< 本場結城紬 古書現代6中間資料集

中間染織資料

中間資料集 染織資料6
題目 日付 解説と概要
中間資料集6を立ち上げる 2019.1.14 染織資料を230冊ほど集め、ここにきて年齢的な体力の低下とそもそも私は頭がよい訳でも記憶力がよい訳でもなく、AdobePhotoshop(アドビフォトショップ)CC2018とAdobeDreamWeaver(アドビドリームウィバー)、主にフォトショップとは画像加工や図案を書くときにプロのデザイナーも用いているほど専門的に特化した優れたソフトである。同じくアドビ社のホームページ作成ソフト、ドリームウィバーもホームページ作成においてオリジナル性にとんだホームページが作成可能である。私はアドビゴーライブの頃から親しんできたが、やはり元々の性格が出て、フォトショップはピクセルをスマートフォン観覧用に500ピクセルに調節し直すなどのメンテナンスとノートパソコンから観覧する従来的600ピクセルで二つヨコに配置し1200ピクセルで観覧してもらうかどうかという対応を結果的に迫られてきた。そして結果的にスマートフォン観覧に合わせて500ピクセルをヨコに二つ配置した1000ピクセルで、決められたウェブカラーを出していくスタイルをとった。スマートフォンユーザーではないが、ドコモショップへ行き、最新環境からスマートフォン、タブレットから見える自分のサイトをチェックしてきた。docomoやSoftBankなどいまや通信会社の充実とサービス開示性には驚きに溢れている。Apple社のiPad,iPhoneなどの端末の移動性(携帯性)、快適性に優れた端末にどう対応していくか、といういわばiMacからの視点だけでは獲得することのできない視点を配信大手会社からみて触れて変化と対応をしてきた。ドリームウィバーとiMacの操作で順応性が試されるという、年とるとろくなことないという実感をまた感じた。携帯にそこまで快適性を追求したらホームページ作りなどプロに作り置きさせておいて作業に徹底した方がいいが、限られたコストで最大のパフォーマンスを発揮しうるには、Adobe社からPhotoshopやDreamWeaverと契約し、とにかくホームページはこまめな更新と新商品をアップし続けていく、というスタイルになってしまっている。現状商売はこれでいい。だが研究はそうはいかない。いままでAdobe社には散々世話になってきたし、これからも限りある人生において、ソフトは契約していくので私がスマートフォンユーザーになったら単にウェブサーフィンするだけかTwitterにて趣味にいそしんだりするなど、現実的に心豊かな生活を送るという感じになりそうであるが、流石にそこになってしまうにはまだ年齢的にはやすぎる気がするし、もし仮に紬業をやめれば、私はスマートフォンは契約しないでインターネットとは線引きして、田舎でのんびり暮らしていく方向性になると思う。2019年、平成最後の成人式が終わり新しい時代の到来の余韻と無料アプリの充実でタブレット、スマートフォンは都心には欠かせないツールになっていくであろうという気がする。研究において研究費が枯渇するというのは本当に頭を抱える問題である。私はiPadをカメラの三脚にのせて、紬の現場を撮影した。撮影したことのない動画を作っていたら、ある日、つるつるしたiPadが床に落ちて画面がバキバキのヒビが入り、数少ないラインつながりの方に伝えると、<すみません活字が読み取れません><すみません液晶が真っ暗な部分があって何が画像でのっているのか画面の6割が真っ暗でわかっていません>と、いかにも研究費がそこを着いてしまっている自分があまりにも滑稽であった。この記事の上記に示してきたもの(リンク先)やTwitterアプリから知り合ったユーザー、また織物教室でのユーザーに染織資料は無料配布してきているので私のホームページトップページに貼り付けて掲載しているものがおおかた研究してきたものである。A4から紬図案、色見本、オリジナル記事作成、ホームページ作成において必要なテクニックをAdobeサポートを使い、またフォトショップでは紬図案を作成していくうえで、本当にそれが製品化できるのかという、現実における分業制と染色、織、また下ごしらえ等、図案ができたからといって製品化と生産者が自ら提案するのではなく、消費者自らが提案という時代、糸不足の背景からしてかなりとどこおてしまっている。同じく染織資料も配布したり集めたりで一向に現状維持といった先行きである。後世に残すために行なっている私の研究は読者が数名である、という事実と、仮に数十名とか数百名という場合であれば、個人的研究ではなくなり、足回りは極めて細かくは行き届かないであろうと察しがつく。つまり染織資料を再読して断片的に手筋を追っていったほうがより読者には身近な研究として伝わるのではないかと考えている。不眠不休のくくりの仕事と低賃金により研究は規模もスケールも縮小してはいるが、それは時代の流れであるといった割り切った切り替えも同時に必要であろう。個人的な資料充実と研究していくスタイルがもっともわかりやすいのではないかと思う。古書現代と中間資料を読んできてくれた方が「さすが結城の職人は勤勉である」「どうりで結果がついてくるわけだ」と納得してもらうために結果を出し続ける必要があるだろう。また研究しつつも、絣くくりの仕事と記事作りも欠かせなく、ネット社会の表面的接点から次第に「織元へ足を運ぼう」とか、「職人の現場の声はどういうものなのか」また産地の抱えている問題や課題は何か、織物教室や<見学者にとってもっとも有意義な話はなんなのか>というものを研究していく。長くなったが中間資料集6まで継続できたことは読者少なくとも感謝している。現場の抱えている問題、現在と過去の良書からそれをもっと身近に感じる流れを作れればいいなぁと思っている。文字数の限りのあるTwitterは高画質なため、やはり<見切り的に捨てる>というのは難しい判断である。また同じくフェイスブックもまずはじめに<知る>に重点をおく以上欠かせない。SNSサービスの向上は、時として個人情報をこえて喜怒哀楽があると思う。ブログ、Twitter、フェイスブック、ホームページ、インスタグラムなどサービスの多様性に応じて染織業界もその志向にあわせて変化しているように思う。私はあくまでホームページがもっとも自分の考え方がダイレクトに届くものだと信じているのでとにかく拡張し続けるデータとサービスにおいて「こんなに現場の研究とは進んでいたのか!」という驚きを残していきたい。Adobe社もApple社も、もともとはそういう夢を我々に与え続けてきたのだから、、、、。

