1. 六代目「紬屋吉平」の着物人生  織り子の生命を伝えたい女 浦沢月子さん

    (日本の染織2 紬 素朴な美と日本的な味わい p114 草柳大蔵 )

    紬屋、再興の話を持ちかけられて

    紬屋吉平の五代目が、むすこの嫁の月子さんに、「おまえさんが手伝ってくれるなら、もう一度、紬屋の店を開いてみようと思うよ」と打ち明けたのは、昭和二十四年の初夏のことであった。新潟県の柏崎から東京の呉服屋に奉公に出て、日本橋に構えた紬屋の店は戦災で焼けてしまい、戦後は郷里に残った絹織物の工場を経営しながらかつかつに生活してきた一家である。五代目にしてみれば、紬屋ののれんで歩いていく商人の道しかないし、また一方では越後上布や結城紬の地機と、戦争のおかげでぜひもなく縁切りになるのが、なんとも納得がいきかねるのである。月子さんは、舅から紬屋再興の話をもちかけられたとき、にわかには即答しかねた。紬屋の嫁になったのが敗戦の年である。それから四年間というもの、貧しい配給物を取りに行ったり、ふたりの子どもを育でたりすることで精一杯だった。台所にひっ込んでじゃがいも相手に暮らすのには慣れているが、産地から品物を仕入れ、店先で目の肥えた客を相手とする商売など考えてもみなかったこと、である。それにもう二十九歳になっていた。男の二十九なら人生のかじもまだまだ回しやすいが、女の場合は、かじが重くなっているのが普通だ。というより、家庭という港の中に、妻といういかりをおろして、難破しない程度の大波小波に揺られているほうが望ましい年齢である。夫の浦沢政二氏は呉服のほうの仕事はせず、東京製綱に勤めるサラリーマンであった。彼女は夫のそういう身のふり方に、別に異議をもっていなかった。そもそも結ばれたのが、東京製綱の職場なのである。政二氏は微用工、月子さんは女子挺身隊だった。毎月空襲警報に追い回されていたせわしない恋であった。ある日、昼休みに皇居の濠端を歩いていると警報が鳴った。戦争には美しすぎるような高い空を、B29爆撃機が銀色の直線をひいて飛んでいた。やにわに政二氏が駆け出した。B29を追い越そうとするかのように、飛行機の進行行方に向かって、まっしぐらに走っていくのである。その狂気のような足どりに月子さんはついていけなかった。たちまち息を切らし、松の根方にしゃがみこんで、もんぺについた枯れ草を指先でつまんでいた。つまみながら「あの人とも終わりだな」と思った。ひとりで逃げていく男の姿から、自分がその人の心の中にいないことを見たのである。ところが、まもなく彼女のかたわらに政二氏が立った。息を切らせて引き返してきたのだ。月子さんは、立ち上がりながら「やっぱり、この人と世帯を持とう」と思った。相手が紬屋の苦旦那であることは知っていた。彼女の養父が、呉服物の老舗である「むら田」の職人で、まんざら商売の世界にうとかったわけではない。しかし、月子さんは「紬屋の嫁」になるという気持よりも「政二さんの奥さん」になるという気持のほうが強かった。だからこそ、戦争が終わっても政二氏が勤めをやめないことを、不満にも不思議にも思う余地がなく、下町の主婦としてのたたずまいを変えようとしなかった。五代目吉平はさすがに商人であった。嫁の日常の中から、目はしのききよう、決め事の率直さを評価していたのである。「おまえさんがその気なら、資金も用意しようじゃないか。どうだい、やってみる気はないかね」「そうですね」と、後年、織物の伝統技術を保有した功績で紺綬褒章を受けた嫁は、そのとき口ごもっていたのである。

    銀座に店を出す
    彼女が舅の申し出に「やらせていただきます」と答えたのは、長男を三年三か月でなくした直後である。原因は心臓ぜんそくの発作だった。みずからも認めるように、公園生まれの浅草育ち、エプロンかけて台所に立っていても、なにかひとつ気持の心棒がなければ気がすまないのである。子どもに死なれてうつろになった心が「これじゃいけない」と叫んでいた。「やってみます」と彼女は言った。そして、きっぱりつけた判断に、もうひとつを付け加えた。まだ一歳の次男のことだった。「お店を始めれば、この子のめんどうはみてやれないと思います。それで、もしこの子が曲るようだったら、商売はやめます」下町の人情で育った女である。仕事は仕事、子どもは子どもと割り切れない。現代的な親子関係は二つの円が、ある点で接しているようなものだというが、彼女は同心円なのである。母親の円の中心と子どもの円中心が一点に重なり、それは母親の体内にある。月子さんは、まず小児科の医者のところに駆け込むと「この子がとげを刺しても、やけどをしても、私はころがってなおすつもりです。よろしくお願いします」と頭を下げた。それから中卒のこもりをふたり雇った。いわゆる「ばあや」の手にゆだねたのでは「おばあちゃん子」になる。それで変にいじけはすまいかと考えたのだ。中卒の子もりを選んだのも、若々しい扱いに触れさせることによって、男っぽい男を育てるためだった。舅が出した資金は二十万円である。戦後のインフレの中では、それはあまりに小さなものだった。