本場結城紬 古書と単行本 現代 染織厳選読書(1)
  1. 本 タイトル 著/共著 本紹介と評
    no.1紬 銀座紬屋吉平 山辺知行 紬 つむぎ 限定1200部での出版が県立図書館以上の保管であり、民間では新宿のアートブック専門店での取り扱いというまでに至り、その画力と芸術的価値を物語っている。昭和を封印した良書といっていい。
    草根花木皮染  松本宗久 アマゾンやヤフオクで高額取引されている本である。実物の糸サンプルがある。こちらも後世に残したい良書。有名図書館にはおそらくあるだろう。解説本や函が欠品が多い。全てそろっていればほぼ草木染めサンプル資料の決定版である。 卵かけご飯に卵を2個入れる人がいないように、二冊もっていたら奇跡である。
    熨斗目 のしめ 吉岡幸雄 平成9年に出発された縞や絣、格子といった美事なカラーの布地たち。晩年尻上がりになる予兆と自負、そして布のデザインが示す高度な柄はみるのの心を踊らせ、遊ぶ。大型本はペーパーバックでの入手が限度だろう。
    日本の染色 上村六郎 平安時代の文献をすべて読了し、平安時代の染色と専門書をかたすみまで吸収して出力に変化させる。あまりにも偉大な染色家であり、天は二物を与えぬ というが嘘である。天は二物も三物もあたえている。研究するというテーマは一度のめりこむとぬけることが難しい。
    縞のミステリー 竹原あき子 縞の歴史とエッセイが混ざり合う本。文章は参考書籍を多くすることで、少々かためである。縞の歴史は日本だけの側面でなく世界史にもきちんとふれている。

    日本の伝統色

     配色とかさねの事典

     

    長崎巌 江戸時代中期頃、いままでの時代にない、庶民が経済力をもちはじめるという時代に。このことでこぞって流行をおうという時代の産物をうみだした。とくに派手とは逆の、地味で洒脱、すなわち粋の志向である。それは結城紬も黒や茶が多いという色の背景的歴史にも同じくなぞられてつながっている。この本は、染色のプロ用の専門書であり、染色に興味の無い人には意味をなさないつくりになっている可能性がある。

    草木染染料植物図鑑

    山崎青樹 その名の本のタイトルと同じく、植物学と過去の文献を染色するものに知恵をあたえてくれるものである。草木染めの山崎氏が草木染めという言葉として、特許として草木染めをえた一族であり、また同時に広く後世に伝えてもらいたくて、草木染めを自由なものへと流れをむけた意味がわかるような一冊。群馬の偉大な染色家は日本の染めを重んじて、草木染めと他の染色家を愛した。

    近世のシマ格子

    着るものと社会

    広岩邦彦  著者が縞という一つのデザイン、柄のことを本のタイトルであえてシマにしている。嶋、島というように、歴史のうえではそれらの記述を縞におきかえるのは、狂いが出るといい、本の中ではテンポ良い極力短文にすることで緊張感がうまれ、参考文献が多く登場するにもかかわらず難しいことをわかりやすいように文章の構成に工夫がみられる。結城紬が歴史において、すべての絹物値下がりの中、結城紬だけ値上がりしたという異常事態にも触れている。また、哲学者の九鬼周造(くきしゅうぞう)の著書についてもふれるところがあり、九鬼の示した<「いき」の構造>の一脈が統一されて正当な考えのひとつであったことがわかる。

    縞事典 日本の縞名百相

    外山美艸 著書に名百相とあるが250をこえる縞を紹介している。縞がこれほどまでに多くあり、ひとつひとつに、歴史の一句など、古事記や万葉集などからもひろいあげて、縞を紹介。

    民藝の教科書2

    染めと織り

     

     

     

    久野恵一 監修

      萩原健太郎 著

    全国の染め織物、織り織物を紹介。民藝の教科書シリーズの2であるが、はじめて民藝や専門的になっていくそれぞれの分野で、大雑把に全国見渡せばこういうものがすでにあるといった世界観を披露しつつも写真と文章はどことなく女性読者獲得の方向性にある。

    天然染料の研究

    理論と実際染色法

    吉岡常雄

    昭和の限定での出版物であり、著者は限定にすることは周囲から染色資料の発展の妨げになると指摘され、限定での出版をわびている。昭和において25000円という本の価格は個人で工面するのは難しかっただろう。天然染料において、世界史から日本史と幅広くみわたし、己の偏見多いとといたうえで、独自の視点を展開する。貝殻を使用した貴重な染色は贅沢な染色であったといい、王宮などにあるものは、退色が少なく、素晴らしい技術とかいている。

    きもの熱 清野恵里子 樋口可南子のきものまわりという本を思わせる雑味の少ないテイストで著書は進んでいく。第1章から貴重な結城が登場し、最後までとぎれることなく、年代物のきものが写真とともに紹介されていくこととエピソードもつけくわえて読者を飽きさせない。きものは私の人生をかえてくれたという。
    ハーブ染めレッスン

    佐々木薫 総監修 

    梅原亜也子 著

    主婦などの忙しい人が、そのキッチンで染められるからどうでしょうかというような初心者からスタートする染色の本。写真の解説などでもそれほど難しいことや専門用語がとびかうわけでもない。ハーブでこれだけ染められるのであるというのがわかり、実際に染色してみたくなる。
    染色の理論と技法 西田虎一 この著書の出版は本書公刊の理由からして、教育的である。大学における染色講義に適切な書物がないため。高等学校の先生の要望に答えるため。一般染色愛好者の優良独習書がないため。の三本柱ときている。私は三つ目であろう。しかも内容が専門用語が惜しみ無く使用されているため、わからない用語はネットで検索して調べて読書するという前代未聞の読み方をした。これは昭和40年にここまで染色のことを思っている人がいたことにも驚きをかくせない。

    日本の染織2 紬

    素朴な美と日本的な味わい 

    著者複数 紬屋吉平六代目伝説の女将、浦沢月子の話もでてくる。二個の蚕があわさってしまいつくられる玉繭(たままゆ)という利用価値が困難な繭、蚕が成虫になり繭をくいやぶった出殻繭(でがらまゆ)や、そういった通称、屑繭(くずまゆ)を使用するのがもともと全国の紬の糸の原料であるというのが複数の著者が説いている。つむぎの魅力にすべてをかける人々の姿がそこには封印されて読者になるあなたをまつ。
    宗廣力三作品集   郡上紬を柳宗悦(やなぎむねよし)とともに宗廣力三(むねひろりきぞう)は、郡上紬を蘇生させた。村の士気を高め、組織をつくり研究所をつくり、と郡上紬に人生をかけた生涯が人間国宝という評価をうけ、また絣技術は斜め45度にとばしていく技法は彼特有のものといえる。彼がいなくなった郡上は、というなげきをきく書が多いが確かに彼のみで技法がどれほど眠ったまま終わったものが多いか、作品が語る。
    甲木恵都子草木染の仕事 甲木恵都子 宗廣力三(人間国宝)の門下という看板を背負い、彼の影響と郡上紬にみせられて、活動をかさねた。草木染めで繊細なタテ糸が私は目立って素晴らしいと思うが、そこが女性の美的感覚だったのかもしれない。宗廣力三氏と過ごした時間が作品に出ているのは格子柄である。
    図説 日本の絣文化史  福井貞子 絣は文化の中で育まれ、生産と残酷で厳しい現実を受け入れてきた。少なからずこの本で私は絣の受けてきた傷が著者から伝わってきた。本来この著書は厳重保管下にあるべくものであり、Amazonのながれもので手に入れた。その時代と解禁を真っ向から仁王立ちして受け入れる。こういった本に後何冊であえて私は磨かれるのだろうか、その時代に感謝するだろうか。
    草木染め大全 箕輪直子 私は学者ではないから難しいことは書けない。とし、それらを工夫という知恵で本書をカバーする。3500余種の草木の染色見本を披露してそのとおり草木染め大全である。草木染めにはキッチンを利用する。という著者だが、かなり本格的な染めである。後半はさらに草木を専攻していくつくりになっている。

    手織りの実技工房

    絣からもじり織まで 

    吉田紘三 この本を読んだからといって、絣やもじり織りがみにつくわけではない。あくまで織りの組織と道具の基礎知識を補うためである。絣やもじり織りは、それをつくれる技術者から伝承してもらったほうがよいと思う。この著者ならば、宗廣力三氏の絣技法を読み解けるのではないかとおもう場面があった。基本的にはさとす感じで淡々と進んでいく。経絣のつくり方の解説は現在の結城より原始的なつくり方をしている。
    きものの思想 戸井田道三 昭和の中頃には、洋服が多くなり、その波紋が著者をふくむ日本がどこへむかうのかわからなくなった、では考えてみようといった創作活動にもいまやうつる。着物の柄から考えをめぐらせて読み解き昭和という時代に疑問符を投げかける。
    日本の文様   茨城繊維工業指導所に置いてあるが、古本というか古書店にてまさかの出会いであり、ほっておかれた月日がより愛おしく欲をいえば欠番がありうめたい。代表的な文様をシリーズにして封印した資料である。
    貝紫幻想 芝木好子 現在絶版の昭和小説。吉岡常雄氏をモデルに貝紫の染色世界と男女の暗い恋愛関係を主題に描かれている。こういう世界観は私はひかれるものがあるが、なかなか人前ではこの作品が好きですとはいわせないものがある。絶版というのが心惜しい気もするが、私も本を紹介してくれた人がいたのが幸い、結城紬の職人はおそらく知らないまま終わっている。

    伝統を知り、今様に着る

    着物の事典

    大久保信子 監修

    温故知新を大切にするという監修の大久保信子さんであるが、ファッションの世界もめまぐるしいスピードで変化しているのであるから、着物に対する考え方もどんどんこの変化に対応するしかないという。スタッフと白熱した議論と検討を重ねて完成させたという。着物の基本から始まる解説や説明などがわかりやすく、また本全体の隅のほうに<信子さんのこぼれ噺 ばなし>とあり、こうしたアイデアは女性の細かな視点ともいえ、ひょうきんな女性なのだろう。最近は、ヘアースタイルまであって、ひそかに男性には理解できない新分野を開拓し始めているのも確かである。

    手織り手紡ぎ工房

    彦根愛 著 

     馬場きみ 監修

    高機における二枚綜絖、四枚の綜絖での織り組織が独特なものは、この本にほとんど掲載されている。また、そういった変わった織り組織のものは、変わった織り上がりの布を分解してどのような織り組織でできているのかを調べることで織りのバリエーションを増やしていく楽しみもあるといっている。織りは入門編、基本編、応用編で区別されている。織りの布の糸の浮き沈みも白黒で織り組織を視覚化し、解説しており、複雑な織り組織のものはそれをみるかぎり手がこんだものであると感じる。一例をとりあげれば、浮き織り、つづれ織り、模紗織り、からみ織り、ほぐし織り、風通織りなどである。
    蚕室 野木充 2003年に出版された本で20から30代にかけての執筆が蚕室と他4編で成り立ち楽しませる。蚕室は養蚕農家の戦前と戦後を舞台にえがき、戦争のもたらす不安と狂気染みた人間関係が熱く虚しくえがかれている。戦争という不可抗力と感情は養蚕について思いっきり作業にうちこむものも次第に虚しさと過去回想へと陥れる。
    日本の伝統色   古来より伝わる日本の色250色を紹介。文化や生活に深く浸透してささえた色は歴史の中でつけられた色名が多く存在する。著者はとくになく匿名性こそある。色の解説も色見本にはそえられるかのごとく掲載されている。
    新版 草木染
    四季の自然を染める
     
    山崎和樹 目次に四季を染める 染め色図鑑 染め工房 と区分されてテーマごとにかかれているのであるが染め色図鑑は図鑑の見かたが親切丁寧に、植物メモ、染色メモ、部位、使用量、染料液のとり方、染め方、色見本とあり短文ではあるがわかりやすい表のようになっている。雑木林にはえるような樹木などは見事なまでに薄茶や茶系での染色という結果になり、草木染めらしい。特徴的な色のものは染料として有名になっている。おはぐろ液のつくり方が書いてあるが錆びた鉄に水と酢の三つを同じ重量で用意して煮詰めていくという簡単にできるものであるがそのおはぐろを媒染にした染色は独特の黒色をつくりだす。
    『いき』の構造 九鬼周造 哲学者九鬼周造は いき について言葉が日本の民族でどのように言葉として成立しうるのか本にまとめた。昭和4年に出版をこころみている。いき の内包的構造、外延的構造、自然的構造、藝術的構造でいきについて考察し、着物については藝術的構造で解き明かそうとして着物の縞についてのいきについて書いている。灰色はなぜいきか、は白と黒に推移する無色感の段階でこうした途中の色は茶色などでも同じことがいえるとしていきな着物色として成立しえたとしている。
    日本の絣 岡村吉右衛門

    絣の親元は沖縄である。多くの人がそうよぶようになった。1789年から1835年にかけ沖縄織物成熟期を示すと思われる御絵図帳に沖縄のみならず本土、否、世界に君臨する絣として心にとめておきたい。御絵図の研究はそのまま括絣の核心に触れよう。また戦前に柳宗悦の甥である柳悦孝と田中俊雄共著の<沖縄の織物>と戦後の田中俊雄と田中玲子の共著<沖縄織物裂地の研究>が定評であったと岡村氏はひもとき、<沖縄県立芸術大学美術工芸学部紀要 第5号>(主力は祝嶺恭子とルバース吟子の二人)に触れずして日本の絣は語れないとし、この協同研究は従来、御用布は手結い(絣)に終始し、図案を予め規制する種糸絣(直接染色による絣のおおもとになる原始的なつくり方をしている)は廃藩置県の後に本土からの移入であるとの定説を鮮やかに覆す研究結果へとみちびいている。また説明ながかれ,手結絣(絣括り)の主流は首里織絹絣の宮平初子(現在 人間国宝)と喜如嘉(きじょか)の芭蕉布の平良敏子(たいらとしこ 現在 人間国宝)によって堅実に守られ、その後に二十世紀後半の伝統を新たにした見事な手結い絣は柳悦孝と大城志津子に代表させ、二十一世紀を開く若人の活躍を待ちたいと結んで本書を終わらせている。

