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  • 上記を記録し終えて2017年のお盆迎えることになった。私は両親が紬業を引退し私が経営者になるこのサイトの維持は2030年くらいまでだと思うので、それまでにいかに記録していくか、という問いの中にいる。勿論、データでファイル化して保存させて控えているのでいつでも再開できることはできる。課題としてデザインソフト、ホームページ作成ソフトなど優れたAdobe製品に触れてきたので、それらを失うことは私は悲しいが、実際問題として降りかかるのが、プロバイダー契約と光回線、デザインソフト、ホームページ作成ソフト、レンタルサーバーなどの月の維持費が約3万円近い。1人運営では到底、その維持費は重くのしかかり紬業で汗を2倍流しても経営難になることは避けられないのである。そのためにいま思うのは紬業が副業になりバイトが主に中心のライフスタイルになるだろうということだ。そして充分な資金を得たときにもしかしたら再開するだろうということである。いずれにしろリアリズムに生きなければならないので状況をみてのことだろう。さて、上記に記録してきたものと現在進行で行っているのが染織資料蒐集であるがこれは表面的になりがちなSNS時代到来とインターネット世界の成熟でそこからこぼれ落ちる優秀な、有益な情報の引用や紹介をもって次世代へ私なりの伝承スタイルであり、考えることをやめれば、世界を知ることをやめれば極めて損失になるといういわば啓蒙である。さて、引き続き、高みを目指し染織資料集を充実させる。また、私が退行していく時同時に生産者は数えるほどしかいないと思うし産地の年間生産反数は3桁から2桁へと変貌しているかもしれないがそれでも生き続けなければならない。北村陵

北村織物 本場結城紬 アーカイブ まとめ1〜6 2010-2017 いまとなっては私にとって過去のものであり、
親父があまりにも紬業を幼い頃から親父の祖父にきびしく手伝えといわれてきた
思い出したくない風景だろう。
つむぎ一筋で生きていくものはほんの一握り
親父が68歳であと3年で叙勲の権利が発生する。
もらうかどうかも本人次第。私はもらうべきといっている。
すでに私はコンビニ夜勤をして土がついているので一筋とはいえないからだ。
さきどり 結城紬下ごしらえ最適化研究 2017.8.3

糊つけ下ごしらえ最適化研究

 

2017.8.3

ニーチェの残した言葉   誰にでも一芸はある・

ニーチェ・

どんな人にも一芸がある。その人だけのものだ。それを早くから知っていて、充分に生かして成功する人もいる。自分の一芸、自分の本領が何であるか、わからないままの人もいる。それを自分の力のみで見出す人もいる。世間の反応を見ながら、自分の本領が何だろうかと模索し続ける人もいる。いずれにしても、くじけず、たくましく、果敢に挑戦を続けていれば、自分の一芸がわかってくるはずだ。『人間的な、あまりに人間的な』
   

努力を続ける・

ニーチェ・

高みに向かって努力を続けることは、決して無駄ではない。今は無駄が多くて徒労のように見えるかもしれないが、少しずつ頂点へと進んでいることは確かなのだ。今日はまだ到着にはほど遠いだろうが、明日にはもっと高みへと近づくための力が今日鍛えられているのだ。『漂泊者とその影』

   

友人を求める前に自分自身を愛する・

ニーチェ・

できるだけ多くの友人を欲しがり、知り合っただけで友人と認め、いつも誰か仲間と一緒にいないと落ち着かないのは、自分が危険な状態になっているという証拠だ。本当の自分を探すために、誰かを求める。自分をもっと相手にしてほしいから、友人を求める。漠然とした安心を求めて誰かに頼る。なぜ、そうなるのか。孤独だからだ。なぜ、孤独なのか。自分自身を愛することがうまくいってないからだ。しかし、そういうインスタントな友人をいくら多く広く持ったとしても、孤独の傷は癒されず、自分を愛するようにはなれない。ごまかしにすぎないからだ。自分を本当に愛するためには、まず自分の力だけを使って何かに取り組まなければならない。自分の足で高みを目指して歩かなければならない。そこには苦痛がある。しかし、それは、心の筋肉を鍛える苦痛なのだ。『ツァラトゥストラはかく語りき』

