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  • ここまでを記録し終えて2017年のお盆迎えることになった。私は両親が紬業を引退し私が経営者になるこのサイトの維持は2030年くらいまでだと思うので、それまでにいかに商用サイトに染織資料を記録していくか、という問いの中にいる。勿論、データでファイル化して保存させて控えているのでいつでも再開できることはできる。課題としてデザインソフト、ホームページ作成ソフトなど優れたAdobe製品に触れてきたので、それらを失うことは私は悲しいが、実際問題として降りかかるのが、プロバイダー契約と光回線、デザインソフト、ホームページ作成ソフト、レンタルサーバーなどの月の維持費が約3万円近い。1人運営では到底、その維持費は重くのしかかり紬業で汗を2倍流しても経営難になることは避けられないのである。そのためにいま思うのは紬業が副業になりバイトが主に中心のライフスタイルになるだろうということだ。そして充分な資金を得たときにもしかしたら再開するだろうということである。いずれにしろリアリズムに生きなければならないので状況をみてのことだろう。さて、上記に記録してきたものと現在進行で行っているのが染織資料蒐集であるがこれは表面的になりがちなSNS時代到来とインターネット世界の成熟でそこからこぼれ落ちる優秀な、有益な情報の引用や紹介をもって次世代へ私なりの伝承スタイルであり、考えることをやめれば、世界を知ることをやめれば極めて損失になるといういわば啓蒙である。さて、引き続き、高みを目指し染織資料集を充実させる。また、私が退行していく時同時に生産者は数えるほどしかいないと思うし産地の年間生産反数は今は4桁かもしれないがそこからから2桁へと変貌しているかもしれないがそれでも生き続けなければならない。それから2017年からバイト先を変更しバイトで記録はセルフタイマー撮影を多くしている。私は2017年の不景気は長引くとの予測を立てて資金面を安定化させている。現状、つむぎ業だけでは生活は極めて厳しいのではないかとの予測をしている。市場がそれだけ活性化するとは思えないし、多くの染織資料をみてみるとこの不景気と好景気の波長に何度の波をこえるかで存続は決まると思うのである。いわば表面的なアパレルと統計学を重視する伝統工芸の差はここにある。正直2017年の盆からあまり勉強している時間が充分な具合というわけにはいかなくなっていた。以上を記録し今後に備えたい。それから糸の不足であるがユネスコ登録で産地は浮かれ危機感が足りないように私には見える。現実になったときそれは遅いのである。私は染色部門での伝統工芸士取得前からすでに糸の生産者(もう少し言えば先輩にあたる製糸部門の伝統工芸士さん)と同じ視線にたつべきであると考えてすでに実行している。今の現状からすると私も生産者として関われるのかと聞かれるとそれはわからないのである。リーマンショックの時は確かに経験になったが同じ調子では資産は減ることは避けられないのである。今も不安である。以上である。北村陵

北村織物 本場結城紬 アーカイブ まとめ1〜6 2010-2017 いまとなっては私にとって過去のものであり、
親父があまりにも紬業を幼い頃から親父の祖父にきびしく手伝えといわれてきた
思い出したくない風景だろう。
つむぎ一筋で生きていくものはほんの一握り
親父が68歳であと3年で叙勲の権利が発生する。
もらうかどうかも本人次第。私はもらうべきといっている。
すでに私はコンビニ夜勤をして土がついているので一筋とはいえないからだ。
さきどり 結城紬下ごしらえ最適化研究 2017.8.3

糊つけ下ごしらえ最適化研究

 

2017.8.3

ニーチェの残した言葉   誰にでも一芸はある・

ニーチェ・

どんな人にも一芸がある。その人だけのものだ。それを早くから知っていて、充分に生かして成功する人もいる。自分の一芸、自分の本領が何であるか、わからないままの人もいる。それを自分の力のみで見出す人もいる。世間の反応を見ながら、自分の本領が何だろうかと模索し続ける人もいる。いずれにしても、くじけず、たくましく、果敢に挑戦を続けていれば、自分の一芸がわかってくるはずだ。『人間的な、あまりに人間的な』
   

努力を続ける・

ニーチェ・

高みに向かって努力を続けることは、決して無駄ではない。今は無駄が多くて徒労のように見えるかもしれないが、少しずつ頂点へと進んでいることは確かなのだ。今日はまだ到着にはほど遠いだろうが、明日にはもっと高みへと近づくための力が今日鍛えられているのだ。『漂泊者とその影』

   

友人を求める前に自分自身を愛する・

ニーチェ・

できるだけ多くの友人を欲しがり、知り合っただけで友人と認め、いつも誰か仲間と一緒にいないと落ち着かないのは、自分が危険な状態になっているという証拠だ。本当の自分を探すために、誰かを求める。自分をもっと相手にしてほしいから、友人を求める。漠然とした安心を求めて誰かに頼る。なぜ、そうなるのか。孤独だからだ。なぜ、孤独なのか。自分自身を愛することがうまくいってないからだ。しかし、そういうインスタントな友人をいくら多く広く持ったとしても、孤独の傷は癒されず、自分を愛するようにはなれない。ごまかしにすぎないからだ。自分を本当に愛するためには、まず自分の力だけを使って何かに取り組まなければならない。自分の足で高みを目指して歩かなければならない。そこには苦痛がある。しかし、それは、心の筋肉を鍛える苦痛なのだ。『ツァラトゥストラはかく語りき』

   

高まるために捨てる・

ニーチェ・

人生はそれほど長いものではない。夕方に死が訪れても何の不思議もない。だから、わたしたちが何かをなすチャンスは、いつも今この瞬間にしかないのだ。そして、その限られた時間の中で何かをなす以上、何かから離れたり、何かをきっぱりと捨てなくてはならない。しかし、何かを捨てようかと悩んだりする必要はない。懸命に行動しているうちに、不必要なものは自然と自分から離れ落ちていくからだ。あたかも、黄色くなった葉が樹木から離れ去るかのようにだ。そうしてわたしたちはさらに身軽になり、目指す高みへとますます近づいていくことになるのだ。『悦ばしき知識』

   

脱皮して生きていく・

ニーチェ・

脱皮しない蛇は破滅する。人間もまったく同じだ。古い考えの皮をいつまでもかぶっていれば、やがて内側から腐っていき、成長することなどできないどころか、死んでしまう。常に新しく生きていくために、わたしたちは考えを新陳代謝させていかなければならないのだ。『曙光』