結城紬見学サポート補足

群馬県からの依頼

2019.1.14. 紬全般のことが知りたいとの見学申し込みありがとうございます。土曜日とのことで私どもは週休二日のため、伝統工芸館に出払っているので、先のことは分かりませんが括り等、時間があえば私も実演と解説等できるように心がけます。伝統工芸館は見学用に整備されているので適切な案内をしたつもりです。

絣一色

生産履歴

2019.1.14

絣の生産解説付き記事

北村陵 作成

びっくりするような

リサイクル結城紬市場の実態と

販売方法なぜか北村織物の

先祖が証紙証明書になり

販売されているお客様動画

2018年作成動画 youtubeへアップしたが、リサイクル着物が悪いとは言わないけど、私どもの先祖が名を馳せていたからといって使われて販売されるという嬉しいんだか、何だかさっぱりわからない事態になっている。一部始終だが、こうしたリサイクル市場の活性化の影に闇雲にとにかく在庫を動かすならなんでもしでかす市場は呆れてしまう。それは物品としては確かなものづくりによったものかもしれない。ただこっちのように生産は記録している、それほど改善されていない労働環境のもとで情報発信するみにもなって欲しい。確かに今は絣ものがベテランによって支えられているのは隠さぬ事実であり、また産地を牽引し続けている。若手は外山くんが専属で絣くくりで頑張っているときいている。私のようにすでに伝統工芸士であるとか、自販している立場からすると実演のオファーもほとんどない。できあがって絣が出来上がる速度を考えてみると、実演一日いくらというように日当をもらったほうがはるかに稼げる。ではそれは絣生産をしないさい、といった現場に戻った時、どれくらいの織り手から評価されるだろうか。バチバチの生産をやっていると、私の場合、そうとはわかっていても資金をネット宣伝にまわす、販売を強化しているという状態からするとただ単に、私の出した情報をただ読んでいるほうが得である。私は採算度返しのリアリズムで後には何も残らない生き方を選んできている。最も残りにくい進路であり、最も厳しい選択肢をあえて選んできた。最初に現場から離れるのは私だろう。なぜなら、ベテランが絣を織れる今だからこそ、生産現場で実演の依頼を受けていないからである。ハイリスクローリターンの道を生きている。

