私は機織をならいはじめました。農家の土蔵の奥に打ちすててあった古い機を、1500円でゆずってもらい、戸倉の紬を織る家に運び、そこで織物を教わったのです。毎日、長野市から通って機を織り、やがて何とか一人で織れるようになって、その糸をかけたままの機を、リヤカーで長野の支局の住居に運んでもらったのです。いま思うと、のどかなものです。藍の濃淡のかつを縞をかけた機が、リヤカーの上でゆらゆらゆれながら、自転車にひかれて国道を通って行ったのです。長野で暮している間に、何反か紬を織ったのですが、素人の私の望みを、面倒がりもせず、手をとって教えてくれた方々のやさしい気持を心からありがたいと思っています。その時の織機は、いま東京の家にあり、織物をしている長女が毎日、使っています。この頃の新しい織機とは全く違い、黒光りしたがっしりした織機です。
着ていて安心な手織紬・佐々木愛子 2017.1.18 真夏のほかは外出にはいつもきものを着ている私は、丈夫で着心地のよい織物を求めて、その後も次々と、いろいろの土地の手織紬を着てみました。米琉の見本となったといわれる久米島を着たいと思い、15年ほど前に沖縄に行った時、2反ほど求めて帰りました。けれどもその時の久米島紬は、とても地質が薄く、胴裏の白絹が透けて見えるほどでした。泥染の茶褐色の地に、絣のあしがすれた具合は、とてもよいのですが、地質がわるいため、羽織下でなければ着られないのです。その時、10年ほどたって求めた久米島紬は、地風、染色ともに申し分なく、大きな絣の柄が落着いた味に織り上っています。私はいまも、この久米島紬を大切に愛用しています。テーチ木の液に浸しては、泥染めをする方法を、繰り返すことで糸にふくらみと弾力が備り、織り上げた織物は、着ていると体の動きをしっかりと受け止めてくれます。はじめに求めた久米島紬は、戦後、久米島で織物が復興してから間もなくで、良質の糸が手に入らなかった時代のものと思われます。今日の久米島紬は、品質は安定し、よい織物が揃っています。私が着ていた紬の種類は多くはないのですが、自分が手織紬を着てみて思うことは、経糸が生糸で、緯糸だけに紬糸を使って織り上げた紬は、長く着ていると、布地に腰がなくなりやすいようです。経糸の生糸に、5.6本おきに紬糸を入れてある紬は、体の動きを受けとめる手応えがあり、長い時間着ていても、しわにならず、たるみも出ないと思います。ですから着ていて安心なのです。また化学染料で染めた糸よりも、植物染料で手間をかけて染めた糸で織ったものは、染めの工程で、糸がやせるものはやせてしまっていますから、その上で織り上げた紬は布味が落着いています。泥染の方法を経た糸で織った紬が、もっとも着心地がよいように思われます。新潟県の小千谷、六日町、岐阜県の郡上あたりで織られる紬には、経糸にも紬糸が入り、染めは草木染のものがあります。こんな紬は地風に深い味があり、色合は落付いていて、着ていると布味には腰があり、着心地はよく、着あきることがありません。私は日常、こんな紬をよく着ています。
打ち込みが決める紬のよさ・佐々木愛子  2017.1.20 打ち込みが決める紬のよさ・佐々木愛子・結城紬は、経、緯ともに手紡ぎの紬糸を使っていますから、経糸と緯糸はしっかりと組み合い、いざり機で織り上げた弾力のある地風は、人の体の動きを十分に受けとめ、それでいて体の動きに添う軽さと自由さがあります。この頃の絣結城の値段は、私の手には合いませんから、私が着るのは無地や縞の結城です。着はじめた時は、こわばったような地風が、裾まわしがすり切れる頃には、しっかりと体になじみ、身のこなしが楽で、着ているきもののことを忘れています。着ていて楽で、着くづれしないきものが第一なので、この頃は、ついつい結城を着ることが多くなりました。六日町で織られている経緯ともに紬糸で織ってある細かい蚊絣の紬は、着心地はよいことと思い、一度着てみたいと思いながら、まだ着たことはないのです。蚊絣で織り出した文様が、あまりに技巧をこらしたものが多く、地色が濃紺、黒など濃いものが多いので、なかなか気に入ったものに巡り合いません。若い頃とは違い、あまりに地色が濃いものは、顔色が沈んでだめなのです。結城紬も濃い色が多いのですが、濃い色の織物が似合うのは、50前くらいまでではないかと思うのです。また、きものは美術品ではないので、着る人をぱちぱちとはね返すような、きものの立派さだけが、きわだつような織物は好ましいとは思えません。この頃の織物には、柄が大げさすぎるものがとても多いと思います。私は外出も旅行も織のきものを着通していますので、毎年、春の終わりには何枚かのきものを洗張りして仕立て直します。とても気に入っているきものが、洗張りしたら急に腰がなくなって、くったりしてしまうことがあり、そんな時は、ほんとうに情けない思いです。昔織ってもらった紬でも、洗張りした後は頼りなくなって、今でも着たい柄なのに、着ることもなくなったものが何枚もあります。そうかと思うとはじめに作った藍無地の紬は長年、愛用しましたが、膝が抜けるまでしっかりしていました。織り上った時は、ちょっと地厚すぎると思うくらいの紬が洗張りすると好もしい着心地になるようですし、細い糸で薄手に織った紬は、はじめは着心地がちょうどよいのですが一度洗張りすると地風がやせて頼りなくなります。薄手の紬でも糸の質が優れていて、打ち込みがよければ、水を通しても風合は損わないのだろうと思います。織る時の打ち込みが甘いものは、着ていても、ぴたっとした感がないし、そうかといって力まかせに打ち込んだものも、肩が凝ると思います。私のように、仕立直した後も長く着られる紬を求める人は、今の時代ではもう少ないのでしょう。それ故、丈夫さや着心地よりは、色や柄に重点を置く織物の方が多いのだろうと思います。
絣の警鐘とリアリズム 2017.1.22 北村陵