    きもの暮らし

    着こなしの知恵と楽しみ

     

    青木玉 吉岡幸雄 共著 幸田露伴が祖父であり、母が幸田文という厳格な家庭で育った青木玉さんと江戸からの染屋、染司よしおかの継承者の対談で構成されるきもの暮らしという本。東京は空襲、京都は応仁の乱という時代が一度焼け野原になるという空白と平安時代、王朝回帰など時代のなかできものが変化した時点について濃く語る。平安時代における、草木染めの季節のうつろいに関しては当時教養された階級のものは特に色について詳しいという点に関してはほぼ同感であり、源氏物語に登場する女性は全員きものや色にうるさいが、高貴な女性ひきめく中できものの色で差をつける特有の生活形式は必然的に染めには関心が高くなり、こうした時代においても高い身分のものも染めを自らしていた。また幸田露伴のエピソードも青木玉さんがトークしており、それをきいても幸田露伴らしいと思えるのであるからキリッとした人物だったに違いなくイメージは崩れない。2000年に出版されて、平成の娘に華やかさをといったテーマの部分の対談やアドバイスはファッションに苦心する現代にも精通する。
    草木の染色ノート 加藤國男

    草木の染めに関する資料が多い中、草木染めの素材はウールにすることで差をつけるかのように、ウール染めをする染色家には適したストライクな資料になることであろう。また染材料は、野菜、一例をあげればそれも染まるのかといった感じではあるがダイズ、ソバ、ゴボウ、サツマイモ、ニンジンといった一日でおそらく栄養摂取していると思われる一般的で手に入れやすい野菜たちであり、さらには果物の部門にはクリ、ザクロ、カキ、キウイ、ブルーベリー、ラズベリーなどであるがこれらも染めることが可能である。さらにはハーブ全般と野生植物、庭木なども紹介して、なにがなんでも染めることを試した気合の一冊である。

    草木染750色 高橋誠一郎

    京都が出版した草木染めのサンプル本。あまりにも高額な一冊なので財布は悶絶。こうした資料を買うのであれば、うな重が何回食えるか、といった楽天家のほうが人生、しあわせで生きやすいのは確かである。草木染めを専攻していくうえでは、この高額投資はさけてとおることは不可能にちかいものがある。なぜならば、草木染めはどこまですでに研究が済んでいるのかを知ることができなければ、その染めに新たな可能性や生産物にいぶき、勢いをふきこむことが困難であるからである。またこうしたサンプルや図鑑が世に出ないころの苦労は、想像を絶する染色の壁であったといわざるをえない。

    源氏物語、枕草子

    (日本の古典)

    古典の解釈者多数 染色を考えると古典に植物の名をしるして登場しはじめて、こうした文献に残されていることをもとに、多くの古来からの染色法を再現するといった、大きな染色プロジェクトが時代時代で行われてきた。平安時代前後は色によってその染めの材料は何かという沈黙や暗黙のうちに理解する予備知識が高貴な階級のものには必要なものになり、色への関心が強い時代であった。そうした時代に突出した色彩感覚をもつ女性は名を馳せることができた。古典では現在も名称が変化しない植物や推測が頼りの色も存在する。季節や色もこの時代には数多くかきのこされた。時代によって古典のよみとり方が変化していくことがおもしろい。といった解釈をするものが多い。

    新技法シリーズ 染めもの

    染料顔料 型染め

    筒描き 化学染料 鑑賞 

     

    岡村吉右衛門 

    四本貴資 共著

    チェコスロバキアの木版蠟染めがあるが染めものという言葉の持つ一つの観念は西洋にはほとんどみられないという。図柄は<模様>と呼ばれ第一に<実用性のある品ものにつけられる>ということで、模様を離れて単独に存在しないという。実用性をもたない純粋絵画とは異なる。用途をもつことが工芸の性質であり、着物のなどの品も<形に従属する>ものであって、形を無視して成立しないという。さらに<用途に似つかわしい>性質があるとしている。染めものをすることは、装飾本能という人間の祈りの微を染めていることになる、模様には従属性という受身の性格が基礎にありそれが、何かを表現せずにはいられない衝動に変わる時、それは本能的な祈りにほかならないという。命をかけた戦場でわざわざ目立つ色の鎧、甲冑を染め、美々しく身につけることは危険な動物の警戒色と同じと結論づけている。様々な染めものに関する基礎知識を学べること、技法に関する手順を知ることができる本書は1980年を前に新技法シリーズとして分野多くプロジェクト化されて出版されている。

    新技法シリーズ 工芸染色ノート

    繊維と染色 糸、布染めの基礎

     

    柳悦孝 

    假屋安吉 共著

    著者である柳悦孝氏は、手結い絣を探求するという日々に若かりし頃、自分の影に追われて活動を続け、沖縄でそのほとんどの探求活動を捧げた。柳宗悦氏の甥であり、のちに将来有望とその活動が認められ日本民藝館の館長や女子美術大学の講師としても活躍をする。そうした経験から染色に関して正確な染色方法を記述して残しておくことは有意義であり、假屋安吉氏と共著することで新技法シリーズの一冊を手がけた。化学染料が日本に全て手に入るような現在の恵まれた環境とは別に、まだ化学染料が入手困難な時代にそうした草木染めでは制限されていた色からの解放を生徒は喜んでいたという。しかし、化学染料を用いての染色法が、未熟で色が落ちやすく生徒は困惑したという珍しく染色法が確立されていない時期の出来事をつづっている。しかし、そうした序文とは違って、実技と染色方法の正確なものとして、記録に残すとしただけあって、事細かに染色について書きこまれている。実際に女子美術大学で使用された資料であるというが、生徒は高度なレッスンをうけていたことがわかる。
    きもの 幸田文 きもの(着物)が日本人の当たり前の<ころも 衣 >であった時代が何故こんなにも人の心に響いて潤すのだろうか。著者の幸田文さんは、きものを題材にしてごく当たり前のように筆をすべらせた。その当たり前があまりにも自然体で自然美なのである。きものを通して幼少期からの女性の成長をえがくものであるが、きものの不便さと便利さをも正確に忠実に繊細に描写している。そのきもの生活のなかで家族と凸凹な姉妹が人情と愛情で成長していく。それらがなんとも言えない奥ゆかしく質実なのである。決してお金に恵まれているわけではないが豊かなのである。余計それが今を持って過去を美化してはいけないがきものを通しての家族と絆が幻想的な美しさを秘めている。関東大震災にあってからとその前のありふれた日常ときものを描ききった著者の自伝的小説との見解と位置づけは正しい。幸田文の文学はこの一冊に凝縮されていよう。自意識のナルシズムと世界観が挫折をむかえない強さのようなものがそこにある。こういったものをかかれると私も惹かれてしまい、大変弱ってしまう。<ぼろはきててもこころはにしき>とはいったもので生活感あるきもの女性の姿を忠実にえがき、美しくそして内面も強い女性であり続けたいと今昔(こんじゃく)の女性は願っている。そうした意味で一読の価値はおおいにあるため、この著書をすすめる。人のこころに残る作品こそ真の成功であり名著といえる。幸田露伴が父であり自慢の娘と天国でほほえんでいるであろう。
    染と織 安西千恵子 監修 序に代えて、として始まりに万葉の時代から今日まで日本人の美意識が連綿と織り込まれてきたものがきものであるという。美しいきものの歴史は人間の体温調節や護身という目的の衣生活に始まった。全国の織物を写真付きで産地、特徴、用途、変遷といった織物、布の歴史、染色法、をひとつひとつ織物別に記されている。カラー写真だけにどういった織物なのかがひとめでわかりやすい。また本の最後のほうに織具、織機(しょっき)がしるされているが、戸外機、地機、高機、ジャカード機(フランスのジャカードが発明した織機で日本は数えるほどしか現存していないと思われる位数が少ない 帯の高級品で使用され、明治六年に輸入され、明治十年から国産化されたという織機 )、足踏機(手織機と力織機の中間)、力織機(唯一これだけが完全に動力源が電力 機械に一番近い織機)の六つを解説。こういった中で織物の多くは効率よりむしろ適性を重視して織機は選ばれる。
    日本色彩文化史

    前田千寸 

    上村六郎 監修

    上村六郎氏は古代染色家で前田千寸氏も同じく古代染色家でありライバル関係をよぎなくされたのは思想の違いであった。日本民藝館館長で、民藝の父とよばれる柳宗悦氏とも出会っているが、六郎氏と同じような考え方が多く柳宗悦氏の著書へ書かれていく。六郎氏は化学染料の研究者から古代染色家になった。こうした古代染色家の背景があるにも関わらず、日本色彩文化史という前田千寸氏の名著に監修をうけたのは、あまりにも素晴らしい研究をしていたためであると上村六郎氏は語っている。この名著に目を通さずしては当時の染色の研究は語れないと言わざるを得ないのが実情といえる。

    専門書だけに超高額資料のまま現在もほとんど推移をみない貴重な高額資料である。

    正倉院、京都、奈良、大阪、兵庫といった数多くなどの旅を重ねて、古代染色の遺品を検討し、適正と思われる技法を探り試験染めを行ったという実布は巻頭に収められている。監修の上村六郎氏は、前田千寸氏と古代染色についてともに二強を切磋琢磨し、ときに解釈が異なる染色解釈も多かったが、この前田千寸氏の生涯をかけて大成したという名著は、染色資料や著書に厳しい論を展開し、批判されて嫌われているようであると、自分が酷評なので仕方ないという上村氏も絶賛し、二強古代染色家がタッグを組むという歴史的染色資料である。

    一竹辻が花 久保田一竹名品集   辻が花の長い年月のあいだに、だんだんできたもので多彩な絵模様染の最後が友禅染になった。どんな色でも形でも自由にできるところまでいった。久保田一竹氏は若いころに見た辻が花を自分の手で再現したいと思った。そうした長い歴史の試行錯誤を二十年におよぶ下積み経験と失敗の数は、彼を成長させ、古い辻が花に新しい辻が花のあり方をとりいれる新技法とよべる辻が花を表現させることを可能にした。そういう意味で一竹辻が花は伝統文化継承の一つの姿を示した。一竹辻が花は、女性が美しいあまりワァ、一度はそでを通してみたいと思うものといったのは、数少ない一竹辻が花の所有者の黒柳徹子さん。一竹辻が花は美術品の仲間入りをしてしまい誰でも実際に着てみようというわけにはいかなくなっている。

    新技法シリーズ

    きもののろうけつ染

    ろうけつの基本技法から

    着物の手染まで

    中嶋紫都 一般的に友禅染や型染は、はじめに防染をしてから自由な配色で防染されたなかに色を塗り込んでいけるが手描き更紗や手描き染めも技法、工程こそ違え、なんらかの糊状のものを加えて染料を顔料化して用いるため絵の具を使って絵を描くように作業ができる。しかしろうけつ染めの場合、地色が濃く、なかの模様が薄い色の時も反対の場合でも原則として薄い色から順に濃い色へと染め重ねていく。しかも染液は透明のため必ず先に染めた色が大きく影響してくる。透明な水彩絵の具を重ねてぬる状態ににている。色の補色の関係も大切な仕事の色彩知識である。ろうけつ染の歴史は、遺品資料がなくすべて想像と憶測の範囲を出ないがろうを用いた染めは古くエジプト、インド、ジャワなどにありこれがぞくに更紗とよばれる。日本最古のものは正倉院に残る奈良時代のもので中国から伝わったものといわれている。
    定本 和の色辞典   結城紬の無地オーダーではこうした色見本のようなサンプルになる本は便利で、こうした色見本帳のような本は2,3冊あればほとんど抜け目なく好みの、もしくは指定の色を選んでもらえるのである。それだけに仕事で活用されている実用書的な位置づけであるといえる。つむぎの無地の色のサンプルとして、色見本の紙に光沢が無いことも重要といえる。光沢がある場合、サンプリングが不安定になる上、光影で見本とは異なる場合もある。こうした光沢のない色見本は重宝される。この和の色辞典という本一冊でほとんどはこの中から決まるくらいに色が紹介されている。やはり二、三冊の色見本があればそれに越したことは無いが、一冊のその中で色が決まるくらいに一冊の完成度が高いともいえる。

    明治 大正 昭和に見る

    きもの文様図鑑

    弓岡勝美 編 

     長崎巌 監修

    弓岡勝美氏が紹介する本は、極めて美意識と美の質が高いという印象が強く、個人的に、まるで女性、いや女性より女性的な感覚をもっているという点が、粋狂人にみえる。失礼多いが、弓岡氏の著書の多くは、著書に顔写真が掲載されており、それをみるにヤクザのような怖い顔とは対照的な優しく優美で繊細な世界観を紹介している。個人的に弓岡氏の本を集めて、ちょっとしたところで本紹介していたら、本人から東京へくるといいとお誘いがありほんとにびっくりした。パリコレクションのクリスチャンディオールの仕事をまかされて、美意識は洗練されていったそうである。古いきものをコレクションすることで知られているが、最近は青山にお店を出店して、和のぶんかに関する塾を定期的に開いて、若い世代へ向けての企画に力を入れている。晩年になって、そうした貴重な経験の多くが彼の言葉に重みを与えている。弓岡氏が手がけるものは美しいかどうかという点は本当にぬかりがないもので、こうしたことは彼のてがけた作品の全てに一貫していえる。
    きもの帖