なぜかはわからないが

絣の仕事があるうちに

書き残すことが記憶として

出てくる

また私はほとんど自由がない

2019.1.14 結城紬の書籍が平成に出版され、昭和と平成をつなぐ記録となった。ただ結城紬の書籍の続編はというと実は結城紬というカテゴリーにおいては、全国的に拡散されても現実には必要説いている情報もしくは書籍としてはかなり少ない。そのため京都の西陣織や京都の友禅などもかなりの伝統工芸士や職人などがいても、その一般には見えていない背景があるから出版物を執筆しない。最もいいのが本が売れる、すると本が売れると想像意欲もわきつけてきて、執筆がはかどり続編が次々と出版されるという好循環がある。京都や結城紬のような織物は複雑な工程で記録として残すと確かに素晴らしい書籍は誕生しやすい。しかし、一方で良書でも必要としている読者が限定的であるという状態であるとなかなか出版しても赤字化と単なる売名行為として終わってしまう。だから現代では貴重な織物ほど出版が少ない。さらには過去に出版されたものの蓄積によってあえて執筆する必要がないと判断して意外と生産者は書き残して本(書籍)として残す、ということをしないのである。私も仕事があると急激に情報として入ってくるものはある。だが仕事がない時は正直、書く行為そのものがわかっていてもすすまないものである。思い通りに生きている人はいないのではないかとふと感じるのはそういう業界を影で支えいる職人がみたとき、その書籍は当たり前じゃないか、当たり前のことや当たり障り無い無難なせんでおいてきた書物だという世論があるからである。

結城紬の2019年において

60才前後の職人は

はるかに厳しい現実に

置かれていた

現在の見習い職人が

伝統工芸士になったら

その評価は高い

2019.1.14 結城紬の現在2019年において60才前後の職人は、若い私どもの伝統工芸士や見習いの人には遠くおよばないほどに生産に追われて厳しい現実の中にいた。確かにバブル期を味わったその世代の親をみてきたわけで賃金面では現在よりはるかに待遇そのものはよかったのも言えるが、やがて生産が統計上で従事者数が減り始まるあたりから、地獄をみてきたのである。こうした結城紬の隠れている現実を抜きにして現代へは語りつげないのではないだろうか。酸いもあまいも知っていると思いますが、という私のインタビュー前の一言には、いえ酸いしか知りませんという返答があるように必ずしもいい時代とは言えない。その親に該当する従事者なりの世代はバブルで浴びるように酒を呑んできたり、他の自営業者が「居酒屋にいくと紬従事者は毎日のように楽しそうだった」と語る現在の70才の人が私はそこから結果的に親が紬業をやっていたから例えば下り坂になった時、紬業を離れると生産においてプライドはないのかというジレンマを抱えてきたわけである。特に私のすむエリアではそうした背景があるように思えてならない。私もあたりが暗くなって集中できるようにあったいまパソコンへ向かって原稿化している。だから、人は羨ましいと思えても産業としてみた場合、それは波あり谷ありで結果的には普通の商売ないし産業、になっているのではないかと思う。テレビアナウンサーはものすごく稼ぐけどそのストレスの反動で数百万の買い物をしてストレス発散をする。ひとめには、なぜそんな無駄遣いをするのだろうかと見えたりするが内情は使う時間も代償もない行き場ない忙しさからそうした一般的ではないように見える消費をするのである。結城紬の若い従事者の抱えている問題は、ベテラン世代が抱えてきた問題と変わらなかったりするのではないかと思う。糸不足と言われているが昔も今も変わらない。最終的には職業としてはすすめられないと現在の伝統工芸士は考えていて、楽しくなかったら職業ではない、という現在の職業の理想からすると、結城紬の抱えている現実や現場は過酷さを増してるのである。私が若い頃、もしかしたら伝統工芸士になれるかもしれないとかすかに思えた。だが、仮にいまから紬を従事してくださいと言われたら、かなり高い壁に思えるのである。それゆえに伝統工芸士にまで見習いの職人がなった時、まわりの人とは異質な生き方をしてきたとか、貴重な人材となっているのではないかと思う。

