綿紬の弓浜絣・中江克己・
こうして書いていけば、少ないといいながらも、各地にまだいい手織紬が残っていて、きりがない。それだけ伝統を守ろうとする人がおり、手作りの民芸織物を好む人が多いからであろう。民芸の味は、いいかえればふるさとの味で、それが人々に郷愁を感じさせるのかもしれない。ところで、これまで述べてきたのは絹紬ばかりだが、紬には綿花から手紡ぎする綿紬もあるので、これについて触れておこう。綿紬の民芸織物といって思い出されるのは山陰の弓浜絣である。米子から北へのびる弓が浜半島は、日野川が中国地方から土砂を運んで出来たものという。しかし、奈良時代は「夜見の島」と呼ばれる砂の島にすぎなかった。米子の付近一帯は砂地で、室町時代の後期から開拓が行われたものの、米は育たず、やむなく農民たちはサツマ芋を植えていた。やがて砂地の中は温度が高いことから、綿の栽培が始められ、19世紀には大変な盛況ぶりだったと伝えられる。もともと日本に綿の栽培が定着したのは16世紀のことで、当初は貴重品あつかいをされていた。17世紀から18世紀にかけて、各地で盛んに栽培されて、庶民の衣服にも用いられるようになり、やがて庶民の衣服の主流になったのである。ところで米子の木綿だが、夏は熱く焼けた砂を踏みながら、綿井戸と呼ばれる小さな池から水を汲み、朝となく夕となくかけるのが日課で、大変な苦労をして育てたという。そして秋の綿摘みの季節となると、近隣の村々から雇われてきた娘たちの赤いたすき姿の賑わいが、浜の風物詩でもあった。綿作は手間と技術が必要で、「綿は古来百人手間」などといわれていたのである。綿花を収穫すると種を取り除き、打ちほぐさなければならない。その種からは綿実油をとり、その殻は藍甕を加熱する燃料にしたという。種子を取り除いたものを繰綿(くりわた)というが、これを打ちほぐし、「篠巻(しのまき)」(中国地方では綿筒 じんき といった)に巻きつけ、筒状にする。これを糸車で糸にしていく。こうした手紡ぎした綿紬糸を用いたのが弓浜絣であった。もっとも現在は機械製糸がほとんどで、手紡ぎ糸は少ないが、しかし、綿紬には独特の風合があらわれ、これを好む人は少なくない。弓浜絣は緯の絣糸で模様を織り出す絵絣だが、その模様はその時代その時代の生活を反映させて、実に多様である。生活の詩といってもいい風情があり、それがまた弓浜絣の大きな特徴となっている。むろん糸染めは藍染で、紺と白の清潔な調和が美しい。こうした綿紬は、だいたい綿の栽培がほとんど滅びかけているだけに、ごく一部の地域でわずかながら行われているにすぎない。滅びさせてしまうには惜しいもので、まだ残っているということが、ありがたく思えるほどである。