    幸田文 著

    青木玉 編

    幸田文こうだあや さんは着物で一生過ごしたといわれ、それを素晴らしいといわれるのはうれしいが、着物姿で結果的に洋服を着なかったのは、洋服を着るタイミングを逃したり、また着物姿でいなくてはといった信念があたわけでなく、複数条件が重なってのもので、といった感じのようである。偶然の産物くらいのものだという。この著書は60歳をこえてからの熟知ある視点から、メッセージのようにかかれている点で私も女性だったらもっと参考になった本だという気がする。きものは一年にニタン新調しても10年で20タンになる。きものは、はじめはよそいき、買い物着、部屋着、生活の布、という点でさいごまで活躍すると説いている。この著書からではないが、藍染めの昔の野良着はもっと現在あっていいものと思っていたが、藍染の布は最終的に細く切ってよじり、それに火をつけて蚊をよけるために畑で活用されていたというくだりで納得させられたものだ。ものが少ない時代に完成された価値観は強い気がする。幸田文の生活の知恵シリーズは台所としつけが出版されている。

    Vegetable Dyes 植物染色

    エセル メレ 著

    寺村祐子 訳 著

    これまで資料集めに奮発しすぎて金欠のため、ゆうき図書館で借りた。エセルメレの名著で知られるVegetableDyes(ハンプシャーハウス印刷工房)は訳者序では18世紀半ばごろから始まった産業革命によって、イギリスの染織界は急速に手工業から機械工業に転換し、その中で伝統的な手工芸が減っていくことに危機感を覚えたエセルメレが自らの研究と経験をもとに多くの染織に関する指導書を残した。VegetableDyesの初版が大正5年のことで容易に植物染料が手に入いらないくなったり自由に使えた媒染剤が環境汚染問題から厳しい制限などがあり、全てがそのまま活用できるものではないがウール染色の基本を丁寧にかつ広い範囲に記している点で他に類のない技法書であるとしている。エセルメレのこの著書(イギリス)の中でも寺村氏は『地衣類』による染色であるところは、日本では古くから絹や木綿を染めるのに植物染料を用いてきたが『地衣類』を用いる伝統は全くなく、それだけに大変斬新に感じたという。『地衣類』に始まり『菌類』、絹や木綿には染まらないことで知られるユーカリ(月桂樹)などの試染を始めて30年あまりがたち、180種1000色以上の色見本ができあがったという。大正五年に出版されて間も無く日本では柳宗悦を中心に民藝運動が始まり、イギリス陶芸家バーナードリーチ氏を介してメレも賛同したという。民藝活動の主力メンバーの笠間焼人間国宝で知られる濱田庄司氏や柳宗悦氏などと交流を深め、日本でも展覧会が多く開催された。染織界の優れた教育者でもあったメレの素材や植物染料に対する取組みの基本的な姿勢を教養的古典としてよむのも悪くない。

    初級技法講座

    織物 用具と使い方

     

    水町真砂子 著 こちらも金欠でゆうき図書館で借りた。資料集めは50冊以上を半年で集めると、いよいよ貧乏になる。それはさておき、この著書の、織物道具は結城紬では使わない用具は新鮮にうつる。この著書の参考書籍は新技法シリーズ ウィービングノート 岸田幸吉 新技法シリーズ タピストリーを織る 島貫昭子 新技法シリーズ 手織りの基本 土肥悦子 新技法シリーズ はじめての織物 荒木峰子 新技法シリーズ 紐を織る 山梨幹子 など新技法シリーズからの参考からさらに噛み砕く手法を用いての初心者にあてられた出版である。2000年以降の出版の織物関連の著書の多くはコンピューターなどの進化に同じく図案といった設計ははかりしれない恩恵を受けている。そうしたコンピューターによって表現可能になったものは数え切れない。パソコンにより、より高度な図案や表現が可能なものになったのであるから一概に機械進化を悪く言うのもおかしなもので用途によっては便利になったことが多い。この著書も例外ではない。みたことがあまりない用具に関しては、おもしろたのしい読書になる。また原始的な地機から正真正銘機械の織機までに至るまでの変遷(へんせん)の中間に位置する道具は、生産期間が短いことなどからも貴重で現存数も少なく、半自動機械織機は食い入るように私は資料をあさる。それはそれで充実している。
    織と文 志村ふくみ 著

    志村ふくみというと人間国宝としてのキャリアが長くなって、質問される側に立つことが多いが、あなたは何故植物染色をなされるのですか?という質問を随分されたという。そんな風な質問をこれまで、きがついたらやっていましたという他ないという。化学染料は使ってはいけませんか?という質問には、そんなことはなくどんどん使ってくださいといってきたという。化学染料は自然の色彩を基盤にして人間が考え出したもので、どのような優れた感覚を駆使してでも、今までに見たことがない美しい色彩を生み出すことができると志村氏はいう。志村氏は続ける、、、植物染料は、植物染料という前に色がある。多分その色のことなのだろう、私が思わず知らず今日まできてしまったのは。『色は色ではない』ところにひきつけられてでは『色は色ではない』とはなんなのかと思ってしまう。だから植物染料に関してその問いに答えられないという。しかし『色は色ではない』と思っている領域が化学染料のはなく、(化学染料は)色は色である。という。では『色は色ではない』領域が自然のむこうにあって、そこから地球圏内に突入する時、色になるのだろうか、その前はなんなのか。『色は光の受苦(じゅく)である』という言葉がある。(これは確かニュートンの言葉です。)この言葉に出会ったことがずっと続けている基盤ではないだろうかという。

    こうしたワイドな思想は、染色がヨーロッパは近代科学への方向、日本は古典や歴史の文献に始まる自然と植物への回帰という方向の中、特に異質なことはヨーロッパでは神と自然というゲーテ的思想(ゲーテ 色彩論)に通づる考えの持ち主といえる。志村ふくみがこの織や染めの道を選んだ最初の動機は明確だった。柳宗悦との出会いであり織物をやってみてはどうかとすすめられたのだという。ここから柳宗悦の著書をよみ、動機はゆるぎないものへと変化していった。柳宗悦の強烈な美術論や宗教論は近年新しい批判が生まれているがその中でもこれは同感であるというのが一文たりともあればそれでいいような気がする。

    きものであそぼ 遠藤瓔子 著

    出版が平成14年8月とあり、著者のはじまりにはこうしるしてある。------インターネットに載せる情報には限りがある--------この119Pに表現した情報量は現在であればホームページ容量が限界に達するということは考えにくいが、確かにこの頃、画像一枚をネットに反映させる労力といったら汗がにじみでるものがあった。現在はそんな時代を本からすかしてみると楽しいのかもしれない。古書店に静かに出番を待っていた。このなかでこの頃とシンクロすることとして500円から2000円で着物をお安くお得にゲットするというテーマは同じといえる。ただしインターネットでの情報発信が現在のような快適性は秘めていないうえに情報量も少ない。

    私はこういった着物を着るために雑誌感覚で買ったというものも含めて、あなたが着物を離れて、また袖を通したいと思う日が再び訪れた時に、心の支えのようにかたみのように持ち続けてもらいたいと勝手に思い巡らせる。

    TODAYムック

    ゆかた記念日2007
     

    ゆかたカタログであるが、この約8年前にあたる当時のカタログをながめるというのは古書店ではあったものの、得ることはあるのかという、大体ゆかた事情に詳しいわけではないので8年という月日がどれくらいの勢いで通過してきたのかもわからない。ただ驚くことに、ゆかたは、一年で着る機会や時期は短いために、一発派手目を着てみようなんて心がワクワクしているのが写真から伝わってくる。そして勢いが最後まで衰えない。唯一男性がゆかた姿で数ページ任されている小池徹平くんが華やかな女性の中、男性というより中性的で華やかさ満載のなかほぼ違和感がないことも恐ろしい。

    藍染めのやや白地が多い爽やかなゆかたはどの時代も無難でかつ品良く見える。

    NHK趣味悠々

    市田ひろみのはじめてさんの

    着物塾

     

    市田ひろみ 講師 

    市田ひろみさんは結織苑(ゆうしきえん)で結城紬について語ることが多かった。結城紬では柄をすすめていたからである。無地派の森田空美(もりたあけみ)さんとは逆の思想であった。結織苑は長い年月に幕を閉じ現在店をたたんでいる。結布着屋スタッフで結城紬研究家の石島眞里氏は2014年の紬講習会ではその無地派への流れについての流れについてかるく触れていたがメイゲンを避けている。私は森田空美氏が無地をすすめるのはその時代には無地派についても仕方がないと思っていた。紬で無地を着る人がいなかったからである。なお、市田ひろみさん自身は結城紬の柄について固執し続けているわけではない。

    クロワッサン特別編集

    着物の時間

      ページのはじめごろに村田さんって方が蚊絣の帯状を着ている。そのギャラリーの村田容子さんって方の結城蚊絣の図案、コレとちゃうかな、なんか依頼うけた記憶ある。どこの問屋か忘れたけどこの図案の結城紬だと思う 。しかしよくみると、さっきの図案の帯状の蚊絣が斜めに切られるような図案なのでこれの応用であると。蚊絣は一反からつくれる唯一の絣でみたことがない珍しい絣がつくれるのもいえる。男性なら断然、全体に配置されるあきのこない絣がにあう。ただ村田容子さんは呉服屋だったというので、その筋には詳しい親や関係者、もしくはベテランの<しっかいや>という着物をすすめる番頭などがいたと思われる。なおその図案は左文字にリンクしてある。
    日本の絣,展 図録  

    日本の絣は庶民の織物として広く全国に普及し親しみ深い織物であったためにその美しさは私たちともすれば見過ごしがちであったのではないだろうかというきりくちに、紋綜絖(もんそうこう これは糸を固定する部分で糸道をつくるしくみの部分)や紋機を必要とせず、地機のような単純な機を用い織物も初歩的な平織りによっても制作できることが利点とし、世界的にみても比較的原始的な染織技術を継承している。このことは現在、絣が盛んな地域にみてうなずけるとしている。絣は各種の染織品のなかでも極めて特殊な存在であるという。普通、文様のある染織品を織物と染物とに分けた場合、織物は先染めの糸を使って織りの工程で文様を織り出したもの、すなわち地と柄の組織を違えることによって文様を表す綾(あや)と緞子(どんす)、多色の彩糸を織り入れて文様をつくる錦(にしき)をさし、一方文様染は製織に布帛に文様を染め出したものをいうが、ここで<絣>となるともちろん織物に分類される。確かに先染め糸を使って表すという点では織物であるが、しかし、その文様は組織の変化や彩色を加えての生まれるものではなくあらかじめ染めわけた糸によって織られる。つまり糸染の段階で防染や捺染によって文様がうまれるのである。ちょうど染めと織りの共同作業によって生まれるのが<絣>としている。余談であるがこの著書に掲載されている結城の蚊絣は私の先祖の作品である。

     

     

    またこれまでの絣関連の本から私なりに絣についてメモしたことを箇条書きして掲載することにする。

    沖縄 okinawa

    日本の絣のはじまりの産地で14世紀に始まる。

    久留米 kurume

    1800年前後からの伝統の絣。絵絣と幾何学文様を組み合わせたものが美しい。その絣の美しさと高度さは、のちに、山陰や伊予、備後に伝えられる。私がリスペクトしている日本三大絣の産地でもある。

    山陰 san in

    1751年から続く伝統の絣。絵絣でしかも繊細なものが目立つ。

    伊予 iyo

    1800年前後からの伝統の絣は山陰と同じく、型紙での絵絣が目立つ。そのため、絵絣に関しては山陰と見分けるのは困難とされている。

    越後 echigo

    上布の産地で知られるが沖縄絣の特徴を現在も色濃く残った珍しい産地であり、それ以来、進化も衰退もない。上質な麻による澄で明るい美しさが豪雪に閉ざされた冬仕事で育ち守られた。

    近江 oumi

    越後と同じような沖縄絣に影響している産地といえる。上布であることからも同じく似ている。滋賀県にあるため豪雪は少ない。

    結城 yuuki

    精巧な図案と絣で知られている。十字絣(蚊絣)と亀甲で知られる。久留米から絣を導入し、そのあと足利(あしかが 栃木県)と桐生(きりう 群馬県)と伊勢崎(いせさき 群馬県)で技法を取り入れて以来、究極の変遷を辿った絣である。

     

     

    日本染織総華 絣 浦野理一  木綿の紺絣は年配の方などなら誰でも郷愁(きょうしゅう)を感じる織物である。むかしの絣を知らない現代の若い人の間にさえ親しみをもって見られているのが絣である。それだけ紺絣は歴史的にも、さほど古くなく親近感と庶民性があり、日本人の心に直接ひびく本質的なものをもっているということがいいできる。世界各地に古くからあるのになぜ日本の絣だけが独特のものに大成し、しかも日本人の庶民の生活に密着したのかをときあかしたいとう。それは著書にかかれていくが、この本の8割は絣のビジュアル文庫的資料となっている。絣は飛白やかすれなどといわれ、文献上最もはやくに登場するのも1600年以降となっている。(その文献は 日葡辞書 という)。有名な<和漢三才図会  1713年わかんさんさいずえ>にも絣の項目はないのである。話がとぶが、私はこうした<絣>についての仕事でいままで従事し、生産をもしてきたがどのように絣を守っていくのかと考え続けている。絣を昔や過去のものと葬り去ることは簡単であるが、葬り去ることができずにいる。
    染織事典 中江克己 編