贅沢品に位置してしまう

着物の世間話

2019.1.15

消費税10%を控えての雑談

乗国寺の朝の雑談から

後継者問題1 2019.1.15 後継者問題
後継者問題2 2019.1.15 後継者問題

カメラでおうオオカミの

子達とモンゴル

2019.1.21

カメラマンのプロを目指すというよりすでにプロの場にいて、会社が倒産したのをキに、考え方が変わったと女性はいう。皆が皆、同じ生き方、目標、そう行った学生からコントロールされて社会人になりサラリーマンなりOLになる。しかし、彼女の場合、会社の倒産で、全て上のもののいう指示が正しいかどうか、いや間違えているといった自我の葛藤やいうことを聞かなければ、やめていいくらいの話をされひたすらに強迫観念の中で生きてきた、と私に伝えた。すごく共感できた。私も同じように産地問屋受注を断って仕事を干され、あわよくば自分の道はないように思える日々をさまよってきたのである。そうした末に今がある。現在かて自分の理想とする自分ではないという心の叫びと、いい意味でのひらきなおりとひらめきの中で過ごすしかないのである。一見矛盾である。30才前半だった一ヶ月前くらいと30才後半という変えられない年齢と、彷徨い続けるつむぎの道である。過去に郡上紬で白洲正子が郡上を訪れたとき、ありがとうございます、あとはよろしくお願いします、といって次の日に白洲正子は信じられないような現実を見てしまうのである。こうした情報は基本的に古書を何冊も読み解いていかなければ行き着かない。生きた本物の情報は常にシンプルである。私のかく研究文章がとにかく生きる上ですごく参考になる、とこの女性からも頂戴した。私は、信じられないような極端な生活をする。例えば、いらないものにうつるタバコである。これをとにかく体が悲鳴をあげて壊す寸前までふかし続ける。やめたほうがいい、となんども言われるが、この世で真に地獄をみるとは、一風変わったことと誰も考えないようなことを貫いたりしてそのかわりに手に入れるのがこうしたサバイバルをあえて選ぶような女性の本音である。これは、私はネットをやっていてわざわざ私の所にきても、人生変わらないし、変えようもない平凡な私、しかいないのである。あくまで電子的に書かれた私のまぼろしを見ているのである。だから、お互い変わり者、といった話に落ち着くわけである。めっぽう商売道具にはこだわりがある。一日一食で体の限界まで無駄を削ぎ落とし、商売道具のカメラ周辺機器を買う。レンズで100万円を超えるハイスペックな世界を見続けている。これはいっしゅ取り憑かれてしまったように狂気に満ちているが極めて生き方として一貫性がある。わたしも若い方にまだ当たるのかもしれないが商売道具や仕事の投資は惜しまない。仮に、自分の今の仕事が破綻しようが関係がない。プロとは潔い。つまり、何も残らない、が終わりにも始まりにもあるのである。この原点回帰やゼロの世界というのは突き詰めるところ、プロの残すリアリズムなのである。彼女はいった。「マイナス30℃になる夜のモンゴルへ動物を撮りに行きます。こんなに考えている人はサラリーマンではいないですよ」私は言った。「他にここ行きたいとかないの、そういうのなくなったら終わりでしょうけど。」「北極とか南極ですね」彼女がサラリーマンの世界に戻ることはない。