土地の匂いのする紬は少ない・佐々木愛子

2017.1.22 土地の匂いのする紬は少ない・佐々木愛子
大島紬の生命は泥染め・佐々木愛子  2017.2.1 戦争前の大島紬は泥染、泥藍染だけでした。母の若い頃までは、緯糸に紬糸を使ったものがあったようですが、私の時代の大島は、もう経緯ともに生糸でした。私の子供の頃、奄美大島から中年の女の人が毎年、大島を売りにきたのを覚えています。大きな風呂敷包みを背負った男の人をお供につれて、聞きとりにくい奄美の方言で話をする女の人が、座敷に大島を広げる時は、とてもたのしみでした。私の娘時代は、一疋大島で、きものと羽織のお対をつくるのがきまりでした。その頃の大島は、今日のように高価なものではなく、お召や縮緬と同じくらいの値だったと思います。娘時代に作ってもらった大島は長女が中学生になる頃まで、何度も仕立直して着ました。泥染をくり返した糸で織り上げた地風には、ふくらみがあり、すべりがよく、しわにならず、この上ない着心地でした。後年、きものにかかわりのある仕事をするようになり、ルポを書くため奄美大島を何度か訪ねました。テーチ木の液に浸した糸を泥染田に運んでは、もむ作業のくり返しの末、あの大島の着心地のよさが生れることを知りました。南の島とはいえ、真冬の泥田はさぞ冷たいことでしょうし、真夏の泥田で強い日光を浴びて仕事をするのは、並々の苦労ではないと思います。テーチ木の液で糸をもむ人は、腕まで茶褐色に染まり、膝まで泥田につかる人は、体中泥だらけになります。こんな仕事をする若い人がなくて困るということでした。大島紬の特色は、この泥染にあるのだと思います。色大島、白大島には、まるで染物のような多彩な絣柄もありますが、織物の品格、着心地は、泥染大島には遠く及びません。私の若い頃に着た大島に、泥染の黒褐色の地に白茶や、えんじ色で大柄な縦縞を織り出したものがあり、お対にして、とても愛用しました。この頃の化学染の大島の縞や格子とは全く違い、泥染の蚊絣の大島と同様な風合だったのです。今もあのような縞大島を着たいと、いつも思っているのです。名瀬市や鹿児島市の大島紬の工場で、製作の工程を見せてもらいますと、蚊絣で多彩な文様織り出すために、息もつまるような作業が行われていますが、それがかえって、大島本来の美しさを損なっているのが、残念でなりません。誰の責任か軽々しくはいえないことですが、大島紬は間違った方向にどんどん歩いて来たようです。こんなに手をかけすぎた織物を着ても、女の人が美しく見えないことだけは、たしかです。泥染、泥藍染の特色をどこまでも守り、もっと素朴で端正織物を作り、いたずらに値段を高くしないことが必要だと思います。
紬織りに情熱をそそぐ人々・佐々木愛子・  2017.2.2 昔、農家の自家用だった手織紬が、戦後の織のきものの主流となって今日まできましたが、今、紬は一つの曲がり角にきているのではないでしょうか。20年前、私は上田紬に新鮮なおどろきを覚えましたが、今日では、あの時ほど私をひきつける織物はほとんどありません。あまりにも織物が出まわりすぎたのです。今、私が織のきものに求めるものは、丈夫で着心地がよく、澄んだ静かな色合の織物なのです。自家用に織る農家は、今はもうありませんが、今日では、昔はいなかった工芸作家たちが熱心に織物を織っています。織物を学ぶ人も多いのです。このような人達の技は、専門の職人には遠く及ばないけれど、色彩感覚、創造力は優れています。自分の織る織物で大きな収益をあげるのは、むずかしいことを知りながら、それでも織物を作り続けている人達です。この人達の作品が紬織業者に影響して、何か道は開けないかと思うのです。郡上紬などは、その一つの生き方のように思われます。幼い頃から今日まで、長い年月、さまざまな織物を身にまとってきました。その一枚一枚のきものが、人が心をこめて織り上げたものだったことを思うと、豊かな思いに満たされます。見も知らぬ作り手たちに深い感謝の思いを覚えないではいられません。