    昭和56年に出版を試みている。著者中江克己氏がいうに、昭和49年夏から準備を進め、昭和50年から約4年間に日本の染織全23巻を刊行したが、その意図したところは伝統染織の姿をできるだけ正確に記録し、伝えることであった。という。現場から技法や苦心談を収録し職人の聞き書きに多くのページをさくものとなったがそれも特徴になり自負しているという。刊行および出版はその日本の染織全23巻の成果の上に成り立つものであり、集大成の意味合いがあるという。染織事典の企画は、すでに日本の染織シリーズ刊行開始と共にスタートが切られ、準備を進めていたとして数万語に及ぶ染織用語を拾い出し、取捨作業にとりかかり、数千項目に厳選。しかし、様々な研究論文をも照らして基礎原稿をつくり、できるだけ正確に、的確に記述したが、個人差が見られることでもあり、複数の染織家に取材し一般性をもたせるよう配慮したとして、八年間の実りあるものとなった。

     

    現在のようにインターネットですぐに答えがみつかるようなシステムの構築を目指す、素晴らしい企画である。価格は当時8000円となっており、一般性をもたせるとしても、購入者は限定的とみるのが妥当なものである。

    大地の染織

    吉見逸郎  著

    大変興味深い資料となった。染織におけるストーリーが数奇なもの、生き方にうつるのも、背景には経済性と無縁とはいいがたいがそのことがより切実な生き方に現代ではみえてしまう。2008年にそうした職人や作家の一時的封印、保存のように残された資料ともいえる。長文になりそうであるが、本の紹介としてあげておこう。北海道アットゥシ織 アイヌ民族の天は無駄な命はさずけないという教えにいきる職人 岩手県紫根染め茜染 古典の色を紐解いて染める職人 紫根や茜は薬草的価値がありそう簡単にはいかない染 宮城県正藍染 人間国宝千葉あやのの正藍染 女から女への継承 新潟県越後上布 年間生産反数50反になった平成 半年を費やしての糸づくり 東京都すまし建て 人間国宝松原定吉の長板中形(ながいたちゅうがた)の型付けと藍、すまし建てを継承した4人の職人 などである。他にも興味深いものがあげられている。備後絣の継承者は現在一人になっていることなどの取材も染織の世界は美談より厳しい現実が背景にある。常々、私はつむぎは深刻化を増していくと修行中の身で思い、預金は仕事のためにと意識してきたことはこの現状において意味を持ち始めている。
    沖縄織物の研究

    田中俊雄 田中玲子 著

    柳悦孝 監修

    沖縄の織物の研究を戦前から戦後にかけて出版が多く世にでて高い評価をうけた。現在もその名著的位置付けは変化していない。また戦前の柳悦孝と田中俊雄共著の<沖縄の織物>という本は限定出版となっており、幻とささやかれているが県立図書館以上であれば保存されている可能性がある。発行されて全国広域で高評価されているが、輸送二重函の外側は欠落してしまう場合が多いという。中身が肝心でありコレクター以外でも所持者は多い。

    染織の基礎

     

    文様についてまとめた。

    植物文様

    植物文様は日本の文様の中で季節、季感表現はもっとも顕著。<枕草子>草の花は の条に秋草(あきくさ)という語を見ることができる。秋草というと秋の七草をイメージしてしまうことがある。季節と関わり深く季節を再認識する意味合いでも野の花はさりげなく静かに生きる。単に秋草というのは、草に限らず、花というようにも置きかえることもできる。<枕草子>草の花は の条では、何の秋草の美しさに激賞したのかといえば、なでしこである。秋草を春というように季節を変えてみてみよう。<枕草子>木の花は の条にこうしるされている。桜は花びらが多く、葉の色濃く、そして枝は細いのがよいとある。このような文献と植物とを当てはめてみると桜は枝垂れ桜がもっとも理想的といえる。梅や藤の花房長く垂下するさまを思い深く記述している。

    動物文様

    着物の文様としてみると、その意匠はかなり限定的なものとなる。例えば鶴、千鳥、雀、蝶などの羽ばたいてみせる鳥類全般のモチーフが中心をしめている。空想上の鳥類、鳳凰などもまた同じく少ない。獅子や熊など蛮絵とよばれて登場するものもあるがそれも極めて少ない。

    風景文様

    風景文様というと山水の景は、やはり神仙の住む高山であり当時は楽園としての考えを秘めていたとみるのが一番よいのだろう。平安時代の女房の装束に登場するため、伝統は古い。江戸時代中期、友禅染の完成以降、再び風景文様は盛期をむかえる。友禅染は、あらゆる対象をあたかも自在に絵を描くように表現することが可能となったため風景文様はその波にのった。江戸時代中期は日本各地に対する興味、観光の概念もうまれていることから、友禅染ばかりが風景文様の盛期をつくりだしたとは一概に言えないが複数の要因が好循環していることからも文様は影響する。

    文芸文様

    文芸文様は意味内容のある意匠ということで、歌舞伎文様などもこれにあたる。意味内容ということになれば、中国の衣服に見る神仙思想、仏教的な性格の文様、ギリシャ神話の意匠、さかのぼることエジプト王の行状をあらわしたものにも見いだすことができる。しかし日本の場合は、平安時代の『栄花物語』などにしばしば記されているように『古今和歌集』の一首の意匠化であり、『和漢朗詠集』の詩を色彩におきかえて着ようとするように純粋に文芸を意匠化する点が注目され、世界的にみて珍しい文芸文様の評価がなされている。

    風景文様(江戸)

    江戸時代後期には、源氏絵をふまえつつ、ついに風景文様に変容した『御所解(ごしょどき)』とか『江戸解』とよばれる一連の武家女中の意匠が注目される。

    文芸文様(江戸 歌舞伎文様)

    文芸文様の一変形として歌舞伎文様をあげる。例えば役者の名前やその屋号を意匠化し、男伊達の心意気をあらわす『鎌輪奴 (かまわぬ)』や音羽家の『斧琴菊 (よきこときく)』の判じ文様などは、よく知られた例である

     

    とこのあたり、までが大まかな概要をなぞるものである。

    この本では染織素材の文化圏 吉田光邦による調べによるものでは中国のイメージをつくったのは絹であるとしながらも紀元一世紀のローマ人、プリニウスのその著<博物誌>に羊毛のような森の産物とされる絹の産地をセレスとするギリシャ人、パウサニアスはその旅行記でエリュトラ海の果てにセレスという国があり、住民はエチオピア種である、そこではセルという虫が飼われていると記している。このじてんでは、五年目になると虫は糸をはくと記している。絹の産地としてのセレスの名は、そのまま絹=シルクの語源なったのである。ーーーーーとある。中国の一部では、蚕の存在が登場し始める、様々な文献のしるしかたになされていくことになるが、中国の王にあたる身分のものは、蚕の存在を極秘にしていくことで人の記憶から一度消える。再び、蚕の存在が世界で知られると中国は飛躍的な染織世界の黄金期を築き始めることとなる。

     

    きもの文様事典

    きものの色 家紋 

    本吉春三郎 著

    きものの特色は裁断がすべて直線でなされていること(直線裁ち)である。パリやロンドンのスーツ(紳士服)は、人間の体が全て曲線でできていることにあわせて、曲線裁断を採用する。仮縫いは五回をする大変なものだという。日本のきものは、洋服の自由な形に対して定形の衣服ということができる。洋服は流行り廃りによる変化の変遷に常にさらされており、時代において周知の事実といえる。きものもその傾向がみられるが、代を譲る、例えば母から娘へときものをついで、仕立て直しができる点で融通性が優れている点は洋服にはないものである。

    またこの本からこのサイトの勉強不足の点を修正することができたため、その点を肉付けする。

    秋草文様(きものの文様)

    秋の七草とは、萩、すすき、くず、撫子、女郎花(おみなえし)、藤袴(ふじばかま)、桔梗(ききょう)をいう。また菊、竜胆(りんどう)、朝顔そのほか秋に咲く草本の総称。きものにつける場合、全部ではなく一つ二つが独立してついていても秋草文様とよぶ。秋草文様は秋に着るきものの文様ではなく、夏のきものにつける。夏に秋草文様を着る意図は、盛夏の季節に着ることで夏涼しの感覚を出すと同時に実際の季節より早く着ることで秋をさそう。いいかえれば夏のきものの文様が秋草文様ともいえる。夏の中心的存在にある文様が秋草文様である。

    うち織 縞乃着物

    養蚕農家の手織の着物

    安藤やす江 著 蚕を飼い、糸をとり、染め、織り、仕立てる。この一貫作業を農業、養蚕、家事、子育ての合間にやってのけた女性たち。決して珍しいことではなく、ごく普通の人たちだった。明治中頃までは化学染料がなかったために身近で手に入る植物やお茶の煮出し汁などを使ったという。その色は茶や黒でありまた主流の色であった。男女の差は色にみることはできなかった。そうしたごく当たり前のように日常的に着られていた着物、そして柄は縞の黒と茶の渋い色が共存と工夫でなりたち、本の中でカラー写真で紹介されていく。それは人間の等身大の大きさではなく雛人形の大きさの着物で、、、、。本の最後に、東京家政大学生活資料館の寄贈資料受領証の証明が貼られて終わる。私たちにとって20世紀とはどんな時代だったのだろうか。
    現代の織り 誰でもできる織物

     

    小名木陽一 編

    大角徳江

    藤野靖子

    冨田潤

    仁尾敬二

    能口育子 著

    旧石器時代は、絶えず獲物を狩るために安定のない移動をする狩猟が中心の生活であった。それはラスコー洞窟画にもバイソンやマンモスの写実からうかがえ知れる。新石器時代になると農耕や牧畜が始まって生活が安定的で定住的になる。人類が織物を始めるには少なくても三つの条件が必要である。まず経糸を等間隔に平行に並べ緯糸をそれぞれに直角に交差されること、そのためには経糸の奇数と偶数を選び出す能力が必要になる。こうしたことは、数理的な抽象概念は新石器時代の安定の定住から始まった牧畜や農耕によって人類はメカニズムを獲得したとみられている。新石器時代の抽象文様が現れ始めたことは、安定と定住によって空間認識が生まれ、円や四角や三角の連続文が描かれていることからも、こうした抽象形態を創造していく過程で織物に必要な平行、直角、奇数と偶数の抽象概念が生み出されるようになったと考古学上考えられている。人間特有の毛髪は人間だけが長い頭髪と局部の体毛を残して裸になってしまったのかも興味深い問題で、髪の毛を結うことと糸を扱う技術との関連が指摘されているが考古学上、結論へ導くことがいまのところ困難であるという。では衣服を着る目的は何かというと、着衣によって識別や誇示、威嚇を行うためであると考えられているままとなっている。絹の起源は、古代中国だという。紀元前2650年の昔、黄帝の妃、西陵氏が繭から糸をとりだすことを考え出したことが始まりとされている。また現代の精錬と漂白は、精錬はアルカリ類を用いて精錬され、漂白は酸化漂白剤と還元漂白剤を素材によって使い分けるという糸を染める前の処理は確立されたものになっている。

    手織の技法

    居宿昌義

    田中佳子 共著

    織りについてどの辺りから噛み砕くかといえば、人間は織物をつくる時に経糸(たていと)を地面に対して垂直(すいちょく)に張る方法と、地面に平行に張る方法がある。ということろからである。垂直に張る方法は、竪機(たてばた 難しい漢字であるが有名)にその原理が元になっている。平行に張る方法は、地機、高機の経糸の機巻きに該当する。この著書が丁寧に導いたこと部分は、経糸を一度に持ち上げるしくみについてである。経糸は織物で上糸、下糸の二本で一組、一対とされている。そこへ緯糸(よこいと)が通されて上糸下糸がクロスして織り組織が組み立てられ、織りこまれていく。この上糸と下糸そして経糸を一度にもちあげるという、一見簡単なしくみは、原理は確かに簡単であるが、この解明にはかなりの時間を費やしたと思われる。持ち上げたい経糸を一度に持ち上げて、というしくみは、三つの方法から出来ている。鉤(つりばり)のような形のものによって経糸をかけて持ち上げる方法(1)、紐で一本一本、結んで持ち上げる方法(2)、一本の糸を輪奈状にして持ち上げる方法(3)、の三つである。結城紬は(3)にあてはまる。これら全てを総称して 綜絖 そうこう と呼ばれている。V型の空間をうみだし緯糸を通し、糸は常に8の字型に交差し、8の字の隙間の中に緯糸が通っていくことになる。この先も綴りたいが、著書のまんまでお前は何の変化球も入れていないと言われるとごもっともで、つまらん解説がいらない出来栄えが本書 手織の技法 なのである。結城図書館で借りることができるため、私物にしたいのであれば、借りてみて検討していただきたい。あえて援護射撃するならば地機と高機の織りのしくみについてである。参考までに独自資料を掲載する。参考にしていただきたい。独自資料はこちらです。
    日本の織物 北村哲郎 慶應義塾大学文学部で鍛えられた文章と調べてまとめあげる能力をいかした著書といえる。この本で知ることができるものは、次にあげるものである。羽二重(はぶたえ)、塩瀬(しおぜ)、精好(せいごう)、仙台平(せんだいひら)、琥珀(こはく)、茶宇(ちゃう)、竜紋(りゅうもん)、綟子(もじ)、甲斐絹(かいき)、八端(はったん)、上布(じょうふ)、明石(あかし)、透綾(すきや)、紬(つむぎ)、銘仙(めいせん)、解織(ほぐしおり)、斜子(ななこ)、しじら、縮緬(ちりめん)、お召(おめし)、唐桟(とうざん)、絣(かすり)、紅梅織(こうばいおり)、吉野織(よしのおり)、紗綾(さや)、一楽(市楽 いちらく)織、八つ橋織(やつはしおり)、緞子(どんす)、錦(にしき)、経錦(たてにしき)、倭錦(やまとにしき)、糸錦(いとにしき)、綴錦(つづれにしき)、コブラン織り、浮織物(うきおりもの)、二陪織物(ふたえおりもの)、紋白(もんじろ)、唐織(からおり)、風通(ふうつう)、繻珍(しゆちん)、モール織、厚板(あついた)、金襴(きんらん)、羅(ら)、絽(ろ)、紗(しゃ)、縠織(こめおり)、絽金(ろきん)、ビロード、となっている。大まかな概念を知るきっかけになればいいとおもう。
    HOW TO 絵織物  ユミコミノーラ 著

