染織資料(2)

染織厳選読書百選(1)から染織資料百選(2)の作成について

染織厳選読書100選をつくり2015.8.31をもって形状ではあるが完成した。それはこちら染織厳選読書百選(1)

古書現代と称して現代染織と過去の優秀な埋もれて錯綜としている書物を整理する意味でも探った。

染織へかける思いが染織資料収集へとそうさせた。

染織資料は、染織家のサポート役として機能すると願いつつ、引き続き古書現代2として楽しんで頂ければ幸いです。

また、中間資料集を用意し情報強化をおこなった。こちらも継続するため参考にしていただきたい。それは古書現代2中間資料集

また、1冊目の<お能の見方>白洲正子 吉越立雄 共著 はカウントにいれないものとしたが

検討を重ねてみるとカウントするの方向とした。伝統芸能から染織衣装をよみとるという意味で染織資料と位置付けた。

2016.12.31.にてこのページは完成をした。さて白洲正子さんのきものが東京の銀座で展示されるといので、イベントに参加した。そのときのイベントの画像 白洲正子さんが能に関心があったのは事前に知っていたが、実物をめにすると、能の昔のものに用の美をこえてせまりくる芸術性がありそのことを見抜いていたのがいかにもという気がしたものだった。 この古書現代2ndは約1年半にわたり長期の調べをしてまとめ、まとめに悪意がないことと、著者の方があの野郎うったえてやるとこられても故人になっている方の資料もあり、また訴えられたら金のない私は絶対負けるので訴えるまえにどうかメールで連絡ください。 北村陵

 

本場結城紬 北村陵

本 タイトル 著者 /共著 評と本紹介
お能の見方

白洲正子 

吉越立雄 共著

能についての初心者入門決定版とのことである。染織も能衣装のものを実物をみたことがあるが、華やかさは群を抜く。随筆家白洲正子は、随筆においてもそう言ったように<本物だけが残る>とした。その随筆や作品などにも一貫したものにつらぬかれており、私にとっての無縁の<能>に白洲正子は何をくみとったのか、能をとおして何を伝えたかったのか。純粋にたのしむことをすすめるものかもしれないが、それをさしひいても白洲正子のふところの深さはのこる。文化にあまりにも近づきすぎた人物、そこから一貫性をもたせる。これは白洲正子が着物にも同じような理想があった。能の簡単な構成をみて、どんな複雑な心理を描こうと、劇的に進行しようと、すべてこの単純な形式の変型にすぎないーーー。とある。なれるということは大切だ。ーーーとある。話がとんでしまうが、将棋の名人升田幸三氏も著書<勝負>でも、このなれる、なれについての感覚を述べている。その記事はこちらそこによると頭の良し悪しではないといったことであった。人からぬすんだものは身につくが、教えられたものは忘れてしまう。とはあらゆる道の熟練者がいうことである。能はストーリー性が高いが、舞台などは殺風景に近い。これは時代時代で余分なものは省くということでどんどんものが無くなったそうである。現実に<もの>でそれを出して道具として機能させるより、ないものとして想像にゆだねて、夢や幻をつくるのだという。<もの>があった場合、それは夢や幻ではなくなってしまうという。能のもののなかで、現世への執着というのを融の亡霊に語らせるなど、伊達男からそうでなくなったという独創性あるストーリーも能らしい。現在ではこの能のストーリーに似て、フィクション物語は日々つくられているが、発想の原点といえるもので面白い。また能に登場する<おめん>なども怒りや喜びなど表情が様々である。話をまとめようが、能衣装というものは興味をひかれるものではなかった。私にとっては非現実衣装とおもう。しかし、白洲正子がもう一度、調べなおせ、それも染織文化の一部だ、といっているきがした。

ものと人間の文化史

色 染と色彩

前田雨城  生活の中ではもともとついていた自然の色と人工的に着色したものとがある。私たちの目には、あえてそれを区別することなく、色としてうつってくる。その色をみることで喜び、楽しみ、寂しさや悲しさを感じることすらあるのであるから、色が人間の感情になんの関係性もないとはいえないと思う。数ある哺乳類のなかで色を区別し得る目をもっているのは少ないという。その種類をあげると、ヒト、類人猿、サルのみであるとされている。目の中に色を感じる組織をもつものはこれらの種類のみであり、他の動物においてはほとんどその組織が認められない。色彩を感じ、色相の区別ができる動物であり、そして直立して歩行し、主として地上に住む「ヒト」はこれらの条件があったために文化というものを創り得たとした。これは前田雨城氏が著書で説いている。色彩には形や容量がないため、ある意味からいって物質とはいえない。そのため色のみでは物質的要求の充足ができない。当然のことながら色の人間社会との関係は色に精神的安定を求めるという方向性が主となっている。この精神的安定は、心のやすらぎであり、心の満足といいかえることができる。衣服は好みにより美しさを求めて自由に色彩が用いられ、見た目に美しく着色した各種の食料品は公害を問題にされながらも食欲増進や購買心を起こさせるために一役をかっている。文学の上でのみ見ることができる色彩名や、現存する資料がないためその色相を推測することすらできない歴史上の有名な色、例えば「山藍」色のような色彩名も存在する。色でない色彩、つまり腹黒い人の「黒」、黄色い声援の「黄」など感覚そのものを色名で代表させたものである。いうまでもなくその色は実在しない。しかし、これらをみると人間は色に感情をもって接しているとしか考えられない。現実の色であろうと想像上の色であろうとそれは差がないようである。ものに美しさを感じるのは、常に形と色の調和がとれている時のみであるが、形のよしあしのみにとらわれている場合が多く色や彩色が、その調和にとって重要なポイントであることは案外、無頓着のようにみうけられる。社会の中にあって私たちの生活とその存在を共にしているものである。

絣 平山郁夫コレクション

絣に見るシルクロード

 

古い中国文献に南蛮諸国が産するところの「斑布」がみえる。3世紀ごろの著作で南海や西アジアについての案内記「南洲異物志」に「五色の斑布は古貝木(綿の木)をもって作る。斑布を作るならば、綿の実の斑布の模様の煩雑であるものが、巧みで城城(上等)である」と書いてある(「太平御覧」820所収)また「梁書」諸夷、林邑国の条にも同様なことが述べられている。林邑国(今日のヴェトナムに2世紀末から8世紀半ばまで存続したチャンパー王国の中国名)で、綿花から白い繊維をとり糸にして、五色(様々な色)に染めてから斑布を織ったという。とすればインドシナで絣技法が木綿織物に模様をつける技法の一つとして行われていたことが知られる。東南アジアが絣の発祥地という見方があるがこの仮説も見逃せない。

絣は沖縄八重山上布の絣糸を作る技法「カシィリィ」(糸に染料をかすりつける)が転訛したという説があるが、模様がかすれてみえるところから「かすり」で馴染まれたのだろう。国際的な用語としてはインドネシア語の縛る、結ぶという意味のムンイカット(mengikat)に由来するイカット(ikat)が一般的に用いられている。墨の筆跡のかすれ(掠れ)に由来する「飛白」(ひはく)も使われるが、絣よりもよりこの織物の特色をあらわしている。

この著書は、絣からシルクロードの世界をみてみよう といったものではあるが、カンボジアのアンコールワット遺跡を救済するために、カンボジアの社会的安定、経済的余裕をもたらすために日本企業や有力者が企画し、カンボジアにも高度な技術がアンコールワット遺跡からも伝わるように織物にも同じくいえるのだという意味で、またそうした技術も失われていくなかで、カンボジアの感性は優れているから伝えていくものだ。カンボジアの絣は19世紀から今世紀にかけてのそれに先立つカンボジアの織物事情を伝える資料は残念ながらみつかっていない。染織品の展示によってのみ、伝えていくほかない。

カンボジアの絹絣はすべて同じ技法によっている。緯絣で、模様は緯の絣糸であらわされ、組織は3枚綾(2対1斜文)である。これはまた他の東南アジアの絣のように他の技法で飾られることも少なく、絣技図柄を繊細な絹糸で織りだしている。そのため模様をいかにはっきりと描き出すかに工夫を凝らしているが、実際にそれが成功しているのである。綾組織の緯絣としたことがその最大の特徴だが、3枚綾は本来、毛織物に使われる織物組織で6世紀、ササン朝ペルシャに成立した緯錦(ぬきにしき)に用いられ、唐代になって中国の緯錦の基本的な組織となったものである。インドの絣に3枚綾は見られず、それゆえ、この組織織の知識は華南から南下してきたタイ人から教えられたものにせよ、源流は中国絹織物であろう。3枚綾は綜絖の数がもっとも少なくてすむ斜文組織だが、その緯綾(緯糸が支配的な綾組織)は、緯絣の模様をより表に出すのに効果的である。その場合、裏は経綾で経糸は緯糸に覆いかくされてしまう。それを利用して経糸を表で主な色とは別の色糸を用い、それも1色のみとせず、2、3色を使い、それによって織りあがった布は裏表で異なる色調となり、表では複雑な色合いとなって、織物に豊かな味わいを醸し出している。南方の強い日差しによってそれは玉虫色に微妙に変幻して見えたことであろう。かつては織物に不器用であったと記されていたカンボジアの女性たちは実際のところ繊細な芸術的感覚と優れた技術の持ち主であったのであろう、そのセンスと技量を見込んだのがタイ王室であった。14世紀以来、カンボジアはタイ諸王朝の支配下におかれることになるが19世紀末にいたるまでタイの上層階級のフォーマルな衣装ソムパクプーン(腰布)はカンボジア製であった。幅90cm長さ2mの大型の織物で、それを作る織機も大きくなり、かつて周達観がみたカンボジア人のものではない。おそらくタイからの技術指導があったのだろう。意匠構成はインドの経緯絣として世界的に有名なパトラにのっとっているが、織物の両端に見出される典型的な火炎状模様によって、それが17世紀からタイ王室がインドに特に注文して制作させていた華麗な手描き(媒染)更紗の腰衣パヌンと同列に並ぶものであることがわかる。つまりタイ王室は高級な織物を外注していたのである。それに対して本来のカンボジア人つまりクメール族特有の腰布サンポットホルがある。この古風なつくりものはパトラ絹を模範としながらもはやクメール様式となった菱格子文を主な模様の地に織りだし、長さと幅の方向に簡素な模様の条帯を間隔をとって織りだしただけの地味で控えめな意匠である。しかし絣糸の括りは非常に細かく(最小単位の緯4本)、絣文にさらに細かな明るい黄の点々の絣斑(竹の肌の細かな斑文になぞらえて<bamboo shot >バンブーショットと言う)を加え、まことに繊細な品格のある古典的作品に仕上げている。それらは晴れの場の腰布で、衣の端を股の下に前方からくぐらせて後ろにたくし上げ、袴のような形に着る。日常着は東南アジアで一般的な筒状の腰布が用いられ、土地の伝統的な名称もあるが、今日ではインドネシア語のサロン(sarong)が用いられているようである。ちなみにタイやラオスはパシン(pha sin)である。

着物の悦び 

 きもの七転び八起き 

林真理子 著書<野心のすすめ>は作家の実生活から、現在の女性は理想が低いという点から高くいないと駄目で、理想が低いのはなぜ駄目かを書いている。野心のすすめは啓蒙的なアドバイスが満載で、自分をみなおして目標をもちたい人にはおすすめだ。2015.9.6.日に古書店にての箇条書きはこう私はしている。<(林真理子さんの野心のすすめ が面白かった。群集心理にトドメをさして、とにかく上を目指すことをすすめる。古書店に置かれて夢中で読み干した。たぶんこの本がここにあるのは、皆アンテナはってきた人がここで読み干して帰っていくから一冊だけ異様なオーラになっている。)>着物の悦びは野心のすすめとの出版時期は知らないが谷崎潤一郎から着物女を男がどこをみているかが知れるとした。恥かきつつの精神のスタンスは自己成長を倍にしている。谷崎潤一郎の文も、着物にくわしくないと書けないものであるとして、まったくもって同じ意見である。着物の悦びは、初心者からスタートして着物をきるようになった著者が着物に関して感じたことを率直に書いていったもので、感情が怒りまくったり、様々な感情できものをみている。

日本の染織 縮緬

立体的な美しい白生地 

 

縮緬(ちりめん)の特徴は布面に細かいシワのあることで、このシワを「しぼ」という。結城紬の縮という織物も緯糸に強い撚りを手つむぎ糸にかけることで、平織りにはない「しぼ」が縮にはある。結城紬の縮についての記事はこちら

この「しぼ」があるために、しなやかで柔軟性に富んでいる。縮緬には絹特有の艶やかさ、ぬめりがあり、じっと見ていると思わず壊れ物でも見ているかのような目つきになってしまう、それほど縮緬の美しさは繊細なのである。縮緬は手描きや型染めの工程によって染められ、一段と変身してゆく。また縮緬は艶やかな光沢は素材の絹がいきて目にやさしく映るし、柔らかい手触りはこころを和ませる。そのために古くから人々は絹に憧れ貴重品としてあつかわれてきた。縮緬がはじめて日本で織られるようになった天正年間(1573年〜91年)は、現在のきもの地のすべてが、初めてこの時代に日本で織り出されたといわれる日本の染織史の黄金期といわれている。ちなみに日本国内は尾張(おわり)の織田信長と豊臣秀吉の一味による天下統一の完成は下克上による新しい社会の到来である。庶民のバイタリティが燃焼した時代であった。

小袖が生まれた時、その素材としてもっとも適した縮緬や羽二重の技法が、ちゃんと日本に入ってくる。染織に新しい息吹が吹き込まれ滅びかけていた染色が復活し、辻が花を経て友禅染がうまれた。それにしても結城紬生産者や熱心な紬ファンはいったい誰が「しぼ」を考えたんだという話題でもちきりである。生糸のもつ性質をたくみに利用して、強撚(きょうねん)のもどるのをとめ、精錬によってその強い撚りをもどし、裂地にあらかじめしわをいれることによって着用時におきるしわを殺してしまう。さらにそのしわによって絹の持つ強い光沢を一つおさえて、光にふくらみを持たせ、普通の絹の平織りでは出せない柔軟さと、しっとりとした重みを創り出すという発想は、実に非凡である。

日本の染織 絞り染

古代から続く優美な染め 

 

絞り染めとは布地の一部を糸などで括り、または縫い(ぬい)しめたりして簡単な道具で締めつけたり、押しつけたり、あるいははさんだりして、つまり絞ってその部分に染料の浸透するのを防ぎ(防染)、染め上がったとき、絞った部分が一種の文様として現れる、染色法のひとつといえる。まことに原始的で素朴な技術である。大昔から現在までそして将来もこの方法から抜け出ることは不可能な宿命をもつ技術である。友禅染や小紋や中形のような自由で色彩的で精巧な絵文様を表現できる技術と違って不自由な技術の拘束から解放されることはできない。しかし、それだからこそ、絞り染めとはそれ特有にのみ宿る独特の美しさが現れるともいえる。進歩した技術や能率的で便利な染めとは異なる文様の表現こそ絞り染めの生命といえる。絞り染は布地の表面に凸凹ができ立体感のある感触とまた多少の染料のにじみが残されて柔らかい味わいのある結果がうまれる。絞り染ぐらい人間の手先のぬくもりや心づかいが端的に見られる染物は外にはあるまいとおもう。絞り染めは大昔、布地が織られるようになってインド、中国、南方諸島、アフリカなど世界のいたるところで自然発生的におこなわれたが注目すべきは世界多くの絞り染めの中でも日本ほど美術的に高度に発達した国はない。絞り染めの日本において最高傑作の呼び声高い<辻が花 つじがはな>は世界美術品の最高位の着物としてほしままにしている。その点でも絞り染めの日本の歴史は興味深ろうかと思う。さて、小袖が主流となって来ると絵模様を好む庶民の感覚もまた好まれる流行になった。そのときに用いられたのが絞り染めであり、言うまでもなく辻が花染めとなったのであった。そして室町時代、信長が京都ののりこむ三、四十年前あたりから姿を見せはじめ、江戸時代にはいるとさっそく慶長小袖に席を譲ることになる。それでは辻が花は消えうせたかというと、そうではなく匹田絞りのような新しい魅力をも加えて江戸時代の着物の染めの芸術のゆたかで、華やかで幅ひろい豪華な花園を形成するに至る。つまり辻が花は七、八十年しか保てず、咲いたかとおもうと、たちまち盛りをすぎてしまったまぼろしの花であったのである。けれどもそれはこんにちなお、世界の賞讃をほしいままにしてると再度いわせてもらう。着物の美しさを生み出す直接の母胎であった。正倉院時代に﨟纈(ロウケチ)夾纈(キョウケチ)・纐纈(コウケチ)の三種類であった。この三種は天平の三纈といわれる素晴らしい技法のものであったのである。まずロウケチというのは臈纈染めというようにろうけつ染めである。次にキョウケチとは板締染めなどであり、さらにコウケチは絞り染である。結論からいえば最後のコウケチすなわち絞り染しか残ることができなかったのである。三世紀からコウケチ、絞り染めをさぐろうではないか。三世紀の日本の実情を記録した「魏志倭人伝 ぎしわじんでん」によれば景初二年(238)十二月の条に倭国から魏へ献上品を贈ったとあり、そのなかに「斑布二匹二丈」の記されている。この「斑布」については「縞織の紵麻布である」とか「草木を摺ったまだら染めの麻布である」などの諸説があるが、のちに生まれる「纐纈 こうけち」の前駆的技法、つまり絞り染によって縞状の模様をあらわした麻布と考えられなくもない。実際に絞り染の布が残っていろのは、飛鳥時代(592〜707)や奈良時代(710〜784)以降のものである。飛鳥時代のものは法隆寺に奈良時代のものは正倉院に残されて伝わった。

<清少納言と紫式部の色彩能力才女二人の絞り染めの女の戦 >

染物をつくるとき一番楽しいのは「水もと」である。水もとは、友禅染をした布を川の流れにひたして糊などを洗い流すことである。友禅染流しは京都の鴨川染、その他、各地の染工場の近くの川筋が現在もみられえるが水もとをすることではじめて染物の美しさが目の前に現れるのである。絞り染めも、染めおわってから解きほぐすときが水もとのような楽しさがある。清少納言は「枕草子」に「とくゆかしきもの巻染・むら濃(むらご)・くくり物など染めたる」と書いているが、とくゆかしきは早く結果を知りたいものという意味であり、巻染は糸で巻きつける絞りの技法 のものであり、むら濃は、まだら染のことで、くくりものは絞りをさす。こうした時代に残されし才女も染色は高貴なものの間でもおこなわれていることもわかるが、私の染織資料まとめでも繰り返しになるが色彩感覚の突出したものは名をはせることができたという人物はこのあたりの人物のことをさす。話を戻そう、紫式部は、その日記の中で「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍(はべ)りける人。さばかり賢(さか)しだち、、、、」と清少納言をけなしているが、「とくゆかしきもの」として、絞り染の結果を見ることの楽しさをあげている点、才知はおどろくべきもので素晴らしきものである。

日本の染織 紅花染

花の生命を染めた布

 

何千年以上も前の古い世紀、近東メソポタミアの山間の地に野生する紅花。紅花は赤と黄色に染めることができる。紅花の種子は近東よりエジプトに渡りヨーロッパに、一方ではインド、中国へと伝わっていった。

聖徳太子によって初めて制定された服色の制度は数回の改定によっても常に最高位は<紫>であった。だが聖武天皇十四年紀に位階を改定した際は、最高位に<朱花>(はねず)を置いている。日本書紀に「朱花、此をば波泥孺(はねず)と云う」とある。さらには万葉集の中には朱花を詠んだ歌が四首確認されている。引用する。

念(ねが)はじと言ひてしものを

唐棣色(はねずいろ)の変(うつろ)ひ易きわが心かも

 (大伴坂上郎女 巻四 六五七)

夏まけて咲きたる唐棣ひさかたの雨うち零(ふ)らばうつろひなむか

(大伴家持 巻八 一四八五)

山吹のにほへる妹が翼酢色(はねずいろ)の赤裳のすがた夢に見えつつ

(巻十一 二七八六)

唐棣花色(はねずいろ)の移ろいやすき情(こころ)あれば

年をぞ来経る言は絶えずて

(巻十二 三〇七四)