それでも昔かたぎの舅には大金なのである。月子さんは、もうあとへひけなかった。むしろ、積極的に前に出た。「店を出すなら銀座にしましょうよ。銀座のほうが復興が早いわ。歩いている人にも活気があるわ」「ふむ、そうかね」五代目の店は日本橋である。すでに根を張っている。そこから銀座へ移るには、ちょっと抵抗があった。が、月子さんは、もっぱら「銀座がいいですよ」をくり返した。舅は折れた。銀座に店が見つかった。交旬社の斜め向いたところにある文房具店の一隅である。絹織物の統制がはずされたのをしおに開店したわけだが、商品の反物を飾るウインドーは文房具といっしょだった。さて、店をあけてみると、むずかしさは覚悟していたものの、いっそ意外なことのほうが多かった。そのむずかしさは、せんじつめていえば、越後上布や結城紬の性質からくるものであった。まず、客種が変わっていた。戦前の日本橋の店の顧客はひとかどの数奇者か、ある程度の豊かさをもった人種である。これが敗戦による価値転換で斜陽化するなり隠栖するなりして、銀座には顔を出してこない。とってかわって、新しい客は戦後のつむぎにいちはやく袖を通したい人である。六代目紬屋吉平こと浦沢月子は、新規に店を開いたようなものである。しかし、これは客筋に慣れればまだよかった。反物となると、そうはいかない。織りのむずかしさが、新しい女主人を翻弄するのである。たとえば、三万円の縞物が売れたとする。値段は舅の五代目がつけてくれていた。その品が売れてすぐ、同じような柄の注文をうけることがある。「いくらぐらいでできますか?」ときかれて、新米の六代目は「ああ、あの柄か」と頭の中で思い「三万円くらいでございます」と約束する。店をしめてからがたいへんだった。注文を請けた柄と値段を五代目に報告すると、とんでもないことになっているのだ。「いや、柄は似ているがね、お客さまのおっしゃるとおり、細めの縞にすると、値段が違ってくる」「いやだわ、お父さん、どうしてですか」「手が違うのさ。織り方が、ね。ま、五万円という品物だろう。つむぎというものは、柄や色だけじゃわかりません。織り方ですよ」その織り方で、同じ柄のものでも、値段は倍も三倍も違ってくる。月子さんは、日本の工芸の深さに息をのむ思いだった。もうひとつ、きびしく知らされたのは、商人の道というものである。「どうしましょうか。三万と言ったお客さんに、あの柄なら五万ですよとはっきり申し上げて、おわびしましょうか」そう言うと五代目は目をむいた。「それはいけません。商人というものは、一度、値段をお約束したら、たとえそれがまちがいだとわかっても、そのとおりにするものです。お客さまにご迷惑をかけちゃいけません。そりゃ、五万のものを三万にするには手がありますよ。縞をわからぬように抜けばいいんです。しかし、そんなことをしたら商品にばちが当たりますよ。お天道さまをまともに見られやしません。
    自ら織って、織った人の心を知る

    きびしい勉強だった。「おまえさん、きょう、織りあがってきた品物だけど、どう思いなさる?」「ああ、あの色はよかったですね。きれいですわ」「違うね」と五代目は首を横にふる。その小気味のよい判断に「そんなことがあってたまるもんか」という、自信がある。月子さんは、もう声もでない。「あの色は、もうひとつ、弱いやね。機が甘いんだな」そう言われると、翌朝、朝ごはんを食べるのももどかしく店へ行って、戸棚の中から<機が甘い>といわれた反物を取り出して見るのだった。が、どこがどう甘いのか、さっぱりわからない。しかし、よし甘いにせよ一反が三万円とか五万円とかの値段である。手にわたした反物をながめながら、わき下とひかがみに冷たい汗をかくのである。そんな月子さんに五代目が、「あんた、機を織ってごらん」と声をかけたのは、店を開いてから三年目のことである。機は越後から取り寄せた。使いにくいので、納屋にほうり込んであったという。月子さんは最初、わくわくして機の前にすわった。聖書に「アダムが耕しイブが紡ぐ」とある。女はきものを織りながら夢を織っていく本性があるのだろうか。無地からやれ、と言われて、来る日も来る日も無地に取り組んだ。が、これがなかなか進まない。からむし(苧麻)では歯が立たなかった。ちょっと部屋の温度が変わっても、たて糸がプツンと切れてしまうのである。杼を左右させてよこ糸を渡すよりも、たて糸をつないでいる時間のほうが多いのである。これは覚えられないと、からむしをあきらめてラミーに変えてみたが、やはり切れることは切れる。機織りのために、彼女は、睡眠時間を二時間さくことにした。それ以外には、いかようにも時間のさきようがなかった。店から帰って夕飯をすませ、一休みすると、もう機にとりかかるのである。だからたて糸に切られるのはつらかった。そこで、とりかかるまえに、糸に当てて霧を吹き、部屋に湯げを立たせて、必死の思いで温度を保とうとした。が、しばらくするとプツンなのである。無地をしばらくやると飽きてきた。うまくなったのか、わからない。思い切ってかすりをやろうと考えた。のんきなトウさんが着るような、大きな十字絣である。