   

高まるために捨てる・

ニーチェ・

人生はそれほど長いものではない。夕方に死が訪れても何の不思議もない。だから、わたしたちが何かをなすチャンスは、いつも今この瞬間にしかないのだ。そして、その限られた時間の中で何かをなす以上、何かから離れたり、何かをきっぱりと捨てなくてはならない。しかし、何かを捨てようかと悩んだりする必要はない。懸命に行動しているうちに、不必要なものは自然と自分から離れ落ちていくからだ。あたかも、黄色くなった葉が樹木から離れ去るかのようにだ。そうしてわたしたちはさらに身軽になり、目指す高みへとますます近づいていくことになるのだ。『悦ばしき知識』

   

脱皮して生きていく・

ニーチェ・

脱皮しない蛇は破滅する。人間もまったく同じだ。古い考えの皮をいつまでもかぶっていれば、やがて内側から腐っていき、成長することなどできないどころか、死んでしまう。常に新しく生きていくために、わたしたちは考えを新陳代謝させていかなければならないのだ。『曙光』

   

自分を成長させる交際を求める・

ニーチェ・

若い人が傲慢でうぬぼれているのは、まだ何者にもなっていないくせに、いかにもひとかどの者のように見せたがっている同程度の連中と仲間になっているからだ。その甘い錯覚の中でいい気分になり、若き日の時間を浪費するのはあまりに大きな損失だ。できるだけ早く、本当の実力によって昇ってきた人間、功労のある人間を見つけて交際すべきだ。すると、今までの自己満足的なうぬぼれや内容のない粋がりや見栄、傲慢などたちまちにして消え失せ、自分として今は何をすべきかようやく見えてくるはずだ。『人間的な、あまりに人間的な』

   

世間を超えて生きる・

ニーチェ・

世間にありながら、世間を超えて生きよ。世の中を超えて生きることは、まずは、自分の心や情のそのつどの動きによって自分があちらこちらへと動かないということだ。情動振り回されない、自分が自分の情動という馬をうまく乗りこなすということだとも言える。これができるようになると、世間や時代のそのつどの流れや変化にまどわされないようになる。そして、確固たる自分を持ち、強く生きることができるようになるのだ。『善悪の彼岸』

   

批判という風を入れよ・

ニーチェ・

キノコは、風通しの悪いじめじめした場所に生え、繁殖する。同じことが、人間の組織やグループでも起きる。批判という風が吹き込まない閉鎖的なところには、必ず腐敗や堕落が生まれ、大きくなっていく。批判は、疑い深くて意地悪な意見ではない。批判は風だ。頬には冷たいが、乾燥させ、悪い菌の繁殖を防ぐ効果がある。だから批判は、どんどん聞いたほうがいい。『人間的な、あまりに人間的な』

   

ニセ教師の教えること・

ニーチェ・

この世には、いかにもそうに見えるニセ教師がたくさんいる。彼らが教えることは、世渡りに役立ちそうなことばかりだ。これこれをすると得になる。こういう判断をすると損をしない。人づきあいはこういうふうにしろ。人間関係はこうやって広げろ。こういう事柄はああだこうだ。よく考えてみよう。ニセ教師の教えることは、すべて判断基準だ。人間と事柄についての本質の見方など、これっぽっちも教えてくれはしない。こうして人生の本質すらわからずに生きていっていいのかな。『力への意志』

   

古典を読む利益・

ニーチェ・

おおむね読書はたくさんの益をもたらしてくれる。古典は特に滋養に富んでいる。古い本を読むことで、わたしたちは今の時代から大きく遠ざかる。まったく見知らぬ外国の世界に行くこともできる。そうして現実に戻ったとき、何が起こるか。現代の全体の姿が今までよりも鮮明に見えてくるのだ。こうしてわたしたちは、新しい視点を持ち、新しい仕方で現代にアプローチできるようになる。行き詰まったときの古典は、知性への特効薬だ。『人間的な、あまりに人間的な』