   

自分を成長させる交際を求める・

ニーチェ・

若い人が傲慢でうぬぼれているのは、まだ何者にもなっていないくせに、いかにもひとかどの者のように見せたがっている同程度の連中と仲間になっているからだ。その甘い錯覚の中でいい気分になり、若き日の時間を浪費するのはあまりに大きな損失だ。できるだけ早く、本当の実力によって昇ってきた人間、功労のある人間を見つけて交際すべきだ。すると、今までの自己満足的なうぬぼれや内容のない粋がりや見栄、傲慢などたちまちにして消え失せ、自分として今は何をすべきかようやく見えてくるはずだ。『人間的な、あまりに人間的な』

   

世間を超えて生きる・

ニーチェ・

世間にありながら、世間を超えて生きよ。世の中を超えて生きることは、まずは、自分の心や情のそのつどの動きによって自分があちらこちらへと動かないということだ。情動振り回されない、自分が自分の情動という馬をうまく乗りこなすということだとも言える。これができるようになると、世間や時代のそのつどの流れや変化にまどわされないようになる。そして、確固たる自分を持ち、強く生きることができるようになるのだ。『善悪の彼岸』

   

批判という風を入れよ・

ニーチェ・

キノコは、風通しの悪いじめじめした場所に生え、繁殖する。同じことが、人間の組織やグループでも起きる。批判という風が吹き込まない閉鎖的なところには、必ず腐敗や堕落が生まれ、大きくなっていく。批判は、疑い深くて意地悪な意見ではない。批判は風だ。頬には冷たいが、乾燥させ、悪い菌の繁殖を防ぐ効果がある。だから批判は、どんどん聞いたほうがいい。『人間的な、あまりに人間的な』

   

ニセ教師の教えること・

ニーチェ・

この世には、いかにもそうに見えるニセ教師がたくさんいる。彼らが教えることは、世渡りに役立ちそうなことばかりだ。これこれをすると得になる。こういう判断をすると損をしない。人づきあいはこういうふうにしろ。人間関係はこうやって広げろ。こういう事柄はああだこうだ。よく考えてみよう。ニセ教師の教えることは、すべて判断基準だ。人間と事柄についての本質の見方など、これっぽっちも教えてくれはしない。こうして人生の本質すらわからずに生きていっていいのかな。『力への意志』

   

古典を読む利益・

ニーチェ・

おおむね読書はたくさんの益をもたらしてくれる。古典は特に滋養に富んでいる。古い本を読むことで、わたしたちは今の時代から大きく遠ざかる。まったく見知らぬ外国の世界に行くこともできる。そうして現実に戻ったとき、何が起こるか。現代の全体の姿が今までよりも鮮明に見えてくるのだ。こうしてわたしたちは、新しい視点を持ち、新しい仕方で現代にアプローチできるようになる。行き詰まったときの古典は、知性への特効薬だ。『人間的な、あまりに人間的な』

筬うちエッセイ 2017.8.30

筬うちについてのエッセイ

 

 

 

地機の設計図  2017.8.30

Twitterでおつうさんが送ってくれたものなど

地機に関して 

 

北国の民芸織物・

羊毛似た感触のぜんまい紬・山村精

2017.8.31 ぜんまい紬の仕事は、まず「ぜんまい紬」を摘むことから始まります。このぜんまい綿というのは、くるりとまるまったぜんまいの頭についている綿で、雪どけと共に伸び出す新緑の芽を寒さや露などの厳しい自然から守るための、いわば産衣のようなものといえましょう。しかも自然防水加工が施された柔らかい毛質は、羊毛に似た暖かい感触を持っています。山野に出かけて、ぜんまい紬を摘むのですが、根元から折り、綿と茎を別にしてカゴに入れます。まだ風が冷たく、大変な労働ですが、しかし雪が深い土地だけに、緑を目にすることは喜びでもあるのです。摘んできたぜんまい紬は、ゴミを取り除き、釜に入れて蒸します。一方、茎は食用にするわけです。ところで、ぜんまい紬は赤褐色をしていますが、毛足が短いために、そのままでは糸になりません。そこで真綿を45%、ぜんまい紬を55%の割合で混ぜ、糸に紡いでいます。絹糸を経糸に、こうして糸紡ぎでつくったぜんまい糸を緯糸に織り上げるのです。一反の着尺に用いるぜんまい綿は約300gで、真綿は200から250g程度です。このぜんまい紬の歴史は2〜300年くらいのものですが、かつては真綿でなく、綿花が使われていました。綿花にぜんまい紬をまぜて紡いだ糸を緯糸にし、木綿糸を経糸にして織り上げていたわけです。おそらく昔は木綿は貴重なものでしたから、少しでも増やして使うために、ぜんまい紬を混ぜたのでしょう。もっとも、どこの地域でも作られていたわけではなく、ぜんまい紬の発達した地域は出羽三山の一帯と日本海側の豪雪地帯に限られていたようです。貧しい農民や漁民たちが寒さから逃れたいという、どうにもならない現実の苦しさを前にして考え出した、生きる知恵だった思います。最初は夜着といいますが、どてら風の綿入れだったのでしょう。その綿に、ぜんまい綿を用いたのです。そして、どてらに入れるぜんまい綿を紡いで布にするようになったのは、ずっと後のことではないでしょうか。むろん現在は、当世風に軽く、薄く織り上げられており、しかもかなり高度な図柄のものも作られています。織る技術は古い伝統をそのまま受け継いでいますが、織手の感覚が現代に生きる人間として、研ぎ澄まされたからです。つまり、感覚が過去のものとは異なる作品を生み出したのでしょう。とはいえ、ぜんまいの自然な褐色は同じだし、ぜんまい紬を織る心は先人から受け継いで、変わることがありません。そして、ぜんまい紬のやさしい温もりは昔のままです。
北国の民芸織物・

