絣の最新型カスラー

本場結城紬の特殊な道具は常に手わざを基本として技術屋がその対応に答えるというシステムであった。カスラーと呼ばれている絣のタテは経緯絣のために製造されたと言って間違いないと私は判断している。亀甲のベタや十字絣のベタなどの総柄であれば、緯(ヨコ)の道具で済んでしまうことが絣職人にはわかっている。繰り返しのパターンの配置の絣は応用する必要はなく、タテ、ヨコ共に同じ道具でできてしまう。本来こうした基礎となる技法解説はいわば全盛期をすぎたベテランが担わなければならない。中間層や若手は技法を覚えることに必死であり、技術習得の本質をつきはじめている。だがベテランの世代はどのようにして説明していけばいいのかという理解にかける。どのくらいその質問者が情報を蓄えていてどのような技法が得意であるのかを指導者が把握し、分業制で適材適所の人材を民間に排出しなければならない。ベテラン世代は自分より年下のものを指導した経験に乏しく時代背景も当然異なる。はじめに見た映画が極道の女や七人の侍というのと、スティーブンスピルバーグの映画というのでは当然、抱えてきた時代の快楽と風景は違うのである。ここに着目できるのが、織元の後継者となる。だが肝心の織元の後継者はこの道をはじめから職業にしていない。親世代は、この職業では食べていくことは容易なことではない、と助言した確率は極めて高い。そしてその助言は当たっている。私はこの道を選んだ理由は極めてあっさりしている。気質があうあわないの問題で判断した。私は自営業に適していると判断した。

絣の道具の変遷について述べよう。まず絣は沖縄(琉球王国)から伝播して全国へ拡散していったのである。裸電球で夜も仕事ができるようになったのはまだ近世代に該当し、それ以前は太陽と共に暮らすという極めて健康的なもので天候の良い日に屋外で絣作業をしていたと考えられる。つきつめるところ草木染は野原や田んぼなどに生息した植物を用いて、その染色方法は遡ること平安時代の紫式部や清少納言などの貴族によって急激な染色方法の発展が現在の草木染の基礎を築いている。平安時代は染色するという行為そのものが財力と色彩感覚が天性のものの貴族に限られていた。染色は莫大な研究の上で成り立っている。化学染色はヨーロッパの研究者がインドの藍染のあつい国で染め上げられる色彩、つまり藍染による濃紺の再現を化学式で導き出すことこそが染色大国をインドから欧州へ覇権を奪うことにあったのだろう。

さて絣であるが本場結城紬のタテ枠は木製からやがて精緻な高級品を生み出すようになった昭和時代、改良が重ねられたのである。木製より精緻な絣を生み出すのは金属製にする必要がった。さらに左に掲載しているのが東京大学の研究者でも研究しきれていない研究ではないだろうか。絣の精度は高い集中力と持続性、経験値に内包されている。さらに道具が改良されれば絣の精度は飛躍的なものとなる。極めて正確な絣を生み出す職人を私は探す必要があった。博物館に勤務するものは書籍や文献、現在をつなぐものを調査しはじめているが、それは技術者がいてはじめて意味をなすことを忘れてはならない。机上の空論とは本来、そこに意味がある。

さらに叙勲者の織元を私は調査したが、時代が止まってるかのような錯覚を引き起こす。結城紬の織元にはこうした空間は少なくない。下記に記すが、このはかりを見ていただきたい。駄菓子屋という昭和世代なら気がつくがこれは昔の重さを測る道具である。現在私は重さの正確さは電子天秤を用いている。0.01gの精度を必要としていた。これが計算の上で最も正確な重量や糸の太さ(デニール)を導き出すが小数点から1〜3デニールは当然、結城紬の場合はケバやゴミで狂いがうまれ、そうした最新の研究機器は必要はないと私はみている。そして下記のはかりは高山でも正確な重量を導き出す。富士山の頂上でも狂うことはない。こういうものを職人技と呼ぶが現代では骨董品で生産されていない。余談となった。さらに私は研究を続ける必要があるだろう。

映画記録保存センター および 東京大学研究室 様 あて

経済産業大臣指定伝統的工芸品 結城紬 染色部門 伝統工芸士 北村陵

2018.7.14.