大島紬の生命は泥染め・佐々木愛子
戦争前の大島紬は泥染、泥藍染だけでした。母の若い頃までは、緯糸に紬糸を使ったものがあったようですが、私の時代の大島は、もう経緯ともに生糸でした。私の子供の頃、奄美大島から中年の女の人が毎年、大島を売りにきたのを覚えています。大きな風呂敷包みを背負った男の人をお供につれて、聞きとりにくい奄美の方言で話をする女の人が、座敷に大島を広げる時は、とてもたのしみでした。私の娘時代は、一疋大島で、きものと羽織のお対をつくるのがきまりでした。その頃の大島は、今日のように高価なものではなく、お召や縮緬と同じくらいの値だったと思います。娘時代に作ってもらった大島は長女が中学生になる頃まで、何度も仕立直して着ました。泥染をくり返した糸で織り上げた地風には、ふくらみがあり、すべりがよく、しわにならず、この上ない着心地でした。後年、きものにかかわりのある仕事をするようになり、ルポを書くため奄美大島を何度か訪ねました。テーチ木の液に浸した糸を泥染田に運んでは、もむ作業のくり返しの末、あの大島の着心地のよさが生れることを知りました。南の島とはいえ、真冬の泥田はさぞ冷たいことでしょうし、真夏の泥田で強い日光を浴びて仕事をするのは、並々の苦労ではないと思います。テーチ木の液で糸をもむ人は、腕まで茶褐色に染まり、膝まで泥田につかる人は、体中泥だらけになります。こんな仕事をする若い人がなくて困るということでした。大島紬の特色は、この泥染にあるのだと思います。色大島、白大島には、まるで染物のような多彩な絣柄もありますが、織物の品格、着心地は、泥染大島には遠く及びません。私の若い頃に着た大島に、泥染の黒褐色の地に白茶や、えんじ色で大柄な縦縞を織り出したものがあり、お対にして、とても愛用しました。この頃の化学染の大島の縞や格子とは全く違い、泥染の蚊絣の大島と同様な風合だったのです。今もあのような縞大島を着たいと、いつも思っているのです。名瀬市や鹿児島市の大島紬の工場で、製作の工程を見せてもらいますと、蚊絣で多彩な文様織り出すために、息もつまるような作業が行われていますが、それがかえって、大島本来の美しさを損なっているのが、残念でなりません。誰の責任か軽々しくはいえないことですが、大島紬は間違った方向にどんどん歩いて来たようです。こんなに手をかけすぎた織物を着ても、女の人が美しく見えないことだけは、たしかです。泥染、泥藍染の特色をどこまでも守り、もっと素朴で端正織物を作り、いたずらに値段を高くしないことが必要だと思います。