糸の説明の小さな発見 2019.1.23

私は動画など無料でできる範囲でとにかく伝わるかどうかわからない<糸>について異常に説明してきた。本当に伝わるのかどうかわからない。見学者がきたとき、<糸>の違いがわかったと言ってきてくれた方がいた。茨城県の古河市で結城紬が宣伝されているのかイベントのようなものがあったらしい。茨城県なのでそう遠い距離でもなく、それなのに値段が高く一体どうしてだろうか、という考察の時に、インターネットで調べ、結城紬の産地をとにかく体験したり、見れる範囲でみてふれてきたのだそうだ。すると、全体像がわかってきてなぜ必要以上に<糸>ばかり説明している職人がいるのか、というのと、伝わり切るはずもないと半ば諦めていた私であるがその方は<糸>に違いを感じると言っていた。その違いは何ですか、というと「なんとなく違います」というのである。すでに<糸>に違いを感じ取っている方は残りは<どういう目的で使うか、素材として楽しむか、安くてかつ絹である、というだけでいいのか>など現在では多種多様な楽しみ方があるので、例えば洋服の延長としてファッションの一部としてなどの楽しみ方もある。ただ<糸>について作成してきたことが現実に一人、変化を感じたわけである。そして、見学者が一人一人と連絡があり一度見てみたいとの問い合わせがあり、買う買わない以前にまずはみてもらうという作業を今はしている。伝統工芸士の数は今の状態でも多い方にあたる。産地によって人数や役割も違う。何がヒントでその人にヒットした情報になるのかは、いくら考えても私にはわからないが、見学者には、従来からやってきている工程の説明と現在の状態を正直に伝える、という2つのことを伝えている。仮に現在のように銀座などの最も土地の価値のある場所で地元にくると値段があきらかに異なるという日本独自の土地変われば値段が違う、けど同じ品質である、という基本がなければ私どもの家族単位の手工芸はもっと早い段階で商売は終わってしまっているかもしれない。両親が還暦をすぎてきている、ということで両親をまず経済的な負担から今度は国民年金を受けて安定的な状態へ、という小さな流れだけでも、北村織物の経営はもっと幅を持った深みある状態に持っていけるのではないかとも思う。それから現在の指導所の産地の実態調査のような資料をみてみると、仮に順風満帆で商売がうまくいっていたとしてもそれほど大した産業ではないというのと、人によってはかけがえのない尊い手仕事として映るのではないかと思う。どちらかしかない。これは価値あるものづくりをしていると思える人をたよりに地道に開拓するという手段を撮り続けることである。

HPデータ保存と近況

2019.1.29 不景気において、また趣味的な要素の高い現状、<着物><呉服>そうしたもの全てが、高齢化社会においては資金がなかなか思うように配分できなかったり、サラリーマン社会においては<着物>自体、着る暇もないといった<関わることのないもの>にうつってしまう可能性がある。定年を過ぎてお金があるし年老いてひとときの安らぎを得たいというような場合にのみ<結城紬>のような高額なものは、はじめて機能するものではないか、と思う。全てが私の言っていることが正しいというわけではない。私は老人ホームに入るお金も工面できないし、書などを書いて買い取ってもらうことや、若年層、または生活に余暇が欲しいであろう人に試供品的に結城紬を寄贈したり、紹介してきた。研究資料作成は個人的なもので今後の衰退していく結城紬において本当にスポットライトがあたるのか、そもそもが調べ物をする時間すらないといった多忙な日々を送っている現代人のアプローチ方法は私の中で決定的なものはない。ネット接続にはとにかく売り上げから無駄のない生活をしてきりつめて、データはSDカードへ保存し、またホームページドメインも保存先が同じでないと効力を持たないため、現在家族制で行っていて唯一、妹が子供がいるため、こういうことをしてきたといういわば甥っ子にとって自分が自分の自慢をする老害になりかねない存在に成り果てる可能性もある。現在朝4時に原稿化しているが北村織物における経営というのは果たしてどういうやりくりをして今に繋がっているのか、というのは結局はきりつめているという節約からきている。
研究と教育 2019.1.29 睡眠においてコーヒーは眠りの妨げになるとか、タバコは無になれるのでやめられない。結局のところ、何に重点をおいて生活するのか、またどういう生き方をしていくのかといったものはその人にしかわからない。孤独にパソコンへ向かって研究している冬というのは、手がかじかむし、実際に作業現場というのはお金がかかっているわけでもない。単に結城紬生産者が生産を拒むようになったのは問屋下請けいじめからきているものであると思う節がある。なんの仕事や商売でもそうである。とにかく生産者を使い、上をピンハネする。そうした商売が着物にもあてはまり、数少ない関わりをもつ着物関係者はおおかた生産者や販売に当てはめられ同じことを口にしている。この終わりなき戦いに嫌気がさし、結城紬生産者が減っているいまにおいてもたんに存続できない理由は常に資金繰りが困難といったシンプルなものである。読むことも面倒という状態では決して成功はしない。成功する人や並々ならぬ現実を突破した人は、到底想像もつかないような努力をしているものである。テニスの世界においても日本経済が上がり気味だった頃、留学して英才教育を受けられた背景がある。読書をすること、仕事をすること、こまめな情報の開示、インターネット依存症にはならない程度に本などを読むなどそうした日々の努力が必要だろう。そんな暇はないともうかもしれないが、忙しい中で何を獲得し何を喪失するのか、そうした全てが問われているのかもしれない。