浸染染色文化考察論2飛鳥・天平時代の染色
平安時代の染色文化の進展
次の平安時代は、日本の染色文化が中国から解放されて、いかにも日本らしい発展をとげた時代である。再三、日本の染織研究家が日本の染色文化が確立された時代といい続けている時代の到来である。つまり、この頃になると中国の文化の採り入れがひとまず完成して、大して採り入れなければならぬものもなくなり、その結果として、遣唐使なども廃止されるようになった訳であるが一方からいえば、日本の古来の文化を旧に復させようとする考えがそろそろ出かかってきたということもあげられる。これまでの通説によると平安時代の初期においてはまだ唐制模倣の風が盛んであり、その一例として天子の服の色が白から黄櫨染(こうろせん)と称する中国式の赭黄色(茶色)となり、しかもその模様まで中国の天子の服をそのまま模したと説いている。それは嵯峨天皇の弘仁11年(820)のことであるが、白から赭黄になったことはいかにも唐風の模倣である。日本のこの頃の黄櫨染(こうろぜん)の御袍(ごほう)、「黄櫨染御袍 」の色は中国の赭黄袍とはかなり違った色相で、すなわち中国の赭黄は柘黄(しゃおう)、わずかに赤くて鈍い黄色であり、その柘は『万葉集』の「柘 つみ」であって、これは朝鮮のツメナム(ツメの木)であり、今のヤマクワ、一名ヤマボウシという花木をいい、その染色はやや赤味の茶色である。しかし日本の平安時代の黄櫨染と称する色は、「延喜式」の染色の研究によってわかるように、濃い、赤茶色の系統の色であると思われる。平安時代初期における黄櫨染の採用というようなことも、実は単なる唐の赭黄袍模倣ではなくて、その新しい服色名とともに、すでに十分日本化の道をたどっていた結果であろうと考えられる。同じ時代に一方では神事の服として古式の「小忌衣」(おみごろも)が復活されているが、これなどは文字どおり、中国の模倣から離れて、日本独自の文化に向かい出した著しい現れであるということができる。「延喜式」の「雑染」にみられる限り、当時のほとんどすべての染色は、この黄櫨染の染色の場合全く同じであっ て、すなわちその染色の名称とかあるいは使用染料の名称とかいうものは、多くは中国のものをそのまま採用している。しかしその染色の方法となるとこの場合は中国と著しく違っていて、つまり中国には全く見られないような、日本独自の新しい、かつ高度な染色を、しかも数多く染め出しているのである。その著しい例をあげれば、「青白橡 あおしろつるばみ」と称する服色があるがこれは紫根染による青味紫色とさらに刈安による黄色とを上手に混染して、それによって染め出した、灰色のある淡緑色である。この紫草(紫根染め)と刈安(かりやす)とで一種独特の灰緑色染め出したわけである。しかし、このような高度の染色技術を、今から千年以上前に、すでに実際に応用したということは、当時の染色をやっていた人達がいかに高度の技術を身につけていたかということを如実に示すものであって、誠に興味ある問題であろうかと思われる。当時の服色に「藍色」と称するものが知られている。その染色法をみると、これは「縹色」(はなだいろ) と称する藍染めを、更に黄檗とによる普通の緑色との、ちょうどその中間をいっているわけである。この二つの染料の配合の割合を、実に上手に加減して、上記のように、濃淡数種の藍色と称する服色を染め出したわけである。このことも、平安時代の染色、もしくは当時の人達の色に対する目の訓練が、いかに進んだものであったかということを明らかに証拠立てている一例であるといえる。更にまた、平安時代に、着物の色の美しいとり合わせについて、「襲色目」(かさねいろめ)と称する一つのルールを打ち立て、どの色とどの色とを一緒に用いるとよく調和するかということを、植物の名前などを用いて、例えば黄と緑調和を用いて「山吹」(やまぶき)のかさねと名づけ、あるいはうす紫と緑の調和を用いたものを「紫苑」(しおん)のかさねと名づけるというように、多くの襲色目をつくり出しておいて、いつもよく調和する二つの色を、しかも誰もが苦労なしに使うようにしていったのである。こういうことも、今から千年以上も前に、すでに一つ のルールとして、襲色目というようなものが定められたということは、平安時代の上流階級の人達が、いかに高度な染色文化をもっていたかということの現れであろうかと思われる。ただ、残念なことに、このような文化の発展は上流階級、上流特権階級の間にのみみられたもので、現代のような一般庶民でも自由気ままに染色できる豊かな環境にはなかったのである。当時の一般庶民は、飛鳥・天平の昔から、着物の色にはきびしい制裁があって、黄や黒しか用いられず、その後だんだんとこの制度がゆるくなったとはいいながら、明治維新に至るまで多くの制裁があり、そのために、日本の一般大衆の、色の調和に対する訓練というものが、欧米の人達にくらべて、かなり劣っていたということは確かといえる。こんにち、日本の染織はそれを取り戻しつつある。