暖かくて堅牢な紙はた織・山村精
2017.8.31 そのほか見落とせないのは、紙はた織と琴糸織です。みちのく山形の山間部では、冬の厳しさはひとしおで、大雪に埋もれ、明治末期までは自給自足の生活を強いられていました。紙はた織は、そうした人びとの生活の知恵から生まれたものといえましょう。おそらく紙はた織が始まったのは、江戸末期ではないでしょうか。特産の三椏(みつまた)、楮(こうぞ)を原料とした上質の和紙づくりが盛んになり、江戸や京との交流の道が開かれましたが、その後のことと考えられます。紙はた織は、麻や藤蔓などの繊維を績んだ糸を経糸にし、和紙を緯糸にして織り上げたものです。この和紙は不用になった大福帳や、反古になった手漉き和紙などで、これを5mmぐらいの幅に切り裂き、糸車で撚りをかけて糸にします。こうして作った紙の糸に木綿糸をからませ、さらに丈夫にするのです。紙の持つ保湿力が生かされて、とにかく暖かい。着て暖かく、軽くて堅牢だということから昔は仕事着に用いられました。とくに漁師たちは「おころぎ」と呼び、厳しい日本海での漁には欠かせぬ仕事着だったようです。また、大正初年頃まで、日常生活の中でも見ることができました。現在では主に帯地にされていますが、手漉き和紙を紅花で染めたり、模様を色糸で縫取りするなど、さまざまな工夫が加えられています。
北国の民芸織物・

艶と風情のある琴糸織・山村精
2017.9.15 琴糸織というのは、古い琴糸をほぐして、緯糸に織り込んだものです。その弾力性と艶は、えもいわれぬ風情を感じさせます。この琴糸織の歴史ははっきりしませんが、相当古くからあったことは確かです。しかし、残念なことにその技法は途絶えており、多くの人びとの協力を得て復元させることができたものなのです。琴糸は北国街道が走る賤ケ岳の麓、余呉湖のほとりで作られます。もともと琴など、日本の弦楽器には最良の春繭から採った生糸が用いられています。余呉の琴糸はとくにすぐれ、繭の中の蛹が生きているうちに糸を引くのだ、ということです。現在、ナイロン製の琴糸が普及したせいか、糸を引く家は6軒しかありませんが、昔は数も多く、若狭から出稼ぎにきた娘たちで賑わっていた、と伝えられます。琴糸は何10本もの生糸を合わせ、念入りに撚りがかけられているので、針金のような強さを持っています。この琴糸を伸ばした両足の親指にかけ、手で撚りをほどき戻すのですが、これが大変な力仕事です。指を痛めますし、腰も痛くなってくる。糸を切らないように丹念に作業するのですから、その苦労がわかるでしょう。琴には1台に13本の糸が張られていますが、ふつう1本の帯を織り上げるには、約300本の琴糸が必要です。つまり15、6台分の琴糸で、やっと1本の帯ができるのです。この糸ほぐしが終わると、糸染めをし、高機で織り上げるのです。経糸に生糸を用い、緯糸に打ち込むのですが、糸のすきまをなくするために、筬には鉄板をはりつけ、重くしてあります。それだけに織り上がった布は綴織のように織目の密度が濃く、雅やかな味を持ちながら重厚な感じになるのです。琴糸織は帯地として用いられますが、時代のロマンと、物を大切にする人びとの愛情とが織りなして、長く生き続けることでしょう。
北国の民芸織物・

民芸の心と山里の生活・山村精
  これらの伝統織物は、文字通り民芸織物といえるものです。民芸の心もなく、機械的に作り出した紛い物の多い民芸品の中で、これこそ本物だと断言できます。しかし、復元というのは過去と現在だけで終わりますが、これを未来存続させていかなければ意味がありません。難しさは、その点にあるのです。たとえば科布ですが、堅くてゴワゴワしています。この特性を殺して、あまり現代風にしてしまうと、伝統ある織物の味を失ってしまうでしょう。逆に、古代的にのみとらわれていては、現代に生きることができません。古代と現代とに片足ずつを突っ込んで、さらに未来を志向していくところに、伝統織物が存続していく道があるように思います。科布は一見、堅くてシワになるようですが、一晩くるくると巻いておくと翌朝にはきれいに伸びています。木の皮ですから生きているのです。また、山の織物は失敗が許されません。失敗すると、来年まで木の皮は採れず、織ることができないからです。したがって絶対に安全確実な方法をとり、今までやってきたこと以外はしようとしないのです。「先祖から1000年も数千年も伝えられてきたことをやれば間違いない」と頑固なまでに思っています。「このような化学処理をすれば楽だし、もっとスムーズにいく」といっても、「いや、昔からこの方法でやってきたんだから、灰でやらないと失敗する」というのです。しかし、この頑固さがあったからこそ、古代織物を伝承することができたのでしょう。昔、嫁が失敗したり、出来が悪い機を織ると、よく姑に「お前は働きが悪い」と叱られたといいます。この地方では「づくなし」というんです。そのかわり山の人たちは平等だし、何事も助け合って生活しているのです。たとえば山へ荷物を持って帰るにも、お年寄りと若い人と、みな同じ重さ、量の荷を担いでいくし、織物を担いで山を降りるときも一緒です。年齢に関係なく平等で、またお年寄りも何の抵抗もなく、それを受け入れています。そのせいか、山の人たちはみんな健康で長生きだし、本当にたくましい。平家の落武者が先祖だという言い伝えもありますが、何度となく火災にあっていて、古文書もありません。関川は人口250人、山熊田は約150人の小さな山里です。しかし、理想的な共同体のように思えます。雪に埋もれてしまうと、男たちは出稼ぎに山を降り山里は女と子供と老人たちだけになります。そこで女たちは子供たちを学校に出したあと科布を績み、ぜんまい綿を紡いで機を織るのです。本当にたくましいと、思わずにはいられません。都会でいうウーマンリブなどとはまったく縁がなく、日本のいい意味でのよさが、訪れる人をきっと驚かせます。




結城紬の生産に関する課題と問題点等
 



2017.9.15

 

 

作成 北村陵

 

