織物の本質

 

本場結城紬の中古市場が盛り上がっているというようなことをお客様から頂戴することがある。本当のことなのかどうか私にはわからない。ただ一つだけ言えることはある。それは名前や名称を変えていたとしても中古である以上、スムシがくってしまっているのではないかという点が完全には拭い去ることができないので極めて危険であるということである。地元の結城に住むものはまず中古の結城を先祖の結城を入れる桐箪笥とは同じには少なくともしていない。スムシについては古い着物にひそむことと、もう一つ特性があるためである。木綿は虫がくわないので安全ということをよくみみにするが勘違いも甚だしい。特にスムシは天然の素材につきやすく、さらにはしっかり密度のつまった素材にもくってしまうことがあるので予断は許さないのである。

用の美とか普段使いをうたうことはいいことかもしれない。だが腹のなかではそうは思わないのが人間である。偉人、柳宗悦(やなぎむねよし)や白洲正子(しらすまさこ)も提唱してきたことや言っていることは嘘ではないことは確かであるが、もともと織物は使いこんださきはやぶれるし、うつわにしてもかけるからいいのである。そうした基本的なものの見方を彼らは忘れている。後世に伝えるために佳品を残すことも意味はあるだろう。だが述べたように使う以上は必ず壊れるのである。つまり普段使いの良さや用の美といいつつ最初から避けているのである。

本場結城紬について記憶にとめて置きたいことがある。糸不足が深刻であるという。だが私はすでに見学にお越しになられた方には本当のことを述べて解説してきている。全行程でそれはおこっていて現実や前例がいままでの歴史になかったことはいえない。すでに前例がある。いつの時代でもそれはおこっていたことであり、いまさら危機感を覚えるという方の発言がどうも私には信じられない。本当に危機感を抱いている人はすでに行動へうつしていて、危機感と発言する暇もなければ、考える時間すらない。だからこうしたことを発言する人は私は現実をみていないと思う。

箇条書きになってしまった。最後に、私はとりわけ人より優れていることや能力が何もない。絣にしてもスピードがあるわけでもないし高級品も作ってこなかった。私の受賞作は絣の応用技術は知っていても用いていないし、誰でも生産できる基本的な基礎を覚えればすぐにでも再現できるような作品たちのなかで生産してきたのである。絣くくりの職人はいままでの集大成という意味で極上品を作る傾向があるが私は生産者がいなくなったりできなくなった途端に骨董品になるようなものは作ろうとは思わない。骨董品では意味がない。あくまでいつの時代でも誰でもできるような技術でそのなかでたんに技術の精度をあげていくことだけが本質的に求められているように思う。優秀な技術者ほど、みえないところに労力や手間をかける。それから技法じたいは簡単に公にする。水の湧く場所は教えます、ただし汲むのはあなたですと。それを実行するかどうかということをいつの時代にも投げかけているだけなのである。だから一流の生産者をよくみなさいというのである。

 書き手 染色部門 伝統工芸士 北村陵