初めてみると、トントンと音がするたびにかすりの育っていくのが見えて、胸の中がざわざわするほどうれしかった。しかし、それもつかのまだった。糸の耳をきっちりとそろえているはずなのに、いつのまにかずれてくるのだ。単純きわまりない十字絣は、やがてT字形になり、さらに織りすすむと、よこ一、とたて一とがバラバラになってくる。手元から生ずるわずかな誤差の集積が、一尺二尺先にいって、大きくみじめな結果をつきつけてくるのである。「機を織っても、これは何の役にもたたないわ」と思った。頑丈な木製の手織機がうらめしくさえ感じられた。しかし役にたたない、どころではなかった。織る人の心というものが、おぼろげながらわかるのである。それは気持にゆとりができてから、ある日、ふとわかったことだった。紬屋に反物を納めている織り子たちは、畑仕事をしている人が多い。野良からあがると、食事を作って子どもを寝かせつけ、亭主の用をたしてやって、それから細いキラキラした絹糸の流れる機の前にすわるのである。楽しいこと、うれしい話を聞いた夜の機もあるだろうし、悲しいこと、いきどおろしいことに胸をしめつけられてすわる機もあるだろう。してみれば、一反の反物にも、あるときは一尺の悲しみが、あるときは一尺五寸の喜びが織り込まれているのではないか。農村に生きる女の、名もないがゆえの裸の感情が、ずっしりとしみわたっているのではないか。 品物をたいせつにしなくちゃいけない  つくづく、そう思った。いや、実は逆から説明してきたのだ。そういう思いに達してみてはじめて「あゝ、機をやってよかったな」と思うのである。たて糸の切れる苦労も、かすりのそろわぬ恥ずかしさも、しろうとであればもとよりのこと。それに声をあげるのは愚かというべきで、織り子の心情に触れるための道程であった。五代目が「機を織ってごらん」とすすめた意味もそのへんにあるのか、六代目月子さんはまだきいてみない。人生には、いちいち問いただしてみないでも通ずるような部分が必要なのである。彼女にも、人に告げぬ部分があった。子どものことである。店にすわり、機にすわっても、母の身は徹し切れるものではなかった。子どもには内緒で小学校の教員室に押しかけ「先生、だいじょうぶでしょうか」と尋ねる場合もいくたびかあった。先生は、最初のうちは「おまかせください」とうるさがったが、あまりたびたび現れるので、熱心に子どもの成長を説明するようになった。また、土曜日の夜になると、彼女は明け方まで勉強するのである。そっと子どもの教科書を引っ張り出し、一週間の間に進んだ課程をたんねんに追っていく。国語も算数も唱歌も、この母は、疲れ果てていながら暗記するのだった。翌、日曜日、彼女は一日じゅう子どものそばを離れない。国語に出ていた話をそれとなく引き出して「お母さんも習ったよ」と話し合い、唱歌を声をあわせて歌うのである。その子も今は高校生になった。せんだって、卒業を目前にして将来の進路を学校できいた。「どう申しておりましたか」と月子さんが先生に尋ねると、「心配いりませんよ。彼はちゃんと決めていますから」という返事だった。「彼は高校をおえたら、どこかのつむぎ屋さんに奉公に行って、三年もしたら、自分の家に帰って働くのだそうです」おもしろい子で父親のいやがる「吉平」という名が好きだ、と言う。月子さんは、胸の奥でかすかに笑った。十七年間あぶなっかしい丸木橋を、母親と仕事の両方にバランスをとりながら渡ってきて、ようやく向こう側が望める地点まで来ているようなきがした。

    つむぎの魅力にすべてをかける

    夫の政二氏は古代裂の収集に打ち込んでいた。日本の国内はもちろん、ペルシャの昔にまでさかのぼる。そのアルバムをたぐっていくと、ハッとするほどモダンな柄があった。新鮮な配色が生命を吹き上げていた。月子さんは、そういう柄や色に突き当たるたびに、よろめく思いであった。日本文化の祖型を、今の世に織りだしてみたいと願う。が、それはあまりに自由で闊達で、いたずらな追従をゆるさない。作家の大仏次郎氏やガラス工芸家の岩田藤七がヨーロッパから図版を買ってきてくれることもある。そこにも時代をこえたデザインや色調を伝えるものがある。彼女はそうした柄や色の海の中で、もがくだけもがき抜くのだ。それから、機の上に表現する柄を決定する。その落ち着く先は、必ずといっていいほど、昔のつむぎや上布を基本としたものになった。いいかえれば、どんなにモダンな柄でも、生命を持った伝統の上にのせないと具体性を持たないのである。紬屋には図案家がふたりいる。彼女と三人で越後上布、結城紬、大島紬、黄八丈の柄出しをする。統計すると一年に千点はだすことになる。ところが、これがパッパッパといかぬときがある。不思議なもので、アイデアが出ないときは、三人が三人ともグッとつまってしまう。ある日、町を歩きながら考えていた。交差点まで来て信号が赤になった。立ち止まって信号機を見ているうちに、あの青、黄、赤の三色をかすりにしようと考えた。後日、大仏夫人から「この人はゴーストップまできものにするのよ」と笑われたが、きものは評判がよかった。