2016.5.29 おもいをはせる染織1について
飛鳥・天平の時代に仏教文化が中国から日本に流れ込んだ時代に中国の進んだ染色文化も日本に同時に流れ込んだという歴史がある。TBSラジオで木村孝(きむらたか)さんという染織研究家としてキャリアの長い方が、日本に染織文化(染色)が中国から入り込み、日本の文化と言い切れるのは、平安時代であり、飛鳥時代はまだ中国の匂いが残っているとおっしゃられるのであるが、まさしく飛鳥・天平の時代に仏教文化と染色文化が流れてくると日本はそれに対して何の取捨選択も加えずに、全くこのまま模倣した。染料の種類、その名称、染色方法などを吸収していったが、中国のあとをひたすら追っていくことになったのである。これが飛鳥時代の染色文化の根幹であり、模倣に徹底する時代ではあったが、しかしそれだからこそ、平安時代に突入すると中国の染色文化から抜け出して独自の文化圏の染色文化を築きあげたといえる。飛鳥時代にひたすら模倣し、当時の日本は短日月に中国の染色文化を習得したから、これは日本人の模倣性を悪くいうものがあるが、そうではなく、染色文化の後進国にあてはまっていた日本は後進国として当然たどるべき、むしろ賢明な方法をとったのである。中国の染色文化を受け入れ、そこから一歩踏み出し、独自の新しい文化を生み出すような、ある種の創造性を持っていたのである。飛鳥・天平の時代が全くの中国の染色文化の模倣時代ではあったが、しかし幸いなことに早くそれを習得と吸収することによって、当時の日本は中国の染色文化にないような日本独自の新しいいくつかの染色を見いだすまでに発展することができたのである。例えば、「大宝律令」(700年頃)あたりから「養老令」(718年頃)あたりにかけて、 日本ではじめて正式の服色としてとりあげられた「柴」(しば)と称する黒味の茶色などはそのひとつの好例であって、これはタンニン剤の鉄媒染による黒染を更にもう一度灰汁(あく)で処理して染め出した黒茶色であるというもので、つまり中国の染色文化を中国から教えられた黒染の方法を一歩進めて、日本人の好む色でしかも中 国にはなかった一種の黒茶色を新しく日本で生み出したというわけである。この「柴」(しば)色の染色のことは当時の日本の文化史上非常に重要な問題であると思われる。「日本書記」にあるように簡単に日本の古代の服色のことをいえば「推古天皇十一年の条」(603年)に服の色でその人の位階によって定めたことがしるされている。それは紫、青、赤、黄、白、黒の6色であるという通説がある。しかしこれは推定説であって、何の根拠もないのだという。この制度が唐時代や隋時代のものではなく、晋時代(三世紀頃)の服色の制度の模倣であることを知り、すなわちそれが紫及び前記したような色が推古天皇の時代の服色をそういう根拠にたち、その6色とし、その中で、紫は紫根染めの灰汁媒染、青は藍染め、赤は茜(あかね)の根っこの灰汁媒染、黄は黄檗、もしくは黄八丈で知られる刈安(かりやす)染め、白は漂白した絹であり、黒はタンニン剤による鉄媒染であろうと考えられる。これらの服色は後世になると 、前記したように「大宝律令」や「養老令」の記載にあるような服色に変わり、天子の白、皇太子の黄丹(おうたん)(赤橙色)、紫、蘇芳(すおう)、緋(ひ)、紅(くれない)、黄つるばみ、そひ、葡萄(えび)、緑、縹(はなだ)、桑、黄、すりごろものはり、柴(ふし)、くろつるばみ、の計17色としているのである。色の解説は省かせていただきたいが、すでに「万葉集」に記録されている色は現代では明らかになっているものが多い。例えば、櫟(くぬぎ)の実、すなわちつるばみを灰汁媒染したものが黄茶色これは黄つるばみであり、櫟の実、つるばみを鉄媒染した黒がくろつるばみ、である。摺衣以外の上代の服色はすべて無地染めであって、模様染めのものは使われていないことは周知のとおりである。この時代で、位階の上のものが下のものの色を着ることは勝手であったために、位の高いものが位階の低い、鉄媒染の黒を着ることはさしつかえなかったというわけである。
おもいをはせる染織2について 北村陵2016.5.29午後