思いをはせる染織7について

思いをはせる染織8 日本の織物のおこり2
 
織物のおこり2について:編物の基本的な技法としては、一般に①一本の繊維を絡ませつつ、結節点を作る。②複数の糸をそろえ、左右に一定の結節方法で繋がりをもたせる。③経と緯を別々に準備し、交互に絡ませる。この三つがあげられるが、この中の経、緯糸を別々に準備し、交互に絡ませる技法が織物への発展に直結していくものである。前記二つの場合はいかに発展しても織物に発展する可能性は考えられない。このように考えると、籠類の手法がもっとも織物の祖型とも推定され得る。籠は広範囲にわたった原始民族間で行われた極めて古い技法の一つである。しかも、出土した土器底の圧痕から各地で籠や敷物様の編物が用いられていたことは明白である。しかも、縄文後期の圧痕に見られる糸の結目は極めて高度の編物技法を推測することができ、漁網、簾編も考えられるが、荒い蓑様のものも生産された可能性がある。これを発展せしめて衣料を作ったとすることは可能であり、また簾編の技法が衣料としての編布の出現をもたらしたことも十分に考えられる。ところで、我が国の織物のおこりについて、それが原始的な編物技法からの移行発展を主体的な要素と考えるべきであるか、また他方、外部の条件、中国文化の導入によったものが主体的な要素となったものであると考えるべきであるか、その明確な結論づけは容易なことではない。しかし、織物のおこりには、中国から導入などということよりも、さらに古くさかのぼったころであろうと推論することも不可能ではない。もっとも布目によった出土織物痕の確認が、もしも九州地区が主とされるならば、織物技法も中国より伝来したものという推論もあながち不当とはいえないのである。しかし、越後(新潟県)において多くの縄文土器の布目の圧痕も出土しており、簡単な結論を下すわけにはいかないようである。弥生土器期の織物の存在はその資料によって明白な事実となっている。その出土例としては下関市綾羅木遺跡出土の布片があげられる。これは苧麻布でしかも右撚り(Z撚り)平組織であって、一平方センチに緯糸20本、経糸18本が数えられている。また長崎県景化園遺跡出土の布片は榖の繊維によった平織りとされている。また、静岡県登呂遺跡出土布片は大麻又は苧麻繊維である。なお、弥生土器製作において台上に用いられた布目痕は一平方センチに経糸24本緯糸14本、経糸8本緯糸4本のものが多いという。