棋士2

棋士1についてはこちら

私が30歳をこえ、20歳のような思考では本業のつむぎ業で通用しないことがでてきた。そうしたときに私はどこか違う世界、もうひとつの現実としてプロ棋士に救いや生き方、考え方を少しでも吸収したいとか、天才からことばであやかりたいといった感情があったのかもしれない。羽生善治氏は、著書をよむとだんだんとではあるが、実際の姿というか等身大の姿で文章を組み立てて、多くの私のような立場のアドバイスを求めるものたちに伝えていると感じるようになった。若くして世間から天才棋士として知られ、羽生氏のような人間は凡人には理解のおよなばい世界にいて、というのが一般的なイメージだと思われるが、もっと人間臭さがあってそうしたイメージとは違っていた。それが私が棋士の生き方、考え方により興味をひかれていくことになったのだと思う。<棋士>について書いた前回から新たに<棋士2>を構築させたい。私の考えは微力ながらも、かかせていただく。こうした記事をよんで、棋士の著書に興味をもって自分とあてはまることがこんなにもあったのかといった発見を多くの人に味わってもらいたい。またながながと書いていくがおつきあい願いたい

大局観 羽生善治 著
著書、決断力で「成長するために逃げずに敢えて相手の得意な戦型に挑戦する」との旨の発言をしていた。おおまかに今回の著書の「大局観」とは「大局を見て考える」などの表現ではよく使われている。「木を見て森を見ず」という格言があり、これは「部分だけしか見ず、全体を見ていない」という意味でその反対の意味が「大局観」である。出発が2011年となっており、平成22年の早春から約1年にわたり記録したという。若い人は大局観がないが、経験を重ねて大局観をみにつけていくと大筋で間違っていない選択ができることになる、と説明している。大局観を使うと「いかに読まないか」の心境になり、将棋ではこの大局観が年齢を重ねるごとに強くなり進歩するのだそうだ。いかに読まないか、の大局観は精神面でも熟練すると60歳、70歳になったときに闘うための柱になるといっている。自分の若い時代「20歳の自分」と闘っても負けないー。この大局観をみにつけ全体を検証するのである。将棋は反省はするが後悔はしないー。そういう言葉 がある。羽生善治氏はこの著書の執筆中、渡辺竜王と竜王戦七番勝負で史上初の三連勝四連敗で永世竜王を逃し、永世七冠の誰も成し遂げていない記録もかかっていたが逃してしまった。その中で様々な感情をかかえ、皆に理解できるような文章としての記録残していった。いつまでもセーフティゾーンのなかで局面を進めることはできない。どこかで思い切った決断必要になる時がくるー。このあたりのきりこみから、私は著書にすいこまれることになる。

羽生さん要点メモ
基本的に、ものごとは、なかなか自分が望んでいる通りにはならないものである。特に将棋の対局の場合、相手に意表をつかれることは日常茶飯事だ。 羽生善治氏の対局で駆使ている三つ、それは「直感」「読み」「大局観」。将棋の世界はリスクをとらなければ棋士の成長は止まってしまう。リスクをとらないことが最大のリスクだと私は思っている。同じ戦法を手堅くとり続けるということは、一見すると最も安全なやり方のように思えるが、長いスパンで考えたら、実は、最もリスキーなやり方なのである。 リスクに対する意識は年齢とともに変化する。誰でも子供の頃や十代の頃は年々、明らかな変化を遂げることができるが、三十歳くらいになると、これからの変化は穏やかになる。家族や地位や名声や収入など、守るべきものが増えると、若い頃のようなチャレンジ精神や知的好奇心は失われ、リスクを取るのをいとうようになるというパラドックスも抱え、停滞が始まる。リスクを取ることを回避して昔のような頃に戻ろうとしても、それはとても難しい。リスクにきちんと正面から向き合い、リスクに伴う恐怖や不安に打ち克つことが、永続的日常茶飯事リスクを取り続ける王道だと、私は思っている。部分的に見るのではなく、全体的な認識をこまめにすることがリスクを取る時には必要不可欠なようだ。周囲に同調する必要はないが、協調はあった方がいいと思っている。「手堅く安全にいこう」という気持ちが習慣化してしまうので、それを戒めるためにも、あえて意欲的で挑発的なことを言って前向きな姿勢を示している。答えがわからない場面は、必ず出てくる。その時に何をす るのか、どのように考えるのかが、とても大事なことなのである。思い出を美化するのは洒落ているかもしれないが、自分が選ばなかった膨大な量の選択肢のほとんどは「選ばなくてよかった選択肢」のはずだ。情報があふれるほどある。そのぶん、我々は後悔しやすい環境のなかで生きているのだ。将棋には面白いミスの法則がある。たとえば、マイナス10点の手をお互いに指したとすると、差し引きイーブンにならず、あとにミスをした方がマイナス20点になってしまうのだ。ミスをしてしまった場合、どうすればいいかー。答えは二つある。一つは悔やんでも仕方がないので、それまでのことはすべて無にして「自分の将棋は次の一手から始まる」と思うことだ。もう一つは、忘れることである。これが一番の策であると言えるだろう。将棋に限らず、日々の生活なかでも、一つの選択によって極端にプラスになるわけでもないし、取り返しのつかないマイナスになるわけでもない。地道にプラスになるような小さな選択を重ねることで、いつか大きな成果に至るのではないかと 思っている。