日の丸の旗を見ながら、赤い丸を四角にして、さらに変形してかすりに織り込んだこともある。目にはいるもの、なんでもきものの柄であり色である。特にいいものをみたとき「目薬をさした」という。いいものとは高貴なもの、稀有なものにかぎらない。月子さんは、月に二、三度は機地に旅行する。福島県の霊山という山村で、つむぎの糸を専門にとらせている。ここの<糸とり>は「四匁(もんめ)の糸をとってください」と頼むと、機械よりも正確に、真綿から四匁の糸を取り出すのである。秘法もなにもない、指先の感覚があるだけだ。手で糸をつむぐよさは、たて糸を取り出した人と同じ人がよこ糸も取り出すことである。同一人がとったたて糸、よこ糸で織ると、反物が実にきれいに仕上がる。糸屋にもたて糸、よこ糸の仕分けがあるが、それぞれ一反分を買って織ってみるとどうも仕上がりがうまくいかない。糸はそれほど微妙なものだ。反物の生命を半ば決めるといってよい。そこで月子さんは福島にもちょいちょい出かけるが、その帰途、彼女はまっすぐに東京へ帰らず、近在の農村へ気ままにはいっていくのである。それもバスが来たとこ勝負というやり方で、田舎道を揺られ揺られして奥にはいっていく。柄の取材旅行なのだ。バスにおばあさんが乗り込んでくる。よごれた前掛けがすばらしい縞模様であったりする。月子さんは、ノートを取り出してかきこむ。気ままなところで降りて、ふらりと農家の庭先にはいりこむ。「お茶を一杯ごちそうしてください」と言うと、最初はけげんな顔で迎えられるが、やがてうちとけてくると、昔の布地をみせてくれる。夜具、こたつ掛け、座布団などに、おもいがけない柄を発見する。結城でも同じことである。晴れた日の筑波山をみながら何代も前の人が織りなした深い美しさを求める旅である。八丈島へ行った。観光品になっていない黄八丈を買いつけるためである。島にそういう意志を持った人がいて、皇后さまが飼っておいでの蚕(小石丸という)を分けてもらい、島での飼育に成功した。その糸を染めて黄八丈を織るという。ひとりではなく、ある地域で何家族かが織るのである。月子さんはひといだけ条件をつけた。夫婦一組でやってください、夫は桑を育て、妻が糸をつむぐ、そこからできるものを仕入れましょう、というわけである。生活の中からめばえてくるものの正直さがほしい、それをたいせつに育てたい。そういう願いからだった。 黄八丈の黄色には、黄よりももうひとつ先の色がある。これは紅花の紅、紫根草の紫についても同じであろう。化学染 が表現する赤、黄、紫ではない。赤プラス歴史、紫プラス風土、黄色プラス哀歓、ぶどうスラス思い、茶色プラス信仰 そう説明しておこうか 柄の微妙さについても、たとえば亀甲だが、一幅に八十、百、百二十、百六十とはいる。これだけ細かくなると、八十と百ではちょっとみわけがつかない。それで文句をいう客もいる。「あの店では、この亀甲は十万円でしたよ。お宅はどうして十三万もするの」「はい、お客さん、これをお貸ししますから」と六代目は答える。「ごらんのものと比べてきてくださいませ」そばに行って合わせれば、八十の亀甲と百の亀甲は一目瞭然なのだ。風格が違う。これが百六十の亀甲になると、値段は一反が五十万にもなる。だが月子さんは安いと思う。百六十の亀甲がはいった反物の筋は万筋を入れないと、つりあいがとれない。 柄にも位取りというものがあるんだな。高い技術には高い技術しか合わないものなのだ。そこがわかると、そういう高い技術に直面するおのれの心の丈がそら恐ろしくなってくる。勉強は一生のこと。月子さんは、きもののすべてにかけるからだの足りなさを思うのだ。つむぎは新品のうちはふだん着だ。一度湯通しをすると、半分だけのりを落としてくれるから、味の深いものになる。それから外出着である。もう一度湯通しをする。のりが四分の一になる。布地がクタッとしながら、肝心のところでしまっている。こうなると、もうもったいなくてきられない。愛着とはこのことである。この愛着の中に生きて十七年、それを海外の博物館にまで紹介した功績も紺綬褒章に評価された。九月二十六日の十五夜に生まれたから名を月子、下町の才女、四十四歳の年である。

  2. 紬とともに 浦沢月子
    母が大変お洒落な人でして、年頃になった私に、いろいろの着物を着せては、自分の若い時を思い出していたようです。柄を見たてる時、必ず「私もこれに似た柄を着たことがあるわ。きっと似合うわよ」と言って私に着せるのです。実のところ養女である私は母にちっとも似ていないのです。美人で色白で、背が高く本当にきれいな人でした。私はすべて反対ですので、この一言がとても気になって、いつの日かおこった事がありました。母は笑いながら又一言、「似た柄だけど、お前さんに似合うものを着せてるから安心しなさい。」嬉しいのか、くやしいのか、変な親、と私も言い返しました事をなつかしく思います。大島紬は派手な御所車の柄で、とても好きでした。ちびの私は、この着物を着るとスッキリと背がのびたように思えたのです。今になってわかったのですが泥染の持つあの独特な感触だったのですね。