暖か味のある津軽こぎん
紺と白の美しい調和
大林しげる
2017.9.21 津軽の冬は長く厳しい。それにも増して藩政下農民の耐乏生活は苦しかった。その苦しい生活のなかで農民は、温かで丈夫な衣服を願望し「差しこ着」を工夫した。いつ、誰が、どこで作り出したか、わからない。だが、それは雪深いみちのく・津軽の農村で生活の必要から生み出され、名もない農家の子女田たちの手で、幾世代にもわたって作り継がれて「差しこ」からやがて模様を刺した「刺しこぎん」に昇華した。長い冬ごもりの炉端で、暗いあんどんを頼りに、丹念に、娘たちは刺しこを刺した。待ちわびる春の温かな陽射しを恋い、邑の春祭りを思い描いては晴着を、また、リンゴ畑や野に出て立ち働く姿をえがいては仕事着を刺しつづけた。その白い手がいつの日か造型した紺地に白の幾何学模様は、見る者に無限の奥行きをもって迫ってくる。津軽の農民たちがその生活の知恵を結晶させ、そして静かにその風土から咲き出させた華であることを、無言のうちに語りかけてくる…。
暖か味のある津軽こぎん
風土が生んだ津軽こぎん
大林しげる
2017.9.21 素朴で、豊かな資源に恵まれているとはいえない津軽は、日本列島、本州の最北端部に位置する農産地帯。暗い冬は長く、深い雪に閉ざされているばかりか、しばしば冷害に見舞われ、さらには藩政の厳しい掟によって抑圧された忍苦と貧困に苛まれた生活。その生活の歴史のなかで、人々は風土と共に不撓の「土根性」を培い育てた。その土根性が優れた刺し子の伝統を生み育てたのである。昔、木綿は海路はるかに船で運ばれ、津軽藩内に「輸入」された。木綿は膚にさらっとした感触でしかも温かく、持ちも長く丈夫で、縫いやすい布地として貴重であった。だが、この輸入は運賃もかかることとて非常に高価であったうえ、津軽藩は藩財政を確保する立場から農民の木綿着用を固く禁じて、藩財貨の流失を防いだ。代わりに麻を栽培させて手で織らせ、それを衣類として使うように命じたのである。だから麻の布地は、農民が自ら好んで選び用いた衣料ではない。麻は唯一の農民に許された衣料であった。そのため、それが晴着であり、また仕事着ともなったのである。藩が麻を衣料として用いさせたのは、苧麻も藍も古くからこの地方に自生していたからである。やがて大麻も農民たちによって栽培されるようになり、必要をまかなうだけでは生産された。だが、春に種を蒔いて夏の終期に刈りとり、ていねいに繊維をとり出して機にかけ、それを布地にできるのは正月の、冬を迎えての後ということになる。これは実にたいへんなことであり、一年がかりの労作業であった。しかし、長い労作業の賜物なのに、麻は切れやすく傷つきやすい。引く力は丈夫でも、麻だけの手織り布地は意外に弱い。激しい野良仕事ではなおさらのことである。貴重な衣料は、なんとしてでも永持ちさせねばならなかった。破れ傷めば、つくろわねばならない。着てまもなくつくろうことになるならば、着る前からつくろっておいたほうがよい、手刺しは、このような考えから布地を補強する方法として考え出された。切実な現実生活から希求が知恵を生んだのである。さらに、藍で紺に染め上げると、布地を強めることができるとわかった。色もよい。麻の布地を一枚もので用いりよりは、刺して二重にしただけで丈夫になり、温かさも増す。はじめは細い麻糸を刺していた。紺に染めた麻布地に、生の色の麻色を刺せば糸の交差や自然の色調の違いから、そこには自然の文様が生まれてこよう。また、津軽藩の潘令(文化5年、農家倹約分限令)で、異形・華美にわたり、紅差し入れ等罷りならぬと禁じた苛酷さがかえって幸いとなり、紺と白との対比の美を守りつづけることとなった。手刺しのくりかえしと伝承が「こぎん模様」を育てたのである。津軽娘は伝承の手法に忠実で、刺しの刺目の数えも厳しく、親たちはまた、よりよい、よりきれいなこぎんを嫁入り衣服や持参品として持たせることを願い、嫁入りすれば牛馬同様の働き手となってしまうからには、嫁時代にはせめてこぎんを刺させてとの願いもあって、こぎんづくりに励ませた。
暖か味のある津軽こぎん
専業の刺し手が完成したデザイン
大林しげる
  時として木綿を刺したものであったが、それはたまたま武家や商家から、わずかに入手した木綿を用いたものであったろう。刺し糸に木綿を使い出したのは、木綿を容易に入手できるようになった明治になっての後である。潘令は失効しても、長い忍従の歴程に築かれた伝統は容易に崩れることはなく、以前のままに刺し糸は白に限られた。知恵と伝統に培われた技術の集積は特有の美をつくり上げ、それはそのまま制約を乗り超えた「自由」の象徴となって「民芸」を確立する。民芸は、そのようなものではないだろうか。素朴な人々はついに華麗な染め色も模様やデザインも事新しくつくり出すことはなかったが、その手法はそれぞれの住む土地の土地柄や風土の特色を反映してか、いつの時代かに「東こぎん」(弘前の東の地方)「西こぎん」(弘前の西の地方)と「三縞こぎん」(弘前の北方、金木地方)の三種のこぎんの原譜を生んだ。しかし、土地の人々は、それらの系譜ができたと知らず、自給自足のこぎん生活を、ただ黙然と続けていたのであった。やがて怒濤のような時代の流れの天変は、こぎんにも大きな影響を与えずにはおかなかった。明治維新で藩制がなくなり、文明開化の波が押し寄せるなかで交通がひらけ、とくに東北本線が開通したあとは、藩制時代にはぜいたく品とされていた木綿が目ざとい近江商人によって運び込まれた。それまでは高嶺の花であった木綿も「わずか米一斗で買える」とあって土地の人々は大いによろこび、われもわれもと木綿の着物を着るようになった。木綿はさらりとやわらかく、心持よい感触であったから、普及は急速を極め、逆に地機の麻の布地に綿糸を刺すこぎんのほうは明治27年〜8年ごろを最盛期として急速に衰えたのであった。最盛期ごろのこぎんは、潘制時代のこぎんと大差があって、かなり立派なデザインのものを生み出していた。それは現代のもののように、必ずしもみごとな幾何図形の、隙のない造型をみせるものではないが、よくもこのように立派なものをと驚くに足るものであった。それというのもたぶん、嫁入り道具として定着したこぎんであったので、手なれた刺し手に「ほかの人のよりも立派なもので、いままでにないものを」などと、条件つきで依頼する親たちがあらわれるようになるなどで、刺し手がしだいに専業化するようになり、同時にプロの面目にかけて、いろいろな工夫を模様のうえに試みるようになったからであろう。