筬うちエッセイ 2017.8.30

筬うちについてのエッセイ

 

 

 

地機の設計図  2017.8.30

Twitterでおつうさんが送ってくれたものなど

地機に関して 

 

北国の民芸織物・

羊毛似た感触のぜんまい紬・山村精

2017.8.31 ぜんまい紬の仕事は、まず「ぜんまい紬」を摘むことから始まります。このぜんまい綿というのは、くるりとまるまったぜんまいの頭についている綿で、雪どけと共に伸び出す新緑の芽を寒さや露などの厳しい自然から守るための、いわば産衣のようなものといえましょう。しかも自然防水加工が施された柔らかい毛質は、羊毛に似た暖かい感触を持っています。山野に出かけて、ぜんまい紬を摘むのですが、根元から折り、綿と茎を別にしてカゴに入れます。まだ風が冷たく、大変な労働ですが、しかし雪が深い土地だけに、緑を目にすることは喜びでもあるのです。摘んできたぜんまい紬は、ゴミを取り除き、釜に入れて蒸します。一方、茎は食用にするわけです。ところで、ぜんまい紬は赤褐色をしていますが、毛足が短いために、そのままでは糸になりません。そこで真綿を45%、ぜんまい紬を55%の割合で混ぜ、糸に紡いでいます。絹糸を経糸に、こうして糸紡ぎでつくったぜんまい糸を緯糸に織り上げるのです。一反の着尺に用いるぜんまい綿は約300gで、真綿は200から250g程度です。このぜんまい紬の歴史は2〜300年くらいのものですが、かつては真綿でなく、綿花が使われていました。綿花にぜんまい紬をまぜて紡いだ糸を緯糸にし、木綿糸を経糸にして織り上げていたわけです。おそらく昔は木綿は貴重なものでしたから、少しでも増やして使うために、ぜんまい紬を混ぜたのでしょう。もっとも、どこの地域でも作られていたわけではなく、ぜんまい紬の発達した地域は出羽三山の一帯と日本海側の豪雪地帯に限られていたようです。貧しい農民や漁民たちが寒さから逃れたいという、どうにもならない現実の苦しさを前にして考え出した、生きる知恵だった思います。最初は夜着といいますが、どてら風の綿入れだったのでしょう。その綿に、ぜんまい綿を用いたのです。そして、どてらに入れるぜんまい綿を紡いで布にするようになったのは、ずっと後のことではないでしょうか。むろん現在は、当世風に軽く、薄く織り上げられており、しかもかなり高度な図柄のものも作られています。織る技術は古い伝統をそのまま受け継いでいますが、織手の感覚が現代に生きる人間として、研ぎ澄まされたからです。つまり、感覚が過去のものとは異なる作品を生み出したのでしょう。とはいえ、ぜんまいの自然な褐色は同じだし、ぜんまい紬を織る心は先人から受け継いで、変わることがありません。そして、ぜんまい紬のやさしい温もりは昔のままです。
北国の民芸織物・

暖かくて堅牢な紙はた織・山村精
2017.8.31 そのほか見落とせないのは、紙はた織と琴糸織です。みちのく山形の山間部では、冬の厳しさはひとしおで、大雪に埋もれ、明治末期までは自給自足の生活を強いられていました。紙はた織は、そうした人びとの生活の知恵から生まれたものといえましょう。おそらく紙はた織が始まったのは、江戸末期ではないでしょうか。特産の三椏(みつまた)、楮(こうぞ)を原料とした上質の和紙づくりが盛んになり、江戸や京との交流の道が開かれましたが、その後のことと考えられます。紙はた織は、麻や藤蔓などの繊維を績んだ糸を経糸にし、和紙を緯糸にして織り上げたものです。この和紙は不用になった大福帳や、反古になった手漉き和紙などで、これを5mmぐらいの幅に切り裂き、糸車で撚りをかけて糸にします。こうして作った紙の糸に木綿糸をからませ、さらに丈夫にするのです。紙の持つ保湿力が生かされて、とにかく暖かい。着て暖かく、軽くて堅牢だということから昔は仕事着に用いられました。とくに漁師たちは「おころぎ」と呼び、厳しい日本海での漁には欠かせぬ仕事着だったようです。また、大正初年頃まで、日常生活の中でも見ることができました。現在では主に帯地にされていますが、手漉き和紙を紅花で染めたり、模様を色糸で縫取りするなど、さまざまな工夫が加えられています。
北国の民芸織物・

