1. (2013年)
    読谷山花織 (よみたんさんはなおり) 沖縄県 現代編集2016北村陵

    沖縄の花織は昔は「花織」と書いて「はなうい」とよんだというが、そのなめっこく優しく、そして懐かしい発音が印象に残った。沖縄には実に多種多様な染織がある。染物では華やかな彩りの美しい紅型がまず代表的なものである。織物では琉球絣、久米島紬、宮古上布、八重山上布、芭蕉布などそれぞれ個性豊かで魅力的だが、そのなかでもひときわ異彩を放っているのが花織である。ひとことで言えば花織とは花柄を織りだした美しい織物である。花柄といっても写実的な花模様ではなく、いわば点で表現した花柄で、紺地に白糸で柄を表したもののなかには、花というよりは星のようにみえるものもある。それほど単純化、抽象化した柄でいかにも南島らしい雰囲気を濃くもっている。花織の魅力は、可憐としかいいようのない小さな花形の模様と、その配色や模様のかたちから発散する南島らしい雰囲気にあることはいうまでもなく、手にとってみればわかるが、なんともロマンにあふれた織物なのである。その産地は本島の読谷(よみたん)、首里のほか、与那国島、竹富島などだが、なかでもよく知られているのは読谷の花織で歴史も古い。それぞれ産地によって違いはあるが、かつて読谷花織の着物は、琉球王府の御用布に指定され、首里の貴族と読谷の人々以外の一般庶民は、花織の着物を身につけることが禁じられていた。花織はそれほど手のこんだ、贅沢な織物だったわけである、したがって、読谷の人々に花織の人々に着用がゆるされていたといっても、日曜着などではなく、儀式用というかフォーマルウエアの役目をもっていたようだ。一般の庶民にとってみじかな花織といえば、そうした着物などではなく、手巾(ていーさーじ)とよばれる華やかで小さな布だったのである。

    花柄を織りだした美しい織物、それが花織である。しかし、花織という言葉には、極めて漠然とした部分があって、花柄のように見える幾何学的(きかがく)な模様を織りだしたものを花織と称したり、模様のある織物の総称として用いられることもある。現在、一般的にいわれる花織はもう少しせまい意味で使われ、浮織とも、縫取織(ぬいとりおり)とも呼ばれる技法のものをさしている。これは平織りに色糸で模様を織り出すわけだが、その模様を表現する色糸が地より浮いて見えるので、浮織の名がついた。模様に立体感があって華やいだ印象があるため、琉球王府が御用府として独占したと思われるのである。もっとも読谷の人々だけが例外だったが、それはあまりに苛酷にするよりも、産地を優遇して織手を育成しようとしたのかもしれない。首里の王府では、読谷の女性たちを首里の読谷御殿や王府に招き、王家用の花織布を織らせたというが、読谷の人々に花織の着用を許した背景には、そうしたことも影響していたのかもしれない。縫取織と呼ばれたのは、裏側に縫取った刺繍のように糸がとんでみえ色糸が遊ぶ。そのことから裏糸を綿に見立てて、花織の袷の着物を「綿衣」(わたじん)と読んだという。古い琉歌に「んじゃれがな分かち、布になすばかり、花やしらみも、織りどしゃべる」という一首がある。その意味は「乱れもつれた織糸でも解きほぐして、布に仕上げるほどの私です。むずかしい花織でも、やしらみ織でも、織りましょう」というほどのものだ。花とは花織、やしらみ織とは二色の糸で小さな市松模様のような地文を織り出す技法である。この琉歌がいつ頃のものかはっきりしないが、花織はむずかしい技法ながら、すでに広く行なわれていた。