動画:タテ絣の説明1

2017.10.19 結城紬の絣についての現況動画

動画:タテ絣の説明2タテ枠使用の絣の未来

2017.10.19 結城紬の絣についての現況動画

動画:結城紬動画 たたき染めと絣について雑談 染色部門伝統工芸士 染め師 大久保雅道さん×染色部門伝統工芸士 絣くくり北村陵

2017.10.19 結城紬の絣についての現況動画
保持会の仕事2012 2018.3.24

 

 

文化庁伝承事業

 

 

保持会の仕事 続

2018.3.24

 

 

文化庁伝承事業

 

 

 

保持会の仕事 続 続 2018.3.24

 

 

 

文化庁伝承事業

 

 

 

 

 

こぎん復興に情熱を燃やす横島氏  大林しげる

 

2018 「昔、刺したことがあったじゃ」「こぎんを作ったことがあります」などというこぎんの製作経験者が、ほとんどいなくなってしまったころ昭和七年ごろになって、こぎんはにわかに復興が叫ばれはじめた。財団法人木村産業研究所が、こぎんに民芸品としての価値を認め、その復興を唱えたのである。この主唱に応えたのが、当時の東京高工(現東京工大)で教鞭を取っていた横島直道氏であった。横島氏は弘前出身。有機化学が専門の学究で最近まで東北女子短大教授も務めたが、昭和七年、木村産業研究所に入所したのがこぎんへの縁となり、遂に昭和三十五年に有限会社弘前こぎん研究所を創設して代表となった人。さる四十九年九月十四日に七十六歳で逝去された。(著者が初めて取材したとき四十五年七月にはきわめて元気で、こぎんのすべてを語られた)今にしてなお惜しい方を失ったと、往時を思い出すのである。氏は静かではあったが、心の底深くにこぎんを愛する情念を燃やし、昔のこぎんを蒐集し、かつはこぎんの刺し手を求め、その話に耳を傾けた。もちろん有機化学の専門分野からのメス入れは続けられたようである。旧津軽藩士の家に生まれ、幼少から家の内職であった弘前手織の作業をみて暮らし、応用化学科を卒業して色染科の研究生となり、結核にかかったのを機に郷里へ戻ったのも、こぎんとの機縁となった。探し出した刺し手の古老から実技の指導も受けた。模様を分析し、構成を研究しては試作を重ね、「荒野にはじめから道があるわけじゃない。歩けばそこが道になる」という魯迅の言葉そのままに、こぎんの世界へ没頭していった。その道は困難を極めたが、長い時間をかけ、よく忍耐し努力を重ね、昔の技術を復元し、刺し手を養成するなど、いずれも多岐にわたる多難な問題点を解決していった。なかでも自然の染料を使って染める昔の染色技術の復元は、氏が化学染料を用いての専門家であっっただけに苦心を極めたという。また、以前は働き着が中心で、一生一代の最高級品は嫁入りの晴れ着であったが、氏は応用の幅を軍をぐんと広げ、幾何図形を基本とする刺し形を基本とする刺し形を多様化しながら、特に色彩の細かい変化で時代の推移にマッチさせ、サイフ、手提げ、ネクタイ、壁掛け、ハンドバッグ、名刺入れ、テーブルセンターなど、趣味の良い生活用品も製作し、東京市場をはじめとする全国のデパートなどへ出荷している。実に、新しい製品をつくり出すための試作のくり返しは多く徒労を伴うが、氏の研究所は実験と試行錯誤を一貫して避けない姿勢を堅持した。趣味的手芸の範囲を超えた大緞帳の製作もその一つ。一番大きいものは間口七メートル、高さ三 .六メートルの最大のこぎん作品。これは氏にとっても、こぎんにとっても深い縁の目屋豪雪センター大ホールの舞台を飾っている。こぎんを現代に生かす新しい方向の一つであろう。

 

秩父太織の本来の持ち味

 

2018.4.24 追加記事掲載

 

ウィキペディアに蔓延する偽りの情報

 

2018 かなり信用度の高くて客観的情報メディアとされているウィキペディアであるが、実は結城紬のウィキペディアは中途半端に詳しい人が関わってるとしか思えない。一体、どういうことか、について述べたい。その前にまず結城紬の検査について触れておきたい。過去に結城紬は文化庁の権限のある国の重要無形文化財のラベルが貼られていたことは結城紬ファンは知るところである。では今、なぜその証紙(ラベル)が使われていないのかについて触れよう。一般的に100パーセントの確率で呉服屋や詳しい知識人とされている方々も、根本的な誤解をしていることをここで指摘する。一体どういうことでしょうか、という質問が出てくる。まず、本場結城紬はインターネットが登場する前は完全に産地問屋の完全受注という流通をしていたので、生産者の多い本場結城紬織物協同組合に所属するものたちは、問屋のいうことをきかないと生活が成り立たなかった背景がある。それから文化庁のラベルがなくなった原因は、その当時、絣くくりの防染技法を用いた本場結城紬が売れなくなってきていて、そのため薄くて淡い色に絣や柄が欲しいという消費者のニーズが増えつつあった。直接染色法いわゆるスリコミと呼ばれている技術を用いた本場結城紬に、文化庁の権限のあるラベルを貼って売っていた、ということで国から指摘があり、産地は文化庁に言われる筋合いのない産地独自の証紙(ラベル)に切り替えて今に至っている。本来、絣くくりの防染による柄作りしか技術指定していない。そのため、文化庁の仕事の物品は、絣くくりの技法の防染作品しかない。この責任があたかも生産者が生産者による本人による贋作を作っていた、という知識人の解釈は少なくない。しかし、これは少々事情が異なる。まずこの頃、述べてきたように生産者は産地問屋の完全受注のためオーダメイド生産や自販などという語源すら生まれていない時代であり、生産者による直接的な流通は当時なかったのである。つまりこの時点においてほぼ産地問屋が本場結城紬を流通させていた背景があり、産地問屋の責任ではないかとの疑惑が浮上し濃厚だが実はそれだけではない。今まで本場結城紬検査協同組合といわれている検査のトップは常にどの時代も産地問屋の組合の理事長(本場結城紬卸商組合理事長)が検査機関のトップをやっていたのである。ここですでに検査組合に客観的な基準がない。さらにきわめつけは、その問題が明るみに出た時(新聞報道、メディア露出が増える時期)にだけ、なぜか本場結城紬織物協同組合のトップ(生産者)をすえおいており、その問題が冷める頃になってまた検査組合のトップの権利を奪い産地問屋の組合のトップ(理事長)(本場結城紬卸商組合)が担当している。繰り返しになるがそもそも着物は意匠権という着物の著作権ともいえる権利(デザイン)を押さえつけられると何もできないのである。(そのため高い維持費を払ってまでパソコンで独自のデザインを作り、その権利を持ちたがるのである。それができなければ、あまりインターネットで活動し、オーダーメイドやオリジナル作品を作りだす意味や必要性がない。)原因はウィキペディアの記載や解釈と背景は若干異なる。この歴史や一連の流れを掲載せずいきなり生産者自らによる本人による贋作、といのはかなり乱暴な言い方にしか私には思えない。仮に生産者 自ら本場結城紬織物協同組合がそんなことをすれば完全受注の背景からして自分の生活も危うくなるばかりか信用すら失い、そこまで危険を犯してまで直接染色法による本場結城紬の生産物に文化庁の権限のある証紙(ラベル)を貼るわけがないのであり、この面において当時、本場結城紬の流通や意匠権を握っていた産地問屋が所属する本場結城紬卸商組合はかなりやっていることが汚い。特に最近になって私が、植野智恵さん(結城紬 製糸部門 伝統工芸士)が袋真綿の実演の後継者育成の様子を、動画でユーチューブの方へアップしたのだが袋真綿のできる生産者は珍しくしかも貴重な技術なのである。ところが産地問屋は、その貴重な原料作りの実演を逆手にとり、全国で彼女に実演させておきながら、機械織りのいしげ結城紬の糸とそれほど変わりませんぐらいの説明を行い、本場結城紬の手つむぎ糸と機械紡績糸の絹糸は変わりないくらいの話をする。さすがにここにきて温厚な植野さんもこの説明は気に入らないようで実演を拒絶しはじめているのである。産地問屋がいかに本当の事実を伝えていないのかはこのエピソードからも伝わってくるように、仮にまだまだ現役で実演可能な植野さんが産地問屋の実演を拒否した時、本当に残したいものはなんだったのであろうかという自業自得の空転が産地問屋には待っている気がする。