集中について深く考える

 

集中とは、よけいなことをあれこれ考えず、ただひたすら一つの考えを進めている状態である。対局では、いくら深く考えても結論が出ない局面や答えがわからない局面がよくある。そういう場面になった時、私は、「いかに深く考えるか」よりも、「いかにうまく見切るか」に意識を切り替える。切り替えるタイミングは状況によって違ってくる。好きなことをやり続けたり、練習や経験を積み重ねたりすることによって、より深く、より長く、ものごとに集中することが可能になる。つまり、長い時間をかけて多様なテーマ(将棋の場合は戦型)に取り組んでいくプロセスが形成されていくわけだ。そして、その過程で集中を深めることによって、より深くものごとを考察する力、多角的な視野、論理的に確実に一つ一つの思考を積み重ねていく能力などが、より洗練された無駄の少ないものへと進化していくのである。集中に関して何が重要かと考えると、それはモチベーションである。やる気のないなかで集中を作り出すのは至難の業だ。裏を返せば、モチベーションが上がれば自然に集中力も増すことになる。時間の感覚が残っている時は、浅い集中だと思っている。(この説でいえば、私の伝統工芸士の従事歴12年は、これをむかえて干支がまわるスパンでもそんなに時間が流れたのかと疑うものだった。つまり深く集中していたということだろう。)対局では「忘我の時間」といった充実感を味わうこともしばしばだ。集中時における、この不思議な時間の感覚は、いったいなんだろう。羽生さんの集中に関する考察・アインシュタインも深く集中できるところに身をおけなければ、現代物理学の基本の一つである特殊相対性理論、一般相対性理論も生み出せなかったのではないかとしている。[集中力をより深くする方法の一つが「可視化が難しいテーマ」について考えることだと思っている。]この羽生さんの考えでいう私にあてはまること、それが絣について考え可視化に挑む姿勢といえる。これは絣のロジックと称するテーマを私はあげる。絣のロジックについて人間は、視覚からかなりの部分の情報を得ているので、可視化が容易なテーマなら、それほど苦労することもなく処理できる。だから、深い集中は必要ではない。その点、可視化が難しいテーマの処理には、深い集中が必要とされるのだ。アインシュタインの相対性理論で論じられている、「時間は条件によって変わる」などはその典型的な例で可視化することは不可能に近い。
緊張がより良いパフォーマンスをうむ&つむぎ業との接点とつむぎ業を一生をかけて愛すること
集中力を高める三つのトレーニング法(1)何も考えない時間を持つこと・意識してそういう時間を作るようにする(2)一つのことをじっくり考えることに慣れること・集中を継続させるためには、その状態に慣れることも大事なポイント(3)時間と手間のかかることに取り組むこと・例えば長編小説を読むこと:羽生さんは紫式部「源氏物語」や山岡荘八「徳川家康」のように登場人物がたくさんいて何世代にもわたるような話がいいとしている:集中する経験を積み上げていくと、それに慣れるペースも速くなっていき、全体像を思い描くことも次第に容易になるとし、そうなってくれば、集中する時間も長くなるし、いつ、どのタイミングで集中すれば良いかもわかってくるという、好循環のサイクルに入る、好循環のサイクルに入れば、とても楽しいのでモチベーションも上がり、ますます集中力が増す。[逆境を楽しむこと・モチベーションの高さが才能を開花させる]モチベーションを上げて結果を出すための方法として、目標を設定するやり方がある。では何を基準にして目標を設定すれば良いのか。キーワードは「ブレイクスルー」だと思っている。個人であれ、団体であれ、まだ届いていない領域をめざすこと。もう少し頑張れば今までと異なる景色が見える「次なるステージ」を目標とすること。これがブレイクスルーだ。:羽生さんではなく私の場合、伝統工芸士の染色部門絣括りで一部門取得をし、そのあとさらに12年後の製糸部門糸とりの伝統工芸士をめざすことでいままで2部門伝統工芸士が誕生していないので、2部門伝統工芸士取得をめざすということだろう。さらにはそのあと12年後の製織部門織りでつむぎ三要件の3部門伝統工芸士取得でトリプルクラウンという未知の世界をめざすということだろう、まず3部門というのは向き不向きがあるしオールマイティな技術力が試されるので取得は容易なことではないし達成すれば尋常ではない記録になるだろう。女性であれば2部門が最高位だろう、絣括りでは取得は厳しい。個々の目標設定はまったく別の話で、達成されていないことが山ほどある。