艶と風情のある琴糸織・山村精
2017.9.15 琴糸織というのは、古い琴糸をほぐして、緯糸に織り込んだものです。その弾力性と艶は、えもいわれぬ風情を感じさせます。この琴糸織の歴史ははっきりしませんが、相当古くからあったことは確かです。しかし、残念なことにその技法は途絶えており、多くの人びとの協力を得て復元させることができたものなのです。琴糸は北国街道が走る賤ケ岳の麓、余呉湖のほとりで作られます。もともと琴など、日本の弦楽器には最良の春繭から採った生糸が用いられています。余呉の琴糸はとくにすぐれ、繭の中の蛹が生きているうちに糸を引くのだ、ということです。現在、ナイロン製の琴糸が普及したせいか、糸を引く家は6軒しかありませんが、昔は数も多く、若狭から出稼ぎにきた娘たちで賑わっていた、と伝えられます。琴糸は何10本もの生糸を合わせ、念入りに撚りがかけられているので、針金のような強さを持っています。この琴糸を伸ばした両足の親指にかけ、手で撚りをほどき戻すのですが、これが大変な力仕事です。指を痛めますし、腰も痛くなってくる。糸を切らないように丹念に作業するのですから、その苦労がわかるでしょう。琴には1台に13本の糸が張られていますが、ふつう1本の帯を織り上げるには、約300本の琴糸が必要です。つまり15、6台分の琴糸で、やっと1本の帯ができるのです。この糸ほぐしが終わると、糸染めをし、高機で織り上げるのです。経糸に生糸を用い、緯糸に打ち込むのですが、糸のすきまをなくするために、筬には鉄板をはりつけ、重くしてあります。それだけに織り上がった布は綴織のように織目の密度が濃く、雅やかな味を持ちながら重厚な感じになるのです。琴糸織は帯地として用いられますが、時代のロマンと、物を大切にする人びとの愛情とが織りなして、長く生き続けることでしょう。
北国の民芸織物・

民芸の心と山里の生活・山村精
  これらの伝統織物は、文字通り民芸織物といえるものです。民芸の心もなく、機械的に作り出した紛い物の多い民芸品の中で、これこそ本物だと断言できます。しかし、復元というのは過去と現在だけで終わりますが、これを未来存続させていかなければ意味がありません。難しさは、その点にあるのです。たとえば科布ですが、堅くてゴワゴワしています。この特性を殺して、あまり現代風にしてしまうと、伝統ある織物の味を失ってしまうでしょう。逆に、古代的にのみとらわれていては、現代に生きることができません。古代と現代とに片足ずつを突っ込んで、さらに未来を志向していくところに、伝統織物が存続していく道があるように思います。科布は一見、堅くてシワになるようですが、一晩くるくると巻いておくと翌朝にはきれいに伸びています。木の皮ですから生きているのです。また、山の織物は失敗が許されません。失敗すると、来年まで木の皮は採れず、織ることができないからです。したがって絶対に安全確実な方法をとり、今までやってきたこと以外はしようとしないのです。「先祖から1000年も数千年も伝えられてきたことをやれば間違いない」と頑固なまでに思っています。「このような化学処理をすれば楽だし、もっとスムーズにいく」といっても、「いや、昔からこの方法でやってきたんだから、灰でやらないと失敗する」というのです。しかし、この頑固さがあったからこそ、古代織物を伝承することができたのでしょう。昔、嫁が失敗したり、出来が悪い機を織ると、よく姑に「お前は働きが悪い」と叱られたといいます。この地方では「づくなし」というんです。そのかわり山の人たちは平等だし、何事も助け合って生活しているのです。たとえば山へ荷物を持って帰るにも、お年寄りと若い人と、みな同じ重さ、量の荷を担いでいくし、織物を担いで山を降りるときも一緒です。年齢に関係なく平等で、またお年寄りも何の抵抗もなく、それを受け入れています。そのせいか、山の人たちはみんな健康で長生きだし、本当にたくましい。平家の落武者が先祖だという言い伝えもありますが、何度となく火災にあっていて、古文書もありません。関川は人口250人、山熊田は約150人の小さな山里です。しかし、理想的な共同体のように思えます。雪に埋もれてしまうと、男たちは出稼ぎに山を降り山里は女と子供と老人たちだけになります。そこで女たちは子供たちを学校に出したあと科布を績み、ぜんまい綿を紡いで機を織るのです。本当にたくましいと、思わずにはいられません。都会でいうウーマンリブなどとはまったく縁がなく、日本のいい意味でのよさが、訪れる人をきっと驚かせます。