 

絣くくり職人の衰退と対策

 

2018 漠然と原稿にしている。この記事はあくまで私し、いち個人の意見にすぎないと解釈していただきたい。絣の歴史は日本でいうと沖縄から全国に伝わっていったといわれている。過去に本土から沖縄へ絣は伝わっていったともあるがこれは見事にくつがえり、沖縄から本土に絣は伝わっている。結城紬の絣の前にひとまず全国の絣をみてみたい。特に私がみて独特だなぁと思う絣は久米島紬にある。沖縄だからだろうか、あまりみかけない絣模様がある。日本三大紬と呼ばれるようになって大島紬と結城紬は該当しているが、国の重要無形文化財に近年指定のかかった久米島紬はそこになをつらねてもおかしくはない。大島紬については日本を支えてきた紬であることは間違えない。絣技術も見事であり、泥染めとなるとやはり紬を語る上でも絣を語る上でも染めを語る上でも重要である。結城紬の生産者の私は大島紬のどこを参考に動いているかを述べたい。まず統計である。統計を調べてみると面白いことに気がついた。大島紬も結城紬も後継者不足に苦しんでいるのは共通であるが、大島の統計は五年後の結城、いやもっと短い時間でせまってくるかもしれないが似ているのである。例えば大島紬が年間生産反数が産地全体で2分の1に減少した、という統計が出たとする。するとまるでそれを真似するかのように結城紬も大島紬の統計を追うのである。これではまるで結城紬の関係者は課題の答えを最初から用意されているかのようである。つまり、大島紬の統計を追うということは時間差こそあれど結城紬もそうなるのでそれに対応していけばいいのである。これで私が書いた記事や言ってきたことがなぜか当たっているというのはつじつまがあってくる。かんがいいひとは途中できがついてしまったかもしれない。参考になるものがあるということはそれだけ有利でありこれを有効にしないと統計をだす意味がない。今、自分がやってることは無駄なことだと人は思う。それで言えばはるかに私の方が無駄にしてきた時間は多い。だが一度でいい。ひとつだけでもいいから成功体験をすることである。すると無駄に思えたことが無駄ではないと思うようになる。参考にならないかもしれないが資格を目指す、それでもいい。一回でも経験すれば、次に何かをするときに、今、自分がやっていることは無駄でつらいことだと思ってもすでに経験していればどのくらいのペースでどのくらいの長さでどのくらい時間がかかるのかなどがわかり無駄が減っていくばかりではなくそれに耐えることもできるようになる。経験しているので対策がとりやすいのである。考えは広くて浅いと人はいうが、その考え方が古い。それであれば、広くてしかも深くすればいい。過去にあった物は何が伝統だ、そんなもの壊してやると思う人がいる。それ自体は悪くないが過去にあったことやものを参考にしているのでそこで初めて既成概念を破壊しようとなる。つまりそのくりかえしが今にいたってるのであって昔を知らなければ既成概念の破壊のしようもないのであり、過去にあったものも必然があって作られている。それがなければどこをどう改善したらいいのかもわからない。ここで伝統的工芸品をみてみよう。この業界はものづくりが中心だ。その技術がどんなに優れていても作れなくなった途端、骨董品に変わる。結城紬でいえば、240亀甲ベタ、200蚊絣ベタの着尺が該当する。私は200蚊絣を再現したいと言ったがつくれないことは自分で自覚していた。糸の厳選からスタートすればそれだけはじくものも多くなる。糸が不足している現状からすると至難の技になる。絣にあてる制作時間は長くなり、その制作期間は無収入で耐えられる環境が必要だがそういう環境はあるかときかれるとわからない。だが目標がないよりあった方がはるかにいい。それから絣くくりの職人をみているとどうもカラダを酷使しすぎて歯がダメになったという人が多い。仕事があればその時に現金にしたいと思うかもしれない。だがそれではダメなのだ。歯が弱ってしまうのは人間なので当然であるがペースがつかめていないから無駄にりきんでしまうのである。私が考える対処法は絣くくりとは全く別のまったく異なることをすることである。私はほぼ毎日ウォーキングをしている。健康のためでもないがただ歩くという作業だ。これをするとバランスがとれるようになる。前途するが絣くくり職人はカラダを酷使してペースがつかめていないので歯をダメにしてしまう。だがそれとはまったく別のことをすると、うまくりきみがとれたりペース配分がうまくなったりするものなのである。このようにして人は学んでいくのである。
糸とり職人の衰退と対策と歴史

