1. きもの…ありがとう 宮崎恭子
    きものは洋服より老けてみえる…と云う人がよくあります。私の場合も例外ではなく、洋服は着ようによっては年より若くみられますが、着物はどうも年相応にみえるようで、たとえ一歳でも若くみられたい中年女性の心境として、これは一寸こだわらざるを得ません。ただし夫いわく、「若く見えると云ったところで十八歳に見える訳ではない、三十五歳のいかさぬ女にみえるより、四十歳のいい女を目指す方が得策だぞ」…なる程と思います。似たような事を娘の頃に父親にも云われました。「着る物を取りかえするのは、自分のむら気を満足させるだけだ、美しく見せたいなら、自分に一番似合うものを一つにしぼっていつもそれを身につける事だ」…おしゃれに関する女の主観と男の客観とはこうした所がちがっているのでしょう。なるほどということで、三十を過ぎてからのまともな外出は着物、それも、着ていて一番気にならず楽に安心していられる紬の、それも同じような感じの着物を着る事が多くなりました。年中着物姿の祖母や母をみながら、極く日本風な家庭に育ったせいもあるでしょうか、年令と共に着物姿に愛着が深まるような気がして居ます。パリであったアメリカ人に「日本人はキモノという美しい民族衣装があるからほんとに羨ましい…私達はパリに来ても会合の時など、ほんとうに誇りを持って安心して着ていられるものを探すのに気苦労するのよ」と云われた事がありますが、その点着物というこの先祖の遺産、ほんとうに有難いと思います。何より日本人らしく人真似でないのも嬉しい事ですが、それが単なる異国情緒に止まらず、長い生活の歴史と美感覚の取捨選択の中で研ぎすまされたものであるだけに、誇りと安心感の中でそれを身につけていられる事は、ほんとうに幸せだと思います。そして特に最近有難く思うのは、着物は若さではなく、年令を美しくみせる、世界でもあまり例をみない衣服だという事です。着物は…というより明治以前の日本の文化は、高令文化であったような気がします。老成とか老練、老巧、老台、老公などの言葉があるように、古いものを尊いとし、古いものの中に美しさを発見しようとしたのでしょう。月代を剃ったいわゆるちょんまげ頭の奇習も、あの剃り落とす額から頭の頂点の部分は男性が年を取ってはげて来る部分であることを思えば、いわば老化を一つのファッションとして先取りした訳で少なくともあのちょんまげの時代には、頭がはげて来ることをコンプレックスに感じる男性は居なかった筈ですし「ハゲ!」などという実に理不尽きわまる侮辱語も存在しなかったでしょう。若さを真善美とする昨今の風潮の中で単なる頭髪の自然現象に理由なきコンプレックスを感じなければならぬ男性が非常に多いことと思い合わせると、これはやっぱり大変なことです。勿論どんな時代であれ、人間が老いるのはやはり悲しいことに違いありませんし、若さを美しくすこやかだと感じるのは自然のことです、ただ人間は例外なく年を取り、それを如何んともなし難い…だとすれば老いの中にも美しきものやよきものを発見し、それを哲学や美感覚まで高めて社会の通念に出来れば、その方が人間は幸福と云えるでしょう。少年が元服の式で月代を剃り落し、娘は嫁入りと同時に眉を剃り、おはぐろをぬる…老いを良きものとして美感覚に高め、老化を先取りすることで老魂をきわ立たせなくする…大変な智恵だし、大変な哲学だし、これを風俗や通念にまで取込んでしまった社会のすごさに驚きます。着物姿が美しいのは成人式の娘さんよりも、むしろ三十代以上だとは、誰しも云われる事ですが、高令尊重の文化の中で育った衣服である事を思えばこれはむしろ当然かも知れません。若いことは美しいとして若作りに身をやつし、そのまやかしで一層老魂をきわ立たせがちの世界のファッションの中で、年令を正直にそのままつつましく美感覚とするユニークな着物の存在…着物を持っている私たち日本女性はほんとうに幸運だと思います。そして紬や絣はそのまやかしでない正直さ、つつましさの点でもっとも着物らしい着物だと私は思います。手しおにかけるという日本の言葉は、働く事、愛情をもって創り出す事に対する深い思いがこめられていてとても好きな言葉ですが、血のかよう暖かく賢く忍耐強い人間の手で、つむがれ、くびられ、染められ、織られ、手しおにかけて創り出された紬や絣の美しさは、何年着てもあきが来ません。むしろ年と共に愛しながら紬を通した愛着が重なって、布の命ある限り、誰かに残して愛用してほしいという思いがつのります。使い捨て時代の波に呑まれてほとんど失われてしまった昔ながらの物と心との結びつきがそこにあります。愛して作り愛して使う…そこには物を超えた物の価値が確かにあると思うのです。人間でも品物でも同じですが、ほんものとにせものの差は古くなるとわかります。ほんものはそれなりに古びた美しさを出すのに、にせものはただ汚らしくなるだけです。日本でも外国でも、昔ながらの古い町は大理石だろうと木造だろうとそれなりに美しいのに、日本の新しい街が汚くみえるのは、何かににせようとしたにせものの建築や建材がやたらに多いためで、数年のうちにみるみる汚くなってしまいます。古くなった新建材なんてほんとに嫌なものです。愛なく大量のにせものを速成し、愛なくそれを使い捨てる…物量だけの嫌な文化だと思います。紬や絣のまやかしのない姿を愛し、愛して作り愛して使う心を大切にしたいと思います。たかが女一人、たかが着物一枚とは云え、そうした所にも文化の原点はある筈だと思うからです。