他にもいろいろと紬を着ましたが、結城紬を初めて着たのは二十歳位だったと思います。単衣物で、紺地に大きな花の柄でした。藍、黄、草色と独特の色づかいでした。嬉しくて歌舞伎座に行く時早速着せてもらいましたが、なんとしても体になじまず、おまけに博多の単衣帯をしめていたものですから、着物と帯がすれて、ちょっと動くとぎゅっぎゅっと音がして、まわりの人に気がねをして芝居を見る気にもなれず、思わず帰りたいと言ったら「ばかな人ね、着物にまけて」と母が笑い出してしまいました。本当かどうか、よく結城紬は初めはねまきにして、一度洗張りをしてから着ると良いと言われたそうですが、私はその言葉がまんざらうそとは思えません。ただし戦後は糸をつむぐ技術が大層上手になり、細糸で織られるようになったので、湯通しをすればしんなりと程良く張りのある、着ごこちのよいものになりました。昔は糸も太くがっちり織ってあるのが上等品と思われていたのです。こんな話があるそうです。昔昔のことですが、自分で織った結城紬で前掛けを作ってしめていた人が、道々金魚を買ったら入れ物が無いので、前掛の先をつぼめて水を入れ、金魚を泳がせながら家まで帰りついたそうです。水がもれなかったことで、自分はこれ程上手な織子であるとじまんして歩いたとか。もちろん伝え話ですが。戦後、母は亡くなりましたが、死ぬちょっと前に主人が「こんな時節ですので結納の代りにお納め下さい」と、黒地に白と赤の矢絣風の柄を一疋もって母に渡しました。主人の家は当時柏崎でしたので、ちょっとやそっとでは汽車の切符も買えない時代でありましたので、当人が色々仕度をしていても不思議にも思わず、母も「ごていねいに」なんてお礼を言っていました。結婚後、柏崎で披露宴をする為旅行の仕度をしていましたら、主人がカバンの中からその着物を取出し、これは持って行かない方が良いと思うので、おかしな事だなあ、礼儀としても着た方がいいのにと私が言いましたら、実は家の蔵の中から盗んで来たのだと言うのです。私はびっくりしたのですが、母も生きていたらさぞおどろいた事と思いました。絹の統制が解け、父も再度紬屋を始める事になりました。そして私もサラリーマンの妻から紬屋さんのお上さんに変わりました。その時父が、「この上布は古い物で、私が気に入り、なんとなく売らずにおいた品だったが、月子やあんたにあげるよ」と言って下さいました。後で知れたのですが、母や兄に内証で蔵から出してくれたのです。これも又大っぴらに着る事ができず、親子で同じような事をしているものだとお腹の中で笑っていました。ある時、この店で一番大切なものは何かと父に言われ、ハッとしていたら父が戸棚を開けて、反物だと言いました。次にお客様、それから店の人。自分を大切にしたら店はつぶれる、といつになくきびしい顔つきで教えてくれました。あらためて紬屋の嫁になったのだと私は心に言いきかせ、一生懸命やらなくてはと思いました。それでも店に行くようになれば結城紬が着られるのではと心の中で楽しみにしておりましたが、なかなかゆるされませんでした。父も白紬を茶の無地に染めたりして結城は絶対店では着ませんでした。主人はそんな私になんとか着せてやりたいと思ったのでしょう。ある時産地から紺地に赤の立枠の柄を買ってきて、父には短尺があったので安く手に入れたと言い訳をして着せてくれました。その時私から五千円取ったのですが、後でわかったら三千五百円だったそうです。主人にもうけられてしまっていたのです。その後着物は主人の妹に上げましたが、妹とその話をしてはくやしがったり笑ったり。店に行き始めて五年目位でした。明るい紺地に白上がりの琉球絣を初めて私の図案で織ったのですが、まぐれとでも言うのでしょうか評判が良く、追加注文が沢山つきまして父にほめられ、はじめて、あんたも一枚つくりなさいと言われました。自分の作った柄でお許しが出たことに浮き浮きしたものです。そんな事がきっかけで仕事というより、紬と自分がどんどん深い仲になって行き、紬の心を知りたいと思うようになったのでしょう。何年か前、次の間の話し声におやっと思ったのです。お手伝いさん同士で自分の家の話をしているのですね。二人とも結城から来ていたもので、「兄のお嫁さんが決ったよ。百だよ」なんていうのがおかしく思われました。八十とか百とか言うのは、反物の幅に並ぶ絣の数のことを言うのです。こまかい絣の織手が来ると言うじまん話だったのでしょう。二人共小田林と言う所で、同じ結城でも白生地だけを織る所なので絣のお嫁さんは上等だと思っているのです。この様に生活の中にとけこみ切りはなせない結城紬の里はいかに古く、いかに大きく大事な産地かとつくづく思われました。年のせいか歯が悪くなり、気になってしょうがないので知り合いの歯医者さんへ行くことを決めました。その日がなんとも良い天気なので新しい着物をおろし、行きがけに浅草のお寺さんにお参りをしてから行こうと決め、茶地に草色の棒縞の結城を着、洒落込んで出かけました。大変なご機嫌だったのです。そしてお医者さんに着き、診断をしていただいたら、なんと前の歯を四本抜かれ、ふかふかの口をマスクでかくした帰り姿のみじめさ、その後その着物を着る毎になんとなくさびしさを覚えるのです。