    いったい読谷山花織は、いつ頃から織り始まられたのだろうか。その起源について伝える文献は確認されずはっきりとはわからないが、およそ、五百年ほど前から織り始められたのではないか、と考えられている。14世紀の沖縄は国が乱れ、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)、北山(ほくざん)という三つの領国に分かれて、相争っていた。ところが15世紀になると、南部の佐敷から出た豪族<尚巴志 しょうはし>によって三山が征覇され、沖縄が統一されたのである。そうした一方、それまでストレートに吸収していた中国や日本、南方の文化を、沖縄人たちは自らの風土と伝統のなかで消化し、沖縄らしい文化として育て、発展させていった。花織もそうしたものの一つと考える。絣の技法は南方から伝来したものであり、浮織の技法は中国から伝えられたものだ。沖縄人たちは、それらの技法を身につけると同時に、自らの織物へと工夫を重ね、花織という独自の織物を生み出した。そう考えてほぼ間違えないように思われる。沖縄本島の中央部に、東支那海へ突きだすように連なっている半島がある。半島の突端が残波岬(ざんばみさき)だが、その半島のほぼ中央に読谷山、座喜味城(ざきみじょう)があった。現在は石組みの城壁を残すのみだが、護佐丸(ごさまる)が読谷山按司(領主)として長年経営し、経済力を蓄積してきたところである。座喜味は丘陵地で、眼下に読谷の外港、長浜が見渡せる。その長浜が良浜だったために、古くから読谷は中国や南方との貿易の盛んな土地だった。護佐丸もまた対外貿易に力を入れ、その実をあげたのだろう。同時に、南方の文化も多く伝えられた。それらが花織や芸能、焼物などに結実したわけである。花織については先に記述した通りだが、芸能ではいまも長浜に「南島踊り」(はえのしまおどり)が伝わっている。これは毛髪を赤く染め、腰蓑を巻いて踊るもので、いかにも南方らしい扮装である。また喜名には南蛮焼の窯跡もあるし、さらには長浜丘陵から残波岬にかけて南蛮焼が出土している。このように読谷は古くから南方文化の影響を強く受けてきたわけである。花織は約五百年前、シャムの難破船が技術を伝えたともいわれるが、むろん正確にはわからない。いずれにしても、中国や南方などの交易の中から生まれた、ユニークな織物であることは間違えない。

    読谷花織の技法だが、もっとも原始的なのは「ティ・ファナウウィ」(手花織)と称されるものである。これは地機の頃から行われていた織り方で、綾竹と呼ばれる竹ベラを用い、手綜絖で花柄を織り出す。つまり、経糸の間に綾竹を割り込ませ、手で持ち上げて開口し、その上糸と下糸との間に緯糸を通して織り、花柄を表すわけである。やがて綾竹にかわって、紋綜絖が用いられるようになる。紋綜絖の操作によって花柄が織りだされるので、これを「ヘイ・ファナウウィ」(綜絖花織)という。現在、首里などで織られている花織は、この方法によるものだ。ところが読谷の花織はちょっと違う。紋綜絖を用いる点は同じだが、地は紺で、そのうえに白、赤、黄、緑など特別な浮糸を緯に通し、華麗に織りあげていく。浮織ともよばれているが、その特徴は模様をあらわす糸が地より浮いており、その糸が裏面で遊んでいることだ。浮糸は模様に応じて設計され、これを打ち込むために操作する綜絖は、同じように模様に応じて付け加えられる。大綜絖、あるいは本綜絖といわれる地の綜絖のほかに、手綜絖(くり・ひやー)、傍綜絖(わき・ひやー)などの紋綜絖を用いるわけである。柄の種類は銭花(じんばな)、扇花(おうじばな)、風車(かしまや)の三基本をもとに、三十数種類の幾何模様のような花柄を生み出し、さらに絣や縞、格子をも組み合わせたものが多い。花織と絣とを併用したものは「花結い」とよばれるが、これは花織の花と絣の手結いの結いをとって、名づけられたといわれている。花織のなかでも最上とされたものが、花織の組織とを併用したもので、これは「花倉織」とよぶ。絹の無地だが、かつては王家一門しか着用が許さないものであった。ティ・ファナウウィ(手花織)はあまりにも原始的な方法であり、商品の低いものしかできないとあって、過去のものになりつつあるようだ。もっとも、すべて手で操作するだけに、熟練者の手にかかると、おもしろい味わいがうまれるといわれる。しかし精緻な美しさをむらなく、いつでも同じように表現するにはヘイ・ファナウウィ(綜絖花織)のほうが、はるかに優れていると私は思うのである。

     

    読谷山花織りの花のねがい意味

    ジンバナ<銭花>(じんばな)=裕福をねがう   
    オージバナ<扇花>(おうじばな)=子孫繁栄をねがう
    カジマヤーバナ<風車花>(かしまや)=長寿をねがう

    上記にしるすように三基本になる柄の種類

    花織りは、織り手の想いを込めたこの三つの模様が基本として存在

    写真は美しい花柄が特徴の紋織物(読谷山花織 小物)

