暖か味のある津軽こぎん 専業の刺し手が完成したデザイン 大林しげる
時として木綿を刺したものであったが、それはたまたま武家や商家から、わずかに入手した木綿を用いたものであったろう。刺し糸に木綿を使い出したのは、木綿を容易に入手できるようになった明治になっての後である。潘令は失効しても、長い忍従の歴程に築かれた伝統は容易に崩れることはなく、以前のままに刺し糸は白に限られた。知恵と伝統に培われた技術の集積は特有の美をつくり上げ、それはそのまま制約を乗り超えた「自由」の象徴となって「民芸」を確立する。民芸は、そのようなものではないだろうか。素朴な人々はついに華麗な染め色も模様やデザインも事新しくつくり出すことはなかったが、その手法はそれぞれの住む土地の土地柄や風土の特色を反映してか、いつの時代かに「東こぎん」(弘前の東の地方)「西こぎん」(弘前の西の地方)と「三縞こぎん」(弘前の北方、金木地方)の三種のこぎんの原譜を生んだ。しかし、土地の人々は、それらの系譜ができたと知らず、自給自足のこぎん生活を、ただ黙然と続けていたのであった。やがて怒濤のような時代の流れの天変は、こぎんにも大きな影響を与えずにはおかなかった。明治維新で藩制がなくなり、文明開化の波が押し寄せるなかで交通がひらけ、とくに東北本線が開通したあとは、藩制時代にはぜいたく品とされていた木綿が目ざとい近江商人によって運び込まれた。それまでは高嶺の花であった木綿も「わずか米一斗で買える」とあって土地の人々は大いによろこび、われもわれもと木綿の着物を着るようになった。木綿はさらりとやわらかく、心持よい感触であったから、普及は急速を極め、逆に地機の麻の布地に綿糸を刺すこぎんのほうは明治27年〜8年ごろを最盛期として急速に衰えたのであった。最盛期ごろのこぎんは、潘制時代のこぎんと大差があって、かなり立派なデザインのものを生み出していた。それは現代のもののように、必ずしもみごとな幾何図形の、隙のない造型をみせるものではないが、よくもこのように立派なものをと驚くに足るものであった。それというのもたぶん、嫁入り道具として定着したこぎんであったので、手なれた刺し手に「ほかの人のよりも立派なもので、いままでにないものを」などと、条件つきで依頼する親たちがあらわれるようになるなどで、刺し手がしだいに専業化するようになり、同時にプロの面目にかけて、いろいろな工夫を模様のうえに試みるようになったからであろう。