結城紬の生産に関する課題と問題点等
 



2017.9.15

 

 

作成 北村陵

 

暖か味のある津軽こぎん
紺と白の美しい調和
大林しげる
2017.9.21 津軽の冬は長く厳しい。それにも増して藩政下農民の耐乏生活は苦しかった。その苦しい生活のなかで農民は、温かで丈夫な衣服を願望し「差しこ着」を工夫した。いつ、誰が、どこで作り出したか、わからない。だが、それは雪深いみちのく・津軽の農村で生活の必要から生み出され、名もない農家の子女田たちの手で、幾世代にもわたって作り継がれて「差しこ」からやがて模様を刺した「刺しこぎん」に昇華した。長い冬ごもりの炉端で、暗いあんどんを頼りに、丹念に、娘たちは刺しこを刺した。待ちわびる春の温かな陽射しを恋い、邑の春祭りを思い描いては晴着を、また、リンゴ畑や野に出て立ち働く姿をえがいては仕事着を刺しつづけた。その白い手がいつの日か造型した紺地に白の幾何学模様は、見る者に無限の奥行きをもって迫ってくる。津軽の農民たちがその生活の知恵を結晶させ、そして静かにその風土から咲き出させた華であることを、無言のうちに語りかけてくる…。
暖か味のある津軽こぎん
風土が生んだ津軽こぎん
大林しげる
2017.9.21 素朴で、豊かな資源に恵まれているとはいえない津軽は、日本列島、本州の最北端部に位置する農産地帯。暗い冬は長く、深い雪に閉ざされているばかりか、しばしば冷害に見舞われ、さらには藩政の厳しい掟によって抑圧された忍苦と貧困に苛まれた生活。その生活の歴史のなかで、人々は風土と共に不撓の「土根性」を培い育てた。その土根性が優れた刺し子の伝統を生み育てたのである。昔、木綿は海路はるかに船で運ばれ、津軽藩内に「輸入」された。木綿は膚にさらっとした感触でしかも温かく、持ちも長く丈夫で、縫いやすい布地として貴重であった。だが、この輸入は運賃もかかることとて非常に高価であったうえ、津軽藩は藩財政を確保する立場から農民の木綿着用を固く禁じて、藩財貨の流失を防いだ。代わりに麻を栽培させて手で織らせ、それを衣類として使うように命じたのである。だから麻の布地は、農民が自ら好んで選び用いた衣料ではない。麻は唯一の農民に許された衣料であった。そのため、それが晴着であり、また仕事着ともなったのである。藩が麻を衣料として用いさせたのは、苧麻も藍も古くからこの地方に自生していたからである。やがて大麻も農民たちによって栽培されるようになり、必要をまかなうだけでは生産された。だが、春に種を蒔いて夏の終期に刈りとり、ていねいに繊維をとり出して機にかけ、それを布地にできるのは正月の、冬を迎えての後ということになる。これは実にたいへんなことであり、一年がかりの労作業であった。しかし、長い労作業の賜物なのに、麻は切れやすく傷つきやすい。引く力は丈夫でも、麻だけの手織り布地は意外に弱い。激しい野良仕事ではなおさらのことである。貴重な衣料は、なんとしてでも永持ちさせねばならなかった。破れ傷めば、つくろわねばならない。着てまもなくつくろうことになるならば、着る前からつくろっておいたほうがよい、手刺しは、このような考えから布地を補強する方法として考え出された。切実な現実生活から希求が知恵を生んだのである。さらに、藍で紺に染め上げると、布地を強めることができるとわかった。色もよい。麻の布地を一枚もので用いりよりは、刺して二重にしただけで丈夫になり、温かさも増す。はじめは細い麻糸を刺していた。紺に染めた麻布地に、生の色の麻色を刺せば糸の交差や自然の色調の違いから、そこには自然の文様が生まれてこよう。