 

2018

 

本場結城紬の糸不足


最近、東京新聞の夕刊で産地のかかえる糸不足についての掲載があった。その補足としての情報を説明しよう。 本場結城紬の手つむぎ糸は、屑繭(クズマユ)や玉繭(タママユ)などの養蚕で出た売ると二束三文になってしまう繭を使って、糸がひかれてきた。厳密には、結城の殿様が鬼怒川の氾濫を恐れ養蚕を福島県へうつしている。鬼怒川の氾濫は桑畑をダメにしてしまい、蚕の飼料がなくなりそのとしをぼうにふることだってあるという問題をさけていたのである。一般的な糸とりは、農閑期に女性がおこづかいを稼ぐ感覚で糸とりを覚え、実際には結城紬には関心があるわけではない場合が多く、自分の糸がどのように使われていくのかなどは興味のない人が多かったのととくに雨の日にも糸がひけることで効率的な作業であったのである。とくに命の危険があるわけでもなく、糸をひいてその稼ぎで孫に駄菓子を買ってあげたりするなど糸をひく人の側の都合もよかった。 しかし、現在は糸不足になっている。その多くは職人の高齢化と述べてきたことの延長として離農も要因にあたると私は思う。現在の多くの人は畑は担い手制度で農業を行っていない場合も増えており、そうした農業と密接にあった紬はだんだんと従来のいとなみが途切れつつある。また、現実問題としては半農で紬業をする織元も現在もないわけではないが、糸の職人を目指すというのは極めて稀な形である。とくに糸とりを習得しても手つむぎ糸は時間がかかり糸だけの収入で若い世代は生活が成り立つのかというと難しい問題も抱えている。糸とりだけの問題ではなくそれは国の重要無形文化財の主要三要件もあてはめられると思う。糸とり、絣くくり、地機織りの3つはどの部門も後継者不足である。織りである結城紬は地機織りの製織部門が最も多くの伝統工芸士がいるがそれでも高齢化の問題を抱えているし、絣くくりも親から次世代という従来の伝承も狭き門にしている。どの部門も後継者不足ということは産地全体で対策を練って後継者育成をしても現代精神とはかけはなれている。そうしたなかで伝統を守っていくしかないということは先細りの状態は今後いっそう加速するだろう。

 

魅力あふれる色調と模様 大林しげる

 

2018 横島氏が分類した幾何模様の原形は細分すると、およそ三百種になっている。また現在、製作して販売している製品は約六〜七十種。今は毎年、こぎん刺しを内職にすることを条件として十人ぐらいの、センス豊かな家庭婦人を募集して、こぎん刺しを教えている。が、技術の習得は容易ではなく、時間がかかるうえに熟練度も要求される。そのため、以前は二〜三人が中途で落伍した。最近は二〜三年続けることができた根気ある人は辞めずに続けており、時とともに熟練度を増し経験を積む。かつて横島氏が「子どもが大きくなって手がかからなくなった家庭の、教養ある奥さんが刺し手ですから、複雑なデザイン通りに立派なものができるのです。また、現代がクールだからといって、こぎんに現代的なセンスだけのデザインをしたものは売れません。どちらかというと人々は、こぎんには”むかし”を要求するのではないでしょうか。もちろん、現代と昔をミックスしてのハイセンス作品を出すことは当然、これからの行き方でしょうけれども」と語ったことがある。こぎんと同種のものに南部地方に発生した「菱刺し」というのがあったが、いまはない。一人「こぎん」だけが現代に生きている。現代が菱刺しをどれほど強く求めても、菱刺しの南部地方にはそれを復興させる人材が出なかったから消え去ってしまったのであろう。また、横島氏には木村産業研究所というような応援者があった。まさに「歩けばそこが道になる」である。こぎんにとっては、横島氏を得たのが幸いであった。化学者たちは合成染料の研究開発に追われて天然染料の研究はできないありさまなのに、こぎんは横島氏という有機化学者を得た。いわば人知の及ばないところで「こぎん」は復活し蘇生した。現在、格調高い民芸品として誇らしく弘前の地で生産はつづけられ、全国各地で愛好者から歓迎を受けている。目の粗い重厚な手触り。手織の麻の布地は落ちついた感触で、津軽の風土を想わせる紺の香りを秘めている。太目の温かそうな白い木綿がくっきりと描き出す力強い幾何学模様は、なぜか冷たさを感じさせずに、紺地の上に正確に糸目を拾って描かれて無駄がない。清楚で乙女のように羞らいがあり、素朴でいかにも誠実、謙虚で慎ましく奢りがない。堅実だが堅くなく、朝の太陽のように健康的である これが私の心に映る津軽こぎんである。なぜ幾何学図形になったのか。果たして糸目 織目を拾うだけでそうなったのか津軽の風土が、造型に与えた影響は、あるとすればいったい何か。そしてそれはどのようにして幾何学模様に結晶したのか。容易には納得できる解明をえられそうもないまま、本稿の執筆模様に魅せられてやまないのである。
アイヌ衣装の変遷 2018

現代編集

 北村 陵(経済産業大臣指定伝統的工芸品結城紬染色部門伝統工芸士)

結城紬の糊抜き最新版 2018

取材 柳田つむぎ整理店さん 北村陵 作成

動画と糊抜き技法を公開

ノウハウを知れば詳しくなれる

知られざる手間と専門技術

 