ここまでで、色がうつりやすいところをうつろい易い心にかけて歌っているところから、退色しやすい紅花染の薄色だったのではないかと思われると様々な考察がなされている。さらには赤裳とあり赤系統の色であることもその意見に拍車をかけている。仮にこの染めが紅花による染色であるとすると聖武天皇の頃、日本に渡来していたという想定もなりたつ。中国では珍重されており、そのために日本でも最高位の色として定めたという説もつよくなる。ただ、紅花は咲きがよく栽培できることから世界各地で普及し、さらには日本でも栽培すれば大量に生産できることから、わずか三年間で最高位の服色から追われる結果となっている。持統天皇四年紀には再び<紫>が最高位に戻っている。

<紅染に憧憬(しょうけい)した万葉女性>

紅の衣染(ころもし)めまく欲しけれども着てにほはばや人の知るべき

(万葉集巻七 一二九七)

紅の深染(こぞめ)の衣下に着て上に取り着ば言(こと)なさむかも

(万葉集巻七 一三一三)

呉藍(くれなゐ)の八塩(やしほ)の衣朝な馴れはすけれどもいやめづらしも

(万葉集巻十一 二六二三)

紅の薄染衣浅らかに相見し人に恋ふる頃かも

(万葉集巻十二 二九六六)

万葉集には紅(くれなゐ)を詠んだ歌が短歌二十二首、長歌七首の数があり、当時、紅花染がいかに万葉女性の憧憬のまとであったかが思われる。

紅花には紅色素(カルタミン)と黄色素(サフロールイエロー)があって、黄色素は水溶性であるが、紅色素は水に溶けないでアルカリ水でないと溶出しない。その色素の溶出した液も、そのままでは染色に使えない。この色素は酸を加えて染着させる。古代人はこの複雑な染色法を経験の累積から知り得ている。灰汁水(樹木性の灰)に花を浸して紅色素を溶出し、その溶出液に梅酢を加え(中和作用)、染色したあとにさらに梅酢を加えて定着させる。この複雑な染色法によって染めるために京(みやこ)だけで紅染がなされていた原因とも思われる。梅酢の梅は、青梅の黒焼(烏梅 うばい)を用いるようになる。

平安時代には二藍(ふたあい)という色名が現れる。枕草子でそれは出てくるが紅花と藍草の二種の藍で染めた色が二藍であり、その濃淡によって、二藍、濃二藍、薄二藍と枕草子では記録されている。平安時代にはこの花でそめる唯一の染料であって高価にならざるをえないにも関わらず家財を傾けるものが多くでてしまう。はかない花の生命をそこに求め、そうした想念さえも抱かせる紅の色であった。

わが国にあるもっとも古い紅花染は、東京国立博物館や正倉院に所蔵されている奈良時代の「紅地七宝文纐纈裂」といわれている。纐纈といえば「天平の三纈」のひとつで、現在の絞り染であるが、この紅地裂は七宝文の縫い絞りだという。紅花染の紅色はすっかり褪色してしまったという。しかし、安土桃山時代(1573〜1600)や江戸時代(1603〜1867)のものになると、やや朱色にはなっているが、はっきり紅花染とわかるものが少なくないという。島根県清水寺所蔵「丁字文辻が花胴服」(桃山後期)や東京国立博物館所蔵「紅地梅樹模様匹田絞振袖」(江戸後期)などがあげられるという。

紅花の染めは歴史の古い染色法である。

日本の染織 絣

日本の郷愁さそう織物

 

かつて絣は、日本人なら誰でも着たきものであった。当然、どこの町、どこの村でも絣を織る機音が聞こえていた。結城紬の産地の結城市の結城市の歌にこんな歌詞がある。

おはよう結城 わたしたちの市(まち)

  むらさきの筑波のみねから

  太陽ののぼる市です

  鬼怒川の流れのほとり

  千年の昔も今も

  娘らがはた織る音の

  高らかにひびく市です

  名にし負うつむぎのふるさと結城 (結城市のうた 一番)

名誉市民の新川和江さんのつくった歌詞である。

また、もうひとつ、

   花むくげ 家あるかぎり 機の音

これは正岡子規(1867〜1902)の句である。

正岡子規は伊予絣のふるさと、愛媛県松山市で生まれ育った。彼が松山にいたのは明治の初期だが、当時の松山地方はその句の通りであったのだろう。絣が庶民の生活に切っても切れない存在になり、全国のほとんどで織られるようになった理由は様々であるが、そのひとつに天保の改革(1841〜1843)による奢侈禁止が考えれられる。そして江戸時代(1603〜1867)の中期以後、全国に木綿栽培が普及したこと。それに歩調をあわせるように、藍染めする紺屋(こうや 染め屋のこと)が全国いたるところに生まれたといったことなのだろう。木綿の織物が我が国に初めて伝えられたのは飛鳥、奈良時代のことである。しかし、綿花栽培は失敗して絶滅してしまう。そのあと700年後にふたたび栽培されるようになった。綿花栽培は八世紀末「日本後紀」に延歴18年(799)7月、三河国に漂流した天竺人(サンスクリット語のシンドゥ(Sindhu)のあてじ インドと同じ地域を指すのではなくインダス川流域のことらしい)が綿の種子をもたらし播種した。その地域は紀伊、阿波、讃岐、伊予、土佐に配布された。700年後、再び栽培されたのは不思議な一致であるが最初に伝来した三河であった。いまも「三河木綿」は有名であるがそうした歴史的な事情と無関係ではない。一方、藍染が発達したのは奢侈が禁止されていたため、藍染のきものをきるしかなかったからである。

インドから絣は伝来、スマトラ、ジャワ、ティモールなどの島に移民によって伝えられ沖縄に上陸し、薩摩に伝わり、久留米、伊予、山陰、能登、越後といったように全国で絣が織られるようになった。絣は日本の特産ではない。東南アジア系の絣は、オランダのアムステルダムにあるトロピカル博物館に素晴らしいコレクションがあるし、スウェーデンのストックホルムのノルディスカ博物館の民族衣裳のコレクションの中にも何点かの絣をみることができる。その他、中南米に面白い絣があるときく。日本の絣ほど民族文化の基盤から吹き上げるうたごえを感じさせるものはない。それほど日本の絣は見事なのである。

東京国立博物館に飛鳥時代の「太子間道」たいしかんどう という裂(きれ)が保存されている。これは法隆寺に伝えられた宝物のひとつで聖徳太子(574〜622)が勝鬘経(しょうまんきょう)講讃のときに使われたという幡の裂である。そのため「太子間道」とよぶようになったものだという。日本の染織史上、きわめて貴重な品だが、それというのも<現存する世界最古の絹の絣織物だから>である。

日本の染織 西陣織

世界に誇る美術織物

  西陣織:染の美しさと織の美しさをともに支えた感覚、色の、形や文様の手触りには外来のものを消化しながら土着の視覚や触覚に育まれた見事な「日本人好み」が息づいており、都には都の、田舎には田舎の甲乙つけがたい高度の創意工夫が定着し、洗練されたことが民族の文化としてとりわけ尊く、興味深い「日本人好み」の原型をなしていて、生活感情や生活様式のいちばん奥底の原則をするどく刺激しえたのである。強いて言えば日本人の文化では衣裳と染織の好みが深く先行(潜行)して領域の造型や表現や行動様式を現し定めるという度合がつよい。世界中で着物の表面を絵画ないし多彩な文様表現の場、画面、とみたてて旺盛な創造力を発揮し、楽しみ、喜び、誇りにして来た中でも、日本人の場合はむしろ並外れてその傾向が著しい。それどころか絵画も建築もまた鎧兜などの武具や紙工品や陶磁器、漆器も染と織の意匠、傾向、技術に負うてきた範囲がたいへん広い。しかも染織品の多くは消耗不損して遺品の数こそ多いが量的には充分ではない、技術はいつも廃絶の危険にさらされてきたし、そのなかでも日本人は染物の美しさにより親しみ、織物の美しさをより尊んだといえる。染の方が遥かに難しいと言われながら織るという技には経緯多彩の糸の一筋一筋を根気よく機にかけて織りなす一種悠久かつ巧緻精巧のいとなみに永遠の時空を一刻一刻実現していく手わざが実質的に実感も強いという点は織りの強みといええるのではないだろうか。織る文化は糸の文化であり、糸を愛する文化は自然必然にまた女文化であった。「いと」という言葉を呟く時、私はこんなに美しいイメージを喚起する発音が他にもあるだろうかと物狂おしいくらいあやしい心地がして、自分の心身もまたその永遠の糸に織りなされてきた日本人だと思ってしまうのである。「嵐ふく三室のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり 能因法師」は小倉百人一首にもえらばれて周知の歌であるが、奈良の龍田川は生駒川の下流で古くから紅葉の美しさで知られている。この歌もまた紅葉の流れるありさまと、さながら目もあやに織りあげられた錦のように美しい、と詠んでいる。この他にも古今集に「龍田川紅葉乱れて流るめりわたらば錦中やたえなむ」などがあり、古来わが国の詩歌文学の中に錦を紅葉の美しさによって表現したものは数多くみられる、錦とは文様色彩を美しく織りだした織物の総称であって特定の織物技術をさすものではない。綾錦、錦繍などの語も美しい織物にちなんだ名称である。
日本の手わざ 結城紬  

筑波ねの新桑まよのきぬはあれど 君がみけししあやに着ほしも

(筑波山でとれた新しい桑繭で作った衣服はありますがあなたの下さる着物が何をおいても着たく思います 久松潜一 )

これは万葉集のなかに詩があります。恋しい人のためにたんねんに着物を織って贈るなど、世知辛い世の中では望みようもありませんが、せめて団欒のひとときに結城紬を着てみたい着せてみたいと思うのは日本人の心の故郷を見るからでしょうか。

桑の取り入れは独特の形をした<桑ツメ>を用いて丁寧に葉をつみとる光景がみられた。春の蚕には、枝の刈り取りを行い、枝ごと刈り取って飼育される。省力化が盛んとなってからは秋の蚕でも枝ごと刈り取って飼育するようになった。枝ごとは葉を食べ尽くした状態から回収することにも都合がよい。蚕は1眠から4眠まで休眠し脱皮をしながら成長を続けていく。3眠までは桑の葉を食べる量も少ないとされており4眠から覚めると食べる量が急増し、蚕の成長も著しくなる。桑の葉を与えた蚕はもくもくと桑の葉を食べ、その音は木の葉に雨粒が降りかかっているかのような音がひびくという。4眠から覚めて約12日位で上蔟(じょうぞく)する。この時期は養蚕家はねこのてもかりたい忙しいものとなる。蚕が桑の葉を食べる速度は気温に比例するため春蚕で気温の低いときは暖房を使うこともある。成長の遅れを防ぐための手段である。桑の葉を十分に食べた蚕は糸をひきはじめる。このような状態の蚕を熟蚕(じゅくさん)といい、さかんに糞を排出し、蚕体の青味がなくなり、幾分縮んでピンクがかってくる。それを丁寧に拾い上げて<回転蔟 かいてんまぶし>という道具の環境へ移動させる。蚕は上へのぼる習性があり、上部が重くなりバランスを失って半回転し、また上へとのぼる、これを繰り返していくと回転蔟の紙枠に繭をつくりはじめる。回転蔟という道具によって2匹で一つの繭をつくる玉繭が減り養蚕にはかかせない道具となっている。こうしたなかでも選別のとき形の変形したものや汚れた繭が出ますがこれをのび繭という。そのほかにも製糸工場で糸のほぐれの悪いもので除かれたものを揚げ繭といって同じく真綿の原料として活用される。乾燥や殺蛹(さつよう)をせずそのまま煮繭をして真綿に加工したものを<生がけ真綿>といい、秋の終わりの生がけ真綿は極上のものである。晩秋生がけについてはこちら、同じ原料でも格付けは上位にある。殺蛹をしないと蛾が発生するために熱を加えて殺蛹をします。こうした真綿加工したものを<半生がけ真綿>といいます。冷蔵設備を使い殺蛹した繭のカビの発生を防ぎ品質を保つ。収穫時に加工のできないものは加熱乾燥して貯蔵をする。これを<乾繭>とよぶ。生繭、半繭、乾繭とそれぞれに応じて煮繭を行うがそのさじ加減は職人のなれによるもので調節されるという。蚕から吐糸された繊維はフィブロインを中心にその周囲をセリシンが取り巻いており、繊維の26%がセリシンでできているといわれている。このセリシンはアルカリ水溶液に溶ける性質がある。このセリシンは水やアルカリ性の溶液に溶けるので重曹(重炭酸ソーダ 等)の合成物を用いて煮繭(しゃけん)の工程をおこなう。高温であるとさらによいとされている。昔は灰を抽出した溶液で煮繭がおこなわれていたが手間がかかりすぎるために、重曹を用いる形となった。灰汁の作り方は下記文章(a)にて説明補足を行うことにする。煮繭の工程ではセリシンを取り除く作業がおこなわれ、この工程でセリシンは完全に除去されるわけではない。煮繭の工程で加味されていることを下記文章(b)にて情報補足を行うので参考にしていただきたい。真綿かけは<蚕が繭をつくるときは8の字を繰り返して形成し、やがて親になったときに出やすいように繭の先端は一部的に薄くなっている、食い破って出る箇所>をうまく使ってひろげて真綿にする。繭7粒ほどで一枚の袋真綿ができあがる。真綿かけにはそれぞれ流派がある。下記文章(c)にて説明補足をおこなう。 袋真綿は昔から一枚2gほどであり94gを基準に一ボッチという呼び方で取引がおこなわれる。いざ、糸をひくために、なめし 加工を行うことがある。なめし加工については下記文章(d)にて情報補足をおこなう。つくしという糸とり道具に袋真綿をかけ、おぼけというおけに糸をためてゆく。一反のつむぎには7ボッチほど糸が必要とされている。それぞれたて糸に4ボッチ、よこ糸に3ボッチの割合で使用されます。結城は通常の織物とは糸の太さが違い、たて糸より、よこ糸のほうが細い糸をつかいます。ここに絣が入る結城となると糸は4種類の太細が必要になる。糸の太さについては下記文章(e)にて情報補足をおこなう。ボッチ揚げの工程(ボッチ揚げの工程についてはこちら)を行い、次に染色をおこないます。手つむぎ糸はなめし加工に使った油脂や唾液がついているために軽く精錬をおこないます。精錬剤は高級アルコール系の洗剤を糸量の約3%程度使用し沸騰中で約10分処理する。不純物をとりのぞき、染色をおこなう。使用する染料は草木か化学で方法は異なりますが、化学の場合、地色の部分はクロム染料または錯塩酸性染料を使用し、模様の鮮明な部分は酸性染料を使用する。絣の染色は下記文章(f)にて情報補足をおこなう。染色を終えて糸を巻き、糊つけの工程を数回おこない手つむぎ糸の糸の弱さを糊で補強します。糊については下記文章(g)にて情報補足をおこなう。絣のまざしこみ、筬通し、前結びなどを経て、機巻き作業をおこない、最後に機織りをおこない結城紬は完成されていきます。結城紬の手織り機<地機>(じばたについてはこちら)で織られたつむぎは、我が国最高峰の織物という評価をする愛好家が多いことで知られています。地機は日本でもっとも原始的な水平式織機のひとつといわれています。地機織りの平織りと縮(ちぢみ)織りがあり(縮についてはこちら)、単純に説明すると、平織りのつむぎの緯糸が強い撚りのかけた糸を使って織り上げることで<しぼ>がうまれ独特のシャリ感がうまれます。

(a)灰汁のつくりかたについて

藁灰汁の作り方は、藁を燃やして、火が消えかけの黒いうちに熱湯をかけて、上澄みを濾して使います。精練に良いphは10.5程度です。藁の量は糸量(繭量?蛹は除く)の2倍、湯量は糸量の40倍+15Lです。

灰汁の作り方などの詳細ページ

(情報提供者 きてぃ。)

重曹の場合の参考:生繭4kgに対し重曹100gを使用する。繭をつけこみ激しい沸騰をさけてじっくり煮込む。

(b)煮繭の工程でセリシン除去以外の加味されていることについて

蛹(さなぎ)は脂肪を多く含みこれがアルカリ剤と作用し、脂肪酸塩(構造 R-COONa)が形成される。これがフィブロインに付着し真綿独特の風合いをかもし出すといわれている。アルカリ剤が多すぎたり、強アルカリ剤を使用すると脂肪酸塩の付着が減ってカサカサした真綿となってしまう。脂肪酸塩の付着量が多すぎると真綿のヌメリ感が強すぎるとともに黄ばみの原因となることがある。

(c)真綿かけの流派について

奥州流(福島県)、信州流(長野県)、甲府流(山梨県)などがあり、結城は奥州流である。現在は福島県から仕入れをおこなうために結城では数件ほどおこなっているくらいになっているといわれている。

(d)なめし加工について

真綿かけがすむとそれになめし加工をほどこされる。かつては、なめしに胡桃(くるみ)やカヤの実を粉砕したものを使っていたが現在はほとんど白ごまを用いる。すり鉢ですりつぶし、三つ指でつまんでその量を一升五合の水につけて混ぜ込む。よくとかしたら真綿を浸し、すったごまからにじみ出る油脂分をすみずみまでにじませる。こうすることで真綿の毛羽立ちを防ぎ、糸を丈夫にしつむぎやすくなる。これは紡績工程のオイリングに相当するものである。

(e)4種類の太細の手つむぎ糸について

細い順に表記 地糸緯糸、絣糸緯糸、地糸経糸、絣糸経糸 になる。タテヨコの絣糸は、地糸より若干太めの手つむぎ糸を用いることで仕上がりが美しくなる場合が多いといわれています。

(f)絣の染色について

染料液に入れ物理的にたたきながら、括りと括りの間に染料を浸透させる。たたき染めとよばれるもので熟練の力加減が必要になる。使用する染料は化学の場合、地色の部分はクロム染料または錯塩酸性染料を使用し、同じ部属の染料でもそれぞれ浸透性が異なり「羽二重巻き法」という独特の方法で染料の浸透性を分類し、絣染めの場合は最も浸透性の悪い染料だけの組み合わせで染色する。絣は目色(絣の色)と地色を指定された色に仕上げる技術力は化学染料の染色において並外れた精度を結城の染色家は保持しています。

(g)糊について

うどん粉を結城紬では<糊>にします。機織りのときに使う<糊>はゴーセノールとよばれるものを使います。うどん粉は織元で秘伝の<浴比>(よくひ)で数値化した分量を水にとかして10分程度加熱します。うどん粉(でんぷん)は加熱によって糊化します。加熱前をβでんぷん(ベータでんぷん)、加熱して糊化し変化したでんぷんをαでんぷん(アルファでんぷん)とよぶそうです。糊つけ作業の下糊つけとよばれる糊つけは、完全に糊化した糊を使用し、本糊つけとよばれる最終的な糊つけ作業は80%程度が糊化した状態で糊つけ作業をおこないます。この糊を別名、攪き糊(すきのり)とよびローソクなどの油剤をほんの少し使用して糊つけします。

日本の染織 御召

多様な美を織る

 