    読谷の花織は、主に「ツワーボーイー」(上羽織)や「デインクヮー」(袖なし)などに用いられたという。上羽織は打掛けのようなもので、婚礼や米寿の祝いなどの儀式用(フォーマルウエア)だった。日常的なものではなく、ついでに織られるティーサージ(手巾)が庶民にとって身近な花織だったのである。この手巾は手拭のような小さな布だが、ふつうの手拭とは異なり、もっぱら女の肩や髪にかける衣装的なものである。「ウミナイ・ティーサージ」(祈りの手巾)とか「ウムイヌ・ティーサージ」(想いの手巾)と呼ばれたように、花織手巾は沖縄の娘(みやらび)たちが祈りと想いを込めて織り上げた真心のしるしであった。ウミナイ・ティーサージは娘たちが長い旅に出る大切な人、たとえば父親や兄弟のために、道中の安全を祈って織り、賜ったものだ。いわば道中のお守りのようなものだったといえる。一方、ウムイヌ・ティーサージは自分の意中の人のために、胸に秘めた想いの丈(すべて)を込めて織り上げ、賜ったものである。とくにウムイヌ・ティーサージの場合、若い娘たちは赤や黄、緑などの彩りや華やかに、情熱を傾けて織り上げた。それというのも恋する男性に賜り、それを受け取ってもらえると、結婚を承諾したことになっていたからだともいわれる。娘たちが情熱を織り込んだのも必然というか当然だったとおもわれる。花織手巾は、それだけのためにわざわざ織られたものではなく、着尺地などの余りとして、ついでに織られたものなのである。一反の織物を織り上げるとき、あらかじめ一反分より長い経糸を機にかけて織り上げる。結城紬も同じように若干ながくのべてハギレやサンプル生地をこしらえることも多い。このあと、その余分の経糸(二尺ほどの長さ)を使い、自分の好みの柄を入れて花織を織った。このさい一反分の織物は、花織の場合もあったし、縞物の場合もあった。織り上げた一反分の織物は自家用になったり、売られたりしたわけだが、余分の経糸で織った花織は織り手のものになった。そのため、この花織手巾一枚を完成させるには、様々な工夫をして丹念に織り、織り上げたあとは近隣の人々にみせて自慢をしあって楽しんだといわれる。素材は古くは芭蕉、麻、絹などで、木綿が普及すると木綿が主流となった。現在は絹が盛り返している。

    花織手巾を賜る習慣は、読谷地方では明治三十年代まで続いていたというが、その後、花織そのものが途絶え、約八十年後に復活するまでつくられることがなかった。おそらく花織が滅んだ背景に衣生活などのがめまぐるしい変化を迎え、需要がなくなったためであると考えられているが、戦後にはすでに幻の織物になってしまっていた。読谷の座喜味城(ざきみ)の城跡からは、長浜港のおだやかな眺めが展望できる。東に眼を転じると、かつて山賊(へーれー)が出没したという多幸山の緑が迫ってくる地形である。数年前、戦場になったとは、信じられないほど平和な風景がのこる。ところが太平洋戦争中は、座喜味城跡が高射砲陣地となったために米軍の格好の攻撃目標となり、読谷は戦火のなかで大きな犠牲を払うことになった。しかも、昭和二十年四月一日から三日にかけて、米軍が二十万人を越す兵力で沖縄本島に上陸した際、読谷は嘉手納、北谷とともに、その第一歩をしるした土地でもある。戦火がおさまると、読谷の人々は、ふと伝説の中に埋没しようとしていた花織のことを思い出した。その復活を思いたったのは当時の読谷村長<池原松徳>氏である。先祖の偉業をたたえると共に、技術を受け継いで村の殖産事業として発展させたい、というのが、その動機だったという。池原氏は何人かの高齢者に花織の復元を依頼した。だが、これまでに花織を織ったことのある人はいなかった。そこで池原氏は、疎開先から帰省した与那嶺貞さんを口説いた。与那嶺さんは婦人会の活動家だったし、首里の女子工芸学校で四年間、機織りを学んでいたから、まさに適役だったのだろう。近隣の年寄りを訪ねては花織について話を聞き出し、おぼろげな話を頼りに、とにかく織ってみた。ところが、昔の花織のような美しい織物ができない。第一、花柄が織り上がりに浮きたたなかった。やっとの思いで、娘時代に花織を織ったことがあるという老女に出会い、その手がかりをつかむことができたのである。三ヶ月かかって老女が織り上げた花織を前にして、二人は手を取り合い、涙を流して喜んだという。だが、それで仕事が終わったわけではない。花織は復元できたが、それを誰でもが織れるようにするために、理論を組み立て、柄の設計方法を確立する必要があるのだ。さらに三ヶ月、与那嶺さんの苦労が続き、昭和三十九年にやっと完成したという。幻の花織が、何人かの読谷の有志の手によって、蘇生したのである。昭和四十年に発足した読谷花織愛好会によってティーサージは織られ、昭和四十八年三月には、沖縄県の無形文化財に指定されたが、与那嶺さんはそれを契機に本格的な後継者を育てる決心をした。生産量は少なく、沖縄県以外でみかけることも少ないかもしれない。しかし、一筋の織りは、情報少ないく老女から与那嶺さんへそして次の世代へと沖縄の歴史とロマンを織り込んで輝くばかりに美しく、そしてあたたかい。花織は真心の織物とも、情熱の織物ともいわれるが、まさに真心と情熱なしには織れない織物に思える。二度とふたたび「幻の花織」になることはないだろう。