素朴で地方色のある民芸品・本吉春三郎  2017.2.3 民芸という言葉は、今日では大変一般的なものになって、誰でも民芸品とはこんな物だという考えをもつほどになっています。民芸の言葉は、大正の末期から昭和のはじめにかけて、柳宗悦を中心として数人の、主として陶器を作る人達の間で生れた新語です。民芸普及は柳宗悦をはじめとする日本民芸協会によって、おしすすめられました。民芸の語は時運に乗じて広まりましたが、はじめ柳などの考えた範囲をこえて、大変安易拡大した解釈をされているのが現状といえましょう。しかし民芸品は、庶民大衆の毎日の生活をうるおす雑器であって、素朴で丈夫で、郷土的地方的な特色をもち、暖か味があり、その物密着した一種の美があるということは根本的な考えでありましょう。紬の着物に考えがおよぶと、私は地方民謡を思いおこします。東北の民謡、信濃や越後の民謡、また九州や沖縄の民謡、それぞれ、その土地に結びついて育ってきました。信濃の紬に伊那節や木曽節のメロディが背景となるのも自然だといえます。そして信濃路のいくつかの紬も、民芸の一つとして考えるのも楽しみです。
信州の風土と美しい縞紬・本吉春三郎 2017.2.5 信濃は略して信州といいます。信州の紬では上田紬にふれるのが順序でしょう。上田は上田盆地の中心に位し、千曲川の流れに沿うた養蚕や機業地として知られます。ここの紬の歴史は古く、江戸初期の寛文時代にさかのぼるといいます。井原西鶴の「日本永代蔵」に「……うえしたともに、紬のふとりを無紋の花色染にして、同じ半襟をかけて、上田嶋の羽織に、木綿うらをつけて……」という一節があります。紬の代表格の結城紬も、はじめ縞物でした。今も結城の人達は買継商を縞屋呼んでいます。上田紬は縞織物です。最近、少しばかり絣もありますが、上田紬を代表するものではありません。縞を「嶋」とかくのは西鶴(元禄6年没)時代から明治まで、例えば尾崎紅葉の「金色夜叉」や樋口一葉の作品にも用いられています。西鶴のいうふとりは太織のことですが、紬や木綿を絹物対して太物ということからきています。無紋の花色染は、無地染の藍染ということです。紺より薄く、浅葱色よりやや濃い藍の色を花色といいます。縞はもと、節とか条布と呼んだものですが、室町時代にインドから南方の島づたいに渡来した縞木綿を嶋渡りとよんだことによります。現在の上田縞は、たいへん色彩で美しいものです。しかし、縞小紋のすっきりとした粋なものにくらべたら、少しばかり野暮ったい感じにも見えます。紬の着物本来の持ち味は、たとえば新内や歌沢のように粋で都会的なものに比べて、故里の土の匂いを失わない素朴で暖か味のある民謡の味にもたとえられましょう。上田紬は丈夫なことでも知られます。そして高価でもありません。縞紬は気安く、しみじみとした着心地が大切でしょう。上田は上田盆地の中心に位し、近くを流れる千曲川は、上田盆地から善光寺平に入り、長野市近くで犀川と合流し、新潟に入ってから信濃川となり、日本海にそそぎます。上田紬はこの千曲川沿いに点在する、三十軒ばかりの機屋で織られます。信州は四方を山にかこまれて海にのぞむところがありません。山々から流れだす川ぞいに、ややひらけた盆地と平があります。そして伊那紬や飯田紬のできる伊那地方は、伊那谷とよばれるほど山がせまって、諏訪湖を源とする天龍川の急流がうねり流れています。伊那谷と駒ヶ獄をはさんで背中合わせの木曽谷は、もっと山深い地域で「木曽へ木曽へと積み出す米は それ伊那のあまり米」の木曽節にみるように、米も作れないし、養蚕もありません。