御召は御召縮緬の略。先練、先の縮緬である。天明八年(1788)に田宮楚洲によって書かれた『絹布重宝記』の羽二重の条に「御召地極上品の絹の総称なり」とあるし、洒落本、仕懸文庫_二に「おめへがたのような革じゃごぜへせん。おめしサ<かはとはかわはをり、おめしとは羽二重といふこと也>」、また江戸末期の『守貞漫稿』巻十九、織染には「前ニモ云ル如ク三都ノ男女トモニ式正ノ礼服ニハ無地紋付也、無地紋付ニハ黒ヲ専トス、黒紋付ニハ男ハ黒羽二重、下輩ハ黒紬ヲ専トス(略)女子ハ小紋ヲ専トシ縞次グ(略)小紋、縞トモニ縮緬ヲ専トス、縮緬モ近世御召縮緬ト云上品ヲ専トス」とある。こうした文献のほか、江戸時代には御召とは先練の縮緬をさしたのではなく、相手を敬ってその着物をいう「お召しもの」といった意味の、地位の高い人々がお召しになる上第の絹織物の総称として使われ、今の御召のことは、それが縞物であったから柳条縮緬(しまちりめん)といっていたと考えるべきであろう。因みに縞を柳条とかき、その縞柄の多いことやそれに親しみをこめて、結城紬の問屋も柳条屋(しまや)と産地問屋をよぶことがあった。そのくらい縞は一般的な柄として柳条が知られていた。ところで御召縮緬という名の起りにはもう一つ、一般的に広く知られている徳川十一代将軍家斉が、常に好んでお召になったからだという説がある。家斉は「天性華美にして世間にありふれたる物を嫌ひて新機軸を喜びたり。従来縞縮緬とて高貴の人の常にきせしものありたれども、皺縮、紋様極めて平凡なるものなりしを以て、更に之を多くして縞に織らせたり。其の色は御納戸と称し濃厚なる浅忽にして、白き万筋の縞あり。二分を隔てゝ横筋ありて格子状を成す。是(これ)を御止縞と称し、他人の着ることを禁止せられ、天保初年に至り桐生にて此(これ)の縞に擬し、格子なしの紺地に藍縞、茶縞、鼠縞(ねずのしま)の千筋、万筋を織出し、縞縮緬は一尺三寸幅のものなるを並の絹布幅九寸五分のものとなせり。」

安田丈一著「きものの歴史」には、桐生では「この柳条(しま)ちりめんを織って幕府に献上したところ、家斉は大層よろこんでこれをお止め柄にした。桐生ではその縞柄を変えて、お召ちりめんといって市場に出したのだという。家斉に献上したという文献は何もなく伝説に過ぎないとは思うが、このようなことはありそうなことでもある。つまり商売にもそつがなかったようである。」と書かれている。このように見てくると、どうやらこの家斉お召の俗説が織りのきものの高級品であるという宣伝にたくみに利用され、先染縮緬のネーミングとして成功し、上等の絹織物の総称であった「御召」という名称を先染縮緬が独占することになったと考えるのが妥当のように思われる。それは、明治に入ってからではなかろうか。

染織辞典でもう一度、「おめし」の項を引いてみよう。

「御召縮緬の略称なれども普通御召の名を使用するものは其範囲広く、例へば杢糸(もくいと)を平織し整理法に依りて御召風となしたるものまでも御召風と称すれど、普通は緯に縮緬と同じく強撚糸を織り込み(縮緬は生糸、之は練糸)製織後処理を行ひ布面に微なる皺縮を呈せしめたるものなり。経緯純絹もの及び絹綿、絹絹紡、綿玉糸、綿柞蚕糸、人絹等の混用せる交織物もあり。幅九寸五、六分、長さ二丈八、九尺、重さ百二十匁(もんめ)内外を普通とし、縞物、絣物、紋物及び色無地等の種類あり。純絹御召は京都及桐生を、絹綿交織御召は足利を以て主産地とし近時各地よりも盛んに製出せられる。」とある。ちなみにこの辞典が出版された昭和6年という年には西条八十作詞の『女給の歌』が大流行したのであるが、そのなかに「わたしゃ夜さく酒場の花よ、赤い口紅錦紗のたもと、ネオンライトで浮かれて踊り、さめてさみしい涙花」という一節があり、この部分は、この歌の中でも特に愛唱されたのであるが、この錦紗とは薄地のしぼの細かい上等の御召(縮緬で派手な染めのものであった)で、その当時に新しく創られ、こうして流行歌にとり入れられるほど、女性の着尺地、コート地として流行していたのである。御召は、織りのきものの代表的なものとして婦人に愛好され、それだけに色々と工夫された新しい風合の御召がつぎつぎに考案され業界のドル箱であったのである。しかし、いつの時代でもそうであるように、売れる時は、また商品の質が低下する時でもある。かならず売れ行きに便乗した手抜きや素人眼にはわからないところで材料の質を落とすなど粗悪品が出回り、それが悪貨は良貨を駆逐するの例のように、結果的には信用を落とし善も悪も共倒れすることになる。その意味で、ここでも前記したように緯糸に杢糸や壁糸をつかって、あたかもしぼがあるかのように見せかけた御召風御召や、素材に綿や人絹等を使ったまがい物が数多くつくられていたことを見逃すことができないのである。西陣をはじめとする業界で御召というと、狭義の意味では御召縮緬を指すがむしろ一般には紬をのぞいた先染着尺全体の通称として使われていると見るべきである。

「若い時にはお召を、よそゆきにもふだんにも、西陣お召ばかり着てゐたもので、いまでも一ばん好きな着尺はお召である。ちりめんほどぼってりとせず、結城ほどかたくもなく、一ばん着心地がよい」(森田たま著『きもの歳時記』)

たしかに御召は、体によくなじみながら裾さばきがよく、しわになりにくく、よごれにくく、着やすくて、しかも品のある織物であった。さらに二度、三度と洗い張りをして着こんでいくと御召緯(おめしよこ)に深く浸透している糊が抜けてさらに着心地がよくなるのである。(できれば結城はやわらかくなるまで着た上で最初はカタいといっていただきたい)。このように着ることで糊がおとされて風合いがよくなる織物が御召や紬の愛好家をひきつけてやまない。さらに森田たまさんの著書を引用してみよう。

「どうしてかこのごろのお召しは好きな柄がない。平結城の縞には気に入ったのがよくあるのに縞お召といふものは殆ど見ることなく、紋お召などの複雑な柄ばかり多いのは、お召をよそゆきにより考へぬせいであろうか」

これは、どういうことかというと、生産側が染物志向であるからだ。染物に偽せるのであるから必然的に紋御召、小紋調は風通御召が主体になって、御召の着やすさはほとんど死んでしまっている、ということである。さらにほとんどの織物の命は<糸>にある。御召の命は御召緯にあるといえる。ほとんどの機屋が同一メーカーの品であるというのは酸素吸入でかろうじて息をしているというのにひとしい。西陣、桐生といえばかつての御召二大産地であったからなんとか御召の火をたやさなかったからこそ、御召はそれでも生きのびてきたといえるのかもしれない。

森田たまさんをふくむ、本当に着物のよさを知るほどの人は口をそろえて御召の良さをたたえる。ただしそれは昔を回想してである。少なくても普通の紬と同じくらいの値段で売れる、本当の御召をつくりださなければならない。すぐには売れないかもしれない、それを恐れて現状を変える努力をしなければ完全に見離されてしまう。そしてふたたび、御召が昔のように着られるようになれば、それは本物である。

ヤママユガ観察事典 小田英智 野蚕(やさん)にあたるヤママユガと、家蚕(かさん)との違いは多々あることは間違えない。養蚕としても常に困難必死である。ヤママユガの吐き出す糸が緑色で美しいということもあげられ、そしてほとんどかねそなえたものが蚕の種族として珍しいということに尽きる。現在のヤママユガの繭は一個で数百円という高価な繭からも、またこの野性ぶりは自然界で生き抜く能力が乏しいうえに進化の過程で防御も覚えなかった。すぐに天敵に食べられてしまう生物としての貧弱さが一個の繭の完成までたどりつく困難さをうかがいしれる。うまれて成虫まで常に天敵にとって格好の餌食、またタンパク源としても家蚕の成虫の体重の四倍ほどでイタチなどの動物からすれば、ひとたびこの緑色をみればつかまえ、とうぶん生きていけるボリュムであるといえる。こうした生物学上のもろさがヤママユガにかんしての養蚕する職人の、ヤママユガを繭粒をじょうずに育てあげたときの喜びははかりしれないものがあるように思う。著書は、そうした外敵が多いことや通常マユの中で休んでいる幼虫の状況を昆虫のエキスパートが写真でとらえて説明している。この著書をみて思うに、江戸時代から産業になったとあるが、それよりとっくの昔にヤママユガは絶滅していておかしくないほど弱いのであるが、私の推測だと家蚕の四倍の体重であるから天敵もすべて喰い尽くせないで、残りまのがれ、生き残れたのかもしれない。ただ仮説にすぎず、隠されたサバイバル条件はあったとおもう。ほんとに幼虫にしても、かよわそうで愛嬌があり目立つ緑色で生存率は極めて低そうとしかいいようがない。種として生き残るきがまったくない。それも生命の神秘だとおもう。

日本の染織 沖縄の織物

南国の素朴な伝統美

 

どのような文化でも、地理的環境と歴史的環境の上に成り立っている。また、美という人間行為の頂点は、その双方の和がなくては成り立たない。

沖縄は九州の南から台湾まで、弧状に点綴する南海の列島である。本土では見られない豊かな陽光と、石炭質の珊瑚礁、湿潤な気候は、織物に必要な繊維と染料を採る植物を育てた。苧麻、木綿、芭蕉、みなそうであるが、なかでも芭蕉は地味に適して全域にかつてよく繁茂し、もっとも普遍的な衣料となっていた。芭蕉を除いて沖縄の織物を考えることはできない。植物染料も多い。福木、車輪梅、楊梅(やまもも)、鬱金(うこん)、オキナワサルトリイバラ、ホルトノキ、ナカハラクロキ、タウルシ、クールーに藍がある。ねっとりとした染上りは、これらの染料を交染したり、混染するところからきている。強い陽光と湿度が、そうした色相を発達させ、沖縄織物の美しさを形造る一つになる。このなかで藍は、本土の蓼藍と違って、軽く明るい爽やかな色相を持つ山藍である。四方を海に囲まれた沖縄は、交通を船に頼った。芭蕉も福木もそのため、早朝から移植されたが、藍も別名を「唐藍」(からえー)と呼ぶところをみると、中国から使用法を教わったと思う。高級な繊維の桐板(とんびゃん)は主に福州からきたし、臙脂(えんじ)や蘇芳(すおう)は南方貿易によったものである。しなやかな紬は、南中国糸の繭から採り、絹は本土からの伝来による。沖縄で大麻を使わないのは、織物の伝来が比較的早期に本土からあったのを物語るであろう。苧麻を主材としたことは機道具の形からして推測することができる。

沖縄の歴史は、尚王家を中心として五百年続き、南方、中国、本土の仲介貿易によって各地の文化をそしゃくし、独自の形に仕立てあげていった。そして織物は王家の服制にそって発達をとげたものである。服制には幾度か改正があったという。また都であった首里を中心として、読谷の花織(よみたんさんはなおり よみたんざんはなおり)、久米島紬、宮古の紺上布、八重山の白上布といった地方別に特色があったことも、織物の発展に幸した。私たちが目にし得るものは服制の後期の形と、それが商業に移行した伝統の品である。服制でもっとも上位にあったのは、洪武五年以降、中国から藩の徴として賜られた官服であり、国内で織られた紋織、紗綾であるが、文化的には除外して考えてさしつかえない。はなはだ興味深いことに、沖縄織物でもっとも美しいものは、国内の行事に着られたものである。上位にあったのが花倉織(はなくらおり)で、花織と絽織を併用し無地であった。花倉織で残るものは数少ない。ついで絣になる。初期の絣は捺染絣ではあるが、それが八重山の紅露の赤縞となって残っている。その次に括り絣が南方から発達過程内で中国の影響があった。括り絣の手結いと呼ぶ、きわめて原始的な技法は、展開性に富み、沖縄の風物詩といえる抽象的な図柄を数限りなく繰り広げてゆくのである。特に、織返しという左右対照に図柄を出すものは、独自の境地をもっている。素材も絹、紬、麻、芭蕉、桐板、木綿と沖縄で使われた繊維のすべてに及び、単純な紺絣から、きわめて厄介な経緯色絣まで広範囲に発達をしていった。地色も金黄色を頭にして黄、薄藍、紺、緑、葡萄、赤、紫、煤竹など多彩である。華やかな諸取切(むるとつちりー)と呼ぶ総絣を上位として、縞や格子との併用もあるが、みな王家一門の婦人用であり、着る時と場によって、ひとつひとつ着分けがあったときく。諸取切の発達には南方の絣のほか、同じ沖縄の紅型との相互影響を考えておかなくてはならない。紺絣は王子と士族夫人の晴衣となっていた。白絣の色物は王家の晴衣であったが木綿白地に紺で模様を染め出したのは憂装い(うれーすがい)とよぶ喪服で、死者を悼み、涙に濡れたような織物とした。大柄なものほど位が上で、原始的な技法と相まって、絣を美しくしている大きな原因である。ここには貴族工芸特有の脆弱さは、まったくない。威厳に満ちた王家の絣は沖縄織物の華であるばかりか、世界的にみても、南方のイカットと並び称されてよいものである。また、沖縄絣は慶長以後、薩摩を通して海路越後に、陸路北上して久留米にと、本土の絣の原形になっている。沖縄で絣が民衆の手に渡ったのは明治中期以降になり、手結いは本土から絵図(いーぢー)に技法が変わった。絣に次いで花織が、そして綾とよぶ縞がある。綾は母親の美称であり、美しいものを意味する。王家の綾は黄、赤、緑、薄藍と多彩で綾の呼び名にふさわしいものであるという。花織は王家では、組織で出した無地物であったが、読谷、知花、それに奄美では紺地に赤、黄、白と色糸を入れて、夜空にきらめく星のような小柄を織る。王家の織物は王家内でも織ったが、王家から注文の形で織物の産地に図案を渡して織らせた。これを御用布(ぐいふ)と呼び、その図案を御絵図帳とよぶ。御用布は沖縄物の発達と伝統の基盤をつくった。本土でもそうであったが、沖縄では衣服はその人の身替りであった。民俗学で有名な思い手巾(うむいていさーじ)の前身は、姉妹手巾(おないていさーじ)である。沖縄織物は霊的な存在でさえあって、美しさの基本を形造った。着物は死者の棺を覆って、墓に納められる習慣があり、そのために古い織物で伝世するものは稀である。着物が分身であるのを織るのは、仕立下しのとき母親が「衣美(ちすみ)いく美いく、胴頑丈さ(どうがんぢうさ)」と希いをこめて祈ることでもよくわかる。織物は女の魂であり、守護神である姉妹神そのものであった。

にほんのにほん 染めと織り

SOME&ORI

  紬の起源は粗い平織りの絹で、あしき絹を意味する「施 あしぎぬ」といわれるものであった。十六〜十七世紀頃、民衆は厳しい税制の下で高級な絹布を納めなくてはならず、手元にのこった玉繭や蚕が食い破って成長した抜け殻の繭の出殻繭といった繭でこうした悪い方の質の繭を用いてどうにか活用し工夫をこらすことで自分たちの着る布、すなわち着物をつくったのである。現在の結城紬や大島紬のように、紬が高級織物となったのは明治時代になってからのことであるといわれている。本来の紬というのは、そうした悪い質の繭を活用した、飾り気のない実用的な美しさを身上とするものであったのである。絣によって飾り気のない紬から飾り気のある紬をつくりだそうと紬の先人が苦労と努力を積み重ねたことを忘れてはならない。絣のそうした歴史があるにせよ、こうした絣物の細工物は悪いかといえばそうではない。飾り気のある紬は飾り気のない紬と二つが同時に存在することでもわかるように、もともとの飾り気のない紬からどうにかして新しい紬、飾り気のある紬をつきりだし、紬のイメージをぬけたいがために技術開発が先人たちの努力のうえに成り立っているのである。そしてもうひとつ重要なことを現在の現代人は忘れかけている。手間と時間を惜しまず織り上げられたものだけが時を経て長く愛される資格を持つのである。またそうした織物は癒されることのない孤独な工程を経ているのである。
一竹辻が花・光・風  

久保田一竹と辻が花の出逢いは昭和17年にまでさかのぼる。東京国立博物館に所蔵された「幻の染」と呼ばれる辻が花の小さな古代裂を見て、手描き友禅の道にいた一竹氏は、精緻極まる中世の美に深く心を揺り動かされた。そしていつの日かその染めを再現してみようと決心する。以前にも一竹氏の辻が花の本を紹介したが、その前に「辻が花」について述べよう。辻が花は、主として縫い締め絞りを用い、黒や朱の線描、くま取り、ししゅうなどをあしらった贅沢な絵模様染めで、室町時代に誕生、桃山時代には戦国武将やその夫人達の衣裳として大流行した。ところが江戸時代に入って突然姿を消してしまい、今日残存する例も文献もきわめて少なく、名前の由来も技法も定かではないものである。京都にある高山寺所蔵の国宝「華厳縁起絵巻」を主題として久保田一竹が五つの作品を残している。さらには後記するが、作品のテーマ、作品名と一貫して美しい名がつけられている。一竹氏は昭和34年より、悲願であった辻が花の制作に取り組んだ。わずかな古裂を頼りに失敗を幾度となく繰り返して約20年、化学染料を使っての重ね染が可能となり、中世の辻が花の単なる模写ではなく、今様の辻が花の創造に成功した。作品の発表とともにその染は過去の文化を現代に映したものとして染色界の国内外に大きな反響を読んだ。辻が花の美の再現という目的に向かってのひたむきな願望と、その為の苦しい試行錯誤の連続、これはあたかも、辻が花そのものが、小袖染色における「多彩な絵模様染め」という時代の要望に対して当時の染織家たちが、少ない手持ちの技術を投入してこれに挑んだ態度に通ずるものがある。辻が花の時代に比べれば染料、技術すべてが多様化し合理化し整っている。目の前にあるものを写すだけで目的が達成されるのだったら、次々とそれを繰り返すしかない。巧みに技術や用具を用いて辻が花に似たものをつくるのだったらそれは必ずしも難しいことではない。しかし辻が花そのものの外形の模倣でなく、その中から美しさを掴み出してこれを現代に生かそうとなればそういうわけにはいかなくなってくるのである。「美」への悲壮な追求であり、前進を続けていくしかない。辻が花は、突然咲いて消えていく運命があったが、絵模様に向かって完成も爛熟もない清新な変貌を繰り返していったのと同じく作品の完成は完成と同時に次への足場の捨て石になる。ラフォーレミュージアム赤坂、パリのチェルニスキー美術館などの展覧を終えても次の作品の大きな期待がよさられ続けた。

作品リストも英語表記などにしても日本語の音が耳に残る。美意識は作品名にもうつされているように思う。

作品リスト

水のテーマ

1水精 Suisei

2水精 Suisei

3水華 Suika

4水心 Suishin

5朝光 Asakage

6風 Kaze

7海子 Haitsu

8暮 Bo

9余波 Nagori

10水鏡 Suikyo

11春陽 Shunyo

12秋陽 Shuyo

13波紋 Hamon

14淼 Byo

15縁水 Ryokusui

光響

16紅 Beni

17緋 Hi

18香 Kyo

19鶸茶 Hiwacha

20藍鳩羽 Aihatoba

21猩々桃 Shojoto

22瑠璃紺 Rurikon

23香柿 Kogaki

24弁柄 Benigara

25柿紫 Kakimurasaki

華厳縁起絵巻 (この三テーマ)

26善朱華紋 Zenshukamon

27白露 Shiratsuyu

28華露 Karo

29望響 Bokyo

30女 Hito

31風の心 Kaze no Kokoro

32地衣  Koke

33聖  Hijiri

34変り桐 Kawarikigiri

35秋映 Shuei

36早春賦 Soushunfu

37寒 Kan

38典雅 Tenga

39葵 Aoi

40無言 Shijima

黒柳徹子さんは、一竹辻が花を女性であれば一度は着てみたいとおもうものと言った。一竹氏は、現代の染色において研究を重ねての試行錯誤ではこんな言葉を残している。参考までに引用する。

「黒より暗い色というと黒ということになる。私の場合、研究をかさねてわかったことは、黒より暗い黒がある。黒より強い黒がある。そんなものはないといってほとんどの人が研究もしないで言う。黒より暗い黒には、黒に緑色を混ぜた黒もある。黒より強い黒には黒に赤を重ねたものだってある。それは研究した人にしかわからないと思うんですよ」