    子育てにより好きだった油絵の用具が子供の誤飲など等の防止のために中断せざるをえない状況になり、油絵ではない他の表現方法はないのか著者は模索する。そしてスウェーデンのフレミッシュ織と運命的な出会いをする。フレミッシュ織ならば、子育てと油絵のかわりに絵織物をつくれる、と直感的に感じるのである。楽しい作品作りのきっかけにしてほしいという願いがこめられた本書は油絵も掲載されていて思い入れが尋常ではないようである。絵織物を織る前に用意するものと題しての記事では、麻糸=ちょっと高いけど味わいがある。綿糸=たこ糸のようなものからもう少し細いものまでいろいろ。ウール=これはおなじみですね。太さもいろいろ色もいろいろで紡いでオリジナルの太さやブレンドするととっても素敵!などと終始、好物紹介しているかのように優しい口調が続くのも本書の特徴であろう。さぁ、織ってみよう、というハウトゥーの記事になると具体案を出して指導者に早変わりといったところ。デザイン画を考えよう、色彩計画をしよう、サイズも決めよう、枠をつくり好きな大きさのパネルに3〜5mmの間隔で釘を打つ、釘にかけて経糸たていとを張って絵織物をつくっていこうといった感じでイラストを交えて丁寧な指導がなされていく。これをみていると私も絵織物に挑戦してみたい気分にさせられる。子育てとの両立があってこその、充実したカテゴライズの成功例をみているかのようだ。さぁ、あなたも受け身から攻めていく姿勢にシフトチェンジしてみないか。変化することを望まなくなった時点から老人と同じになってしまうのだ。人間意欲的なほうが著者のように美しい生き方ができるし、お得なうえに発見もある。人生いろいろ、といううたもあるが、楽しんでも楽しまなくても時間は流れていくのであれば楽しんだほうがいいとわたしはおもう。

    楽しい古裂 更紗 

    上田晶子 選

    奥田実 文抜粋引用

     梶洋哉 写真

    インドネシアを中心に多種多様な染織布をコレクションのように美しい写真で掲載されている。うっとりする。現在はインドネシアは二百以上の民族で構成されているというのだから布ひとつとっても多種多様にはなるものであろう、美しい。伝統染織の技法も当然多様であり、絣、バティック(ジャワ更紗 さらさ)と呼ばれる、ろうけつ染、紋織り、紋り染め、刺繍、印金、描き染め等が主要なものであるが、スコトラ島南部のコームリン、ロンボク、バリ、ティモール各島の一部やスラウェシ島、タナトラジャ、等には綴れつづれ織りやカード織りの技法もみられるという。百年以上前に織られた支配者階級の人々の儀式の腰布、肩掛け、壁布に複雑な技術工程(戦国武将で和室にインド更紗をふすまにした人物もいるくらい美術価値がある、かつ美しい。)を経た織物が多くみられるとあって布たちは多彩性に富んでいるが、インドネシア共和国独立以降は諸民族の精神的バックボーンが交通と通信の手段と、通貨、経済の発達によって崩壊の速度を増し、今や海外輸出のためや旅行者の土産品需要を満たすための企画生産の織物が中心となってしまっているという。それは美しい織物布で知られる国々、タイ、インド、トルコも例外ではない。沖縄県の織物、広くは日本全国の染織、また広くは他国の染織文化も衰退の一途をたどるものとなっている。後世の人々にとって織物や自然布は人類は必要としないものなのだろうか。私も頭をかかえてしまいそうである。
    織りと染めの歴史 西洋編  佐野敬彦 著

    染織の美と題して生活の基本アイテムとしての染織品、ものからアート、素材美、技法美、意匠美の三大要素にせまっていく。古代の染織という題では南シベリアのパジュリュク出土、ササン朝ペルシアの絹織物、ビザンティンの絹織物、コプトの織物とせまっていく。イスラムやイタリア中世とルネサンス染織、フランスの絹織物、イギリス、イングランド、ウエールズ、スコットランドの染織、20世紀前半の染織、古代アンデスとアフリカの染織というように世界各国の諸事情染織関連を掘り起こす。染織史は世界の枠で地球規模でみてみるとまた違った意味での衝撃と発見が用意されている。私が箇条書きのようにまとめたもの、興味深かった個人的なものを掲載して筆をおこう。

    ーーーーーー1919年ドイツのヴァイマールに開校したデザインと建築の専門学校、それがバウハウスである。1919年というと世界史ではベルサイユ条約がどうのこうのという中学社会授業に習う年号である。話を戻して、バウハウスは放任主義で自由を奪わない教育ではあるが最終的にはすべてのデザインは建築に集約されるというものである。バウハウス学校の特徴(特長)は、何と言っても、シンプルで機能的なモダンデザインを尊重して重んじることにある。文様や色彩のはなやかさや遊び心よりも、シンプルでしかも重厚であたたかく、織物の組織や素材がつくりだす造形美を求めるのである。近代織物の方向を決定づけたといっても過言ではない。バウハウスはナチによって閉鎖されたが、ナチから逃れるように移住した卒業生と教師によってバウハウスの造形精神は世界に広められた。アメリカの染織は、バウハウスやスカンディナビアからの染織作家を得て大きく前進した。フランスのアールデコの染織、ポワレやシャネルなどのモードの影響で衣装用のテキスタイルが形づくられていった。モダンテキスタイルの教育を北欧スウェーデンやノルウェーなどの雪国の染織家がすすめて教育し、織物はアメリカではクラフトアートととして育っていくことになる。ーーーーーー

    織りと染めの歴史 日本編 

    河上繁樹 

    藤井健三 共著

    <蚕経>によれば養蚕の起源は、先資料記述と重複するが、中国の黄帝その妃 西陵におこなわれていたという。すでに新石器時代に絹の生産が始まっていたと推定されている。養蚕、絹織物の起源は先史時代までさかのぼる。漢代(漢時代)の錦は(我が国の人間国宝北村武資さんの継承した特技技法として尊ばれている 経錦たてにしき)経糸たていとで文様を織りだした平絹がノインウラ遺跡で経錦の残欠が出土されており、他にも現地で織った彩色の毛織り物がみられている。毛織り物には、ちぢれ毛で鼻が高い人物と葡萄ぶどう、あるいは亀甲四弁花文などの文様を織りだしたもの、それはまるでひし形のようなカゴのめで葡萄柄の文様を囲むかの如く織り組まれた文様、いずれも緯糸よこいとで文様を表すものである。中国で発展した錦が経糸で文様を表すのにたいして、ウイグル自治区のニヤでは毛織物は西方的な緯糸による顕文という織法の違いが表れている。ノインウラ遺跡はモンゴル人民共和国に位置しているが、これらは中国シルクロードを経由して、はるかシリアのパルミラなどからも漢代の絹織物が次々と出土していることから、中国の絹技術は多くの国に伝来していることがわかる。古代ローマでは中国のことをセリカ(絹 という意味)とよんだ。日本には海を渡ってもたらされて養蚕技術は紀元前150年から前100年ごろの弥生時代のことで弥生時代に養蚕技術ができあがっていたのである。(これらは布目順郎の研究で明らかになっている。)九州北部に集中して出土例をあげている。中国の正史<三国志>のなかの<魏書 ぎしょ>すなわち我が国のいうところの<魏志倭人伝 ぎしわじんでん>には、三世紀ごろの日本の状況が伝えられている。そこによるところ、稲作、養蚕、絹織りが定着している姿が残されている。卑弥呼(ひみこ この時代における日本の王)の朝貢にたいして、魏帝(当時の中国の王)からは毛織物もおくられているがなかでも<絳地縐粟罽(絳綈縐粟罽)>や<細斑華罽>が贈与されているが縐(すう)は表面に皺(しわ)のあるもので我が国の縮ちぢみに近い織物で貴重な史料であるのではないかと推定されている。卑弥呼は中国からもたらされた絹関連技術を集結させて日本製の錦<倭錦>を中国へ賜った。卑弥呼のあとの次の日本の王も同じく最先端技術を駆使して<倭錦>を献じたが、中国の文献では<倭錦>のことを<異文雑錦>とよび、珍しい文様の錦や他国の織物の錦という意味であったであろうが、当時の突出した絹の先進国の中国からすると日本の錦はとるに足らないものであった、と研究者はくちをそろえる。

    これらの重要染織史料は結城図書館で借りることができるために一読するといいかもしれない。また他国と我が国の史料を関連づけて分析して解明してみせている研究者の困難さ難解さ労力には、現代に引き継がれて語られて、同時に感謝しなくてはなるまいと思う次第である。

    LIBRARY iichiko

    着物の文化学 CULTURE OF

    KIMONO PART1

    WINTER2013NO.117

     

    河北秀也 監修

    山口源兵衛

    笹島寿美

    山本哲士

    牛首紬:西山博之

    結城紬:奥澤武治 井上和也

    黄八丈:山下誉

    編集及び研究ディレクター山本哲士氏の書き残したディレクターズノートの記事が興味深いものと私にはうつる。その中の共感と思わしき文章を引用する。キモノの意味を言説化していくことは大事である。という一文章の言葉である。もう一つあげるならば、この文章である。<仕事がいそがしくなるとつい、洋服を着てしまう。それは労働に便宜であるが、文化は失っていく、それが体感的にわかった。>という部分である。わたくしごとの等身大の話をすると、紬とはどういうものかということを考えてみると、生産においては、10年以上のキャリアをつんで、また紬の現場をみてみると必然的に必要な、必要になる要素をあげるならば、やはり資金面(資金確保)での安定化もなければ、生産に集中して打ち込めるものではなくなってくる。というものである。単に体力の衰退だけの問題ではない心理的なものにもさしかかるのである。この難しい問題は生産者になってみると必ず出てくる問題であると思う。生産は、産地問屋から私どもの機屋(はたや)などの織元に完全受注によって生産は成り立っていた。不景気のうねりとキモノ需要のふたつによって成熟期をむかえた結城紬生産は、はるか長い伝統を伝承されて生産されてきたが、問屋と機屋の関係も崩壊をむかえた。産地問屋は注文を出すことがなくなり、やむなく路頭に迷う生産者も出始めている。こうした事態は2010年のユネスコなどの文化に関わる組織が、ユネスコ無形文化遺産のリストアップして登録をかけたという危機リスト入りを果たすという不覚にも不名誉的名誉にもみえうることを一生産者として覚えたのである。こうした現実になると生産は原料を仕入れること、それを使って織物をつくること、それらの二つをとぎれることなく継続性をもたせること、の三要素が生産においては重要な要素となり、資金面を強化することがその三要素を安定的円滑に一番意味があることとなっていく。資金面強化というのは私の場合であればコンビニで夜勤をすることで一応の形はとってはいるがいつまで続くかわからない。そして、この著書の話にまた戻すと、こうした事例には先例があったことを知るのである。インタビューによって織物の現場をえぐり出す手法のこの著書及び資料は、とくに牛首紬(うしくびつむぎ)という石川県の織物を製造する代表取締役専務のインタビューにかさねてみるとこができるのである。その文章を要約すると、ーーーー牛首紬を復興しようとしてつくるけれども売れないということが繰り返された。当社の場合、建設というスポンサーがあったから、なんとか牛首紬を復興できました。加藤さんも別のところで働きながら牛首紬に取り組まれていました。もし、牛首紬一本に絞った復興だったら、もっと難しかったでしょう。ーーーーという部分であるが、こうした事例は推測では他の織物も同じような復興をとげているものもあるのではないかというきがする。こうしたインタビューによっての資料、ないし記録はこれから先の生産者にはもっと意味や重要性は増すものであると感じる。というのも何かしら、仕事が悪化していると危機管理能力があるとすれば好循環に軌道をもどす作用が出るのは当然のことであり、書き留めたものがそこに誠の意であれば貴重であり、うそであれば資料を記録する意味はなくなってしまう繊細なものが情報である。また歳月に左右されないような資料を残すことも同時に難しい。この本は結城図書館で借りたが、結城図書館が染織資料を削減した意味は削減しなかった資料を重点的によんでもらいたいから残したのか、と好意的に思っている。
    西洋染織文様史  城一夫 著