大正の末頃、私は木曽奈良井宿に数日滞在しました。その奈良井の友人は、後で上田に住むことになって「ああ上田は天が広い」と嘆息をもらしました。最近、奈良井宿の街並は文化財に指定されましたが、そこのTOKURIA HOTELとローマ字でかいた看板と、30年も張りかえていない茶色になった障子紙との、おかしなコントラストを忘れません。数年前、上田紬の業者の集りに出席しました。上田紬は文化財のレッテルはありませんが、ささやかながら産業として発展し、街にデパートやビルが建って賑やかでした。
農閑期と紬を織る女たち・本吉春三郎 2017.2.7 農閑期と紬を織る女たち・本吉春三郎・信州は、群馬の上州とともに我が国の二大養蚕地です。紬は紬糸を用いた織物のことです。紬糸は玉繭(二匹の蚕が共同して作った一つの繭)や出殻繭(蛹が繭を食い破って飛び出した繭)のような屑繭を真綿に作り、この真綿から糸をひいて作ります。屑繭の糸はところどころ切れているので、立派な糸にはなりません。したがって紬は、不揃いで節や大小があり、羽二重や縮緬のような均整のとれたよい織物には不適当です。信州は上田の方の北信も飯田地方の南信も養蚕地ですから、当然屑繭ができ、材料が自給できる強味があります。また信州は冬が寒くて農閑期が長いので、屑繭を糸にひき、それで織物を織る副業が盛んになりました。紬織は外見が素朴、材料は屑繭ということで、江戸時代の贅沢の禁止にも見のがされました。信濃路を歩くと、冬は枝をたばねた桑畑がつづき、初夏の頃は背もかくれるほどに繁茂した桑の葉が風にそよいでいます。「桑の中から小唄がもれる 小唄ききたや顔見たや」の伊那節そのままです。北原白秋は「信州伊那の谷 木瓜(ぼけ)の花盛り 春蚕かへそか婿とろか」とうたっています。冬が近づくと「はるか彼方の赤石山に 雪がみえます初雪が」と、これは北信から南信が望んだ風景です。信濃路の民謡を聞いていると、いかにものんびりとした農村風景ですが、しかし、諏訪生まれの歌人島木赤彦の「桑摘みて桑かぶれし子どもらの痒がりにつつ眠れるあはれ」という場面も多かったのです。大正末から昭和のかけての大不況のとき、数か月も苦労してつくった繭の相場のあまりにも安いのに気が狂って、千曲川の橋の上から繭を捨てた老婆の哀話を今に忘れません。草木染の言葉を生んだ山崎斌(1892〜1972)は信州生れの文学者でもありますが、昭和4年、郷里の青年たちに養蚕不況の対策として田舎手織の復興をよびかけ、その振興に力をそそぎました。山崎は機を織る農家をさがし歩いたが、自分の家で織ることを何か恥とする気分があることを知って驚きました。「いんね、おらが家じゃ、何年にもそんなもの織った憶えも無えじ」といって顔色をかえて「機織って着るほど、貧乏したくはねえじ」と独り言をいう主婦もあったそうです。最近は若い女性たちが進んで機織をやっているのを見ると、戦前、きびしい織物消費税という法律があって、とても趣味や道楽では手が出せなかったのにくらべて、社会情勢の大きな変化をみる思いです。かつて、機と老人は置き場に困る、という時代があったことを今さらながら考えます。今の老人問題は深刻なものですが、手織機で織ることには文化国家のレジャーという思いさえぬぐいきれません。