伝統工芸士会について 2018

伝統工芸士会というのがあり、私はこのシステムにはとにかく不満しか覚えない。まずこういうどうでもいいような会合には本物の作り手や職人がしゃしゃり出てくるほど余裕があるとは考えにくいと私は見ているのである。当然腕のいい職人は多忙な為、そんなことに時間をさくほどバカではないのではないか、という点につきる。だいたい京都の連中もそのあたりは指摘していいのではないかとも思えてくる。着物の世界はいたって残酷で、容赦はない。京都があたかも着物の中心というがそれはあくまで晴れ着の世界に限った話であり、では普段着やカジュアル着物の分野はたいして重要ではないかのような位置付けというのも納得がいかない。その根幹は、実は結城紬が切り込んでいくべきなのである。結城紬はではどう言った対応をしているのかについて私なりの意見をのべる。結城は産地が栃木県と茨城県という極めて稀な産地形成があり全国でもまずこういうことはないのである。当然、どちらが意見を通すべきかという感じにもなってくる。だがもっとこのような案件の素材を見ていただきたい。まず普通に生きていては気がつくことなく棺桶に入る。他産地は伝統工芸士会というかそういう類のものは同じ人を何年も据え置くだけ、というシンプルなシステムを取っていて、当然詳しくなるしいいポジションになるのである。結城紬は3年あたりをめどに絶え間なく人が入れ替わり、いったい今のお偉いさんは誰か、みたいなどうでもいいことに気を使っていて入れ替わりによって重要なポジションまでいかずして終わってしまっているのである。このシステムを改善しない限り、結城紬のような重要な産地とものづくりをしている代表者がいいポジションまでたどり着くとはないのである。今までの職人は考えが及ばなかった、それにつきる。あとはそもそも伝統工芸士というのは後継者の一つの目標にしかすぎないシステムであり伝統工芸士の肩書きを信用しすぎてる。もの作りには肩書きはいらない。伝統工芸士とはそれほど効力のある資格では本来ないし、目的も若干違うのである。だから私はそもそも伝統工芸士いうものを信用してない。持っていても持っていなくても変わらないのに毎年決まった金額を黙っていても取られるので意見はいうだけはいうのである。青山スクエアのかかえる問題はこれだけではない。そもそも年会費をとっているのに決算書を書かないのはなぜかという簡単な質問や指摘してこなかったあたりをみると、そもそも彼らは真剣に考えたことすらないとしか言いようがないように思えるのである。むしろこれは誰がどうみてもやっていることがおかしいのにそれすら放置してきた伝統工芸士の方々も悪いのである。なあなあならその大元はもっとなあなあになる。それしか言いようがない。決算書が出さないので、どこをどう改善すべきか、という意見すらなら出せないので指摘のしようがないのであり、今の時代からしてそれが普通である、というのも全く進展がしてないままになっている。この状態で青山スクエアの職員はもっと現実をみてみるといい。いくら東京に構えたところで相手にはされないのは当然である。はっきり言えば本部がどこなのかも重要ではない

書き手 北村陵

対談2018須藤伸子さん(製織部門伝統工芸士)と会話する 2018.5.27
認定部門: 製織部門 
従事年: 昭和50年より現在の仕事に従事
認定年度: 平成21年度
得意な技法: 製織
主な製品: 百亀甲蚊絣
受賞歴:
平成22年 栃木県知事賞
平成23年 栃木県知事賞
平成24年 栃木県知事賞
平成25年 栃木県知事賞など

対談 北村陵(経済産業大臣指定伝統的工芸品結城紬染色部門伝統工芸士)
and
須藤伸子(経済産業大臣指定伝統的工芸品結城紬製織部門伝統工芸士)

対談
北村陵(以下、陵):須藤さん、小山クラフト館のパネルの織りのモデルで
          一躍有名人になったんじゃないですか?
須藤伸子(以下、伸):そんなことないよ。変わらないよ。
陵:玉ねぎ持ってきました。
伸:ありがとう
陵:親戚にお世話になっていて80歳こえて
     自分にできることはないかと、
     それで農家の畑に手伝いにいっています。
     よく畑仕事はダサいみたいな風潮
     は生産者も持っているらしいです。
     私は少なくともダサいとは思わない。
     第一次産業をコケにして言い訳がない。
     それで言えばはるかに紬業の
     方がダサい。
     農業は離農が進んでいて後継者は 
     いないらしいです。
伸:えらいね。
陵:それで結城紬の話をしましょう、
     産地問屋はいっせいに自販を許さなか
     ったわけで一部の生産者の間では
     親父は語り草ですね。自販の申し子です。
     でも歴史って複雑なのは、
     私の記憶では奥順がいきなり
     買い取らなくなったのは、   
      確か、平成22年の頃ではないか
     って思います。確かではないし覚えて
      ないです。うちは以前から、
      自販ではじかれてきた。
      どれが正しいかなんてわからないですよ。
伸:平成22年頃だよ、覚えている。
陵:また複雑なのがユネスコの
     無形文化遺産登録ですね、
     ちょうど伝統工芸士の12年の
     修行の折り返しくらいに私は当たる。
     私は生産者なので、あまり表舞台には
     向かない気もしています。
伸:コーヒー飲む?
陵:時間大丈夫ですか、いただきます
     それと忘れ去られているのが、
     伝統工芸士の方でも無名の方でもそうなんですが
     目指す方向性ですね。私はいまは
     伝統工芸士かもしれない。でも
     5年後はやめているかもしれない。
     目指す方向性が明確にするとやはり紬業では
     無理している部分が出てきてしまう気がして
     ますね。どう考えても副業を持ったり、そのほか
     でも楽しめるかどうかってありますね。紬より
     楽しいことって案外多いですよ。私は遊ぶのが
     得意ではないのでおとなしくしてるだけで、 
     まずイベントや講習会も参加しなくなりました。
     それと須藤さんの母は由緒正しいですよね。
     立派です。
伸:古いっていうだけで外国の人とかが建築を知りたくて
     大勢来ていただけ。実家はね、古かったよ。
陵:私もあえてやばい職人さんとかとは距離を置いて
     きました。ただ色々な方と巡りあえて私は考え方は  
     変わってきてますね。平成生まれの方とはそもそも
     はじめに入ってきた世界観は違うので分かり合えない
     と最初は思っていました。ですが平成生まれの子が
     見学に来るようになって、すごく新鮮でした。まず
     自分より若い消費者を知りましたし、日本舞踊なんか
     やっている子は着物姿で地機をおりるとき、いちいち
     腰いれて動くしぐさとかにはびっくりしました。
     見たことなかったです。またセンスがいいんです。   
     おそらくスマホであくまで自然と記念写真を撮りたか
     っただけだと思うんでずけど、地機を構図に入れて
    くるアングルは絶対的に平成生まれの感覚ですね。
    もうじき平成も終わります。次はどういう世代なのか
    という期待感もありますし、その前にお前やってない
    じゃないかってなるかも。またきます。
伸:玉ねぎありがとうね。
     
結城紬の情報整理とまとめ2018