    序にかえて として織物の起源についての記述が脈々とつらなるのであるが、キリスト教の『旧約聖書』の「創世記」によればと < 人とその妻(アダムとイヴ)についての記述から人類は樹木や草の葉などの繊維を身体にまとうことに使用していた。とあり、このことは戸井田道三 著 きものの思想 という以前資料紹介した、きものから文化を論じた著書にも同じ記述がみうけられる。織物の起源を神話の世界からよみとった考古は似通っている。さらに著書では『旧約聖書』に続き「創世記」には、「主たる神は人とその妻のために皮の着物を造って彼らに着せられた」との記述から人類の先達は動物の毛皮をまとい、すくなくとも紀元前6000年から7000年前には、人々は動物の毛皮をまとい、樹皮、動物の腸線や草の紐などをつなぎ合わせたりして着用していたに違いないとみているとしている。アデール・クーラン・ヴィーベルはその書作「織物二千年史」の中でシベリアのオイロティアの墓から発見された毛皮の長衣はトナカイやリスなどの毛皮を数百とつなぎ合わせたもので、幅の狭い短冊状に裁断されて明るい色で染色されたトナカイの腸線が綱状の縫い目を形づくってひとつの文様をつくっている。という箇所から、原始人は毛皮を除いて皮革にととのえて靴などの素材に加工していたが、やがて湿気を含んでもつれ合っている毛の塊を打ち叩いているとそれが実用に向くような温かい毛布になることを発見したのだと記述している。この記述は、京都の染め師の吉岡幸雄 氏も縄文時代においての考古で、似たような考察をしている。吉岡氏の言葉をかりると、動物の皮を家などの建物の屋根の素材にしていた縄文人は、火などをおこし、そのすすやけむりのあたる部分の動物の皮(建物の屋根の部分)が他の皮より滑らかであることに気づき(発見)、さらには加工するにも体にフィットしやすい実用性もあり、こうした生活の中の発見によってより文化的になっていった。というようなことであったが、いずれの考古の推測も狩猟生活中心でより優れた知恵を獲得していったとするものである。

    また私がこの著書のなかで興味が惹かれた部分はこの著書の主旨にそれる部分なのかもしれないが、フランスのナポレオン・ボナパルト皇帝の登場とその後のフランス織物産業史についてである。すでにかなりの長文のため、別リンクを貼って終わりにする。 別リンク資料のつづき(工事中)

    衣匠美 

    白洲正子 

    撮影 藤森武

    白洲正子(しらすまさこ)は日本有数の随筆家であった。白洲正子が積極的に好きになったのは手織りの紬や八丈、木綿絣といったたぐいのものであった。そうした親しみのある織物は、ここでも民藝の父柳宗悦の存在が光る。著者は民藝運動が柳宗悦氏によってはじまった時分、銀座あたりにもきがしが現れていたという。白洲正子が愛した染め織りびと という記事は大変参考になる(著書の私物になっている織物でその作家ものが多い)。まず、郡上紬の宗廣力三(白洲正子と知り合ってしばらくあとに人間国宝になる 白洲正子氏の私物の郡上紬は宗廣力三氏の初期の作風の水文(紋)とよばれている絣が目立つ)、芹沢銈介(工芸の表紙を担当 沖縄の紅型を志す モダンな色は現在でも高い人気をたもちつづけている 日本民芸館の内外装がいまだ美しいことからもデザインの能力が柳宗悦氏に信用されていたことがわかる)など今日でもよき手本となりうる染織家たちであり、また同時に民藝運動を支えてきた中心人物たちである場合がおおい。あえて、ここからは、箇条書きの私の原稿に忠実にかきのこすとして、嶋田悦子という人物のなもきになる。柳宗悦が<かつて夜見ケ浜は綿も植ゑ(え)られその和円村あたりには絣の手織も動きましたが衰えました>との意の記述を記す、通称<ゆみはま絣>の復活と再生に尽力した人物が嶋田悦子との紹介。こうなるとあとで調べるほかない。また、本郷大二 氏もきになる。安曇平の天蚕の美しさにひかれ農家の納屋に眠っていた糸を求めそれをもとに天蚕織物を制作とある。このころから天蚕は貴重な野蚕で入手困難と思われる。また、もうひとり、井出孝造 氏もきになる。白洲正子に出会いその助言を受けて辻が花や更紗の伝統的な作風を研究、昔のものとは異なる趣が違う作品をつくりあげた。とありその人柄は本文<かくれた名人>というところからもうかがえるが、<世間からは変人か珍品に見えるかもしれないが私にしてみれば、彼らの方が常人なのである>と記された職人のひとりである。このあたりに紹介されている人物、偉人は柳悦孝、柳悦博などの民藝関連のうごきと密接な環境であったということも共通している。民藝運動の活発さは残した作品の数の多さにも理解はたやすくみえる。随筆家白洲正子の本は、はじめてよんだがこうした時代のひとと、会話してタイムリーに作品をみて、購入したりしているのであるから、著書のみせるパフォーマンスは圧倒的である。いまや博物館入りを果たしているべきものばかりである。こうした人物たちの作品がタンスにおさまっているというと、着物好きは鼻血がでてとまらないものである。もう少し、白洲正子の示す、思想もものもいいものだけが残るという眼の世界観がみたいのであとで著書を紹介していく予定である。変わり者が好きといい、その変わり者とよばれる作家は高い評価をのちにうけているためなんでもかんでも収集していたわけではないとおもう。

    芭蕉布

    上巻下巻

    辻合喜代太郎 著

     

    実物裂45点入 辻合喜代太郎『琉球芭蕉布』 限定200部 沖縄の染織。上巻、下巻によっての実布付であるが、10万円近い高額資料につき、国立単位の充実した資料図書館で借りて読むことをすすめる。芭蕉布は、国の重要無形文化財指定を受けているが、こうした沖縄の織物は、他に久米島紬なども同じく国の重要無形文化財指定を受けており、沖縄は織物は独自性や特有性が色濃く残っている織物産地である。みごたえ、よみごたえ共にそろった染織資料である。ウェブ百貨辞典では芭蕉布はこのようになって概要としている。引用する。>>おおよそ500年の歴史があるとされ、琉球王国では王宮が管理する大規模な芭蕉園で芭蕉が生産されていた。庶民階級ではアタイと呼ばれる家庭菜園に植えた芭蕉で、各家庭ごとに糸を生産していた。現在の沖縄島では大宜味村喜如嘉が「芭蕉布の里」として知られる。一反の芭蕉布を織るために必要な芭蕉は200本といわれ、葉鞘を裂いて外皮を捨て、繊維の質ごとに原皮を分ける。より内側の柔らかな繊維を用いるものほど高級である。灰によって精練作業を行うが、芭蕉の糸は白くはならず薄茶色である。
    無地織か、ティーチ(シャリンバイ)の濃茶色で絣を織るものが県外では一般的な芭蕉布と認識されているが、沖縄では琉球藍(Strobilanthes cusia)で染めたクルチョーと呼ばれる藍色の絣も人気が高い。連合国軍の保障占領下で進駐したアメリカ軍によって「蚊の繁殖を防止する為」として多くのイトバショウが切り倒され、絶滅の危機に瀕している。近年では、紅型の特徴的な美しい黄金色を染めるフクギやアカネ、ベニバナを用いることもある。<<芭蕉布の素材は植物であり、より栽培の困難かつそのなかで芯の中心に近い貴重な素材はそれだけで、付加価値とよべるしろものであり、100万円という織物になるが、それは言葉擁護の余地がある。本場結城紬も似ている価格評価をうけやすいが、それは絶滅危惧種の織物としてみれば、しごくまっとうではあるがその売り上げが職人に入るわけではなく、100万円を投資しても生産者は潤わないことは明記しておきたい。

    織りの事典 しなやかな手仕事  

    施(あしぎぬ)について:なかでもピックアップすべきは結城紬、つむぎの原型とされている正倉院宝物、施(あしぎぬ)とそれに本場結城紬であろう。施は7,8世紀の世界に比類をみない高い品質とスケールの大きさで正倉院の宝物は美術的工芸品としてばかりでなく、史料的価値も計り知れないものがある。染織品も例外ではなく施に比べて脇役的な存在ではあるが、衣服や敷物などの裏地も見逃すことができないものである。施は平絹の一種ではあるが平絹は品質により精緻で上等のものを絹といい、それよりやや粗く質の落ちるを施(あしぎぬ 悪しき絹)というとされている。しかし、正倉院に伝えられ、施と墨書きされたものを見ると使用されている糸もほぼ均質で奇麗に織られたものがあり、絹と施の区別が非常に困難な場合が多い。このような施も調布や庸布(ようふ)とともに貢納品として中央政府に地方から上納され、製品に墨書きされた銘によって奈良時代中期に各地で織られていたことがあげられる。

    本場結城紬について:織着尺の最高峰は重要無形文化財指定の結城紬(平織り)にとどめを刺すが同等の価値観をもつ縮(ちぢみ)の結城紬は織歴(大正期はじめごろ)が浅いため、県無形文化財という一段下の格付けのまま置かれている。そのため流通機構の扱いは平織に集中して縮は衰滅寸前という矛盾をきたしている。結城紬は手つむぎ糸を手でつむぎだし、手括り(絣くくり)して染め、地機で織りあげるという結城紬は現代に中世の織技を伝えるまれな織物である。

    染織の道 文明交差の回廊  

    中央アジアの砂漠を越えてローマ帝国にもたらせれた中国の糸及び絹。ローマ帝国などの西方では、金(金属)と同じ価値があるとまでいわれた。ネアルコスは絹はアマの表皮をこまかに割いてつくられるとした。詩人ヴェルギニウスは同じように木の葉からとった繊維と考えた。プリニウスは羊毛に似たもので森の産物であると「博物誌」に記した。しかし2世紀の人、パウサニアスは絹を産するセレス(中国)の地はエリュトラ海のもっとも東にあるとし、セレスの人はエチオピア種であるととき、この地にはセルと呼ばれる虫がいて、大きさは最も大きな甲虫の2倍もあり形は蜘蛛に似て脚は八本ある。セレスの人々はこの虫を特別の家をつくって飼うとした。この虫にミレット(あわ キビ)を食べさせ四年間飼い続ける。五年目になるとこの虫に緑色のアシを与える。このアシは虫の好物なので虫はこれを食べて死ぬ。この死んだ虫の体内から糸がとりだされる。ーーーこのように絹が動物質の繊維であることがなかなか知られなかった。取引をする商人たちが生産法を秘密にしていたためとみられる。しかしついに410年になって養蚕技術は中央アジアのオアシス、コータンにまで伝わった。これはコータン王国に嫁いだ中国の女王が髪の中に蚕を隠してもたらしたためとの伝承は有名である。これについで絹織物を製造しようとしたのはササン朝のペルシャであった。ササンの王たちは、シリアを従服したのち、シリアの織工をペルシャのフジスタン地方に移住。ササン錦といわれる絹織物をつくりだした。ただしその原料は中国の生糸を用いたものとみられる。このササン錦は緯錦であった。つまり緯糸で文様を表現する。これに対して中国のそれは経錦であった。経糸で文様を表す技法である。織りの技法からいえば緯錦のほうが華やかで複雑な文様を織り出すことができる。そこでササン錦は中国でも歓迎された。この影響を受けて中国でも7世紀半ばから緯錦がつくられるようになった。そしてついに550年になると東方から帰来した修道士たちが竹の杖のなかに繭をしのばせてコンスタンチノープルに到着し、これをユスティニアヌス皇帝に献上した。これによって地中海方面で養蚕がはじまった。

    青色の染料として古くから知られる藍には、大別して四種ほどの植物が知られている。四種で最も有名なのがインド藍すなわちインディゴ(インジゴ)である。ローマ帝国ではインジゴについてはよく知られていなかった。ディオスコルディスはこれを鉱物質の顔料とみて絵の具として利用され、医薬にも用いるとした。染料としてはウォードを利用する。プリニウスの「博物誌」でもインジゴはインドに産し、外見は黒いが水にとくと青紫色になり熱病や発作などに効果があるとした。インジゴは薬剤として用いられたがこれがのちに重要な絵の具となった。このインジゴ以上に重要な絵の具にヒマラヤ産のリシウムと呼ぶ黄色の絵の具があった。これは染料にも使い、時には化粧用にもなったと伝える。インジゴがはじめてペルシャに紹介されたとき、それも医薬であったという。王はインドから書物、チェス、髪を染めるための薬料を受けた。この髪を染める薬剤はインディアンといわれたとある。同様のことはアブマンスールらも記してこの葉は髪を丈夫にし、ヘンナで髪を下染めしたのちインジゴで染めると光沢のある美しい黒になるという。ヘンナは黄色の染料である。このインジゴの実情をはじめてヨーロッパに伝えたのはマルコポーロの「東方旅行記」である。これによってインジゴは植物であることが明らかになった。彼はそのほかカンバエット王国、グジャラート王国にもインジゴがあると記した。彼はワタは12年までは採取できるとし、それ以上になると紡いで糸にするのは難しいし使えぬとした。これは<キワタ>についての記載である。マルコポーロ「東方旅行記」は写本としてひろく行き渡りヨーロッパに詳しく知られるようになったのであった。またさきもひいた14世紀のペゴロッティの手引書にはやはりインジゴの取引のことがのべられている。取引は重量でおこなわれる。手引書は風袋の目方に注意すること、小孔をあけて少量のサンプルを取りだして検査することが必要であるといっている。画家チェンニーニの「芸術の書」には羊皮紙を染めてインジゴ色の紙をつくることがみられる。またインジゴを用いて緑色をつくることもあるともある。これをみるとインジゴは重要な絵の具のひとつであったことがわかる。

    染めの事典 風土を映す人の技  

    風土を映す人の技とのこの染めの本で私が惹かれる記事は何とっても吉岡常雄氏の担当のものである。そこによるものは、この本紹介100選の中で紹介したものに含まれども、詳しく知りたい人は吉岡常雄氏の本を購入していただきたい。古書に分類され絶版もしくは版元切れになってはいて専門書のため、高額ではある。ではあるがそちらを購入すれば知識を補うには充分といえるものだ。世界の染色のなかでも紅や紫をつくりだした染色技術は苦労の末の絶え間ない苦労と努力があったことはここに書き留めねばなるまいと思う。