ユニークな美をもつ天蚕紬・本吉春三郎 2017.2.7 信州紬は、上田紬、飯田紬、伊那紬を総称します。ほかに松本紬や小諸紬もありますが、これも信州紬の一つです。共通するところは縞物で絣がないことです。こまかく細部を区別することも、あまり意義はありません。しかし、もう一つ、例外的なものとして天蚕紬があります。天蚕は山繭とも呼ばれます。鱗翅目ヤママユガ科の昆虫です。櫟や楢などの葉を食べ、繭は楕円形で黄緑色を呈します。もと広島県も産地として知られていましたが、今は長野県の特産となっています。量は少なく、長野県の繊維試験場などで増産の計画があるようです。繊維は太く、光沢があって弾力があります。染色が困難なので、家蚕と混織すると自然に染めわけができることとなります。また、家蚕とちがって野外で飼育するため、虫や鳥などの被害も多く、天候によっても支配されるので問題は多いようです。水上勉氏の「有明物語」は、山繭紬を織りつづける、みんという女の薄幸な生活を描いたものです。有明村は穂高の山麓にある村です。「穂高という駅で降りてから、みんの村までは、まだ五里も歩かねばならなかった。………およそ町などといえたものではなく、山また山をわけ入った奥の奥である。と北アルプス穂高の山麓の有明村の有様を描き「キョウソというのは、櫟の葉に巣喰うアブに似た蝿の一種であるが、この虫を天蚕や柞蚕はたべてしまうのだ。すると、かいこの腹の中でもキョウソの卵が回虫となり、かいこの軀(からだ)はキョウソのウジの棲息所とかわり、やがてかいこは死んでしまう。死んだかいこの腹から、蛾となってとび出すキョウソは、一本の櫟に何千匹となくむらがるのである」と記されています。天蚕を飼うことは博打をうつようなあぶない仕事のようでした。水上氏には「西陣の女」という有明村から西陣に女中にでた少女の一生をかいた作品があります。広島の天蚕について、民芸の柳宗悦の文がありますから借用させてもらいます。「この国が持つ特色ある手仕事としては、何よりも(山繭織)を挙げねばなりません。可部地方のもので黄と褐との色合ひを持つ織物であります。一時は着尺にも夜具地にも用途が廣く合當に榮えた仕事でありましたが、いつしか流行におくれ、今は絶え絶えになりました」とあります。ちなみに柳の文に、この国とあるのは広島県を中国地方としてあつかったこと、なお戦時中に書かれた文であることを付記します。着物は、歴史の中にも、また詩歌文学にもかかわりがあって興味が湧きます。「有明物語」も一読すれば、なおさら天蚕紬への理解を深めることになりましょう。
紬と似ているホームスパン・本吉春三郎 2017.2.7 最近の紬の流行は、戦前すべての女性が、和服で暮らした時代にもまして盛大です。機械文明の発達によって、反動的に手織紬のよさが見直されたのでしょう。ところで、洋服地にホームスパンというのがあります。ホームスパンと紬は似かよった点が多くあります。羊毛を家庭で紡ぎ、手織で織った服地です。英国ではツイードと呼びますが、これはスコットランドのツイード河畔に産するからです。スコットランドやアイルランドは、冬期は雪が深く寒さもきびしい。それに加えて高原の土地は痩せて耕地も少ない。農民にとっては牧羊によっての生活をよぎなくされます。ホームスパンに用いる羊毛は、良種のメリノなどとちがって、ブラックフェースマウンテンと呼ばれる、顔は黒く、毛は長くて粗悪。食肉用や毛皮用として飼育されます。このブラックフェースマウンテンの毛を手で紡ぎ、手織で織ったものがホームスパンです。染料も植物染料を用いるなど、我が国の紬に類似しています。英国皇室は恵まれないスコットランドの農業政策の一つとして、冬の農閑期の家内工業としてホームスパンを奨励しました。そしてこの服地を買い上げて、日常服やスポーツ服として着用しました。これによってホームスパンの人気が上り、英国はもとより、欧米の社交界に出入りする人達にも流行となりました。スコットランドのホームスパン製造が組織立ったのは1908年ごろからですから、そんなに古いことではありません。進んだ機械製品の普及してゆく反面に、素朴なホームスパンの人気が上るのは、我が国で戦後の好景気につれて紬が流行するのとよく似ています。紬もホームスパンも趣味的に愛好され評価されるものです。