伊予絣  河野正信  元来、絣は藍染の先染め織物であるために、染めの段階において「差込み」ができる。もちろん括りに注意はするが、類百本(結城もほぼ同じ)の糸を一緒に括る性質上これを完全に防止することはできない。織りとの関係は無視してすすめて制作するわけにはいかず、糸に模様をつくることで織り上がりのものに付加価値を生み出す作業が絣の仕事といえる。織る前に一手間加えることで織物に設計されてできる絣模様が浮かび上がっていく。織りの段階においても両端で模様をあわすように調節するがやはり「絣のあし」が出て「カスレ」ができる。「カスレ」が「カスリ」に転化したもので捺染(なっせん =直接染色法=刷り込み=スリコミ この捺染にあたる絣ものは薄地に絣を入れることで模様をつくりだすが、ひとえに絣括りとは完全に区別されている。捺染および直接染色法による絣の模様づくりは結城紬でいえば国の重要無形文化財指定の要件ではない絣模様のつくり方である。さらにはユネスコ無形文化遺産登録のものづくりではない絣の模様づくりである。防染にあたる絣括りおよび手括りによってのみ絣模様をつくりだした絣のみ、国の重要無形文化財指定要件を満たしているといえ、ユネスコ無形文化遺産登録の保護対象はこの模様づくりにある 絣括りによってつくり出される、しぶみと陰影のある模様は防染によってつくりだされる。捺染と防染の技法は、まったく別の絣模様づくりであるというのが絣の作り手の一意見であり、見解である。)と異なり独特の美しさが生まれてくる。絣は普通、地色以外の白または色で一定の間隔をおいて模様を配したもので、地色を合わせて二色で成っているものを二色絣、三色であれば三色絣とよぶ。また絣の色をさして目色(めいろ)とよぶ。絣は目色を残して目色が残るように染色をかさねていくのが通常一般的である。結城の場合は目色はややおちつきのある色で控えめにすることで紬の布地や糸を逆に強調するという場合が多いが消費者には伝わりにくいといえる。縞に絣をあしらってできる絣を「あしらい絣」とよぶ。経糸ばかりが絣糸の場合の絣を「経絣」とよび、雨絣とよばれる絣もこの経絣の一部にあたる絣といえる。緯糸だけでできた絣を「緯総絣 よこそうがすり」または「緯総」とよび経緯に絣をつかえば「経緯絣」とよぶ。定まった絣模様を織りだすとき模様のために特別に寸法をあわせ、つくる絣を「合わせ絣」とよび、たとえば井筒絣、十守絣、亀甲絣がある。追加するのであれば、十字絣(蚊絣)も厳密にいうのでればこれの最も簡略簡潔にした絣にあたる。この著書は私のような絣で生活をしてきたものが、外部のまたひとつの絣産地をみつめることができるので私には貴重な資料である。結城の産地と似ている歴史が当然あり、その多くは作業工程にみつけだすことができる。古図によってそのおおまかな工程を絵師などに記録させた一面も似ているし、何故そこまで好き好んで手間をかけるのか一般理解を超えるところに絣の意味がこめられているが多くのものはそのことに気がつかない。作業工程数経糸で伊予絣はおよそ20工程をかぞえ、緯糸も同じくらいありあわせると40工程にもおよぶ。これは結城も同じで絣をつくるときにはそのくらいの細かな工程を通過して生産されることは他の絣産地も同一であるといえるのではないだろうか。この40工程をなんとか簡単にしたいのであれば、捺染のものに逃げるしかないのである。このことは到底写真から味わうことは不可能であり、絣を手にしたとき、初めてそのこころが肌を通じて感得されるという点でも同じといえる。現代人はそうした意識も希薄になりつつある。
原田麻那の染織 原田麻那

自己に出会うことがこの染織においての一生のテーマだったという。名前の「麻那」は「麻那識(マナス)」は由来はサンスクリット語の「第七感」「覚りの境地」を言うことだったのが、父の名付けのものだったという。本人が「麻那識」にいくには何度も転生して人生をやらなければならないことであろうとしていた。

私は貧乏で生きてきて本当によかった。というと母はすまなそうな顔をしたので驚いたという。原田麻那氏は、私は散漫で好奇心の強いものは、お金があったら何かを見たり、聴いたり取り止めの無い一生を送るのは必定であるから、貧乏は有難いと心から思っている、という意味だったらしい。暉峻康隆 (てるおかやすたか)の芭蕉、蕪村を、ルネッサンスを富永惚一に、中島健蔵からフランス文学を、哲学を清水幾太郎から、田中俊雄から民芸の話を当時、わたしには何の足しにもならない講義を三年間ききまくったという。それは母にすすめられていたものだった。原田麻那は「なにもしないのであれば死んでしまえ」と自分に命じたが、死にたくないと思いなおし、柳悦孝氏の弟子となる。染織を志した。昭和23年24才のときだった。元来、祖母が天竜川支流の山家の出で地方の織の名人であったという。子供7人に織ったものを着せていたという。人生に偶然等というものは一つもないという説がある。「天網恢恢疎にして漏らさず てんもうかいかいそにしてもらさず」ともいう。(ことわざ)私の人生は有難いものだと思っている。原田氏は「連珠文」と名付けた織り方を創案した。

先生の指導で蘇芳(すおう)と渋木で染めたレンガ色をみたときに思わず「染まった!染まった !」と大声をあげたという。すかさず先生に「これは染まったのではない、色が付いたと言うものです」と言われたという。私の画への気持ちが着物そのものを画面として考え、私独得の織のスタイルをつくり、また文学好きが物語性や情性を作品の中に出しているのだと思う、と原田氏はいう。それを「白い紙の上に砂鉄をばらまいたように取り止めもなく勉強していたものが織物をすることによって磁石を紙の裏にあてたようにさっと集まって何かの形を作ったのだ」と説明しているという。

原田氏はさらにいう。「幼児のとき、黄色と黒縞の虎が出て来た夢、手賀沼の森の向こうに沈む大きな太陽、やぶからしの蕾の美しい色調など、強烈な幼い記憶が私の仕事に大きく影響しているのだと思う。小学一年のとき遠足の写真の真剣な眼差そのものが私の心のような気がしている。」

日本の染織 江戸小紋

華麗な江戸の伝統美

 

小紋は大紋に対する言葉である。大紋は歌舞伎の「暫」のように、大形の紋を染め出したものである。小紋は五つ紋だから今日ほど極端ではないが、きわめて小さい。歌麿などの美人画を見ると、紋付が日常にもきわめて多く使われているのがわかる。黒衿のふだん着も紋付である。しかも型染の総模様になっていたり、たて縞になっていたりした。当時は抜染の手法が知られていなかったので、紋のところを白く残して型染にした。そのために小紋の名が起った。小紋は小幅に七つか八つ立てたものをさしている。それより細かいのを微塵、さらに細いのを極微塵といった。白く染め残したところは、紋をかきこむわけである。説明なしに縞のことを言ったが、紋付ならば縞も小紋であった。型染の縞はたて縞にかぎられている。棒縞にかぎらず、よろけや立湧、市松までもふくんでいる。無論、それらの縞に無限の変化があって、小紋の世界につきない魅力を与えていた。現在では、小紋の名のそもそもの起りだった五つ紋は姿を消してしまい、模様の大きさによって、大紋、中形、小紋の区別があるのだという程度になってしまった。小紋なら小幅に十四、五の模様までという人もあるが、それならばもっと細かいのは微塵になる。ご存知のように江戸小紋といったら、ちりめん地のみじんをさす場合が多い。一方では絹ならば模様の大小を問わず、小紋といい、もめんの場合をゆかたといっている人もある。京都では染とともに、型紙までも自分たちで作ったし、やがては型染の友禅さえ栄えさせるようになった。ところが江戸の型染は、伊勢の白子の型紙にたよることが多かった。白子の型紙業者もまた、江戸をもっとも有力な得意先とした。享保(1716-)になると、白子から江戸に店を出すようになり、それまで白子から提供される型紙によって染めていたのが、こんどは江戸の好みを白子に通して、型紙を切らせるようになる。江戸では型紙、いわばデザインよりも、染の技術や色彩に主力をそそいだ。しかも将軍のおひざもと、幕府が贅沢をおさえ、華美を禁止すると、その弾圧をいかに消化するかという柔軟性をもっていた。こうした技の達者さを生かした趣味のゆかしさが江戸小紋の特色となる。遠くから見ると無地のようだが、近くによってみると、実に手のこんだ、みじんであることがわかる。色調もおさえ気味だし、絹も艶をいささか殺す。贅沢禁止におとなしく従うどころか、禁止されたものより、もっと贅沢なものを作り出したのである。趣味が深められて、それが「いき」となる。そして今日の江戸小紋でも、その「いき」が生命であり、女性の魅力のもっとも強力な味方となっている。

3センチ四方に八百から千二百粒もの細かな模様群を誇る江戸小紋 それは遠目には無地のものと変わらない。友禅などにみる豪華絢爛を競う手間のかけようは、誰しも納得のいくところだが、江戸小紋は、それと目にみえないだけに不思議の感さえいだかせる。いってみれば、人間の目の極限の世界を演出したともいえるそれは、まさに職人の意地の結晶であるといってよいだろうか。江戸小紋は特に誰がはじめたといったことはわかっていないが、桃山時代の「職人尽絵」にすでにこれがみえることから、もうそれ以前よりあったと考えるのが妥当と思う。もっとも、その柄というのは、まったく荒っぽく、こうした細かいものになったのは、やはり江戸時代で、侍の裃とか下着に使われて発達したとみるのが一般である。その工程は、型彫りと染めとに大きく分けられる。型はだいたい伊勢で彫られてそれが全国の染屋のもとへ配られていたものだが、江戸も末の頃になると、京都、東京あたりでも盛んに彫られたようである。江戸小紋は、なんといってもすっきりした清々しさが、その身上である。それは彫りこまれた粒の一粒一粒の切れ味にあり、その間隔のそろい方にある。刀がよく切れていれば、型付けの際に糊がしっかりおりるし、間隔に乱れがなければ、見た目もにもすっきりしたものになる道理である。小紋の良さというのは、いってみればただそれだけのことにつきる。しかし、それこそが非常にむずかしく、その意味では一見、単純でいかにも能がないように映るものほど、より洗練された技術の昇華であるといえる。昔の型紙をみると、よく切れる刃もので、一粒一粒、実に丹念に精魂こめて彫ったものであることがわかる。ただ、ごく細かいものになると、ムラの皆無ということは不可能であったようだが、それにしても、それはいかにも乱れというものを感じさせない。ともあれ、それらは当時の職人たちが、極小の確かさにむけて、いかにすっきりと清々しく仕上げるかに心を砕いた証拠を現在に伝えている。そこは、決していいかげんな技術では通用しなかった職人の世界であり、いずれにせよ、曲がって乱れているのが芸術だなどという重宝な言葉など、はいりこむ余地すらなかったと思うのである。

日本の染織 縞・唐桟

限りない美を生む粋な織物

 

柳宗悦は『織と染』という一文のなかで、つぎのように書いている。「平織、綾織、綴織、何織と数へれば限りないであろうが、源に帰れば経緯の交はりで、織物が出来る。その二つの結ばりが柄になる時、先ず縞が生れる。(中略)縞こそは織が与へる一番原素の模様だと云ってよい。縞は模様の始めである」まさにその通りであろう。縞こそ模様の元始であり、逆に多種多様の模様に抽象化の限りをつくせば、縞に遡るということだ。柳宗悦は、さらに縞は自然の法に則るものであり、人間の業で左右できない部分が大きいと指摘している。人間より、もっと自然が加わる手法だというのである。そして、縞が美しく見あきることがないのは、自然が味方しており、法が護っているからだという。おそらくこれは工芸品全般にいえることだろう。柳は「自然の法」といったが、それをいいかえれば素材の個性を発揮させること、素材そのものを生かす、あるいは素材の生命に光を当てる、といったことが自然の法にかなうことであり、それをなし得て、初めて美が宿るのだといえないだろうか。そうするためには素材の個性を知らなければならないし、作り手が素材の個性を発見する目を持たなければならないことはいうまでもない。

藍染めの縞織物 江戸情緒と粋な美しさ

江戸時代ー、とあれ、南蛮渡りの唐桟には日本人のものとは異なった色彩感覚があふれ、異国情緒を感じさせるに十分であった。模様染めに飽きた人々にとって、これほど新鮮なものはない。こうして縞物は、まず遊女が好んで着るようになった。彼女たちが南蛮系の縞によって、縞の美しさを発見したのである。やがて一般庶民に広がり、享保年間(1716〜1736)には唐桟縞がブームとなったほどであったという。そのあたりの事情は享保七年(1722)刊の新見正朝著「むかしむかし物語」に詳しい。たとえば、こう書いている。「これは女ながら器量なきゆえ、みな人の真似ゆえなり。小袖、紋所、無地、島るいはやるは遊女の真似なり。むかしは常の女、縫薄く光る小袖着るゆえ、遊女、無地もの島のるい着て、常の女と風替るべきためなり」この「器量」とは「個性的な才気」であり、「風」は「風態」「かっこう」のことである。江戸時代の流行の震源地は、いつでも遊女や芸者たちであり、島の場合もその例外ではなかったわけである。こうして「縞は粋でしゃれたもの」として、広く受け入れられたのである。江戸時代に生まれた美意識に「通」(つう)と「粋」(いき)とがある。「通」とは「庶民感情に通じる」ところからきたもので、その基盤になっているのは細やかな人情だ。いえば「通」とは、何度となく禁令で弾圧してくる幕府に対して、江戸の町人たちが打ち出した無言の抵抗といえるかもしれない。江戸文化の爛熟期は文化文政年間(1808〜1830)だが、このころ「粋」という美意識がうまれた。いかに町人に財力があっても、禁令で制限されているため、かつての桃山、慶長、寛文のころの豪華絢爛な着物は着ることができない。そこで目立たないおしゃれ、「渋さ」が求められる。しかもそれはあかぬけして、色っぽさのある美しさ。それが「粋」であり、心意気とされた。表は渋い茶系統か、ねずみ色の無地の着物だが、誰にもみえない裏に染めや縫いで模様をつけるなど、目立たない細工をほどこしたのである。縞ものは、そうした感覚にぴったりくるものだった。縞は単純なようにみえて、実はその縞や色の組み合わせ、変化によって驚くほど多様な美がうまれる性質がある。縞こそ「粋」そのものであり、その美しさは華美をさけた「粋」な美しさである。

日本の染織 草木染

日本の風土が育てた手作りの色

 

静かなブームとでもいうのか、草木染めは脚光を浴び続けている。これは戦後の着物の流行と無関係ではありませんが、そこには神話といってもいいような、ある種の神秘性がかくされているようです。商品として扱われるからには、なにによらず商業主義という思想の洗礼を受けないわけにはいきません。草木染めも例外ではないのですが、商業主義の思想のもとでは、かなり変質を余儀なくされている面もあります。草木染めと表示された商品が、果たしてどこまで信用できるのか疑わしい、といったこともそのひとつなのですが、それより重要なのは、こういうことによって正統の草木染めが隅に押しやられるということです。ブームといっても、それは草木染という名称の神秘性につつまれた幻想に過ぎないともいえます。それというのも、もともと草木染には、現代の商業主義にはそぐわない面があるからなのです。高度な工業化、大量生産システムの背景があってはじめて流通機構にのり、商品は世にでるのですが、草木染にはそうした生産方式は不可能です。生産能率を重視し、あわただしく作り、大量に市場に送りだすという芸当は、できないのです。のんびりとつくり、わずかな量しかまかなえない。意識的にそうしているわけではなく、のんびりとやっているわけでもないのですが、結果的にはそうみえます。通常の流通ルートにはなかなかはいりこめない最大の理由は、その一点にかかっているといっても過言ではないでしょう。草木染がもてはやされているとはいうものの、その裏にはこうした面もあるわけです。草木染がもてはやされている理由ですが、これは「手作りの良さ」といったこととつながりがあるようです。高度工業化、その結果うまれるおびただしい数の商品。そのどれもが個性を失い、均一化してしまっていることへの反動ということです。草木染は手作りという以外にいいかたはありません。原料の採取から乾燥などの処理、そして染液をそれをもとにつくり、染めるまで、一貫してひとの手をわずらわなければなりません。技法的に多少近代化されている部分もありますが、機械化されている部分はほとんどないといっていいでしょう。というより、染色というのは、機械化できる要素はそうないのです。染液に糸や布をひたす、あるいは糸や布に液料をこすりつける、というだけのことですから。そういう意味では、化学染料にしても同じことです。ただ、染色の手間、時間が段違いに早いということです。そしてできあがりの工合いですが、シロウトの目でみても、草木染かどうかなかなか判断がつかないくらい微妙なものです。いや、専門家でもみただけではわからないほどなのです。化学染料そのものが天然の染料を分析して、それにもとづいて合成されていますから、これはむりからぬところがあります。分子構造は非常に似通っているものが多い。ただし、そっくり同じといえない、微妙なちがいがあるというだけのことなのです。どこがどうちがう、といった説明は非常にむずかしく、手作りの良さとか、自然の色とかいった抽象的な表現にならざるをえないわけです。

歴史的にいえば、草木染は人々に夢を与えてきたといえます。現代のように色が氾濫するほどに豊かではなかった時代、人工的に得られる植物染料は多くの人にとって憧れのまとであったでしょう。一枚の着物が現代とは比較にならないほど貴重であった時代、当然その染色も貴重なものであったにちがいありません。使い捨てなどといわれる今日の文明パターンに慣れたわれわれ現代人には、とうてい理解の届きかねるところがあると思われます。ものを大切に使うこと。これは物のありふれていない時代にこそ通用することで、現代社会では通用しにくいことです。同じようにカラフルな現代では、色のひとつひとつに注意をはらうということも、あまりないでしょう。モノ同様、色も粗末にあつかわれているといえます。草木染と化学染料による染めが、どちらがいいとか、悪いとかいったことではなく、どう認識され、扱われているかが、実は問題なのだと思います。公害問題を契機に、現代の機械文明は曲がり角にさしかかっているといえます。エネルギー危機に代表される資源問題にしても、高度文明社会の行き着く先を暗示しているといえるようです。バスに乗り遅れるな、とよくいわれますが、われ先にと乗ったバスが、とんでもないところへ向かっているのに気がついた、というのが現状でしょう。飛躍しましたが、「心」がどうこうといったことが問われているのも、人と人、あるいは人とモノの接点が失われたところに原因があると思われます。文明ということからいえば、草木染もその申し子といえます。植物染料の色は、はじめてみた人の目にはどんなに鮮やかなものに映ったことでしょう。丹精こめて制作者が染め、それを買った人が大切に身につけるという関係があった。モノが仲介したとえます。すばやくつくり、粗末にきる、ということではこの関係は稀薄なものとなります。多くの人が、心をこめてつくられた着物をみにつけようとしている。手作りの良さは、そうした人のきもちを支えている。が現実にはこの関係は必ずしも的確な形では結ばれていないわけです。現象的なものでいえば、多くの草木染愛好者がいるにもかかわらず、染め手は経済的に恵まれていないといったことがあげられます。そのことにあまりこだわらないで、つくっているのです。それゆえに、現在まで技術が伝承されたともいえますが、そのこと自体、現代文明への痛烈な批判とも受けとれないことはありません。

KIMONO mio

アンティークキモノに夢中

  土屋アンナさんの人気がモデルでの人気爆発しはじめる少し前のあたり2003年6月10日出版のアンティークキモノの本、雑誌かもしれない。襟(えり)を多く抜いたり、襦袢をわざと多く見せたり、遊び心はあるが竹久夢二の恋人、彦乃やお葉になりきるというのだという、この時代の代官山の企画、プレス担当は素晴らしい。襟を深く抜いて着ることで艶っぽくするのだという。土屋アンナさんは2歳の時には、着物を着せてとおねだりしていたとアンナさんの母がいう。キモノのおもしろいところは布は平面なのに身体にまとうことで、ドレープ(布をたらしてゆったりさせる様)が出たり、躍動感が出たりする。キモノを全部ほどいて並べると最初の一反に戻るんです。という。着付けの資格をもち、七五三では自分の娘に着せてあげたかったとしてそれも実現したようである。着物になれているせいか、いたについて着物姿がみえるし、お茶目な感じはういういしい。現在のキモノもレトロな柄をわざわざつくるところをみるとそれらが時をこえてモダンデザインであることがわかるかとおもう。私はできれば敵を好んでつくりたくはないが、美しいキモノに出てくるモデルさん方々より、こちらの雑誌の生活感ある着物好きモデルさんのほうが着物のモデルとして正しい気がしてならない。ましてや、着物の話も強烈なる自己主張があり、客観的にみても説得力がある。