    紅について:エチオピアを原産とするキク科の植物で遥か四千年の昔より、染色や薬用にするために栽培されてきたといわれている。この花はその外見の通り、黄と赤の二種類の色素を含んでいる。黄色のほうは水に浸すだけで溶出し黄色系染料として用いられてきた。この黄色は染料としては定着が乏しい。そこでもう一つの赤色色素をとり出して布に展着されるには、何段階もの複雑な工程を必要とした。それらはこの本や吉岡常雄氏の専門書におさめられているのでそちらに目をとおしていただきたいと思う。この複雑な工程によっての紅は栽培に手間がかかり染色にも困難な技術を要したため、高価であったが選ばれた人々が自らを誇示するにふさわしい衣料として貴ばれ競って求められるという奇妙なる需要によって支えられた。こうした栽培法や染色法も長い間、秘方法とされ、こうしたことは中国で養蚕や蚕の存在がしばらく極秘になっていたことと変わりなく国家的な重要なファクターであった。平安時代、高価で貴重な紅花を幾度も染め重ね、深い紅色としたや八汐染め(やしおぞめ 別名 韓紅からくれない)や黄色の梔子(くちなし)やウコンで下染めし、濃い紅色を掛け合わせた朱華(はねず)と呼ぶ紅色は高位の人しか着用を許されない禁色(きんじき)と定められて色によって制限があった。一反の布を一斤染(いっこん)(約600g)の紅花で染めた薄紅色のみが認められこれを一斤染(いっこんぞめ いつこんぞめ)と称している。赤、青、黄 は自然界の色をうつしだすために皆必死の思いで布色に思いを託したのだろう。参考までに赤、青、黄の染色素材例をあげておく

    赤:紅花 茜(あかね) 蘇芳(すおう) コチニール

    青:藍 

    黄:サフラン 黄檗(きはだ) 梔子(くちなし)

    を昔の人々は染色の染料として染めだした。

    日本染織地図 創造と伝承  

    北海道に住む有志に追悼の意と敬意をこめて北海道中心に筆をかく。通産省では「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」という通称、伝産法によって伝統的な織物、染物に指定するには、百年という月日を決めており、アツシ織というアイヌ人たちの染織の痕跡の他に、近年、優佳良織という旭川の近辺中心で羊毛(政府は明治期から大正期にかけて羊飼いを推奨し伝統になったといわれている)とかかわりの深い織物が関係者の間で新たな勢力として認知される兆しがある。百年構想の伝統を築く過程、あと20年を残すのみのものとなっているのがこの羊毛の優佳良織である。一つの作品に300色近い色を織りこみ、油絵的な表現が特徴とされている。とくに染織工芸というものは、風土に根差さないと育たないし、なじまないとされ、育つ必然性がないわけである。あと20年の伝統をつなぐのみとなっている。これから何か新しいことをするか、しようかとする者にとっては一つの指針を示すものであり素晴らしい。優佳良織の創始をされた作家 木内綾 さんはたった一人の作家として出発し工芸館を開館し、年間入館者36万人吸収するという異次元の染織ブームをもひきおこした。地元に仕事の少ない北海道に仕事をつくり、その評価もされている。アイヌの織物素材は植物で色彩はきわめて限定的であったが新生、優佳良織は多彩である。染織研究家 竹内淳子 さんはこういう言葉を残されている。「伝統がなければほんとうに良いものをつくり出して、そこから出発して百年を経過すれば伝統産業の仲間入りができるわけですから」と優佳良織の期待値とだぶらせてみている。魅了されるアイヌの美意識としてアツシ織は、はたして現状に生き延びる条件を持っているのかという問題提起がある。オヒョウの木が素材であるが、周辺は国立公園が多い。有名なアイヌ文様、切伏せ も存続が危ぶまれているが、この文様はなんとしてもどさんこは残す努力をしなければ、染織の伝統は希薄に映ってしまう。どさんこの若き染織家は、これから を考えて動き出すときにある。

    身近な素材で楽しむ

    おうちで草木染め

    箕輪直子(二冊目紹介) みじかな素材で楽しめるキッチンでできる草木染めを紹介。レッスンページではレッスンで使う材料、道具、染料と染め方、アレンジページでは、染めるもの、染め方、染めるものの重さ、使用した量の染料、媒染液は何か、染め方のコツなどをかき記して、まるで料理レシピのような感じにもみえうる。100円均一ショップグッズを染めるなど主婦などがターゲットにみえる。この本を読んでもっと本格的に染色したいとおえば、本格的な専門書にすすめばそれでいいのではないだろうか。

    誰でもできる

    草木染めレッスン

    箕輪直子(三冊目紹介) 誰でもできる染色とあるが、主婦ターゲットだけあり、時間がとれない人が気分転換のごとく、簡単でキッチンでできる染色が多い。とくにカレー粉での染色は女性ならではのアイデアといえる。染めの基本とバリエーションを増やすときには持っていて損はないだろう。
    日本の色を歩く 吉岡幸雄 (二冊目紹介) 日本全国の様々な地域に旅をして色の歴史や現況をエッセイにした旅と染色のエッセイといった感じである。2007年に出版された。草木染めや藍染めを尊ぶ姿がそこにある。クヌギ(櫟)の木の葉を食べて山繭は緑色の糸をはき、淡茶の繭を育む野生的な蚕は日本に限らず中国、インドでも多くみられる。やがて人が養蚕を行い、突然変異で白い糸をはく繭が生まれ、それらをとくに選んでかけあわせるようにして品種改良をくわえて白い蚕の糸が多く生産できるようになったと考えられている。といった具合に色の探求も考察している。
    日本の色を染める 吉岡幸雄 (三冊目紹介) 著者は歴史に詳しく特に本中の第五章あたりからは歴史の本を読んでいるかのように歴史がためである。しかも語ることで気分がのってきて文章も滑らかでまるで知識欲をみたすかのようにすいすい進んでいく。著者は様々な多くの自分の著書でも源氏物語をかいた紫式部が日本の歴史上最高の才女であったと推測する場面もある。枕草子をかいた清少納言や土佐日記、竹取物語、伊勢物語などの登場が日本文化のはじまりとしていいとしている。中国から様々なものが日本に伝わって、それらが日本(和の文化)特有のものになったのはこのころからであるとしている。この本は広く言えば縄文時代から染色の考察をいれている染色文化論である。
    色の歴史手帖 吉岡幸雄 (四冊目紹介)

    あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 額田王

    紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも 大海人皇子

    これは万葉集の有名な相聞歌である。大海人皇子がかつての恋人でいまは天皇のきさきになっている額田王を、紫の映える美しい人よいまは人の妻である と詠んだ。この額田王の着ている紫衣装は杜若(かきつばた)の花を摺り込んだものという説を国文学者で植物学で著名な故牧野富太郎博士が説いて話題となったが、染司よしおかの吉岡幸雄氏は、花の色は日時がたつと消えて茶になることやその日一日の遊びのような染物であったと考え、額田王は天智天皇の夫人であって官位が決められてからは夫に準じた色の服装をするようになっていたことをもとに杜若のような一日で変色する摺り衣を着ていたことは考えにくいとして紫草の根で染めたきらびやかな紫色をまとっていたと考えるのが妥当としている。万葉集には杜若に関するうたが詠まれてはいるが、紫草のうたも同時にあり、たがいに推測が二分して相殺関係にある。

    紫草の根は土が染まるほど濃い色素を蓄えているという特徴をよくとらえて和歌や物語に多く記されている。

     

    源氏物語の色辞典 吉岡幸雄(五冊目紹介) 正統なる異端とよばれた染司よしおか継承者の吉岡幸雄氏が源氏物語誕生一千年といわれている平成二十年に関心が高まった源氏物語に色辞典を出版して、古典から色と衣装、襲(かさね)などにみられる繊細な色への心移りを丹念に引き寄せて従時の染色法そのままに再現した色彩辞典。源氏物語の作者は紫式部といわれ、曽祖父が三十六歌仙のひとり堤中納言(つつみちゅうなごん)といわれた藤原兼輔であり、祖父も父も漢学者である家に生まれた頭脳明晰な女性であるという。藤原道長というときめく権門家の娘で一条天皇に嫁した中宮彰子の家庭教師として女房に出仕していた。そのため当時の朝廷の人々の様子を細かに観察していると紫式部を評価している。そして吉岡幸雄氏の色に関する勉強と手作業の偉大なる教科書というべき物語としているように著者の思い入れが強い古典物語である。また出版物もふんだんにカラー写真で画質も繊細に印刷できる、表現するに適した時期だったことも本の質を高める形となった。
    日本の色辞典 吉岡幸雄(六冊目紹介) 本帯に伝統色の完璧な色見本、歴史解説で識る色の名前。とあるそのとおり、色のほんの少し、たった少しの加減の色の濃淡が変化するだけで、色の呼び名が変わってしまう昔の色への思いとは一体なんなんだろうかと考えさせられてしまう。そしてこのほんの少しの濃淡の差を区別してしまう先人はそこに何を感じてもらいたいのだろうか。そのまま樹木の名前を拝借しているものもあれば、まるでレアメタルの新種のような金属気味ている名前もある。こうした多くの名前をおさえておくと、確かに色の組み合わせを考えることは、少しうえに気分があがる。全く同じ色であるにもかかわらず呼び名が3つくらいあるものも確かにあって時代の蓄積に他ならない。

    草木染 日本の縞

    日本に伝わる多彩な

    縞模様の魅力を知る 

    山崎青樹(二冊目紹介) 縞は縞でも、草木染めによる縞であり、自然で淡くモロい発色が美しく、その淡さや濃い色がひとつの布地になり、みているだけで心やすらぐ優しい色である。とくにいちから染色したい場合は、筬目や糸配合まで記してあり親切このうえない本のつくりである。大きめの本で写真が大きく掲載されており、布地の質感を堪能できる。とどめをさすかのように染色方法まで記している。これは日本に伝わる多彩で優しい色が凝縮されている素晴らしい縞資料になっていることは間違えない。
    草木染 色を極めて五十年 山崎青樹(三冊目紹介) 過去を振り返らない染色家が企画により五十年の染色の思い出をつづる。川端康成が著者にあてた文章や紬 銀座紬屋吉平の著者山辺和行氏、染色家上村六郎氏、貝紫の染色家で大阪芸大教授の吉岡常雄氏などの交流などがあったことが記されており、黒柳徹子さんなどのテレビの人とも仕事で出会って素晴らしかったとある。また、五十年の歳月の中でも思い入れが強いものが熱が入って書かれている気がする。そして文才があるようにしか思えない本の中での展開は、染色に興味がなくても面白い。
    母と子の草木染ノート 山崎青樹(四冊目紹介) 玉ねぎの皮での染色はヨーロッパで古くから染色に使用されてきて日本では大正末頃、紅茶の葉による染色、平安時代は茶の葉での染色はすべて薄茶色だった。紅茶というと煮たら飲むしかないが染色で使うまたブドウの皮での染色など身近なものからスタートしていく。子供の染色の基礎知識をみにつけるための初歩染色本といえる。草木染めは、染料を自分で育てることに最大の喜びがあり、またこだわれば媒染の金属類から媒染液をつくりだす喜びもある。そこは草木の魅力と醍醐味である。そうした、これはひょっとすると自分で染色して染めるというのは手間がかかれど素晴らしいことではないか、という結論にみちびくヒントが多い。染色がみじかになれば子はそれを追う。
    草木染 日本色名事典 山崎青樹(五冊目紹介) 著書の最初に草木染432色凡例として8例あげて文章の正確な情報性を目指しているので日本の歴史上の文献から引用して、色名とその草木染めの技法や媒染方法などをかきたして、文章自体にあつみがある。こうした歴史にも詳しく知識も優れた染色家は多くはいないのである。1970年から1990年における出版物は日本の染色技法の確立と出版における情報共有が盛んになった時期のものであり、やはり揺れも動かぬ資料が多い黄金期である。それは初版が1970年か1990年の出版物でさかのぼれば出来は一目瞭然といえる。
    続草木染染料植物図鑑  山崎青樹(六冊目紹介) 古代から緑色を染めるには藍草と黄檗(きはだ)や刈安その他の黄色との重ね染めで染める。ヨーロッパも同じであったが、山崎青樹氏がふとした思いがけない発見で実際に緑色を染める草や木の葉があったという。それは草木染めの世界を一つ変えてしまうという。その新手法については、本のはじまりで手法を展開し、解説している。また草木染染料植物図鑑の続編ということで、草木染染料植物図鑑と根本的にはつくりは同じである。染料について植物学に詳しいというのはあって困らない知識であり、草木染めをするからには植物の特徴などはおさえておきたいものである。
    続続草木染染料植物図鑑 山崎青樹(七冊目紹介) 続続草木染染料植物図鑑ということでさらに続編の続きという本のつくりである。こうした三冊を集めてみてみると、染料になる植物は大変多くあるという感じである。また、本のはじまりには、これからの草木染 というテーマで草木染めの理想について解説しており、著者の草木染めが普及して根がついた染色がこれからもおこなわれていってほしいといった切なる願いがこめられている。知識だけで終わるより実際に染色してほしいといった染色の考え方が深く浸透して親しまれることを思ってやまない。
    草木染 糸染の基本 