素朴で魅力的な山の織物・山村精 2017.2.20 科(しな)の木の樹皮繊維で織り上げた科布、同じように藤蔓の皮の繊維で織る藤布、楮の樹皮を原料とする楮布、大麻を原料とする麻布。これらを私は「山の織物」とか、「古代太布」と呼んでいます。つまり、それほど歴史の古い織物で、いわば古代織物、日本の伝統織物ともいえましょう。私がそうした古代織物に興味を持ったのは、十数年前のことです。むろん、それ以前に、そういう織物があるということは知っていました。すでに滅びてしまったのではないか、と思われていただけに、山里でひっそりと織り続けられていることを知ったときは、本当に驚いたものです。それでも当時は、あとになって自分がその世界に手を染めるようになるとは思ってもいませんでした。私はもともと機業家であり、いわば商人です。しかし、古代織物の世界に足を踏み入れるや、ソロバンずくで日常を過ごしていた私が、ソロバンを捨てて夢中になってしまったのです。それほど魅力のある世界だといえましょう。山形県の日本海寄り、新潟県との県境近くに摩耶山という標高1200mの山があります。この山は朝日国立公園の展望台ともいわれますが、この麓(ふもと)の山里で古代織物が織り続けられているのです。山形県西田川郡温海町関川。そこへ初めて訪れたとき、私は興奮を抑えることができませんでした。木綿よりも麻よりも、はるかに古い科布。土着の素朴な布に、人の掌のぬくもりや、やさしさが感じられて、すっかり魅せられてしまったのです。続いて新潟県の北端にある山里・新潟県岩船郡山北町山熊田を訪ねました。ここも、やはり摩耶山の麓になりますが、交通の便が悪く、四級僻地といわれる所です。雪に閉ざされると、交通はまったく途絶え、どこが道かわからないところを歩いていくしかないのです。私が初めて訪れたとき、何か別世界へまぎれ込んだかのような感を受けたのを、今でもはっきり覚えています。本当に自然と一体になり、自然との調和を保ちながら生活する中で、人間の手と知恵だけで伝承されてきた織物の世界は、幽玄にさえみえたものでした。
夏に行なう科の皮剥ぎ・山村精 2017.3.10 正確なことはわかりませんが、科布は一千年以上も前から織られていたもので、日本最古の織物、織物の源流といえます。明治初期までは各地で、自家用として織られていたのですが、近代化が進むにつれて、次第に姿を消したのです。関川や山熊田に残っていたのは、私にとっては幸いでした。もし残っているのなら、ぜひ保存し、後世に伝えたいと考えていたからです。科の木は、地方によって「マダ」「マンダ」「モアダ」などと呼ばれ、山間部に自生する落葉喬木です。大きい木だと、高さは10m周囲は2mにもなりますが、よい科布を織るにはあまり太くない木で、傷のないのが適しているといいます。梅雨が明け、陽射しが高くなると、皮剥ぎが始まります。これには地方によって、木を切り倒してから行う方法と、切り倒さずに木の下に切り込み口を入れ、そこへ両手を入れて上の方に向かって剝ぐ方法とがあります。さらに表の堅い鬼皮と内側の柔らかい甘皮とを剝ぎ分け、甘皮だけを山からもってくるのです。だいたい甘皮五貫目(約19キロ)で4反の布が織れます。一見、単純な作業のようですが、いい木を見つけるために山を歩いたり、皮を剝ぐのに力もいるし、たいへん骨の折れる仕事です。剝ぎ取った甘皮は、束にして軒先などに陰干ししたあと、7月下旬から8月にかけて、川水に漬けてふやけさせたり、それを煮てから、ふたたび水で洗ったりするわけです。煮るときは大きな鍋やドラムカンを用い、その中に甘皮をわのように巻いて入れ、木灰汁を加えて煮ます。