KIMONO mio Vol.2

アンティークキモノに夢中

  着物と帯の組み合わせによって無限に広がる着物世界の楽しみ方を伝える内容となっているのがシリーズ2の特徴といえる。ジャケット感覚で着る羽織もこなれてきて大正ロマンの雰囲気がかもしだされている不思議もある。コーディネートもうさぎとすすきをじょうずに見つけてきて組み合わせ秋を表現しているあたりは季語からうつし出したのだろうか、様々な工夫やこころみもうかがえる。凝り性とコレクター気質の高い女性が終始、アンティークキモノの魅力をおしてゆく。実際にはモデルさんはキモノ販売員で経験数があるだけに、所持枚数も果てしないようであるがひとつひとつが選びぬかれていて、また時代もいつかわからない不思議なムードやモードになっているようにみえ、自信もみなぎっている。時代を楽しめる余裕のある女性こそキモノ本来の醍醐味をひきだせていくのだといえるのかもしれない。もっとみたいのであるが、おそらくこの2冊で濃く短い雑誌の企画なのかもしれない、三作目がみたいが心惜しくもこの2冊の仕上がりのようだ。アンティークキモノははまるとやみつきになるから、それだけアンティークキモノにも魔力があるといえる。
日本の藍 伝承と創造   近世の藍と藍染めの普及という章では、西野嘉右衞門編「阿波藍沿革史」思文閣と阿波藍、ついで他国藍のなかから武州藍と尾州藍をとりあげ、藍の変遷を概観する企画となっている。一番面白い章にみえる。19世紀の藍染め普及については浮世絵、安藤広重「東海道五拾三次」から藍染めの普及度を表にしてデータをとり考察するユニークな企画だ。さまざまなカテゴリーによってパーセンテージにおきかえることで、浮世絵から藍染めを紐解く。藍染の医学についても掲載がある。藍の薬として薬用についてもこのページ内でも紹介してきたが、藍の抗HIV作用というテーマでは、効果的な医療薬がまだ開発されていないクラミジアやマイコプラズマ、薬らしい薬がほとんどみつかってない多くのウイルス感染などに基因する難治性の感染症に対して、優れた効果をもたらすことができると思うという視点から研究を検討し、山本直樹教授との共同開発をおこなうことにしたという。これらの研究で次第に科学的解明がなされていくことを期待したい。藍については出版が充実しているために、知識は比較的みにつけやすい時代になってきている。藍染となると、まだまだ普及していく可能性もある分野といえる。

 

日本の染織 絽と紗

涼しさ誘う薄織物

 

紗(しゃ)の白生地はちょっと見たところ何の変哲もない。ただ普通の生地のように布目がつまっているのではなく、逆に粗いのが印象に残る程度であろうか。しかし、生地を重ねてみると、その透明のせいで微妙に変化するモアレ(木目模様)が生じて意外な美しさを発見する。織田秀雄氏は、絽(ろ)と紗(しゃ)の夏のきものとして思うときに飯塚敏子という女優を思い出すという。戦前の時代劇映画のスターで日本髪のよく似合う女優でいつも坂東好太郎という二枚目と一緒に出てそれが似合いの御両人だったという。黒か濃紺、とにかく無地の紗を着て博多帯を締め、竹の縁台にすわって団扇を持っていたグラビア写真が強烈な記憶で残り人間の記憶というものは一体どういう仕組みになっているのだろうかと思ったという。白い長襦袢の白が濃い色の紗をとおして透けているのが艶っぽく、しかもどこか透明なすがすがしさがあり、この二つの矛盾した美しさがかもし出す世界が不思議な魅力となって心をとらえてはなさなかったという。さて、余談はこれまで、そうした意外な美しさをルーペで拡大してみると、それは織物というよりは精緻きわまる編み物のようでただ驚くほかない。無論、紗は編み物ではなく経糸と緯糸とを組織しているのだかられっきとした織物である。経糸が二本からまっている、そのからまり方は左右対称の波状線を重ねて、楕円形がたてに連続する模様をつくったかのように二本の経糸が左右に位置をかえて交差したところに、緯糸が打ち込まれ、さらに経糸がふたたび左右に位置をかえる。これが繰り返されて一反の紗の白生地が出来上がっている。紗とはそういう布である。絽は、その紗から派生したものだ。紗のように緯糸一越ごとに、経糸がよじれて左右に位置を交代するのではなく一度よじったあと、緯糸三越、五越というように平織りを入れるのである。経糸をよじったところが透間になり、この透間を「綟目」や「絽目」ともいう。当然ながら透間は紗の方が多く絽は少ない。このような透間のある織物を「搦み織」「綟織」という。ルーペで眺めていると、その経糸のからまり方が規則正しく美しい。それに実に手が込んでいる。現在では自動力織機に綟綜絖を取り付け容易に織ることができる。だがそれ以前は手織で織っていた。精緻な編み物のような紗を手織りで根気よく織っていたのが不思議にさえ思えるのである。ところで織物に透間をつくる、あるいは透かせるという発想はどこから生まれたものだろうか。紗の以前に「羅」(ら)という薄地の絹織物がある。中国の前漢代(紀元前202〜8年)から平安時代(794〜1192)にかけてが最盛期とみられている。この羅の透間は紗の比ではなくかなり大きい。これこそ網とよんだほうがいいとも思えるもので、しかし織物である。経糸をたがいに綟り合わせるという原則は紗と同じだが、その綟り合わせ方は、その左右の経糸と位置を交代してよじれるだけでなく、二本も三本もとばした経糸にからまるなど、はるかに複雑である。透間のある織物の最初は、この羅と思われるが、織物研究家の龍村平蔵氏は著書『日本のきもの』(中央公論社刊)の中で

「おそらく初めは鳥や動物をからめとる網のことだと思われるが、それが中国では黄塵、砂塵をさけるベールのような薄物として、発達したのであろう。錦の上衣の上に羅をまとうのが理想とされた」と述べている。

そういえば「羅」という文字はもともと中国で「鳥網」を意味し、のちに転じて「薄絹」、薄地の絹織物をさすようになった。おそらく龍村氏の推測は正しいと思われる。

ユニークな「夏文化」の典型 絽と紗について

紗と絽といえば日本特有の風土を抜きにして語ることはできない。海洋性の高温多湿という日本の夏は、実にしのぎにくく、ある意味で日本文化はその夏を克服することを起点として生まれ育ってきたというのは過言でない。たとえば木と紙の日本家屋である。冬のことなど無視しひたすらしのぎにくい夏をいかに快適に過ごすかという発想の所産といえるふしが多々ある。平安時代からおこなわれてきた「更衣」(ころもがえ)という年中行事もそのひとつといえる。季節の変化に応じて衣服を着替えることだが、これもいかに夏を過ごしやすくするかという考えが基本にあったようである。とくに「夏姿」という言葉があり、のちになっても夏のきものが特別に扱われているというのは、そうした考え方の流れをくんでいるからではないだろうか。その「更衣」であるが『広辞苑』(岩波書店刊)を引いてみるとこう記されている。

「平安以降、四月朔日(ついたち)から袷を着、寒ければ下に白小袖を用いる。五月五日から帷衣(かたびら)、涼しい時は下衣を用いる。八月十五日から生絹(すずし)、九月九日から綿入、十月朔日から練衣を着用。江戸時代では四月一日、十月一日をもって春夏の衣をかえる日とした」

とある。また以前本紹介した北村哲郎著『日本の織物』(源流社刊)によると、

「徳川将軍の大奥では夏衣裳の初めが絽または縮緬、あるいは絹縮の単衣で、次に透綾となり、極暑には越後縮を着るというきまりでした。そして総体に身分のある人ほど単衣の時が長く、帷子の間が短かったということです」ということのようで、暑ければ薄着をし、寒ければ厚着をするのはどの国も同じである。しかしながらわが国では春夏秋冬と季節は微妙に移り変わり、しかも四季ははっきりしていることで知られる国である。日本人はそうした季節の変化に生活を順応させ、季節感を楽しむようにしてきた。風鈴の音や水の流れに涼気を感じたり、夏は簾をさげたりする。食では『初旬』にあるように季節でとれる時期を重視して調理しそうした和食はいまやユネスコ登録をうけるまでの食文化という評価もつくりあげている。衣食住に季節感をとりこんできたというわけである。それは、きものも同様である。花や草などの植物をはじめ、蝶とか鳥、雲、波など、きものの模様に自然の風物をとりこみ、四季風情を楽しみながらみにまとう。四季があり豊かに変化する自然に恵まれていればこそのそうした発想であり、きものの模様はその恩恵である。紗と絽は日本風土に、とりわけ夏に適したものだった。しかも細やかな日本人の美的感覚にぴったりと一致してきたそれはまたみる人にとっても涼感を誘うものであった。しのぎにくい夏に目で見るという視感で涼しさを得るという効果も紗と絽の役割はあったのである。

紗の透ける特性を生かしたもの「紗合わせ」

紗の透ける特性を生かしたもの「紗合わせ」がある。これは表には紗、裏に紗か絽を合わせ、二枚の紗のかさなりが動きによってつくりだす杢目の面白さや裏地の絽に染められた模様が紗をすかしてほのかに見えるのを楽しむといった、おもしろきものである。この「紗合わせ」はさらに、紗を二枚重ねて一枚の袷にした無双仕立てで、上の生地は無地に染めるが、下の生地には友禅模様などを染める。優雅といえば優雅で下の模様を透けて見えるために涼感もあるというわけである。無双仕立ての「無双」とは一種の美学だがいつ頃からうまれたのかわからない。表と裏、あるいは内と外とを同じように作るという考え方で、全体を一種類の材で作った「無双箪笥」懐中時計に両面に同じ作りの蓋をつけることを「無双側」とよんだりしている。紗と紗のバリエーションとして、紗と絽という組合わせもあるがとにかく「紗合わせ」もこの美学の範疇(はんちゅう)にあるものである。白地の三本駒絽に紺一色で水模様を染め、その上に爽やかな淡い草色の紗を乗せた紗合わせをみたことがある。余分な衣飾を捨てた単純な模様だし、色数も少なく、単彩に近いが色の重なりが微妙に調和しているうえに二枚の重なりでモアレ(木目模様)が生じ、水模様がまさに波のようにゆらゆらとしているようにみえる。涼しさを感じるものであるがどのような紗合わせであれ紗や絽の一枚であれ非常に涼感がただようのだが着ている人は例外なく涼しくないという。透けてみえるために下着をきちっとつけなければならず、到底、素肌にゆかたを着る涼しさとは比べるべくもないらしい。とのことである。夏にきものを着るひとは少なくなったといわれ、生活そのものが西洋化している影響もあると考えられている。

日本の染織 更紗

異国情緒を染めた布

 

本中カラー写真の資料に木版摺更紗おだまき文という鈴田照次 作 鍋島更紗 という和更紗がある。美しい色彩を今日に伝える品であり、おだまきという植物は私も自宅に植えている。織物ゆかりの植物である。おだまきについてはこちら

青色がその作品にも鮮やかさを保ち、更紗特有ともいえるカラフルな色彩で目を楽しませ、異国情緒を日本が吸収した一品といえる。そうした木綿に染めたカラフルな染文様の美しさは更紗の魅力である。更紗の語源は、このページ内で重複するかもしれないが、ポルトガル語のサラシャ、あるいはインド西海岸の古い港町のスラットにあるとされている。室町時代の末期そして江戸時代にかけて、ポルトガル、イスパニア、オランダなど南蛮船や紅毛船などの船によって日本に運ばれてきた。更紗に対してなんとなく異国的なイメージをもつのは、小紋や友禅とちがって原産地の風土の匂いからエキゾチシズムを感じとるからである。日本は更紗が運ばれてきたときにまだ木綿という素材を知らなかった。新しい素材としての木綿、さらには異国の染めによってカラフルな色彩は素晴らしいマテリアルに対する驚きは計り知れないものとなった。またこの時代に同じく輸入されたものに唐桟(とうざん)がある。この縞木綿は先染めによってできあがったものである。染めものの木綿と織りものの木綿が日本に運ばれたのである。

更紗はインドをはじめとして、ペルシャ、ジャワ、タイ(シャム国)などの東洋の諸国に、特色をもってうまれた色美しい染文様である。少しの例外はあってもその生地に木綿が用いられている点は共通している。木綿の原産地はインドとされているが、わが国に伝えられたのは、中国から朝鮮を経由して戦国時代の末期とされている。木綿は安土、桃山時代になって次第に普及し、江戸時代の中期になるとほとんど全国的な栽培となった。絹にかわる素材として競うように栽培を拡張していった。当時の百姓たちは、米をつくるよりも木綿栽培のほうが収益が多いため木綿づくりは力を入れるものが多くなった。そのために米をつくるものが減り、江戸幕府は木綿栽培に制限をいれなければならないほどであった。この木綿栽培は衣生活が飛躍的な豊かさになったのはいうまでもなく、柳田国男によれば、松尾芭蕉の元禄時代の初め頃は、まだ江戸の人にまで木綿は優雅なものとされていたという。七部集「はんなりと細工に染る紅うこん」「そめてうき木綿袷(あわせ)」などにそれがうかがえる。結城市の弘経寺の屏風絵を残した詩人与謝蕪村は「片町に更紗染めるや春の風」の句があり、日本の木綿づくりも、また更紗を染める技術も一般的になっていることがわかる。「散る音も色も更紗の紅葉かな 犬子集」には、更紗の色彩美が日本人の衣生活に浸透してきた様子がうかがえる。

更紗には、皿紗、佐良佐、更多、華布、印華布などの字があてられ、暹羅染(しゃむそめ)、砂室染め(しゃむろそめ)はシャム(タイ)の更紗を意味する。技法としては、インドでは筆や刷毛による描更紗(かきさらさ)と、チーク材に文様を彫刻した木版で捺染するブロックプリントが用いられるのが特色である。また、ジャワ更紗は、バチック、すなわち今日の我が国では蠟染(ろうぞめ)と同様に、蠟防染の更紗である。さらに文様表現に金泥、金箔を用いて金更紗はシャム更紗を特色づけるものである。絹地のものを用いたペルシャ更紗もみられる。更紗の文様には、南国熱帯地方の草花樹木などを中心として鳥や人物などを配して写実風のもの、唐草文様の形をとったもの、幾何学文様として配列したものなど多種多様で、インド更紗のベーズリ模様は現在、そのアレンジされたものがヨーロッパの文様に多くみられる。色彩はインディゴ(藍)、黄色のある緑、エンジ色など、強い太陽光線の下にふさわしい強烈なものが多い。しかし、インド、ペルシャ、ジャワ、タイなど、それぞれの風土や国情のちがいは当然みられる。ヨーロッパでも、ロシア更紗、ドイツ更紗などがありそれらは東洋の更紗を模したものであるという。その中にあってフランスのジューイ(パリ郊外の地名)更紗は最も有名である。ジューイ更紗を大成したオペール・カンプは、弟子をペルシャに派遣して東洋の更紗技術を学ばせたといわれている。またナポレオンは数回にわたりオペール・カンプの工場を訪れ、フランスの産業として更紗染の将来に大きな希望をよせたという。しかしジューイ更紗はナポレオンの敗退とともに、敗走する軍隊により破壊され、ナポレオンと運命をともにして消滅した。日本では、彦根藩の井伊家に彦根更紗と呼ばれるコレクションがあった。しかし残念ながら関東大震災により東京で焼失してしまいいまはみることができないものになっている。

更紗についてもその源流を単純に南方諸国にもとめるだけでは日本のきものとして生きるものではない。東京更紗の歴史をさかのぼってみても江戸末期から百年以上の年月を経て日本の更紗として換骨奪胎(かんこつだったい)されたものであることがわかる。きものは陶器や漆器のような美術工芸品ではなく、血の通った人間とともに存在するものであることはきものを語る最も重要なポイントである。人間味がないのであれば機械とおなじになってしまう。

栽培から染色まで

藍染めは誰でもできる 

高田豊輝

結城図書館にも置いてある。藍染めの技術は難しいとされていて、そのイメージをこわして敷居そのものをさげる書物となった。一万冊が全国にいきわたり、現在は藍染めのさらなる研究の土台をなしているといっていい。藍染の困難さについては第一に、藍の葉を発酵させて<すくも>をつくるには大量の乾燥葉を保温室に積み上げ老練の藍師が百日間も丹精込めて対処しなければ良質のすくもが完成されない点、第二にすくもを使って染液をつくる藍建ては、専門の染色家が秘伝の技術をもって処理しなければうまくできないと言われている。このように藍染は技術が困難で、さらには手間がかかるために、その製品は非常に高価になってしまう。このままでは古来庶民のものであった藍染めは庶民のものでなくなるばかりでなく、技術的なものも含めて忘れ去られてしまうと著者は危機感をもって発行に至るのである。そこであげたものが三つを柱としたものである。

一)、一般家庭で栽培した少量の藍を原料にして、

二)、一般家庭用の器具を使用して、

三)、熟練や勘を必要とせず、よく染まる簡易な藍染め方法を開発する

である。わずかな費用で藍染めを楽しめるはずであり、それが普及すれば昔のように藍染めは民藝として復興するであろう、というものであった。この三本柱を軸に著者は20年数十回と試行錯誤を繰り返し、その成果を著書へまとめた。その結果として一般家庭で藍染めは困難という通説を消した。この著書をたたき台として、さらに研究を進め、より良い藍染め方法を考案していただきたいとしている。高田式藍染めは藍染めが親しまれ、全国津々浦々で藍染め文化が華開くことを祈っている。

日本色名大鑑 

上村六郎

 山崎勝弘  共著

我が国の眞の姿を明微する上にほんの少しでも多くの人々に情報として色(色見本参考書)を提供することを目的として本書の作成に入った。しかしながら、こうした目的の途中に大東亜戦争となり戦時において染料の不足と一方、正しい色、健全な色の要求と更にこれに加えて我が国本来の姿に対する自覚との結果、天然の資材を基とした日本の色、日本の染色と云うことが国民の生活に密接な関係を生じてきたという。<この序の文章でみるように上村氏と山崎氏の二人は染色業界をリードしていく、いる立場にある>とにかく染色の分野には資料が乏しい時代に切々と語られている(上村氏の序)

近来洋書の入手が不自由になるのに反して我が国の古典に目を通すことが多くなったと山崎氏は語る。この時代に大東亜戦争があってそれをきに、一層日本的なものへと国民の心の進展していくのを感じているとした。恩師本野精吾教授指導の許に色彩の科学的芸術的研究を始めて20年近くの年月が流れ、訓練された色威と混色原理とを応用した何か国家のために役立つことをしなければとの気持ちにかられていたときに上村六郎氏から本書協力を依頼されて二つ返事で受けたという。日本の代表的な色八十二種を刊頭に示した六種の原色を混合して再現したという。印刷インクを特別の配慮で完成された出版物となった。現在であれば印刷インクはここまで貴重なものにはならないがこの時代は貴重すぎるものだった。上村氏三十年の苦心の功績など無上の光栄に感じる次第として仕事へ関わった喜びをつたえる。

色見本はこれまで紹介してきたが、この時代の色見本はこうした困難な色再現などを戦って、どうにか染色資料を残すために、染色の壁をひくくするために、完成させたものである。

日本の染織 筒描染

躍動する染色美

 