また、津軽藩の潘令(文化5年、農家倹約分限令)で、異形・華美にわたり、紅差し入れ等罷りならぬと禁じた苛酷さがかえって幸いとなり、紺と白との対比の美を守りつづけることとなった。手刺しのくりかえしと伝承が「こぎん模様」を育てたのである。津軽娘は伝承の手法に忠実で、刺しの刺目の数えも厳しく、親たちはまた、よりよい、よりきれいなこぎんを嫁入り衣服や持参品として持たせることを願い、嫁入りすれば牛馬同様の働き手となってしまうからには、嫁時代にはせめてこぎんを刺させてとの願いもあって、こぎんづくりに励ませた。
暖か味のある津軽こぎん
専業の刺し手が完成したデザイン
大林しげる
  時として木綿を刺したものであったが、それはたまたま武家や商家から、わずかに入手した木綿を用いたものであったろう。刺し糸に木綿を使い出したのは、木綿を容易に入手できるようになった明治になっての後である。潘令は失効しても、長い忍従の歴程に築かれた伝統は容易に崩れることはなく、以前のままに刺し糸は白に限られた。知恵と伝統に培われた技術の集積は特有の美をつくり上げ、それはそのまま制約を乗り超えた「自由」の象徴となって「民芸」を確立する。民芸は、そのようなものではないだろうか。素朴な人々はついに華麗な染め色も模様やデザインも事新しくつくり出すことはなかったが、その手法はそれぞれの住む土地の土地柄や風土の特色を反映してか、いつの時代かに「東こぎん」(弘前の東の地方)「西こぎん」(弘前の西の地方)と「三縞こぎん」(弘前の北方、金木地方)の三種のこぎんの原譜を生んだ。しかし、土地の人々は、それらの系譜ができたと知らず、自給自足のこぎん生活を、ただ黙然と続けていたのであった。やがて怒濤のような時代の流れの天変は、こぎんにも大きな影響を与えずにはおかなかった。明治維新で藩制がなくなり、文明開化の波が押し寄せるなかで交通がひらけ、とくに東北本線が開通したあとは、藩制時代にはぜいたく品とされていた木綿が目ざとい近江商人によって運び込まれた。それまでは高嶺の花であった木綿も「わずか米一斗で買える」とあって土地の人々は大いによろこび、われもわれもと木綿の着物を着るようになった。木綿はさらりとやわらかく、心持よい感触であったから、普及は急速を極め、逆に地機の麻の布地に綿糸を刺すこぎんのほうは明治27年〜8年ごろを最盛期として急速に衰えたのであった。最盛期ごろのこぎんは、潘制時代のこぎんと大差があって、かなり立派なデザインのものを生み出していた。それは現代のもののように、必ずしもみごとな幾何図形の、隙のない造型をみせるものではないが、よくもこのように立派なものをと驚くに足るものであった。それというのもたぶん、嫁入り道具として定着したこぎんであったので、手なれた刺し手に「ほかの人のよりも立派なもので、いままでにないものを」などと、条件つきで依頼する親たちがあらわれるようになるなどで、刺し手がしだいに専業化するようになり、同時にプロの面目にかけて、いろいろな工夫を模様のうえに試みるようになったからであろう。

動画:タテ絣の説明1

2017.10.19 結城紬の絣についての現況動画

動画:タテ絣の説明2タテ枠使用の絣の未来

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動画:結城紬動画 たたき染めと絣について雑談 染色部門伝統工芸士 染め師 大久保雅道さん×染色部門伝統工芸士 絣くくり北村陵

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