時々、着物や帯の整理を致しますが、紬類は長く着られますし、それに何度か仕立直しをした方が着やすくなりますので、古い着物の方が大切に思われ、大事に大事に取って置くものですから、なんとなくふえてしまいました。ですから整理をしていると色々の事が目の前の着物と重なって思い出されてきます。不思議なもので一枚ずつの着物に必ずそれぞれの思い出があるものです。子供の進学や卒業式、赤ちゃんから年頃になるまですべての思い出。主人の入院先の病院がよい、親子で出掛けた時の会話、手落ちがあった時、お客様にお詫びした事、友達と楽しい旅行をした事、歌は世につれと申しますが、体を包んでくれる着物はその時の出来事をみんな覚えているようです。私は、いつも帰らぬ昔話を着物と致しますので家の人に笑われることがございます。紬の心を知りたいなんて言うよりも、もしかすると、紬に私の心のすべてを知られているのではと、ふと思う時もあります。
紬とともに 浦沢月子

 

 

 
日本の染織19民芸染織 ・楽しい紬との出会い 浦沢月子 ・
福島の山間の素朴な手紬 福島県に霊山(りょうぜん)という山があります。秋には紅葉の大層美しい所で、素朴な山間の部落です。私がこの山に仕事に行くようになったのは、25年ほど前のことです。ある日、亡父と店におりました時、一人の男が三反ほどの反物を抱えて訪れ、「ぜひ品物を見てください」と言いながら風呂敷包みから紬を出して、父の前に置きました。店にはよくこのような人が見えますので、はじめも適当に返事をしていたのです。ところが、そのうちに父の態度がだんだん違って来て、真剣に話をし出しました。「正直な品物ですね。しかし、この機では店で扱うことは出来ません。どうです。私の言う事を聞いて、糸の細さ、経糸の数を変えて見ては」と父が申しましたら「ぜひ教えてください。どうか細い注意の上で、良い織物を造りたいと思いますので」と言う事で、話はさっそく決まりました。その男の人は喜んで帰って行きました。この人が阿部つむぎ工房の阿部さんだったのです。夜、店から自宅に帰り、食事の後、今日1日の話をしておりましたときに、父が突然、私に「あんた、福島へ行ってらっしゃい。自分の手で始めから作った産地は、細かいところがよくわかって仕事にも面白味が加わり、良い事だ。この際ちょうどいいから、あんたに委せる」と言われました。私はビックリしましたが、すぐその気になったのです。私は、もともと汽車が大好きでした。でも、お嫁に来てから勝手気儘に乗るわけにもいかず、むずむずしていた矢先だけに「嬉しい。汽車に乗れる」と思ったのです。この時の気持をよく思い出すのです。こうして私の福島通いが始まったのです。信夫文字摺りの近くの瀬の上と言うところに、阿部さんの家があります。さっそく私は伺ったのですが、私の想像した家造りと違うのに驚きました。古い家ですが、天井などは大層しゃれており、織り子の向かい側の小窓もちょっと小粋きな形をしていて、何ともこの土地の人の生活と合わない感じなのです。それに気づいたのでしょう。阿部さんは「おかしな家でしょう。昔の遊郭の跡なんですよ。満州から引き揚げて来て、やむなくここに住むようになったのですが」と教えてくれました。それは「昔の遊郭の跡」と言うひとことだったのです。もちろん悲しいだけではなく、楽しい事もあったに違いないとしてもおしゃれに身を包む紬を、そのような所で織っていると言う事です。初めての仕事で緊張していたせいもあるでしょうが、複雑な心境で汽車に乗り、帰って来ました。その後、しばらくたって「自動車が出来たので、ぜひ霊山の仕事場へ来てほしい」という手紙を受け取り、びっくりしました。自動車なんて25年前には大変な事なので、何事かと思いながらさっそく汽車に乗ったのです。糸採りさんの住んでいる所は山間の部落です。急な道が多く、道幅も狭いためにダットサンでなければ通れません。でもダットサンでは力が少し足らないので彼が考えてエンジンをオースチンに変えダットチンという車を造り上げたのです。それに乗せられて、さっそく山に行きました。一軒の家で仕事をして、次の家へ行くときは歩いて行きます。その時、天の方から声が聞こえ来たのには驚きました。「おーい、東京のお上さんと大黒さんが来たよー」びっくりして声の方を見上げると、山の段々畠で仕事をしている人が、隣の山の人に話しかけているのです。平らな畠が少ない山の生活の厳しさと、何とも言えないのどかなさが、ここの人の生活なのです。霊山は昔、南北朝時代に南朝の義良親王をお守りしていた北畠顕家と言う人のお城があったそうです。そこの見張所の事を「滝の坊」といっていたので、今でも名前を呼ばずに代々「滝の坊さん」で通っています。南朝時代から旧家ですから、家造りも立派です。その一間を開放して糸採りさんを集めてくださったのです。糸採りさんは山のお嫁さん達で、朝の仕事を終え、お昼のお弁当を持って毎日通って来ます。小さい子供を連れたり、赤ちゃんを背負ったり、賑やかで楽しそうでした。東京のお上さんと言うのは私のこと。