練習と継続性
「アマチュア初段クラスの人が四段になるにはどうしたらいいですか」と羽生さんは質問されたときがあり、「集中してやればすぐに四段になります。ただし、三ヶ月間、将棋の練習をすること」と答えた。とにかく毎日、練習することが肝心であり、将棋の感覚を忘れないようにすることが大切で、一日でもあくと感覚が鈍ってしまうので練習だという。羽生さんは「続けること継続すること」は立派な才能であるとしている。根源的なものとして「地道に、確実に、一歩一歩進み続けることができる」ということこそが最も素晴らしい才能だとしている。本人がそういうのであるからこの才能は常に自問自答し、自戒して将棋の世界へと反映させているに違いない。たくさんの詰め将棋の問題を解き慣れることによって、美的センスが磨かれていく効果もあると羽生さんはいい、詰め将棋の場合、手順の美しさがわかるようになると、格段にスピードが上がる。その美しさとは、無駄のなさや自然であることと関係していたように思えるのだが、大きなジャンプをしながら答えにたどり着いているようなものだった。十代のころ伊藤宗看の詰むや詰まざるやをとき、一日中といても解けないような難題があり、一週間も一ヶ月も過ぎてしまうことがあっても、続けることができたのは手順の美しさと構想力に感動したからだったという。その感動が問題に挑戦し続ける大きな原動力となったという。(伊藤宗看の江戸時代のこの詰むや詰まざるやは、以前棋士1で米長邦雄さんと羽生さんの会話で、羽生さんはこの実戦よりはるかに解くことが難しい問題に向き合うことで将棋のことを考え続けることが大切でそれが問題を作った伊藤宗看の意図したところだと十代で気がつき、米長邦雄さんに伝え、米長邦雄さんは通常、実戦よりはるかに解くことが難しい問題を解くより、実戦に強い攻略方法をみつける人が多い中、羽生さんの気がつきを評価した)私も棋士について考えて編集すると楽しい。スリリングで伝統工芸士受験期間だがよっぽどこっちのが面白いしためになる。不適合の烙印をおされてもかまわない。それくらい棋士は生き方で私を陶酔させる。
繰り返しの極意、加藤一二三(九段)の姿
繰り返しの極意:何事も繰り返し、上達をしたいのであればなお「繰り返し」は重要。基本を覚えたあとも「繰り返し」は重要であることに変わりない。羽生さんは繰り返しというと加藤一二三九段を連想という。加藤一二三九段は、史上初の中学生プロ棋士であり、弱冠18にして将棋界のトップ10のAクラス入りを果たして、その記録はいまだに破られていない。食事も昼も夜も同じものを出前するという。それも半年、一年にわたって同じ食べ物を出前するという。将棋でも同じ戦術を納得し体得するまで繰り返しさす、さし方にもこだわりをもち、同じ戦術では研究されてしまい、勝つことが厳しくなるが、それを知っても同じさし方にこだわりをもち、さし続ける。その戦法の真髄を理解し、他の棋士には真似できない技術を得ているのではないかー。だからこそ70代になっても高いモチベーションで将棋に 打ち込むことができる。加藤一二三さんは、長考派で有名で序盤などで時間を使い切ってしまい、あとは秒読みでさしていく。どんなに経験が豊富でも時間を使って考えたい場面はある。時間に追われてミスをして好局を逃すこともあったかもしれない。しかし、楽をする道を選びはじめてしまうと、そちらのほうに流されてしまう。信念を貫き、楽な道を選ばないことが、自分のスタイルを崩さないための数少ない方法の一つではないか。加藤一二三さんをみているとそう思わずにはいられない。
羽生さんの説く詰将棋