    浸し染の手法
    山崎青樹(八冊目紹介) 大正末より植物染料の研究が進められこうした中、公害問題がおきて著者は、媒染剤を見直すきっかけであったとしている。草木染の原点を万葉集に見い出し、古代の染色をみつめたという。媒染剤は硫酸系、塩化系、酢酸系に区分区別して、公害問題の側面と安全性について記述している。また本の本題ではさらに媒染剤についての詳細を知ることができる。古代文財の集りで古代裂の復元が議題になるがいつも問題になるのが鉄媒染による劣化であるとして江戸末期の黒は裏地のほとんどが指で粉末になるほど劣化が激しいとの事例があるが、桃山期は黒系があまり劣化していないということから鉄を使用しての染色方法が重要であるとしている。優れた染色方法は媒染剤を布に残さないことが重要であるとして、金属は一度乾かしてしまうと後で布から流し落とすのが困難であるという。草木染めはとにかく手間をかけることが大切なこととして、染材料を自給することも同時に大切なことという。自分で採集できるものはなるべく採るようにするといいとして染材料の栽培を推奨している。
    日本の色 吉岡常雄 (二冊目紹介) 旧著 日本の色 (昭和54年 紫紅社刊)をもとに代表的な染色と色についてより詳細な内容の充実を心掛けたとしてカラー写真が多い。平安時代に王朝の貴族が築き上げた和様文化のなかで染色においても渡来の染料や技法を駆使し襲色(かさねいろ)に代表される優美な色調と色名が生み出されたことなどからここに至ってはじめて日本の色が確立したという。本の制作で協力した資料館などには改めて重要美術ともいえる着物が日本にあると感じた。
    帝王紫探訪 吉岡常雄(三冊目紹介)

    帝王紫は古代地中海の海洋国家フェニキアで誕生した。ギリシャローマ帝国へ受け継がれていった。1968年(昭和43年)その遺跡を訪ねる旅へと著者は、ナポリ、クレタ島など貝を採集して紫の染色を試みたあと(著書内で貝の色素などを学術的視点から明らかにしている。)、古代フェニキアの都市シドンの近くでようやく帝王紫(ロイヤルパープル)に使われた貝殻の貝塚を発見する。地中海では15世紀にすでに滅び去った貝紫の染色が今もメキシコのオアハカ州で伝えられていることを知り、幾多の困難を押してようやく山深い村にたどりついたのは、今から15年前(著者の視点著書の視点でのこと)1969年(昭和44年)のことであったという。その5度にわたって訪れ、村長で雑貨店を経営しているリアンドロヴィリエルロムス氏には協力や案内、説明でお世話になったという。フェニキアで紀元前16世紀頃から始められた貝による紫の染色はギリシャローマ時代へと受け継がれ、まさに高貴な人々だけに着用を許される帝王紫となった。古代シルクロードの交易都市として知られるシリアのパルミュラやエジプトのナイル川付近で発掘されたコプト裂の中に帝王紫の裂があることでもわかる。そうした帝王紫の探訪を17年間続けた。また著書の終盤、昭和小説『貝紫幻想』の著者芝木好子さんと帝王紫を語る対談が収録されている。今思えば、吉岡常雄氏は染色考古学であとにもうでることのない偉大な人物のひとりだったのである。

    吉岡常雄の仕事 

    天平の赤 帝王の紫

     幻の色を求めて
    吉岡常雄(四冊目紹介)

    法隆寺、東大寺の染織の復元をする復元のエキスパート職人として、のちに継承者になるの幸雄氏を連れてたびたびそうした有名な寺院に仕事のために連れていったと幸雄氏は語っていた。とりわけ飛鳥天平の染織の解明に力をそそぎ、薬師寺、東大寺、法隆寺、法隆寺奉納の幡の制作に応用され、染織研究をリードし数多くの功績がみのる。彼の多くの遺品は残された多くの染織家が遺品にふれておく必要がある。そこには、寺院にある貴重な染織品が鮮やかに復元された美しい姿をみることができる。貧しい時代にしかうつらない幼稚な時代ではなかったことが、かいま見える。古代人の残した染織品を研究することが第一であるという。貝紫(ロイヤルパープルとよばれ貝を用いた高貴な染色による紫)は帝王紫とよばれ、ギリシャ、ローマ、中近東、中南米のメキシコ、グァテマラ、ペルーへと紫を求める世界への旅は三十年近くにおよんだ。その研究心、姿勢はみならうべきものがおおい。

    樋口可南子のきものまわり 清野恵里子(二冊目紹介) 樋口可南子さんと著者の二人称、読者の三人称で、文章が進んでいく感覚がある。きものの話と樋口可南子さんを写真のモデルに着ている着物を解説したり、文章でひきたてたりしていく。比較的読みやすい本である。とくに、きものの似合う風景がよくみえて日本美を感じる。日曜日などに読むとすんなり読める感じ。ちなみに本のタイトルは糸井重里さんがつけてくれたそうである。

    染色の基礎知識

    実技に役立つ染料

    助剤 用具 染め方

    高橋誠一郎(二冊目紹介) 実技に役立つ染色基礎知識が満載といえる。ステンシル染、ローケツ染、型染、浸染、絞り染、マーブル染、版染、筒描き染、筆描き染といった染色法にはじまるものの染色と最後まで懇切丁寧に染色基礎知識を解き明かしていく著書は、全体像は家電製品の取扱説明書のようなイメージもあり、特殊助剤や固着剤、浸透剤などの特徴、特長、他の用途などの解説は素晴らしいの一言に尽きる。染料の使い方と技法などはひろく活用さてれいく資料になることであろう。
    日本の草木染 上村六郎(二冊目紹介)

    色料というのは二種類あるという。繊維まで染まりそう簡単には色が落ちないのが染料。もうひとつは、付着による染色の材料としてのみつかいえるような色料はこれに対して顔料といい、色がついて一時的に表面を色どるものであり、化粧品なども顔料のこれにあたる。

    染色をしたことがない方は、美しい薔薇をみてその花の色がそのまま染まると思いがちである。果物の鮮やかなものも同じといえるが、染色の天然染料の多くはそのままその色になることは少ない。露草(青花)の花の汁は友禅の下絵に使われるが、その色は水につかると流れてしまう。水に流れることが前提なのである。つまり花の色そのものでは染まらない(染着の作用)がないのである。そこで何かしらの物質たとえば金属を中間にかませることで染着させることができる。これを通称、媒染(ばいせん)媒染剤(ばいせんざい)とよぶ。また紛らわしいことにそのままの色に染まるものをあげておこう。槐(えんじゅ)の黄色、黄檗(きはだ)の黄色の樹皮、マンゴーの果実などの黄色に多い。赤いグラジオラスの花や黒豆の紫色の色素などであるがこうした性質はきわめて稀なのである。また稀の中の稀のものとして、榛(はん)の木の樹皮はタンニン剤に使用されるものはそのままの素材で茶色に染まってしまうという恐ろしい特性を備えている。

    草木の染色工房 加藤國男(二冊目紹介)

    Amazonで古書を購入すると前の所持者の勉強をみることができることがある。左の文字にリンクしたが、染色の新聞記事や雑誌の切り抜きがでてくることがある。本への書き込みもそのたぐいであるが、資料へ投資したからには誰でもモトをとりたいと思うのは当然である。この草木の染色工房も加藤氏の染色への思いが伝わってくる前向きな著書である。スウェーデン(北欧)で、自然からの恵を手仕事によって、たとえばりんごをとりそれをジュースにするなど、作物を収穫してからその後一貫して自分が作業を自らするという生活をかさねたことで、その自然と手仕事の深みはより増していくのである。加藤氏のウール素材に選抜してウールを草木染めするという染色スタイルは続き貫き、完成度も高い。また化学染料の登場とともに自然の素材のものの染色は、群馬の山崎氏が草木染めと呼び、化学と区別した時代背景と、平安時代に始まる<十二単 じゅうにひとえ>は草木染めの専攻をこころざしたもの特有のキーアイテムとなっていることが伺える。草木染めがめにみえて染織史でのはじまりとみていいのは平安時代といえてそれに落ちつくことは、文献の豊富さ、色彩感覚の突出した書き手がいたことなどがあげられる。時代によっては草木ブームもあったかもしれないが基本的には染色というのは、文献や資料を考察した上で、時間に埋もれない立派な染めものを残したいと思う姿勢そのものが大切である。その姿が、はやりすたりに左右されないものをつくりだし、結果的に優れた技術者へと変わっていく。

    市嶋千枝子作品集

    綴織つづれおり

     

    山辺知行 解説(二冊目紹介) 市嶋千枝子作品集 綴織 であるがこの本を結城図書館で借りたのは、単に綴織が知りたいという知識欲ではなく、解説の山辺知行氏が担当しているために、借りた。山辺氏は私が資料集め及び私物資料収集の中でも自分の状況にあっている人物というか、文章が厳しいながらも的確な言葉によって数多くの染織家を牽引してきた部分があるとおもう。そして、山辺氏の解説とともに、市嶋千枝子さんの残した作品の綴織が写真によって紹介されていくのである。山辺氏は市嶋千枝子さんと互いに何度か挨拶程度にともに過ごした時期もあったが、市嶋さんは物静かで寡黙な印象だったために会話はほとんどしていない状態だったとして、市嶋さんが亡くなられて源流社の染織資料を出版するにあたり、山辺氏が抜擢されて、市嶋さんの作品をみて、これは20年あまりの歳月を見落としたことはなんともとんでもないことをしてしまった。と感じたのだという。また、悔いても仕方ないとしている。<写真>について山辺氏はこんなことを言っている。引用させてもらう。ーーーーー写真というのは、造形的な美術作品の製作に対して非常に効果のある文明の利器で、それは人間の眼の記憶の不確かな処や、見落とした処など機械の眼で一様に正確にみせてくれる。ただ心すべきは、もし創作的な意図を失って、それにのめり込んでしまうと、それは芸術性の希薄な単なる模倣になってしまって、作品としての感激も迫力もないものになってしまう。ーーーーーーーと<写真>について述べている。市嶋さんの綴織の作品をみると私はどうしても、粒子の細かいどこにでも入り込む砂漠の砂をイメージしてしまう。色が赤や黄色味を帯びているせいもあるが、染めに比重をおけば確かに綴織によっての作品より、より絵画のような写実的な表現もできると思うが、あくまで綴織のなかで綴織によって悪戦苦闘してその末に作品が成り立っている。砂漠の砂は容赦ない照りつけを連想させるものかもしれないが、山辺氏は市嶋さんを物静かなイメージ(印象)としてみていたが、織物へむけられた熱量は、容赦ない照りつけの砂漠のような風景の中にひとりたたずむ市嶋さん自分自身の姿が綴織だったのかもしれない。
    日本服飾小辞典  北村哲郎(二冊目紹介) 特筆すべきは、40項目の厳選紹介の中でも色無地にはふれておきたいところである。<色無地>については色無地ほど古くてしかも新しいきものはないのではないかと著者は色無地の啓蒙性についてかいている。色無地は昔はなかったのかといえばそんなことはなく、無地染のきものとして、結構大きな需要をもっていたという。昭和42年発行の雑誌「新しい装い」誌上で竹下和宏氏は「無地染きもの」と題し、次のように述べている。<<きもの世界でも「流行」だとか「ブーム」だとか表現されるものもいろいろあって、変遷しているわけですが、この大きな意味におけるきものの中で、いちばんそういった人気の浮き沈みに関係なく、広く歓迎されているものがあるのです。それは「黒地染のきもの」または「色無地のきもの」といわれるものなのです。略、そしてむすびとして、みなさまのきものの計画には優れた生地の無地染のきものをお手入れになるようおすすめしたいと思います。 と記している。またたとえば、室町時代末期に書かれたと思われる「女房進退」という一書には、殿中では無地が後染のものではあるが登場していることから古くからこうした色無地とよばれるものは、知られていたことがよみとれる。
    日本の織物  北村哲郎(三冊目紹介)

    昭和46年1月から49年12月までの四年間、47回にわたって連載されたものに手を加えて完成された書物及び染織資料。前回紹介北村哲郎の著 日本の織物は源流社がのちに著者の意図をくんで、北村哲郎染織シリーズというふりがついての出版になったもので、こちらはやや古いものである。織物の組織とか糸あつかいなど、織物そのものに係わることより、その織物の歴史や織物にまつわるエピソードなどを中心に書いたもので、きらくに読んでもらいたいとの主眼によって成り立っている。北村哲郎の1冊目の紹介のもののほうがカラー写真などが大きいのでそちらをすすめる。織物染織資料収集家であれば、こちらの手のひらサイズももってもいいが資料内容はほぼ同じで収集する意味があまりない。

    日本の文様 北村哲郎(四冊目紹介) 日本の文様は、そのひとつひとつがあわさってできたときに表現は布や織物、着物であったのと同時に文様についてはさして説明する意味もないほどに日常に溶け込んでいた。説明が必要になったときに、それは説明が付加価値に変わる。文様には、現代人がおよばないほどに考えぬかれていたのである。空想の世界を現実にする というありえないおこりえないことを文様の世界では、はやくから取り入れていたことは空想の動物を文様にしていることからよみとることは容易く、世界の国々で花といったモチーフも日本では写実の世界をこえる表現として、ハスや連翹などの一瞬幻想的な花をも、そこから優れた工人たちはこの世にない花をつくりだし文様にうつしだすことでそれを現実のものへと変えてみせた。文様のはじまりが土器に縄のあとを残すというものであったがこの一見幼稚な発想をもとに飛躍していったものである。着物をみせるものとしてとらえている文化は京都の織物産地は得意分野ではないだろうか。
    続・日本の文様 北村哲郎(五冊目紹介) 日本の文様という著書の続編であるが、こちらになると文様はより現代の衣装や意匠権を引き継いだものは増える。車輪と水であれば、どんなことが浮かぶであろうか。これはまだ近い日本の歴史を引き継いでいる文様といえる。<御所車(ごしょぐるま)に水>というものでは、車のホイールにあたる部分は木製で、夏のかわきを癒せないため破損してしまう。そこで川の水をくんで、水に浸し、木製の車輪破損することを防いだのであるが、こうした当たり前でいて、匿名性が強いもの、さらにはふたつで成り立つもの、ひとつでは三を表現できないもの、ふたつで特有の意味をつくりだせるものは、文様の要素では重要な要素である。そうした意味では、意味ある組み合わせによって出来上がっている文様はとても勉強になる。