大黒さんは、もちろん阿部さんの事です。白い木綿の大袋に真綿を入れて行き、必ず現金で手間賃を支払って採った糸を入れて帰る、そんな姿を大黒様に見立てたのでしょう。私が山へ行くと、幾日も前から支度をして山の味を御馳走してくれます。そして、必ず新相馬節を唄って聞かせてくれるのですが、私はそれを聞くたびに泣いてしまうのです。50年前に相馬からお嫁に来た人も、3年前に来て赤ちゃんを抱いているお嫁さんも、地理的にもここで唄うのが新相馬節だといいます。本当に実感がこもって、胸が痛くなる思いでした。若い人は別として、50代、60代の人の中には、嫁に来てから一度も山から出たことがない、という人がいるので、ある時、飯坂温泉に招く事にしました。私と阿部さんと時間を気にしていたのですが、夕方になっても誰の姿も見えません。不思議に思って、お料理を詰めて山に行って見ましたら、どこの人も患って寝ているのでびっくりしました。話を聞いてまた驚きました。車に酔っては大変だからと、皆が相談して酔い止めの薬を、3日も前から飲んでいたとのこと。そのために、逆に病気になっていたのです。戦後のすさんだ風の吹く中で、どうしてこんなにまで、すれずに生活していられるのか、しみじみと羨ましく思いました。それやこれやのすべてが、古典紬の風合いを作っているのです。滝の坊さんの風格、山の人々の心、阿部さんの人柄、すべてが織り込まれている紬。信夫山の見える瀬の上の家も国道沿いの明るい場所に移りましたが、変らぬ紬を今日も織っている事でしょう。
ぜんまい紬を織る山熊田の里・浦沢月子・
この里の織物を私の店で扱うようになったのは、それほど古いことではありません。米沢の山村さんと知り合ってから。いや、ここの織物によって知り合ったのですが。家庭画報の仕事でこの織物を取り上げることになり、山村さんにお願い致しましたら、すぐに御返事をいただきましたので、カメラの杵島先生と米沢に参りました。車で日本海に出る道を走り出しました。海辺に出ると景色はがらりと変わり、なにか山に行くという気がしませんでした。右側は道側までせまる山、佐渡ヶ島が見える日本海。鼠ヶ関と言う所を通り過ぎ、佐渡が後に見えるようになり、それから先の温海温泉に着きます。そこから山に入るのですが、本当に山だけの道。麻耶山のふもとの三つの部落を通りすぎて新潟までもどった所に、新潟県岩船郡山北町山熊田と言う部落があるのです。車から降りて、まわりの景色を見て驚きました。家のある所だけが平らで、まったくの山の中でした。山村さんに「浦沢さん、ここは僻地五級なんですよ」と、話しかけられて、びっくりしました。私は僻地に一級、二級の有ることも初めて知ったのです。山の仕事が6割、熊撃ちが3割、田の仕事が1割と言う、この土地の生活から山熊田と名付けられたそうです。32戸、150人の人が、外の人との交流はまったくなく、全部が家族同様に暮らしている姿を目の当り見て、不思議なほど親しみを感じました。それと言うのも、かたくなまで外部の人を受け入れないここの人たちが、山村さんだけは信用していることなのです。いったん心をひらくと人なつっこく、初めて合ったとはとても思われないほど親切なのです。私の顔色が悪いから風邪を引いたのではないかと、先まわりをして薬を作ってくれました。もちろん無医村のこと、野草とか、木の実、草根などで、あらゆる病気の薬をたくわえてあるそうです4月の末あたりから、近くの山へ入って、ぜんまい摘みを始めるとのこと。時には夫婦で山へ登って一夜、山の中で過して、ぜんまい取りをすることもあるといいます。1シーズンに、一人がおよそ20貫くらい摘み貯めをするそうです。去年の残りと今年のをまぜると色が違ってだめだそうです。温度とか、雪の深さで、毎年綿毛の色が異なるとのこと。自然はあくまでも自然ということなのでしょう。「浦沢さん、今度は5月にぜひ来て下さい。山がきれいになりますから」そう言われましたが、その頃には熊も出る季節なのでちょっと考えているところなのです。また山の中なので、言葉も相当難しいのではないか思って行きましたが、とても可愛らしい、きれいな言葉なので驚きました。山村さんにそのことを申しましたら、平家一族の落人部落だそうです。それでわかったのですが、お料理の味付けなど、とてもていねいなものでした。さて、製品ですが、普通の紬と違って、ぜんまいの綿毛がちょっとウール地のような地風を出しています。色も、こげ茶の綿毛が緯糸にからんでいますので、モダン味さえ感じます。私共のお客様も無地に縫紋をしてお茶事等にお召しになっていますが、とても織面に風格があって上品な紬です。ぜんまい紬とひとくちで言ってしまうより、夜は「山熊田の紬」と心に言い聞かせております。
しっとりとした琴糸織・浦沢月子・
