多忙を極める2018.5.27

2018年、生産者は多忙になり、特に国の重要無形文化財技術保持団体会員と伝統工芸士の二つを保持する職人は私のような気ままな読書は多忙により不可能ではないかという考えに至っている日曜日である。玉ねぎや麦がとれる時期に私はコツコツと調べているのである。ここにきて改めて、一度情報を整理する必要も出ている。多くの役割を持てば今活動しているのはなんの活動かもわからずに指導者として加わり、情報を整理しきれなくなっているのは想像にたやすい。そこは私がバックアップすべきであると考えている。さて私の解釈でよければ現代編集を行う。下記になる。

 書き手 北村陵

(経済産業大臣指定伝統的工芸品結城紬染色部門伝統工芸士)

 

いしげ結城紬

 

 

沿革

下館(現在 筑西市)を約南のほうがくへ進むといしげ結城紬の産地である。旧名称は結城郡であるが現在は常総市である。以上を踏まえて沿革とする。石下地区で木綿織が生産されるようになり、明治の中頃から関東各地に販売されるようになったので県が特産品として力を入れ、繊維試験場を設けた。同試験場の技師が織物の新製品開発に積極的で、明治41年に、綿と絹の交織の織物を編み出した(ちなみにこれを とよだ紬と言います)。これがいしげ結城紬のおこりであり、これに伊勢崎、足利の技術を取り入れ本場結城紬に似せてつくられている。現状では普通結城紬として販売されている半自動機械織物の紬である。

年間額 調べ

昭和47年 16億円

昭和48年 21億円

昭和49年 23億円

昭和50年 42億円

となる

 

生産者団体

結城郡織物協同組合

茨城県結城郡石下町

 

 

本場結城紬

 

結城紬は、その昔「常陸紬(ひたちつむぎ)」「常陸綾織」「常陸アシギヌ」の名で諸国の名産のひとつとして知られていた。結城七郎朝光が、幕府や管領に常陸紬を献上品としていたが、慶長7年(1602年)に結城紬とその名をあらためた。結城紬を育成してきた結城家は、18代秀康のとき、越前福井に移封となった。その後、初代代官の伊奈備前忠次(いなびぜんただつぐ)「・この時代における国土交通省みたいな大臣さまみたいに覚えてください」は、治山、治水、産業振興に深い見識と技術をもっていたので結城紬の改良を行った。主に高機織り結城紬は現在の上田紬(信州紬) 『私の意見ですが、現在だと、小岩井さんの織元が見学に向いています。私は一度見学させてもらいましたが趣があります』から織工を招いて、絣はいしげ結城紬と同じく足利(栃木県)や伊勢崎(群馬 絣の産地 伊勢崎絣)を導入し絣開発が進む。さらに信州紬(長野県)から招き染色の改善と柳条の織法を指導したので本場結城紬はバブル期に女優、吉永小百合演じる高視聴率『鳩子の海』により伝統産業が低迷する中、盛り返したことのある稀な伝統産業となった。主に、現在指定されているものは伝統的工芸品、国の重要無形文化財、ユネスコ無形文化遺産とそうそうたる栄冠を支柱に収めた関東を代表する紬となっているのである。明治時代には大衆品として親しまれ、大正時代末期には緯絣が考案され、経緯絣も考案された(私が細工絣とよんでいるものは単に亀甲絣だけでなくその他の絣技法も指しているためですが通称タテヨコ絣も細工です。厳密にはもっと専門的ですがここでは述べませんが参考記事を貼り付けます 絣の技法まとめ)販路はさらに広がった。特に郷土資料もその内容は極めて本質的な編集が行われており(2012年、結城市郷土資料を私はまとめてみました。現在市販されているようですが、当時あまり知られていないマニアックな資料でしたその年に半年かけて結城紬の資料をまとめました。その記事を参考記事としてリンクしておきます。情報量はヘヴィ級のため気をつけてください。)

 

リンク先 結城市史第六巻

 

年間額

昭和48年  48億円

昭和49年  48億円

昭和50年 50億円

 

生産者団体

本場結城紬織物協同組合(茨城 栃木)

 

 

備考情報(追加記事)

慶長6年(1601)、」縞模様を織り出して発展の礎を築く。これが産地問屋が昔、縞屋(しまや)と呼ばれる元になっている。現在はウィキペディアには掲載削除になったようだが、記憶では別名、柳条屋、とも書いたと思う。記憶が定かではないがこれに似た名称であれば産地問屋をさす。(現在の本場結城紬卸商組合に加盟している者たちが該当)。農家の副業として農閑期に作られていたが専業従事者がいっきに増加したのはのちに掲載するが国の重要無形文化財指定の年のあたりであり1980年まで年間生産反数は増え続けていた。結城紬の特色は、藍染による紺と白の絣模様の美しさである。絹の持つ豪華さと素朴さとがあいまって着ればきるほど丈夫になり真珠のようなうちにこもった光沢がでる。(*茨城の指導所がなぜそうなるのかを研究したが結果はなぜ光沢が出るのかがわからなかった)もともとは普段着でいかにも素素にみえるところから鎌倉時代に武士に好かれたのである。一時は、江戸三大改革の倹約令によって生産の危機に直面するが外見上、絹に見えず木綿にみえたためにまのがれていた。その当時の生産方法は、経糸(たて糸)に木綿を用いて、緯糸(よこ糸)に手つむぎ糸を用いて生産されていたのである。本場結城紬は糸質強靱、染色堅牢(染色して太陽光に光を当て続けても変色がほとんどないという堅牢度(けんろうど)に強い染めをしている、製法精緻で雅趣に富むばかりではなく生産方法が直綿、紬糸、染め、織りと一貫作業工程を旧来のまま守り通しているところに人は惹きつけられるのである。生産地域は鬼怒川沿い、栃木県は小山市、南河内町、国分寺町、二宮町、上三川町、五市町、茨城県は結城市、筑西市、下妻市である。(関城町、八千代町、三和町と言ってもどこだかわからないと思うので市でいいました。)昭和28年、茨城県無形文化財指定、昭和31年、国の重要無形文化財指定、昭和52年、通商産省の伝統工芸品に指定された。(この頃、現在と違うところは伝統工芸士は国家資格だったものが格下げになり国家資格ではなくなっている点であり伝統工芸士の木製金属製の証明の盾が通商産省の職人は国家資格時代と非常にレアでありますが、さらに面白いことに伝統工芸士は初期段階では、あまりにも人数が多く地域ごとに決まった人数で順番制度で取得していたために伝統工芸士をとりそびれてしまっている方が多かったのであるが現在は自由である。このあたりはマニアックすぎてウィキペディアに掲載されていないのではないかと思います。

追加

久米島紬:沖縄には4世紀頃に南方貿易によりインド系の製織法が伝えられた。その後、久米島を中心に絣技法は発展し、本土に伝播されて大島紬、久留米絣などの基礎となった。この日本最古の絣織物は、沖縄の立地、風土を背景に草木染、泥染きぬた打ち等の古来技術を守り続け製造工程もすべて手作業であり結城と同じく機械化はされていない。(いしげ結城紬ははぶく)

書き手 北村陵