筒描き(つつがき)の特徴をいえばフリーハンドの染めであり、円錐形の筒に入れた糊を絞り出しながら、あたかもデコレーションケーキをつくるときのように糊で必要な部分を描いて染める方法、といえる。大漁旗はそのダイナミックで荒削りの染めをいかたものである。糊で描いた部分だけが防染されるわけで、あたかも筒糊で絵柄を描くように見えるところから「筒描き」という名がつけられたという説がある。これは「筒引き」「糊描き」「筒置き」などとも呼ばれる。染によって模様を表現する場合、防染をおこなうのがふつうである。防染とは布地の必要な部分以外に染料がつかないようにすることでその方法には染料をつけない部分を糸で括ったり、板で締めつけたり、あるいは蠟や糊などを用いて布面を覆うなどの様々な方法がある。防染したのちに染めるのだが、それらの方法を併用したり、繰り返すことによって変化に富んだ多彩な染物がうまれる。こうした防染法による模様染めは、すでに奈良時代には行われていた。いわゆる「天平の三纈」とよばれるもので、「纐纈」(こうけち)現在の「絞り染」、「臈纈」(ろうけち)現在の「蠟染」、「夾纈」(きょうけち)現在の「板締め」とよばれるものである。糊を防染剤にした染色は「糊染め」と総称され、それぞれ、型紙を用いる「型染め」と、筒糊で手描きする「筒描き」とに分けられる。しかし、糊染めがいつ頃からどのようにして始まったのかということはいろいろな説があるがはっきりしたことはわかっていない。通説としては中国から伝えられた技法とされている。はっきりしたことは、最古の実物資料として室町時代のものが残されている、ということである。もっとも室町時代後期には型紙による糊染めが盛んにおこなわれていたようで武士の小袖やかたびらに小紋染めが多くみられ、沖縄では紅型が染められていた。江戸時代になると、糊染めはさらに盛んになり、型染めでは小紋、中形、筒描きでは茶屋染め、友禅染めなどが登場、染色の世界は華やかな模様染めの時代を迎えるのである。なかでも見逃せないのは糊防染による模様めの先駆的な茶屋染めといえる。これは夏のかたびら(帷子)に用いられ、友禅染めに先立って流行したものである。麻地に浸染で藍の濃淡に染めるのが基本で、なかには薄黄を加えて刺繍がほどこされたものもあった。しかし全般的に単彩風な染めで、絵画的な格調の高い美しさに特色があるといってよい。模様は山水、楼閣、雲取り、草花などが多く、そうした模様の輪郭部分や地の部分を筒糊や楊子糊で両面防染したわけである。非常に高度な技巧をこらしただけに手数のかかる、贅沢な染であった。糊置きだけで数ヶ月かかるものも珍しくない。布も麻とはいえ、奈良晒、越後上布、能登上布、薩摩上布などの高級苧麻布(からむし)である。この苧麻布は苧麻の繊維で織ったもので、いわゆる麻布という大麻布ではない。こうしたことからもわかるように、庶民には無縁な染物で、徳川御三家をはじめ、上級武士の女性、御殿女中くらいしか着ることができなかった。友禅染めは、こうした茶屋染めの技法を取り入れ、さらにそれ以前の描き絵、更紗、辻が花染めなどの影響を受け、単彩から多彩な部分染めへと発展させたものといってよいものである。友禅染めはカラフルでしかも複雑精緻な模様は絵画的である。このように日本独特の模様染めを生み出したのはほかならぬ「筒描き」という技法であった。かなり複雑で繊細な模様を多彩な染料で表現するためには、それなりに繊細な筒描きが要求される。たとえば、白く表れる模様の輪郭線は「糸目」とよばれるが、その糸目糊置きは色と色とが混じり合って濁ることを防ぐものであり、最も繊細な筒描きといってよい。ほかに、一色ごとに彩色した部分を糊で覆う「伏せ糊」があるが、これも筒糊でおこなわれる。無論、この糊は糯米(もちごめ)で作られるわけで、日本産の糯米の糊と筒描きという技法とが、友禅染めを生んだ大きなファクターになっているのである。

筒描きは茶屋染めや友禅染めなどの見事な模様染めをうんだ。時代を経るにしたがい友禅染めは多様な技法を取り入れて華美になり、筒描きはその一部にすぎなくなっていく。あまりにも華美ななかに埋没して現在は痕跡さえもとどめないというようになっている。そうした一方でその素朴なスタイルは庶民生活のなかで花開いた。唐草や鶴亀などに染めた風呂敷、布団地、暖簾などの生活のものに彩りをそえた。大漁旗、万祝(まいわい)などもそうである。当然のことであるが筒描きの美しさや楽しさを親しむようになるには木綿と染屋(紺屋)の普及も必要になった。木綿の布を織りはじめたのは、木綿栽培もおこなわれるようになる天文・弘治年間(1532〜1557)のころであり、庶民の衣料として普及したのは江戸時代中期以後のことである。それまで着ていた麻や植物繊維の布はごわごわしたものであって、木綿布は軽くて肌ざわりも問題にならないほど着心地のよいものとなった。糸につむぎやすく染めやすい。まさに庶民に衣服革命にちかいものをもたらした。この木綿の普及と歩調をあわせて、藍染する紺屋が全国各地に増えたのも、好都合だった。こうして筒描きをはじめ、木綿に小紋を染めたものや中形といった型染め、有松・鳴海の木綿絞りなど、さまざまな工夫をして木綿のなかに独特の染色美をうみだしていった。

筒描きの工程

下絵→青花→筒描き→乾燥→下豆汁→色挿し→伏せ糊→乾燥→地染め→水洗い→乾燥 の順序で行われる。

筒描きが盛んな江戸時代後期には、それぞれ染め職人が竹を削って手作りして美しい線や力強い線を表現するために工夫をこらした。そこに使われる糊ひとつにしても、いかに効果的に柄を染めるかと、それぞれ糊作りの秘法を生み出していった。こうして糯米に石灰や塩をまぜこんだりしてよりよい糊がうみだされていった。

らくらく着つけと帯結び

きもの初めて

 

 

のし結び:ダイナミックな斜めのライン 花嫁さんも結ぶ、おめでたい帯結び

文庫:やさしい曲線が女らしい比較的かんたんな結び

時代後見:控え目で、洗練された大人を感じさせる帯結び

帯揚げ、帯締めの結び方:わずかに色をのぞかせるだけで、きもののイメージをかえられる            一の字(帯揚げ)花結び(帯締め)入りの字(帯揚げ)藤結び             (帯締め)など

二重太鼓:大きくふっくらと格調高く仮ひもを二本使ってかんたんに結べる

松葉太鼓:お太鼓を華やかに変形させた準礼装に向く帯結び

吉弥結び:江戸時代の人気女形、上村吉弥が考えたといわれる直線で

                     構成されたちょっと粋な帯結び

かれん結び:歩くたびに帯がフワフワと揺れるかわいらしい後ろ

                        姿会合やパーティ向きのかんたんで華やかな帯結び

方流し:長い羽根で気になるヒップをさりげなく隠してくれる帯結び

リボン結び:ポニーテールにリボンを結ぶ感覚の帯結び

引き抜き結び:ミセスになった人のための少し落ち着いた帯結び

上記のような帯結びが写真で丁寧に説明されている。

そのほか、振袖、訪問着、おしゃれ着、つむぎ、ゆかたなどの基本を紹介。女性のための本となっているようである。

続 小袖

山辺知行 

 北村哲郎 共著

 

歴史的な名著となって宮内庁の書庫にも保存された続編著書である。写真集となっており、あとから解説がある。名品揃うなかでひとつ、名品ぶりがうかがえるものをとりあげてみよう。

1)紋縮緬熨斗模様振袖 (重要文化財)

 江戸時代中期 裄58.7cm   丈163.5cm

               <京都 友禅史会蔵>

牡丹(ぼたん)唐草の地文のある紋縮緬に、大きな束熨斗の模様を、当時行われていたに違いないあらゆる加工技術をもって表現した、非常に美事な振袖である。技法は先ず熨斗の模様に縫い絞って、紅に染め、それから熨斗の一つ一つに友禅、刺繍、摺り箔、摺り疋田などの各種の技巧を用いて、それぞれ違った模様を細かく置いたものである。その各々の念のいった仕事もたいしたものであるが、本品の特色はなんといっても、その堂々とした意匠構成にあるといえる。明和前後の最も友禅の技巧が精緻に高度に発達した頃の作品と思われるが、それと同時に本品は小袖を中心とする江戸時代の染織の頂点を示すものといえよう。ちなみに本品は明治初年、アメリカのロックフェラー氏が一度手に入れたものを、伝えきいた当時の京都の染色界の主だった人々が、日本に止めておくことを願い、高額の金を集めてロックフェラー氏から買いもどしたという、いわくのあるものであって、個人の所蔵にすると再びこうした事態のおこる可能性もある処から、保存会を作って保管してきたのである。友禅史会はこの一領の振袖の保存のために作られた会であって、これを意図された方々に私共は大きな敬意と感謝を捧げなければならない。江戸時代の染織品中唯一の重要文化財に指定されていることもゆえなきことではないほである。

また、余談で、私の先祖が結城紬の三要件絣括り部門茨城県代表としてほか各要件茨城、栃木と6名が人間国宝とされ、6名故人のあとに次の6名が決定された。(正確には技術保持者とよぶ)こうした職人は勲7等の天皇勲章受賞など、他職人とあまりにも不公平として、人間国宝は解除されて団体指定(国の重要無形文化財の技術保持者多数:当時の生産者が認定、内訳は糸とり60名、絣括り50名、織り50名、学識経験者11名:::これは昭和31年結城紬が重文指定、代表者指定6名から故人全てになった時点であたらに6名を再指定、そのあと、昭和51年4月の重要無形文化財保護法の改正により前記した計171名が認定という流れである。)となった。現在も団体指定であるために結城紬には正確には<人間国宝は存在しない>のである。結城紬とはすべての人のため、みんなの特産品という広域指定となった。そうした一面も結城にはある。万人が同じく、というかまえである。

 

母と子のたのしい手織り教室

宮沢郁子著

上條滝子絵

手織りはだれでも「テンから和尚」にはなれない。始めは織り目がゆがんだり、幅がせまくなったり、広くなったりしてしまう。当たり前ですがなんども繰り返していくうちに、きっと「糸が手についてくる」ようになる。そうなったらしめたものです。いいと思って買ったのに、身につけてみたらよくなかったというとき、出来合いの品だと、ただがっかりくるもので、それが自分の手作りによってつくったなら、よしこの次はここを直してみよう、ここをこうすればよくなるかもしれないなどの気持ちがでてくる。手織りを仕事にしても、不安がどうしても先行してしまう。それは私などの結城紬生産者も同じで、糸にはじまり織りできあがり完成するまで、またその先不透明な時代。でも、不安は誰もが消えないように努力を重ねていくことが大切なことなのだ。もし失敗したら、そういう危機感は確かに重要であるが、もっと重要なのは、私はここまで努力を重ねたけど失敗した、ということだ。やってだめだったらそれでいいじゃないか。そうしたことが生産において大切なのだ。努力の仕方がわからない、改善していきたい、時間がない、そうした時私は考えてメモして、少しでもチャンスをのがなさない、もしくは絶対に生き残ってやるという姿勢がいずれ自然体となってゆくと考えて実践している。どうしたらいいか、わからない、今の状況を打破したい、それにはどうすれば、そうだとにかく資料をみてみよう、他人と交流してみよう、はじまりはすぐ目の前に用意されていることもある。そうした意見は蓄積されて答えになることすらある。調子が本来ではないときひたすら浮き上がる場面までまつことも一つの技術である。

井上陽水の歌詞作詞 「夢の中へ」 をみてみよう

さがしものはなんですか みつけにくいものですか

かばんのなかも つくえのなかも さがしたけれどみつかならないのに

さがすことをやめたとき みつかることもよくある話で

 

そう、ずっと不安で問題があっても答えがふとでるときが世の中にはある。

母と子のたのしい草木ぞめ1 

林泣童 

アサガオやホウセンカの花をぐちゃぐちゃにして色水あそびをしたことはないだろうか。赤や紫の色水ができると紙や布をひたして染めてみたくなるものである。これが草木染めのはじまり、といえよう。草木染めというと様々な人が手間がかかる染めの話になってしまうがほとんどが経験をつんでいくことで習得し伝承していくものである。草木染の原料の染まりをよくするものを媒染剤という、そういうが金属類と反応させるわけだ。昔は金属類を多く含んだ水にひたしたり、どろなどの土中の金属と反応させた。大島紬の泥染とよぶものはその昔ながらの媒染剤の役割のもので知られる工程である。少しでもきれいな色、少しでも色のさめないようにと工夫を重ねたのである。野山の自然を紙や布に染めたものはオリジナルの一点ものの品になる。そこには自分でそめた自然布で草木染め体験などで参加して染めの醍醐味を多くの人に知ってもらいたい、そんな思いだ。

草木染めは染める布や糸の重さをはかり、次に染めるものが100gならば草木染材料も同じ重さを用意する。乾燥したものは半分という。なぜ、染めるときに染液で煮るかというと色素と染物のタンパク質が結びついてよく染まるという科学的根拠があるからである。

母と子のたのしい草木ぞめ2

庭木や山野草で

林泣童

第1作目<母と子のたのしい草木ぞめ1>より、より技法書的なつくりになっているのが本書の特徴とえよう。草木染めのとっかかりには適したもの、というのは群馬の山崎氏や京都の吉岡氏の草木染の本は基本的に植物で染められるものを書物にした点は本書と一緒であるがやや専門家だけあって難易度が高いように思われるために個人差はあれど、こちらも購入するなり、草木染め本となんらかの併用することで、知識を広めるのが理想的に思う。

一部紹介として<木綿の基本手順>をしるして終わろう

絹や毛糸のような動物せんいとちがって、木綿は植物せんいで、タンパク質がないので、特別な下準備がいる。それさえすめば、毛糸(ウール)などの温度の注意はいらないので気楽といえば気楽である。木綿はタンパク質がない。そこでタンパク質を付着させ、濃い色を可能にする。染め液作りのほかに下準備とは下記のような方法もおこなう。

豆汁(ごじる)のつくり方:

カップ一杯の白大豆を一晩のあいだ水につける。その豆と200ccの水をミキサーで粉砕する。できた液体を布などでこす。(豆乳)。こした後の布の中の豆はまだ使うため、捨てないで、再度200ccの水をたしミキサーで再度粉砕。

この豆汁と、染める木綿布を水にひたしてしぼった状態から豆汁につけて30分放置する。その後脱水し干す。天気の良い日におこなうことで成功率が高くなる。かわいてから3日後に使うようにする。その布をぬらし、煮染め15分、さます、ばいせん20分、煮染め15分、水すすぎ、脱水、日かげ干しという流れになる。豆汁が面倒な場合、市販牛乳を二倍にうすめたものでもよいため、こちらのほうが豆汁より使われる。

ドウダンツツジという植物は公園や広い場所などに植え込みによく使われている。ドウダンとは<灯台>のことで枝わかれに特徴がある。枝わかれが灯明台の脚に似ているため比較的覚えやすい。春、花が終わったあとで、刈り込んでいるのを見かけたら、もらうのがベスト。ちなみに桜の枝も滅多に枝切りされて処分するという場面は遭遇しにくいがこうしたものは染色に使用できるため、ひきとるようにするとよい。私はドウダンツツジやヤシャブシなど様々なものをもらっては保存するように姿勢を整えている。仕事場に薪ストーブがあり、家族に薪のごとく、燃料にされたときの悲しみは計り知れない。

母と子のたのしい草木ぞめ3

漢方薬や旅みやげで  

林泣童 

包丁でトントンたたいて、お餅にヨモギを混ぜる。前掛けに茹汁がついてしまい、色がついた。そんなことから昔の人は草木染めを学んだのかもしれない。たくあんを白茶よりは、鮮やかな黄色のもののほうがうまそうにみえる。昔の人はクチナシの実をつけこみ黄色にした。栗きんとんも同じように黄色く鮮やかにした。いってみれば草木染めというのは食べ物にもいえることで、なにも布地だけに限ったものではなかった。草木染めを学びたい、そんなことこそ、肩の力をぬいて気軽にとりくんでいく、そんな姿勢でいい。本格化するのは経験を重ねながら、だんだんにこういう時はこれくらいの量、これくらいの時間というように勘を育てていけばいつか熟練された技術に変わっていく。

花屋さんや花木センターで買えるもので染められるもの:

バラ 

ボケ(枝 葉)

ネコヤナギ(枝)

ツバキ

コデマリ

レンギョウ(枝)

サンシュユ(枝)

など

毛糸と布のたのしい手づくり教室

石井正子 著者は本からヒントをえて、楽しんでほしいということである。はじまりに、布を使って絵の具のかわりにベタベタとはりつけて絵をかいてみようと提案する。下絵をサッとかき、そこに布を切ったものをはりつけていく。これは、色を変えたり、大きさや形をかえたりして下絵にあわせていくことで、最終的にボンドなどではりつけて一枚の布絵を完成させる。ここでのポイントとして手触りの異なる布、模様などをその絵にはりつけ、異なるものを視野に入れるということで布ひとつにも、こだわりや独創性がそこでひとつうまれるということだろう。そうしたことを学んでもらいたいといったはじまりである。次に布地を好きな色の毛糸でざくざく縫う(ぬう)。それだけのテーマをあたえる。これはランニングステッチとよばれるものであり、針を自在にコントロールできるようになっていき、いわば運針(うんしん)練習となる。糸にあわせて針をかえてみる、選ぶなどの針選びもそこで知ることができる。針に糸をとおす、糸を複数にした複雑な色合いの糸をも使うことで、単純に針、糸を好きになるように指導したものとなっている。針を動かし、こまかく、長く、あらく、短くなどの変化で次第に縫うこと自体もうまくなる。鉛筆で下絵をかき下絵にあわせて布をきりぬき、絵がらを決める。ふちをおおってアイロンをかけ、しつけぬいをする。ランニングステッチやブランケットステッチ、またはアウトラインステッチでぬってみる。ステッチとは縫い方のことで、現代のネット環境では情報も豊富で、検索して縫い方を独学に近い状態で学ぶことができる環境にある。これは情報社会に感謝しなかればならない素晴らしい。インターネット上に多くの情報があり手縫い、つまり、針と糸があれば、縫い方を工夫して、様々な変化ある縫い方を習得し、ぬうことは楽しいことと思えるように構成されたものである。それらは数十種類もの縫い方が紹介された専門的なサイトもあるようである。私がうまれる前に出版されているこの本に興味があれば購入するもよし、また縫うことは、道具を使うことのイメージと現実をうめるものであり、あくまで手作業にこだわって縫う、てぬいの楽しさを知ることができる。現代はミシンという縫う道具(機械縫い)があるが、私は手作業による手縫いを推奨する側にいる。それは刺繍にもいえる。ヨーロッパでも現在に残る技術は手縫いによる伝統的な刺繍が世には存在している。着物と縫いを考えるとき、すべて原始的な技術に人はおちつく。本格的な日本の手縫い、和裁にかんする書籍を<古書現代3>で紹介しようと思う。

日本の染織 紅型

沖縄の心を染めた紅型

 

紅型は沖縄の染物である。紅型の名はただちに、多彩で調子の強い染物を連想させるが多彩な紅型は沖縄の地理的環境の代弁者でもある。強い陽光が矢束となって降りそそぐ南海の彩りは、全ての色が鮮やかに見える。亜熱帯の島は常緑であり、四季、花が絶えない。丘の土の赤さ、浜の白さも、花や樹木の緑を深い空に浮き立たせる。陽光の豊かさは樹木の葉一枚一枚、さらにわずかな水深によって紅から紫、そして緑にと高い明度で微妙な違いを見せる。澄明な空気は夜空の星の遠近までわかるような気がする。海洋の気候は雲足が早い。空を眺めていると一瞬として雲は止まっていないし、本土の冬空のような硬い雲もない。湿気の多さは光の屈折を変え、夕闇の紅色、星空の淡緑や淡紫は膨らみがある色、それは紅型の地色そのものである。

沖縄の地文な美を綴った。紅型の詳細等は後ほど<中間資料>で作成し、入れかえを行う。

沖縄の染物の一つに、藍型と呼ぶ藍を主色としたものがある。紅型が沖縄の昼の世界なら、藍型は夜の世界を、また紅型が島の景色なら藍型は島を囲む海底の詩である。岩に揺らぐ藻、磯を縫う魚の群の影の濡色が藍型の色である。久米島紬の紬は、琉球多蚕繭とよばれる繭で本土のものとは異なった南中国系の蚕がつくる。やや黄灰色を帯び光沢は少ないが、上質の鞣皮(なめししたもの)のようなしなりがあり、紅型の染め味の潤いを持つ理由は糸質負うところが大きい。芭蕉布も特産的な繊維である。乾燥を嫌い、石灰質を好む植物で全域に繁茂するが、繊維を彩る芭蕉は糸芭蕉とよび、風を避けて斜面か屋敷内に植え風物的特色になる。広義の麻に属し、小麦粉の堅い繊維であるが、首里の煮綛とよぶ撚を利かせ、充分に灰汁処理をしたものは染め色が上すべりをしない。絵具ののりが良くないので紅型には使われないが藍の染付きが良い点もあって、藍型には深々とした染味がある。