山熊田へ行く途中の道を温海町から山に入って一番初めの部落、関川と言う所で、琴糸の帯を織っています。日が暮れており、ただただ暗い山道を右に左に曲りながら、どれほど走ったか。やっと灯りのついている家の前で停まりましたら、ここが山菜料理で有名な旅館とのことでした。お魚はもちろん、やまめと鯉ですが、数々の山菜のおいしかったこと、今でも覚えています。湯上り食事で体もあたたまったので、そのいきおいで寝よう思いましたが、寒いこと。これも一生忘れられないでしょう。11月でこの寒さでは、冬になったらどれほどの厳しさかと、東京に住む幸せをしみじみありがたく思ったものです。朝、まわりの景色を見ましたら家がほとんどありません。きれいな川をはさんで、ポツリポツリと家が建ち、そこで琴糸ほぐしたり、織ったりしているというので、さっそく尋ねてみました。山村さんの指導よろしく、お行儀のよい仕事ぶりに感心しました。大きい産地の織子のように、織機置く部屋と言うのはなく、急造の織場という感じでしたが、人柄が素朴で心安く話すことができました。ほぐした糸はふたたび米沢に持ち帰り、染め上げてからここの織に掛けるといいます。山熊田の糸もすべて米沢で染色するそうです。山村さんの仕事も大変なことで、雪が降り出すと山との行き来が止まってしまうので、さぞ御苦労な事と思います。私はお琴に触った事はありませんが、とても親しいお嬢様でプロ級のお方がいらっしゃいます。家の近くでまいりますと、必ず優雅な音が聞こえますので、あっ御在宅だな、なんて思ったりすることもあります。また西洋館の窓から聞こえたりすると、ハッと思いますが明治時代にはこんなこともあったろうなんて一人楽しむこともありました。いずれにしろ、老いも若きも、女心を楽しみ、生活にうるおいをもたらしてくれるお琴、そして使い古した糸が、北の山国の人の手によって、もう一度女の人を楽しませてくれる。琴糸の事を考えると、ふと、もの悲しさがこみあげてくれるのを、どうしようもなく感じることさえあります。一生、いやその後も人を楽しませるために永遠に生き続ける。とてもいとおしくさえ思います。なんとも言えないしっとりとした感触は、もうあの調べに身をふるわせることもなく、女の人を美しく見せるためにただ、だまっている。琴糸ならではのものと言えましょう。
伝統が生きる黄八丈・浦沢月子・
日本中、どこかで織られている紬。紬というと、なにか地方でなければと思われがちですが、東京にも立派な紬がございます。それも確かな歴史を持ち、日本中に有名な紬。八丈紬、ごぞんじ黄八丈です。海の向こうとはいえ、東京都なのです。車のナンバーも、もちろん品川。私は、店の仕事が少しわかるようになった頃、黄八丈を扱いたいと申しましたら、父に反対されました。もう少しの間様子をみてからと言うのが、父の考えだったのです。それから何年たっても許しが出ずじまいで、父は亡くなってしまいました。そのうち私も忘れかけてしまっていたある日、島の人で笹本さんと言う人が店にみえ、「私達11人で、島の物産である黄八丈に命をかけて行こうと思う。それにはお店の力をぜひ貸してほしい」といわれたのです。私は、1も2もなく島へ行く約束をしてしまいましたが、ふと、父の言葉が思い出されて心配になったのです。でも約束ですから、出かけました。飛行場に笹本さんが出ていてくださったのでひと安心。すぐその足で町役場に行き、町長さんにお目に掛かり、島の状態をよくお聞きしようと思ったのです。その時の話で、笹本さんの織っている黄八丈は大層すぐれており、正直に伝統を活し、守っているとのこと。ほっと致しました。自宅にもぜひ寄ってくださいと言われ、たちよりましたら、奥さんが一生懸命に織っていました。初めて合った人とは思えない人なつっこい家族でしたので、私はすすめられるまま御飯をごちそうになってしまいました。取りたての飛魚のお寿し。八丈芋の煮物。初めての家で、どうしてこんなに心やすくいられるのか、不思議に思われました。いろいろな歴史や伝説は、すでにごぞんじのことでしょうが、関ヶ原の武将宇喜多秀家のお墓に参りました時、ああ、鳥も通わぬ八丈ヶ島に私はいるのだなあっと、つくづく思いました。笹本さんが後から、「紬屋さん、八丈には本土と比べて無い物が三つ有るんですが、おわかりですか」と言われて、ちょっとわからず考えていましたら「泥棒とバーと信号ですよ」と笑いながら話しましたので、私も気にして見ましたが、本当にないので驚きました。その後、八丈通いを何度かしているうち、役場の近くに信号が一つでき、ローヤルホテルと言う大きなホテルが建ち、また少し経って行きましたらバーにちかいものができ、この頃では役場に駐車場ができて、いつも車がいっぱい。したがって信号も沢山になり、笹本さんの自慢はなんにもなくなってしまったのです。前に八丈芋の話が出ましたが、奥さんは料理がとても上手で、私はホテルより奥さんの手作りでいつもお腹を満しているのです。去年、家庭画報の取材旅行で、津村節子先生のお供をした事がありまして、相変らず、笹本さんの家に御案内しましたら、先生もすっかりお気に召して、朝昼と御馳走になりに参りました。津村先生と言えば、食通としてよく知られていますが、御本をお出しになりましたときにも、笹本家のお料理の事をお書きになりました。話が外れましたが、仕事は骨が折れるばかりではなく、必ずどこへ行っても楽しい事が待っているもので、私は紬、いや仕事が大好きです。