おもいをはせる染織(8)について
古代の織機について
編物の技法から移行発展したと考えられる織物に関しては、まずその生産に必要な織機について検討すべきである。この織機の考察についての現在の考古学の研究の結果によれば、それは弥生土器期(紀元前3世紀)頃に出現しているという。それ以前の頃に関しては詳らかではない。そして弥生時代のそれぞれの遺跡出土の例を見ると、その中に木製の織機部分品と推測されるものが存在している。これを復原してみると、機の構造は、主体的な部分として開口具、緯打具更に従的なものとして経巻具、布巻具である。この主体的な部分は機として不可欠な構成部分であり、次の従的な部分は省略されまた欠損している場合もある。織機の原理としては、まず一定の整経した経糸を経巻具、布巻具に巻き、結び、更に開口具の中筒と綜絖に経糸を通す。経糸は中筒によって一方的に開口しているが故に、緯入具が緯糸を通した後、綜絖を動かして反対の開口を作り、緯打具を入れて打つ、これを立てるようにして緯入具で緯糸を通す、このような操作を 何十回となく繰り返して順次織り上げるのである。綜絖は一般に単綜絖であって、経糸をある一定の単位に分離するのに棒に糸で輪を作って経糸を通し引き上げて開口を行う。綜絖のほとんどは糸製であったことからその出土例は見いだされてはいない。また、中筒もまだ出土例に欠いている。以上のような織機はこれを「単綜絖無機台水平機」の「傾斜機」とよんでいる。その各個の部分の用具が一つの台に固定され装置されてはいなかった。機の一端を柱又は棒に固定せしめ、他の一端を織手の身体、腰に固定させ傾斜をもたせた機であった。我国の弥生土器期に使用された織機は多分、この型式の傾斜機であったろうと推定される。この型式は中国古代、先秦頃に用いられた「無機台貫刀杼機」とよばれた織機と同様な構造であるとされている。この型式の織機は広範囲に及んで東南アジアなどの地方で用いられ、主に室外用のものであった。しかし、古代社会において用いられた織機にこの傾斜機以外に水平機と垂直式の堅機が用いられていたともいう。水平機は杭4本を長方形に地上に立 て、それに棒をつけ、経糸をかけたものである。経糸は地面と平行に上下二段に分かれているすなわち、表の経糸層の上に細い一本の棒をおいてそれに裏側の糸を上糸の間をくぐって固定したものである。これが綜絖の役割を演じるものである。これを上下に作用させて緯糸を通す隙間設け、緯糸を巻きつけた棒を右から左に通過せしめ刀状の木片、刀杼という、をもって緯糸を打ちこんで織りつづける。機はその組立も簡単であって、自由に移動することも可能であることから、古くより遊牧民用いられていたという。堅機は水平機を垂直化したものをいう。堅機には二つの型式がある。その一つは経糸を二本の横木の間に張りつけたものであって、全く水平機をそのまま垂直化した型式である。経糸は長方形の木枠の中の狭い部分の上下ニ辺の横木の間に伸ばしたものであって、地面に垂直に立っていることから織手は常にその機の前面に坐して機の下方から織り上げる方法である。これは水平機の場合の操作と同様である。他の一つの型式は上方から下方へと織り下がっていく手法のものである。横木と錘をもって糸を伸張し、木枠を用いるが、上の横木にかけた経糸をそのまま垂下して、いくつかの小束とし、その先端に石錘または土錘を結びつけて、糸をたえず緊張せしめる。綜絖や杼の使用は前述のものと全く異なることはない。織手は織機に平行して織り進むもので度々その位置を変えるのである。これらの双方の堅機は構造上、身長に比例してその制約があり、短い織物を生産するのに限って用いられていた。我国ではしばしば土錘、石錘の出土例があることから弥生時代にはすでに傾斜機の外に水平機や堅機の使用を可能にしたことが推定されるのである。しかし、現在では堅機の出土は見られないようである。しかし、縄文土器期の採集経済態勢から新しく生産経済態勢へと移行した社会において、土器の生産とともに織物生産も高度化され、生活様式の変化に呼応して織機にも種々の型式が考案されてきたことはいうまでもない。