農閑期と紬を織る女たち・本吉春三郎
信州は、群馬の上州とともに我が国の二大養蚕地です。紬は紬糸を用いた織物のことです。紬糸は玉繭(二匹の蚕が共同して作った一つの繭)や出殻繭(蛹が繭を食い破って飛び出した繭)のような屑繭を真綿に作り、この真綿から糸をひいて作ります。屑繭の糸はところどころ切れているので、立派な糸にはなりません。したがって紬は、不揃いで節や大小があり、羽二重や縮緬のような均整のとれたよい織物には不適当です。信州は上田の方の北信も飯田地方の南信も養蚕地ですから、当然屑繭ができ、材料が自給できる強味があります。また信州は冬が寒くて農閑期が長いので、屑繭を糸にひき、それで織物を織る副業が盛んになりました。紬織は外見が素朴、材料は屑繭ということで、江戸時代の贅沢の禁止にも見のがされました。信濃路を歩くと、冬は枝をたばねた桑畑がつづき、初夏の頃は背もかくれるほどに繁茂した桑の葉が風にそよいでいます。「桑の中から小唄がもれる 小唄ききたや顔見たや」の伊那節そのままです。北原白秋は「信州伊那の谷 木瓜(ぼけ)の花盛り 春蚕かへそか婿とろか」とうたっています。冬が近づくと「はるか彼方の赤石山に 雪がみえます初雪が」と、これは北信から南信が望んだ風景です。信濃路の民謡を聞いていると、いかにものんびりとした農村風景ですが、しかし、諏訪生まれの歌人島木赤彦の「桑摘みて桑かぶれし子どもらの痒がりにつつ眠れるあはれ」という場面も多かったのです。大正末から昭和のかけての大不況のとき、数か月も苦労してつくった繭の相場のあまりにも安いのに気が狂って、千曲川の橋の上から繭を捨てた老婆の哀話を今に忘れません。草木染の言葉を生んだ山崎斌(1892〜1972)は信州生れの文学者でもありますが、昭和4年、郷里の青年たちに養蚕不況の対策として田舎手織の復興をよびかけ、その振興に力をそそぎました。山崎は機を織る農家をさがし歩いたが、自分の家で織ることを何か恥とする気分があることを知って驚きました。「いんね、おらが家じゃ、何年にもそんなもの織った憶えも無えじ」といって顔色をかえて「機織って着るほど、貧乏したくはねえじ」と独り言をいう主婦もあったそうです。最近は若い女性たちが進んで機織をやっているのを見ると、戦前、きびしい織物消費税という法律があって、とても趣味や道楽では手が出せなかったのにくらべて、社会情勢の大きな変化をみる思いです。かつて、機と老人は置き場に困る、という時代があったことを今さらながら考えます。今の老人問題は深刻なものですが、手織機で織ることには文化国家のレジャーという思いさえぬぐいきれません。