甘皮から樹脂分を抜き取り、柔らかくするためですが、若科の場合は1日ぐらい、場合によっては2〜3日も煮ることになります。これも交替で火の番をしなければならず大変です。次に煮上がった甘皮を鍋やドラムカンから取り出し、熱いうちに木で叩き、手でもんで柔らかくします。こうしておいてから、手でさらに薄く1枚1枚剝ぐのです。この薄い皮を川へ運び、石とか竹の箸ではさんでこく。こくというのはぬるぬるしたものなどを取り除くことで、「科こぎ」といっています。この仕事にもコツがありますが、この作業によって皮は網状の繊維だけになるのです。桶の中に米糠(こめぬか)と水を混ぜ入れ、こいた薄皮を漬け、二晩くらい放置しておきます。この作業を「 色出し」と呼んでいますが、一種の精錬とも、自然の作用による染色ともいえましょう。科布というのは、染料による染色は行なわず、本来もっている科の色のまま織り上げる素直な布です。この「色出し」によって、黒ずんだ褐色が淡い褐色に変わっていきます。さらに川の清流で、科皮に付着している糠を洗い落とし、秋おそくまで陰干しにしておくのです。
根気のいる科裂きと科績み・山村精  2017.3.27 農作業が終わり、冬将軍がやってくると、男たちは出稼ぎのために山里を去り、残された女たちの厳しい仕事が始まります。その最初の仕事は「科裂き(しなさき)」です。これは木の繊維から糸を作るために、ぬるま湯で科皮をぬらして絞り、指先で皮を細く裂く作業です。柔らかくなっているとはいっても、木の皮の繊維だけに、指先は痛められます。山の女たちは誰でも、子供の頃、その辛さに泣き泣き科皮を裂いた、という体験をしているのです。細く裂いた科の繊維は、長さが限られています。したがって布を織るためには長く繋がなければなりません。細く裂いたあと、長く繋いで一本の糸にしていくのですが、これを「科績み(しなうみ)」といいます。これは結び合わせるのではなく、上布などと同様のからめ、結び目を作らないようにします。糸の繋ぎ目に小さな輪を作り、別の科皮をその輪に入れ、撚り込む。これを繰り返して長い糸にしていくのです。指先の繊維な作業で糸が作られていくわけですが、布地の善し悪しは糸で決まるので、この「科績み」が最も神経を使い、根気のいる仕事といえましょう。績み終わった糸は、撚りかけの準備にはいります。直径20cmほど、高さ25cmほどの卵形に巻き上げるのですが、これを「ヘソ玉」といいます。なぜ「ヘソ玉」というかといえばヘソつまり中心に巻取口の糸端があるからです。5月が明けると次に撚糸作業が始まります。経糸は強く、緯糸は少し弱目に撚りをかけますが、微妙な性質をもつ樹皮の繊維だけに、八丁撚糸機などで撚るわけにはいきません。科糸は乾燥するとささくれるので、水でぬらしながら、糸車を手で回し、調子をみながら撚っていきます。撚糸が終わると、整経をするわけですが、これもまったく簡単な経のべの道具を用い、手作業で行なうのです。すべての準備を終え、いよいよ織りにはいります。樹皮の糸ですから動力織機は使えませんし、昔通りの居座機(地機)で、丹念に緯糸を通して織り上げていくのです。先にも述べたように科糸は湿度に敏感で、乾燥をきらいます。したがって、2月中旬から3月末までの積雪のある間中、織り続けるのです。もっともその間は、雪に埋もれていて戸外での仕事もなく、機織りに専念するしかない、ともいえるでしょう。そして4月、雪が溶け始めると、女たちは山野に出て、山菜摘みに1日を過ごすようになります。わらび、ぜんまい、ふき……山里に山菜はこと欠きません。これらは彼女たちの大きな財源なのです。ぜんまい紬は、この山里の幸・ぜんまいの綿から織り上げます。
おまきと機巻き機について 2017.4.6