人間国宝シリーズ43 結城紬   

戦前、戦後を通じ、10年にわたる統制が終わり、回復を見せた結城紬も、緯糸(よこいと)に強い撚加工をした縮織物が全盛で、古い伝統を持った平織りは、年間生産量が1500反と非常に少なく、近い将来消滅するのではないかといわれた。幸い、国はこの平織りの遺法と伝統を認め、久留米、小千谷とともに昭和31年3月31日付けで<国の重要無形文化財>として指定することとなった。昭和31年3月24日の、文化財の専門審議会説明資料中に、指定理由や要件が次の如く記されている。
1、指定理由
結城紬は常陸紬ともいわれ、古くより茨城県結城市、栃木県絹村を中心として製織され、慶長の頃から結城紬と称され、江戸時代初期には、相当大量の生産をみたもののようである。結城紬は同地方において製織りされているが、稀に見る古様を伝えるもので、織り糸は真綿から引き出した紬糸、絣くくりは手くびり、織り機は最も原始的ないざり機がもちいられている。近時染色は天然藍による染色を廃し、化学染料が用いられており、又大正の初期頃より強(キョウ)撚糸を緯に用いた<お召>風な製織りが行なわれ、柄も多彩な絵柄のものがおこなわれるようになったが、ここに取り上げようとするものは、これ以前の結城紬の本来の姿である。<平>の縞、格子、絣、杢等を主としたもので、これは近来、柄もの進出に押されて、次第に生産が下り坂になっているが、水を入れても洩らぬと、いわれる結城紬本来の姿と、独特な美しさの中に、渋い味わいのあるよさは、かえってこの<平>の中に認められ、わが国染織技術中、特に芸術的な価値が高く、かつ地方的な特色が顕著なものであると考えられる。

2、指定の要件

<イ>使用する糸はすべて真綿より手つむぎしたもののみとし、強撚糸を使用しないこと。

<ロ>模様をつける場合は、手くびりによること。(スリコミ、直接染色法は含まれない。)

<ハ>いざり機(地機)で織ること。(高機は含まれない。)

3、保持者の認定

(1)保持者の認定は、糸つむぎ、絣くくり、染色、織り、仕上げ等の工程に従事する者を代表者として認定する。

(2)製織り地域が茨城県、栃木県にまたがっているので、保持者を認定する各工程について、両県より一名ずつ保持者代表として認定する。

以上について審査の結果、次の6名が代表者として認定された。

糸つむぎ部門 大里ふく 大塚いせ

絣くくり部門 北村勘一 今井五郎

織り部門   北条きの 増田かね

その後、絣くくり部門の北村勘一と今井五郎が死亡したので、昭和49年4月20日付を以て次の2名が新たに認定された。 田中林次 谷島武雄

昭和50年7月、国の文化財保護法の一部改正により、技術保持者の代表指定が団体指定に改められたため、茨城県栃木県両県合同で糸とり部門62名、絣くくり部門52名、織り部門52名、学識経験者5名の合計171名により、本場結城紬技術保持会を設立、昭和51年4月30日付を以て認定を受けた。従って従来の認定者は解除された。この技術保持会とは別に、関係市町村と茨城、栃木県両県の文化課及び両県の技術指導機関によって、結城紬の技術保持と精神的、物質的援護を目的に財団法人重要無形文化財結城紬技術保存会が設立されている。

 

結城つむぎの歴史

<結城紬の歴史>
B.C.
50年
崇神(すじん)天皇の御代、多屋命(おおねのみこと)が久慈郡に機殿を造営して、織物をはじめました。これがあしぎぬで、結城紬の原形と言われています。


A.C.
714年
 常陸国のあしぎぬが奈良朝廷へ上納された記録がのこっています。また、奈良朝廷に上納された布が、正倉院に保存されています。


807年 古語拾遺(こごしゅうい)のなかに、麻が好く生ずる所が総の国であり、穀木(ゆうのき)の好く育つ所が結城の郷である、と記されています。


1332年 庭訓往来(ていきのうらい)のなかに、諸国名産の一つとして常陸紬(ひたちつむぎ)の名が記載されています。


1601年 江戸時代にこの地を治めた伊那備前守忠次は、染色と縞の織法を技術導入するなど、紬の振興、改良に努めました。この頃から結城紬の名が広く全国に知られるようになりました。


1638年 毛吹草(けふきぐさ)の中に、七産地十種類の紬が諸国の名産として取り上げられており、この中に結城紬の名称がでています。


1712(年) 和漢三才図絵(わかんさんさいずえ)に最上品の紬として、結城紬が紹介されています。


1866年 大塚いさ女、須藤うた女の両女により、はじめて紬の絣が織られ、ここに結城紬も画期的局面を展開することになりました。


1956年 結城紬は、久留米絣、小千谷縮とともに国の重要無形文化財に指定されました。


1977年  結城紬は、伝産法に基尽く国の伝統的工芸品の指定をうけました。
 常陸国のあしぎぬが奈良朝廷へ上納された記録がのこっています。また、奈良朝廷に上納された布が、正倉院に保存されています。


崇神(すじん)天皇の御代、多屋命(おおねのみこと)が久慈郡に機殿を造営して、織物をはじめました。これがあしぎぬで、結城紬の原形と言われています。

<紬生産の発展>
明治2年3月政府は諸道の関門廃止を布達して、交通を自由にしたが、ほぼ明治5年頃までには各県は旧来の株仲間の特権を廃止し、諸営業の自由な発展を図った。結城地方でもこれを契機に諸産業が発展した。とくに、結城紬の生産では幕末すでに絣の製織法が導入されていたが、明治6年奥沢庄平が足利、桐生、伊勢崎の機業地を訪ね、7年さらに八王子を視察して各地の製織法を学び、すぐれた紬生産に成功した。
市場では結城紬の評判が高まり、需要が急速に増加した。
明治18年鈴木新平、奥沢庄平の提唱によって、結城物産織物商組合が組織され、検査員をおいて合格品に組合の商標を貼付することにしたため、生産品に対する信用を回復し、結城紬の声価はいよいよ高くなった。養蚕業の奨励はすでに幕末期からおこなわれていたが、明治5年鹿窪の宮田国三郎は明治6年から桑園造成に着手した。鬼怒川付近では桑園造成が急速に進んだ。

<結城紬 木綿問屋>
結城紬の歴史的な動き

結城紬はすでに室町時代に関西方面に知られていた。結城氏が育成保護をはかったが、結城秀康の越前移封後、伊奈備前守忠次によりその改良がはかられた。彼は信州上田から織工を招いて染色法、織法の改良をはかった。
これにより従来、無地紬であったものが、型付、模様染、柳条染もできるようになり、江戸方面に販路が開かれていった。
水野氏が結城に入封してから紬問屋の保護策がとられ、問屋を士分待遇にしたり米を給したりしている。
<和漢三才図絵>に、『結城に出づるものを上とす信州之に次ぐ』と紹介されているが結城紬は原始的な道具を使用しての織り方でありかなりの手間数かけるものであるから、値段もきわめて高価であった。
1790年の江戸における結城紬の値段は信州紬の1.5倍であった。
江戸幕府は、いくどか倹約令を出したが結城紬は一見木綿のようで取り締まりを逃れるのに利があった。
結城木綿の歴史的な動き

紬のほかに織物では木綿がある。これは関東では真岡木綿の名で知られているが元禄以降さかんとなった綿の栽培により、江戸方面に送り出された。木綿は茨城下館(現在の筑西市の一町村)地方がさかんで、文化、文政期にかけてが最盛期であった。歌麿が浮世絵でも描いた。

<江戸時代の結城紬>
豊臣秀吉が全国を支配したころ、茨城の地方には、二大豪族として、佐竹氏と結城氏とが存在した。17代結城氏は積極的によしみを通じ、秀吉の養子秀康(徳川家康の子)を養嗣子に迎えることによって結城家の存続をはかった。秀康は、天下分け目の戦といわれた関ヶ原の合戦に家康側にくみし、戦功を認められ、越前に67万石が与えられた。慶長6年、その引っ越しは家臣はもとより寺院、職人、商人にまで及び、結城ぐるみの大移動であったと伝えられている。
十万石余を擁した結城家の去ったあとの結城地方は、すっかり変わり領地は大名領、旗本知行所、天領等となった。現在の結城市域は大部分が天領となり、初代代官として伊奈備前守忠次が派遣された。彼は治山、治水、産業などに、高い識見と技量を併せもった偉才であったといわれ、産業の振興策として、紬の改良発展のために熱意を示した。即ち、信州上田より織工を招き、染色と柳条の織法を技術導入した。そして陣屋に染織の作業場を設け、自ら指揮監督をしたという。

結城家の越前移封は紬も存亡にかかわる危機に、遭遇したわけであるが、初代代官の善政に支えられ、その声価はますます高くなった。この時代の多くの文献の記述の中から、その真価を伺うことができる。

初代の代官、伊奈備前守忠次より約百年の間、次々に代官の施政が続いたが、元禄12年(1699)水野隠岐守勝長が、能登より転封になったときは、知行わずか1万8000石に過ぎず、結城の周辺15カ村、戸数1036戸という小地域になってしまった。

江戸中期の治政を見ると無事泰平になれた世人は、安逸に慣れ、町人文化が全盛をむかえた。幕府は、この悪弊を改め、人心を一新するため、数回にわたり節倹令や奢侈禁止令を公布し取り締まりを行った。第一回は八代将軍吉宗(1730年)の倹約令、第二回は老中松平定信(1789年)によるもの、第三回は有名な天保の改革(1841年)で、老中水野忠邦によるものである。禁止の対象は実に広範で細部にわたっており、忠邦にいたっては、菓子や玩具から肌着にまで及び、百姓町人は、いっさい絹物の着用は禁じられ、木綿のみ許された。ただし、紬は絹製品であっても、名主と百姓の女房だけは着用することを許されたので、自家用の紬が生産された。

この時期に貫紬といって経糸に木綿、緯糸に紬糸を用いた織物が作り出され、これが時流に乗って普及された。

水野忠邦の墓は、茨城県指定文化財として結城の地にあり、天保の改革を思うと感無量なるものを感じさせられる。

 


<結城紬 明治時代 歴史>
明治、大正時代、結城紬の発展にはどんなことがあったのだろうか、歴史をたどった。
明治時代 結城紬の歴史

1873年
明治6年

オーストリアの世界博覧会に結城紬が出品された。
1880年
明治13年

東京に木綿呉服問屋組合が初めて設立され、下館、結城の問屋もこれに加入した。
1886年
明治19年

鈴木新平(先々代)の主唱により、結城織物組合が結成され、同時に検査を実施することになった。
1889年
明治22年

奥村亀三郎(結城最初の国会議員)の主唱により、常総野蚕業集団会が開催された。
1900年
明治33年

明治天皇陸軍大演習のため笠間行幸の際、結城紬をご覧になりお買い上げ賜る。
1902年
明治35年

結城紬織物史全一冊が結城市の坂本大次郎により刊行さる。
1904年
明治37年

日露戦争の戦費をまかなうため織物消費税が定められ、39年には永久税となり、昭和24年まで続いた。
1906年
明治39年

菊地貞之著きぬのほまれが刊行された。
1907年
明治40年

陸軍大演習が結城市を中心に行われ、明治天皇結城行幸、結城紬をお買い上げ賜った。
1912年
明治45年

本場結城紬織物同業組合を結成、認可された。
1923年
大正12年

茨城県工業試験場が結城に開設された。

 

<オリジナル ゆうきつむぎ歴史>

本場結城紬の歴史(2012年改訂版)
前656  ・このころ多臣命、(おおかみのみこと)が、三野(美濃)より久慈国(茨城県久慈郡)に移り、機殿を作って長幡部施(ながはたべのあしぎぬ)を織り、毎年神調として朝廷に献上した。この織法が結城紬の粗法といわれる。
・神武天皇5年、天富命、阿波の忌部を率いて房総に行き、椿、麻(木綿由布木という)を植えさせた。
前50 ・崇神天皇48年、豊城入彦命を東国につかわして治めさせた。大桑神社(現結城市小森)は、その子孫大桑臣を祀る。
199 (大和時代) ・仲哀天皇8年、融通王(弓月君)が来朝して、蚕種を献上、その後、桑栽培が盛んになった。中国人、百済人が多数帰化し製織の技法が進んだ。
701(大宝元年) ・常陸の蚕影山で蚕種を製造し、結城でその市が開かれた。茨城県筑波郡田井村に蚕影神社があり、古くから養蚕家の信仰があつい。
769(神護景雲3年) ・この頃、鬼怒川の沿岸は洪水に悩み、朝廷はその改修に務めた。
807(大同2年) ・「古語拾遺」の文中に、結城郡の起源が見られる。
1332(延元元年) ・「庭訓従来」(玄慧法師撰)が刊行され、その中に諸国名産の一つとして「常陸紬」の名が記載された。  
1479(文明11年) ・この頃、鬼怒川、田川の水害は甚だしく、結城地方の養蚕は衰える。
1601(慶長6年) ・結城秀康が、越前福井に移封となり、結城代官として、伊奈備前守忠次が就任、在任10年、結城紬の改良に功があった。「結城紬」の名称が定着する。
1638(官営15年) ・「毛吹草」の中に結城紬の名称が出る。
1712(正徳2年) ・「和漢三才図絵」に紬の名が出る。
1748(寛延元年) ・「総鹿子」刊行され、その中に結城の名があり。
1781(天明元年)  ・この頃、下館付近の農家から白木綿が織り出され、続いて真岡木綿の名もおこり、結城縞木綿も有名となり多く生産された。
1866(慶長2年)  ・中河原の大塚いさ、須藤うたの両女によって、はじめて紬の織りが織られた。
1873(明治6年)  ・オーストリアの世界博覧会に結城紬が出品された。
1880(明治13年) ・東京に木綿呉服問屋組合が初めて設立され、下館、結城の問屋もこれに加入した。
1886(明治19年) ・鈴木新平(先々代)の主唱により、結城織物組合が結成され、同時に検査を実施することになった。
1889(明治22年) ・奥村亀二郎(結城最初の国会議員)の主唱により、常総野蚕業集団会が開催された。
1900(明治33年) ・明治天皇陸軍大演習のため笠間行幸の際、結城紬をご覧になりお買上げ賜わる。
1902(明治35年) ・「結城織物史」全1冊が結城市の坂本大次郎により刊行さる。
1904(明治37年) ・日露戦争の戦費をまかなうため織物消費税が定められ、89年には永久税となり、昭和24年まで続いた。
1906(明治39年) ・菊池貞之著「きぬのほまれ」が刊行された。
1907(明治40年)
・陸軍大演習が結城を中心に行われ、明治天皇結城行幸の際、結城紬を上げ賜った。

1912(明治45年) ・本場結城織物同業組合を結成、認可された。
1923(大正12年) ・茨城県工業試験場が結城に開設された。
1929(昭和4年)  ・天皇陛下、水戸に行幸の際、結城紬を天覧、お買い上げ賜わる。
1933(昭和8年)  ・結城紬の県営検査がはじめられた。
1944(昭和19年) ・本状結城織物同業組合解散、茨城県工業試験場が廃止された。
1946(昭和21年) ・茨城県、栃木県それぞれ個別に「本場結城紬織物協同組合」が設立された。
1948(昭和23年) ・茨城県工芸指導所繊維支所が結城に開設された。
1950(昭和25年) ・茨城県繊維工業指導所が設置された。茨城県、栃木県合同で本場結城紬織物協同組合(6部制)が設立された。
1953(昭和28年) ・6部制の組合がそれぞれ離脱、専門別の組合となる。茨城県が結城紬を県の無形文化財に指定する。英人陶芸家バーナード・リーチが柳宗悦氏、浜田庄司氏とともに結城紬を視察。栃木県紬織物指導所が小山市福良に設置された。
1956(昭和31年)
・本場結城紬「平」が国の重要無形文化財に指定される。
1958(昭和33年) ・茨城県本場結城紬織物協同組合が設立された。
1961(昭和36年) ・結城市を中心に、関係各市町村により財団法人重要無形文化財結城紬技術保存会が設立された。
1962(昭和37年) ・茨城県本場結城紬検査協会が設立され、紬買取後の毎反検査が実施される。
1967(昭和42年) ・栃木県本場結城紬織物振興対策協議会が発足する。
1974(昭和46年) ・結城紬の買取後検査を、生産者検査に移行する。
1974(昭和49年)
・茨城国体の際、鬼怒商業高等学校において、結城紬及び真綿かけ、糸つむぎ、絣 しばり、はた織りの実技が天覧に供せられた。

・NHKの連続テレビドラマ“鳩子の海”の舞台が結城に移され、結城紬の人気が高まる。

1975(昭和50年) ・茨城県本場結城紬織物工業組合と、本場結城紬織物協同組合が合併して、新たに茨城県本場結城紬織物協同組合と改称。栃木県本場結城紬織物協同組合設立さる。
1976(昭和51年) ・文化財保護法の改正により、保持者の認定が団体となり、171名によって本場結城紬技術保持会が設立された。
1977(昭和52年) ・結城紬が伝統的工芸品の指定を受ける。結城紬伝統工芸士が認定された。染2名、 絣くくり6名、織り8名。
1978(昭和53年) ・本場結城紬検査協会を法人化し、本場結城紬検査協同組合が設立された。 
2010(平成22年) 本場結城紬がユネスコ無形文化遺産に登録される。

2012年改定、なお、現代編集として資料作成にあたり、茨城繊維工業指導所所長だった望月政夫氏と、結城紬のもっとも良い資料として、この<人間国宝シリーズ43結城紬>ということで、私とはじめて意見が一致したため、望月氏に資料訂正等を含む、資料づくりをおこなった。これはヤフージオシティーズ無料ホームページ内で紹介したものとほとんど同じ内容のものがここに再掲載されている。マニアックなファンは気がついたかもしれない。また、上記内容を引用し、

以上について審査の結果、次の6名が代表者として認定された。

糸つむぎ部門 大里ふく 大塚いせ

絣くくり部門 北村勘一 今井五郎

織り部門   北条きの 増田かね

その後、絣くくり部門の北村勘一と今井五郎が死亡したので、昭和49年4月20日付を以て次の2名が新たに認定された。 田中林次 谷島武雄

私の知る範囲では北村勘一の代表作200蚊絣は私の父の談話では、私の祖父が絣制作をおこなった、という話はきいている。栃木県側の保持者の第二認定時の谷島武雄氏については240亀甲の概念をつくったことで知られている。本書、人間国宝シリーズ43結城紬>は絣括りの絣の基礎になるものは、蚊絣と亀甲絣であるが、それらを自在にあやつっている細工のもはや国宝クラスが圧倒的な世界を醸し出している。

さらに、私が常日頃、おしている絣、蚊絣は、本書内でこのような専門家の意見があるため、情報補足を引用する。

蚊絣はやや単調であることと、繊維の繊度斑が絣の部分に出やすいため、技術的には亀甲以上の緻密さが要求される。戦後にかけての結城の絣は発展をとげている。すでに100年の歴史を経過している結城の絣の伝統はここまできた。