羽生善治さんのいう詰め将棋の考え:米長邦雄氏はボンクラーズと戦うために詰め将棋ひたすら解いて戦いの準備をした。羽生氏は詰め将棋をどう捉えているかについて:現代では、様々な練習方法や研究方法が充実しているので一足跳びに上達したり、何段も同時に効率的に駆け上がっていったりすることが可能になっている。しかし、練習を地道に繰り返して上がっていく方法ならば、時間はかかっても隙間がないので確実であるし、安定感もかなり違ってくるのではないかと思う。話が専門的になるが将棋で重要な持続力、直感力、読みの能力を鍛えるには、詰め将棋コツコツ取り組むのが効果的である。ご存知のように、一局の将棋を指すためには、さまざまな思考が必要だー。これらを裏付けるために不可欠なのは「読み」の能力だ。そしてこの「読み」の能力を鍛える方法一つが、詰め将棋解くことなのである。修行時代の棋士は必ず詰め将棋に取り組む。私もそうだった。詰め将棋は簡単なものから一手詰めから、長いものになると数百手、千手をこえるような大作もある([伊藤宗看の詰むや詰まざるや]をさしている)。現時点までの最長手数は橋本孝治(はしもとこうじ)の作品「ミクロコスモス」なんと1525手詰めだ。「千里の道も一歩から」というように、一つ一つの小さな積み重ねによって目標に達成できるのではないか、そして、その繰り返しのなかにこそ大きな真理があるのではないか、と私は考えている。(羽生善治)
羽生さんメモ ラスト
  • 羽生さんメモ2:2003年から2004年にかけて、羽生さんは次々とタイトルを奪われて、一冠になってしまったことがあった。分析してみると、自分の感覚や将棋観と相容れない戦法が流行し、それに対応できなかったことが敗因だった。それまでのやり方ではダメだということだった。新しい戦法にどう合わせていくか、どんな対策を立てていくかを考えなければならなかった。現代の将棋は刻々と変化している。そのなかで自分なりのスタイルをどう貫き、新たにどんなスタイルをつくりあげていくかが大事。棋士にとって大切な資質の一つに「打たれ強さ」がある。負けたとしても正面から100%「負け」を受け止めるのではなく、適当に受け流す図々しさも必要。これは渡辺淳一先生の書かれた[鈍感力]と似た発想。: 「大局観」では「終わりの局面」をイメージする。最終的に「こうなるのではないか」という仮定を作り、そこに「論理を合わせていく」ということである。簡単に言えば勝負なら「勝ち」を想像する。情報化社会と言われ洪水のように莫大な量の情報や知識と日々接している。すべてのデータを集めて分析するのは時間的な制約もあって事実上、不可能に近い。それで思い出すのが、羽生さんは吉増剛造(よしますごうぞう)先生の言葉「日本語のような巨大な構築物の全体をとらえることは難しいが、それをすり抜けることは可能ではないか」 といわれたことが深く印象に残っているという。直感は研鑽(けんさん)を積んだ者でなければ働かない。脳科学者の池谷裕二(いけがやゆうじ)さんがいうには直感と閃きは違う。言葉としては同義語であったと思っていたが、きちんと論理立てをして説明できるのが直感で、なんだかわからないがこの方が良いと考えるのが閃きなのだという。なんのために戦うのか、70歳になってから考えたいと思う。「大局観 羽生善治 著」終わり
私の知らない人生 村山聖さん
  • 私の知らない勝負 村山聖さん:ホームページ容量アップを行うため2016年8月末から11月末までほとんどインターネット活動に不自由する日々だった。ちょうど更新の手続きが終わりテレビをみていると村山聖さんという29才にして羽生名人とたたかい,重い病と闘病生活と将棋人生は29でこの世を去った勝負師についての番組だった。プロ棋士のほとんどといっていいほど、学歴社会からは離脱して将棋の世界へ入り、将棋に打ちこみ、将棋の奨励会に入り、ある年齢までに昇格しなければプロ棋士になることができない。そうした自分の将棋の実力と厳しい現実は将棋漫画「月下の棋士」という漫画で知っていた。だれもが棋士である以上、名人を目指すのだが、そうした将棋にかける人物、村山聖さんもそのひとりであった。将棋のこまがプラスチック製でこまの角がとれて丸くなってすり減りうすくなってしまうほど将棋をさしたという村山聖さんの母が持っている遺品の将棋のこまの映像が忘れられない。
  • 将棋へのひたむきさを表した美しいのだった。僕には時間がない。名人になりたい、、、、、、、、、、、、、、この番組は確か、にっぽん紀行という番組だったと思うが大変興味深いもので葛藤の中にもがく己と将棋の世界が凝縮されている。機会があればその番組をチェックしてもらいたい。
  • (棋士について2記事 最後に 北村陵)