徹夜で書いた記事

道具についての記事

真綿かけ 2017.3

織物協同組合主催

真綿かけ

植物をおいかけて一年 2017.4 植物学デザイン



再掲・植物学デザイン  2017.5.10

再掲・植物学デザイン

 

 

塩沢つむぎ記念館写真集1  2017.6.25

新潟県

 

塩沢つむぎ記念館写真集2 2017.6.25

新潟県2017.6.25撮影

 

塩沢つむぎ記念館写真集3 2017.6.25 新潟県2017.6.25撮影



塩沢つむぎ記念館写真集4 2017.6.25

新潟県2017.6.25撮影

 

 

塩沢つむぎ記念館写真集5 2017.6.25

新潟県2017.6.25撮影

 

 

 

塩沢つむぎ記念館写真集6 2017.6.25 新潟県2017.6.25撮影



塩沢つむぎ記念館写真集7 2017.6.25 新潟県2017.6.25撮影



塩沢つむぎ記念館写真集8  2017.6.25

新潟県2017.6.25撮影

越後上布

 

 

 

塩沢つむぎ記念館写真集9  2017.6.25

新潟県2017.6.25撮影

越後上布

 

 

 

紙のボビンから学ぶ新潟県越後上布塩沢つむぎ 2017.6.25

ワインダーのボビンがなくなったときに

 

塩沢の4大織物  2017.6.25

新潟県塩沢の織物

 

 

小千谷縮写真集1  2017.6.25 小千谷縮という縮の織物を見学



小千谷縮写真集2  2017.6.25 同上


越後上布、小千谷縮、結城紬について 2017.6.25 越後上布と結城紬は非常に似ている国の重要無形文化財の指定要件がある。糸は越後上布が手うみによる苧麻の糸づくり(麻)、結城紬が真綿からの手でひいた手つむぎ糸(絹)、手括りのよる防染による絣括り(共通)(捺染による絣は該当しない)、織りは地機織りである。越後上布は雪晒しという独特の工程も指定要件である。越後上布を縮にしたものが、小千谷の小千谷縮である。越後上布の緯糸に撚りのかかった糸を用いて生産される。ユネスコ世界無形文化遺産に越後上布、小千谷縮は染織第1号で登録され、1年後に第2号で結城紬が登録されている。越後上布、小千谷縮の地機はそのなのとおり、地べたに機が接触するほど低く足を内側にひいて織る。
小千谷縮写真集3  2017.6.25

小千谷縮という織物を見学

 

小千谷縮写真集4  2017.6.25

同上

 

小千谷縮写真集5  2017.6.25

同上

 

小千谷縮写真集6  2017.6.25

同上