紬の昭和住み込み生活つむぎ風土記  作成 北村陵

五時起きの生活はなれない。夜九時まで織っている。五時に起きて、まだ外は暗く月がみえて、その下で畑がみえる。畑に霜がおりて、キラキラして綺麗だ。籠に入ったじゃがいもを包丁でむいていく。なぜこんなにはやく起きて、じゃがいもをむき、他人の味噌汁の準備をしなくてはいけないのだろうか。ここにきて、この紬のカシャゲをつくって二反目になる。父からはカシャゲを覚えたら帰ってこいと言われている。私は寝床に戻り布団をさっさと片付けて、この織元から逃げる。薄っすらとみえる月明かりの中、私は夢中で走り逃げていく。父は優しく、私を迎えてくれるだろうか、不安が混じり合い、白く吐く息が、途切れそうだ。ひびきれの指のもとには長時間織ってできた、かたいたこができている。温めようとした指の隙間に白い吐息がすりぬけていく。こんな時間では、誰もまだ起きていない。あの織元からだいぶ離れたところで足を止めた。まだ月夜がうっすらと照らしている。織元で働き、味噌汁をつくらされ、あれた手や指に紬の糸がカサカサと引っかかり、織りにくかった。父のいうカシャゲを二反つくり、慎重に白糸を織りなして、今、私はここにいる。そしてこれからだ。キラキラとした霜の降りた畑だけが農家うまれの私を見つめていた。

/紬の昭和住み込み生活風土記 北村陵 北村織物 本場結城紬

iPadから送信

紬の難文、読み返すとブレが多いから、風土記みたいに書きかえている。そうすると短文になった。これを書こうとしたのは、私の祖父くらいのあたりで、織り手だった今70歳くらいの人が織元の住み込み生活が地獄だった、とふりかえるのが、野村はんぺいさんの職人も同じだったという接点の話から

こうしたことから、ひとつの風土記をつづった。半分あったこと、半分無かったこと ととらえるでしょう。

現在その70歳くらいの織り手は、こうした織元の非現実的スパルタ教育の中、とくに娯楽もなく、遊ぶところもなく、

ひたすら織りを続けていくという紬心中論の生活に耐えた、逃げたのである。結城紬というと、すべてが美化されてしまうが、

この世代の織り手に、私は、お前は苦労を知らない、わからないといって、過去を懐かしむ。私は織り手と同じ立場であれば、

やはり、次世代にきつくあたると思う。住み込みというのは、平成になり、すっかり消えゆく紬経営システムだったのである。