また、審査の結果の証明書は補足情報までにこちらに初公開を行う。昭和写真家島田謹介とつむぎ、保持者6名の証明画像と補足情報はこちら

日本の染織 縮と上布

心で織る素朴な布

  江戸末期、越後塩沢に住んでいた鈴木牧之は、著書『北越雪譜』にこう書いている。「雪中に糸となし、雪中に織り、雪水に洒ぎ、雪上にさらす。雪ありて縮あり。されば越後縮は雪と人と気力相半して名産の名あり。魚沼郡の雪は縮の親というふべし」 越後の山間部は寒冷地で、しかも肥沃な土地という苧麻の生産に適していたこともある。しかし、それにもまして冬季は豪雪に見まわれ、隣家との従来も不可能になるというふうであったことが、逆に上布を栄えさせたのである。つまり、家の中が暗くなるほど降り積もった雪の中で機織りに集中できたわけだ。お互いに技をも競い合ったことだろう。麻は湿度に敏感な繊維だから、冬場のほうが仕事がしやすい。まして、雪晒しによって麻の漂白もできる。自然まかせの時代にあって、麻を織るのは冬に限るのであった。こうして糸質の良し悪し、出来上がりによって、下布、中布、上布という区別もうまれた。上布とは文字通り、上等の麻織物を意味していたのである。
森田空美のシンプル美着付け 森田空美 女性が着物を着る、もしくは着てみたいとなると、本書に必要なものが掲載されているが、結構な数のものものとした小物が必要となる。極力無駄をはぶき、そのなかから美しさをひきたてる着付けを目指した森田空美さん。試着の重要性をとなえつつ、それぞれに独自性の強い美のポイントはかなり細かいというか、本当にこだわってチェックしないと気がつかないような加減によってそれらのポイントをおさえれば全体にバランスがうまれることを伝えている。着付けは大切なことですが、それより着物をきていく場所が少ないことがより着物姿をみる機会すらないといった感じがする。そういう意味では浴衣などの着付けをみてみるとひとりで浴衣を着ることを学べるようなつくりであり、まして月謝も発生しないから雑誌感覚でチェックしてみてもよい気がする。結城では、先生というとその人の母や近所の方々だったりしたのであるから着付け師の概念は獲得しにくい土地柄にある。実際には、着付けひとつ、先生も多いということが着物を仕事にしたい女性を代弁しているように思う。

 

きものおめかしノート

しゃなり2003冬

  普段着きもので歩く。きもので街にでかけてみよう など現在もしゃなりという雑誌はあるのか確認はしていないが、着物雑誌の七緒 にコンセプトはぐっとちかいとでも表現すれば伝わりやすいのか。着物歴まるまる年とあって、アドバイスやオリジナルの小物や便利アイテムなどいつの時代も変わらない工夫がある。その紹介数が結構な数があり、ふむふむなんて納得共感しながらよんだものだったのだろう。徹底してスタイリングしたものものはじつに木造建築が似合うものだと勝手に解釈している。ただ、洋服から着物へとなるにはそれなりにきっかけはいるような気もする。働く日本人にはたしかに洋服のほうが、便利は便利である。快適性を捨てたものとまではいわないが、私は骨董収集するきっかけは、なんでも鑑定団のチェックと、やはり自分が知らないものへの興味、時代への興味である。食べ物をひっくりかえすためにあるかのような、あつかいにまでなった昭和ものの机、ちゃぶ台は私が知る限り、自宅にはもうすでになくてコタツのつくえも四角であった。なんらかのそうした漫画などの影響、映画の影響で、ちゃぶ台は丸くてひとりかふたりくらいの小さいもの、のようなスリコミ知識はあった。着物となるとファッションの興味と国の衣装、時代へのあこがれなどやはりそれなりに、きっかけは用意されている気がする。私はそうしたアナログがゆえにこうした資料も好きなのである。

装道きもの学院テキスト

入門初修課程実技編

 

上記紹介の2冊も平成初期となると、すべて手描きのイラストと文章で、構成されているようである。写真を用いないでいかにわかりやすくするかに創意がある。着付けに関しては私がいえるのは、結ぶまでの動画をコマ送り状態にした感じで説明していくものだと思うので例えば1のようにしてください。次に2です。とあったとしてその中間がどうなって2になるんだという、説明不足をいかに少なくしていくか、が着付け書物の課題であったと推測する。あながち間違えていないように思う。イラストをさーっとみてみると、黒柳徹子さんのヘアースタイルはあたりまえのようにすでにあったとの想いもして不思議な気持になる。

織 華麗なる手技の世界

淡交 1995 別冊

 

有職織物(ゆうそくおりもの)、羅、経錦、西陣絣御召、西陣着尺、西陣織帯、緞帳、綴帯、丹波布、置賜紬、精好仙台平、結城紬、唐桟織、越後上布、小千谷縮、信州紬、郡上紬、倉吉絣、阿波しじら、博多織、久留米絣、花絽織、読谷山花織、芭蕉布、などの1995年当時の思いがつまっている。昔のものはほんとうによくできている、それは生産者、職人の世界観だけではない。飛鳥、奈良時代の中国の憧れや、平安、鎌倉、室町時代の日本美の発見、桃山時代の華やかさ、江戸時代の近世の精華、明治時代の近代を迎えて、などの時代時代での考察と検証は、古布再現への企画へとつながっている。蘇る能装束の企画では足利義満以来、将軍家や大名家の庇護のもと能役者は拝領された装束を身にまとい舞台にたった。それらは「珍しくてさらに貴重」ととも評価される輸入品であり、日本の織技をつくした美しい装束であったという今に伝わる装束は現代の織の世界にも多大な影響と創作へ向けての刺激をあたえるものとなった。華麗なる和様美の女役の装束、たけだけしい唐様の印象の男役の装束は必読である。いまの能装束の復原は現在となってはとくに面白いインパクトなる記事となった。是非、目を通してもらいたい。

KOSODEvol.42

リニューアル記念号

 

特筆すべきは記念号とあって高級な織物群が存在感をしめすものだが、結城紬の生産者からすれば、やはり気にとめるならば結城紬記事となってしまう。手つむぎ糸生産の写真は祖母が掲載され、織は私の母が掲載されている。手つむぎ糸は記事になているが、袋真綿から適度な湿気を与えながら、指先で細く均等に手で引いていく。一反の結城紬の糸は緯糸で14km必要で、経糸は16kmの長さがいるという恐ろしくも細い糸を緯糸に使用するのである。緯糸のほうが断然に細い織物が結城紬の特徴で繊細で精緻な織物は、糸に起因する部分が大きい。織は地機織りであり1000年以上前から伝わる原始的な織機を使用する。経糸を織手が腰あてにした紐で経糸のテンションを強弱させるこの織機で織られた結城は最上最高至極の織り上がりをみせる。ほとんどが手作業を貫いた現代の結城紬もそのスタイルは変わっていないが機械織りの結城紬とは、比べるまでもなく生地質がまったく違う。

 

日本の染織 中形

江戸情緒の再発見

 

きものに夏姿ということがある。そして秋姿、冬姿、春姿ということはない。これはわが国の高温多湿の夏の季節から生まれた、風土的なきもの美をいうものである。夏姿には絽や紗、上布を着た姿もふくまれるが、夏のきものはマテリアル、織り方、文様、色彩にいたるまで、他の季節とがらりと変化がみられる。きものの形が一年中同じで変化がないことが、必然的に視覚的に涼感をだすことに、工夫がこらされてきた背景がある。浮世絵には美人画の外にも、北斎などが描く風景画の空の色、水の色に藍からつくった藍蠟(あいろう)という絵の具が用いられていた。藍ガメの中の藍液は黄土色を呈している。この中に糸や布をひたして空気中にさらすと、藍は空気の酔素と化学反応をおこしてはじめて青く発色する。紺屋のものは、これを風を切るという。藍はかつて世界中の暖かい地方で用いられたが、現在、植物藍を用いているのは日本と数カ国を残しているのみである。きょくちてきにはその民族が藍染めの技法を昔ながらの染色をおこない、なおのこるといった感じである。藍の色は日本の風土によく調和する。藍の色をアメリカの人は「ヒロジゲブルー」「ジャパンブルー」と呼んで珍重するのも、日本人の生活に密着した藍色に対する魅力によるものがある。中形には、地色が藍で文様を白く染め抜いた地染まりの中形と地が白のままで文様を藍染めで表した地白中形がある。昼間は地染まり中形をきても、夜ともなれば地白中形が粋に見えて調和がよい。三遊亭圓朝の人情話『牡丹灯篭』にカランコロンと下駄の音をひびかせて出てくる幽霊は、地白中形でないと凄味が出ない。また「生き堪へて身に沁むばかり藍浴衣 橋本多佳子」の句には、紺の地染まり中形が連想されるといふものが多いという。歌舞伎役者によって流行した中形をあぐれば、

仲蔵縞:仲蔵が毛剃九右衛門にふんしたときに元船の場面できた変わり縞 

芝翫縞(しがんじま):四筋に釻つなぎ(かんつなぎ)を配し、芝翫に通じさせた模様

鎌輪ぬ(かまわぬ):鎌の絵のなかにぬの字を入れた図を三筋縞の中に配し、「染めもかまわぬ江戸自慢、、、、」の長唄の文句に合わせたもの

市村格子:十二代派左衛門好みで、白地に紺で破れ格子に片仮名のラの字を配した柄

その他、歌舞伎芝居にゆかりのある粋な中形も多い。以上、ふれた中形は、重要無形文化財として指定されている江戸中形(長板本染中形ともいう)主としたものである。中形には明治年間に大阪からはじまった注染中形(折付中形、手拭中形の名もある)がある。現在の中形の大部分は、この方法で染められる。

こちらは中間資料集か、もしくは人間国宝シリーズ中形などの資料にてのちほどさらに情報補足等をおこないたいと思う。

波乱を越えて八十路へ

斎藤政治 

斎藤染工の発展の道をつづる。苦労人である。天の章という序章から、すさまじい修行道と生き方であった。貧乏な窮地が自身のちょっとやそっとでは折れないこころをつくったと本人もいう。無性に悔しい気持ちが、振り返ったときそのときの思いが私を奮い立たせ、容易なことではへこたれないようになったという。斎藤栄次郎氏のもとへ丁稚奉公(でっちぼうこう)に入った。政治氏の父から「政治よ、お前には大工か左官の道を歩ませようと考えてみたけど一人前になるまでには四年も五年も年季奉公をせならん。なにしろ今は家の新築などで借財が残っている状態だから、すまんけどすぐに金がもらえるところへ行ってくれんか」といわれ小学卒業から進学をあきらめ、丁稚奉公に入った。そこで出された食事にまず驚いたという。いわし麦といってある程度ついた麦を炊き上げたのち水でさらした粗末なもので、女中が大きな釜で炊いている時は、牛に与えるものとしか思わなかったという。米の飯しか食べたことがないのでとてもくちに入らなかったという。約4km離れた菓子屋の一個2銭の栗饅頭を三個食った。墓場の側を通らなければならない真っ暗な山道は、髪の毛が立つほどに恐ろしく心細かった。「えらい麦飯や。もうよう行かん。」家につくなりそういったが、政治氏の父に連れもどされた。「清やん、あんたのような貧乏人が子供に麦飯を食べさせていないとは、、、、」と当主のお婆さんから厳しく叱られたという政治氏の父は「男一人、女一人の子供であるから、買い米を食わせて育ててきた。不調法は申し訳ないがどうか冷飯でもいいから子供に米の飯を食わせてやってほしい」と頼んだという。丁稚奉公の朝は厳しい。午前五時になると、女の子たちが機場に入り織機が動き始まるので、午前二時に叩き起こされたという。その頃の動力は電力ではなくガス発動機だったので、まず石炭をたき、動かすことから始めなければならなかった。発動機の方が済むと、五つも六つもある染工場の釜を焚きにかかって、職長や職人が出てくるまでには終えていなければならなかった。染といってもこの頃は白と黒しかなかった。それで絣用の糸を整経するのが染工場の仕事であった。真冬の川の水を素手素足で仕事する。寒中の水は言語を絶した。ゆっくりと水に入ると冷たく感じるので勢いよく飛び込むのが、真冬の川の水の入り方だという。川の水と竹を用いて染め上げる絞り竹という工程は、持ち場ではなかったけれどなんど先輩にどつかれたかわからないほどだったという。負けん気が幸いして二年目の丁稚奉公は給金は倍の百二十円になり、三年目には二百四十円になった。年ごとに給金が倍増する丁稚は過去にいないこと、と言って主家の娘のマキエさんに驚かれた。この先波乱万丈がある。本書を手に入れて読んでもらいたい。

まず、本当に波乱万丈で苦労したら書こうと思わないだろうし自費出版するという、まったく面白い野郎だ。あっぱれ。

日本染織芸術叢書

紋織1

西村兵部(シリーズ全10巻)

地組織の糸がそのまま文様を構成する糸となる紋織物は総称して一重織物といわれるように、その断面は経糸一と緯糸一から成っている。これは紋織物としてもっとも基本的な姿であり、また原始的な構成ということができるであろう。平織物、綾織物、繻子組織の基本的な構成が三原組織といわれ、また綟織(もじりおり)をふくめて四原組織ともいわれるものであって、平組織は経緯とも一浮一沈するものをいい、経緯糸のいずれかが帛面に浮いて、経緯のまじわる組織点が遠ざけられるが、その組織点が三本(あるいは三越)おき、四本おきあるいは六本おきというように一定の間隔をもつとともに、その交点が斜めに連続するものを綾組織とよんでいる。繻子組織は経緯の交点をできるだけ遠ざけながら、その交点を帛面に散らせたものであって、散らすといっても不規則、恣意的(しいてき)ではなく、五本おき、七本おき、八本おき、さらには九本おきというように数種のものがみられる。綾組織なり、繻子組織においては、糸の浮きが長くなるにしたがって、織物としての強度はおちるが、他方、帛面は経緯のどちらかが多くでて帛面を平滑ならしめ、絹のもつ光沢が強められ、柔軟さを増す利点がある。これら綾組織、繻子組織の織物においては部分的に織り方をかえることによって文様があらわされることになる。これを一重紋織物と総称するが、そのなかには文綾(略して綾という)、紋繻子、緞子、綸子、紋羽二重、紋縮緬、紗綾、紋海気などがふくまれる。なを、一度中間記録にて織物の組織は勉強して記録してある。そちらを参照していただきたい。中間記録

一色一生

志村ふくみ

一色一生という本のタイトルは藍染めには10年かかると思うとしていたがどうやら一生かかると人間国宝志村ふくみが若かりし頃さとった言葉がタイトルとなった。白洲正子の衣匠美という本に白洲正子の愛すべき染織家というらんに登場する幻の絣<ゆみはま絣 弓浜絣>の伝承者の嶋田悦子さんが登場しているが、志村ふくみ氏の一色一生の著書の中盤で、弓浜絣の産地訪問の記事がある。<民芸144号>に稲岡文子さんが<弓浜絣>の再現の悪戦苦闘と再生について記述されている。稲岡文子さんの長女のご主人が嶋田太平さんといい<ゆみはま絣>の嶋田悦子さんの関係筋とおもわれ、伝承が続いていたと考えられる。

志村ふくみ氏が草木染めと藍染めによっての自伝と染織回想である著書といえる。特に志村ふくみ氏の思いが伝わる部分とエピソードを引用してみよう。<片野さんに(藍染め)を断念するほかないと申しでたところ「私はいつ死んでもいいように娘(藍染めと藍がま)に伝えてある。ただ繰り返しやる以外はない。自分も一夜にして腐敗した甕(あいかめ あいがめ)の側で涙を流し、こずみこむあわれな日もあった。この藍建ての秘儀は教えておぼえるものではなく、藍と自分とが一体になる時点を掴むまで繰り返す以外はないのだ」と諭された。また志村氏は陶芸界の重鎮、河井寛次郎先生に伺って相談しようとすると「この道は厳しく生半可な決心でやっていける仕事ではない。子供を抱えながら、の片手間では材料の浪費、時間の浪費。創作の道は広いようにみえるけれど、一歩踏み入れれば、大変なものだから」といわれ、落胆して家路に帰ったという。最後の思いで、木工の黒田辰秋先生に相談にいく。黒田先生は「自分は怠け者で、好き嫌いが激しいから、木工、これしかできない。だが、自分が本当に使いたいもの、人にいつも愛着をもって使ってもらえるものをつくりたいのだ。その道のりは厳しく地獄同然の時もあるが、そこに又、本当の喜びもある」と。工芸の道はひたすら「運 根 鈍」であるといわれたという。

また西陣の染織探訪では、西陣の浅野織物の浅野宏氏は「10年ほど前からインカ、正倉院などの古い裂(きれ)を集めて組織図を集録し、わかったことはその国の風俗、宗教、文化等その民族の違い、それらすべてが織物にこめられているということだ」と志村氏は激奨の言葉をうける。昭和の染織文化の背景が伝わる書物といえる。

きものという農業

- 大地からきものを作る人たち -

中谷比佐子

着物ジャーナリストとなった中谷比佐子さんの10年前の生産者の現場をうつす編集記者の薫り漂う一冊。こうして10年の経過と書き残したものと実際に現在でも通用している思想はどういったものかを汲み取ろうとするならば有意義に違いない。きものという農業、この書にある生産者は原料に生産にこだわりや責任をもった結果、まさか農業をやるとは思わなかったという感じで農業、木綿ならば栽培、絹であれば、飼料の桑の葉を育てるところから、基本的に衣食住の原点をみつめ苦悩の中にみをおいて充実したものづくりを著者がそっと引き出してゆく感じで紹介される。私はてっきり農業の歴史などの接点をより濃厚なものとした書かなぁと踏んでいたが、あながち本のタイトルにもあるようにきものは農業にちかいものであり産業であるとあらためて感じるものとなって気が遠くなるわけではなかった。染めの現場でも草木染めであれば染料を育てて染めるために独立し、土地を耕して育てている。現場取材に関しては実際にどんな感じで原稿を記者は書くのかわからないが、中谷比佐子さんは、文章が綺麗すぎて編集長などにしてみれば、風景画に詩をかかせるような記事をつくらせたくなるだろうことは察しがつく。現在はきものDAY結城に足を運んで尽力されているので、きもののことはもういいやというくらい記者として燃焼したわけではないようである。

日本の染織 友禅

日本の伝統的な模様染め

 

 

一体どのようにしてあの華麗な友禅染めが生まれたのでしょうか。これについてふれる前に、友禅染めの技法や種類について述べてみましょう。友禅染めは非常に色彩が豊かで、しかも複雑精緻な模様は、絵画的とってよいほどです。あたかも一枚のきものをキャンパスに見立てたかのごとき趣があり、それだけに要求されるのは色と色とが混ざり合って濁ることを防ぐ技術です。この技術を「防染技術」、あるいは単に「防染」と呼びますが、おもしろいことに、この技術を生み出したのは、ほかならぬ日本産のモチ米で作った糊でした。糊で防染することを「糊置き」といいますが、友禅染めの基本となる技術は、その糊置き、つまり糊で防染することに加えて、模様に色を染料で挿していくこと、地染めすることの三つです。手描き友禅は、いきなり白生地に模様を描き染めるものですが、そうした点ではきわめて原始的な染法といえましょう。しかも三つの基本技術をはじめ、どれも手しごとで、江戸時代からの技法と大差はありません。しかしながら三つの技術を駆使すれば、どのような柄でも染めることができるのです。手描き友禅のプロセスを簡単に説明すると、下絵→仮絵羽→糊置き→地入れ→挿し友禅→伏せ糊→地染め→蒸し→水洗→湯のし→仕上げ(印金、刺しゅう)→あげ絵羽となります。この糊置きは、模様の輪郭線に糊をつけたり(糸目糊)一色ごとに彩色した部分を糊で覆い(伏せ糊)ながら、色が混ざり合わないようにするためのものです。たとえていえば、ロウケツ染めのロウがモチ米の糊に代わったもの、と考えてよいでしょう。ロウ染めで有名なのは、ジャワの更紗ですが、しかしモチ米の糊を使ったようには精巧にできないということです。このモチ米の糊を用いる防染技術なしには、華麗な友禅は発達しなかったでしょう。ひとくちに友禅染めといっても、技法の上から大別すると、手描き友禅と型友禅とに分かれます。手描き友禅は文字通り、白生地の上に絵模様を描き染めていくもので、完全な一品制作の手法といえますが、この手描き友禅も本友禅と無線友禅とに大別されます。本友禅は糸目友禅ともいわれ、江戸時代の技法をほとんどそのまま伝えています。つまり、白生地の上に青花で下絵を描き、この模様の輪郭に糊を細い線状につけ防染するわけです。「糸目」の名の由来は、染め上がったとき、この糊の線が糸を引いたように白く残るところから、呼ばれるようになったといわれます。糸目糊を置いた内側の模様に色挿し、つまり彩色をほどこしていくのですが、さらに金銀箔や刺ししゅうなども使って豪華に飾られます。したがって本友禅は、振袖や留袖、訪問着など、品格の高い、優雅なきものに用いられるのです。無線友禅は、本友禅のような糸目糊の線はありませんが、やはり手描き友禅なのです。明治末期ごろから、合成染料の普及によって開発された技法で合成染料を用いるために糊の防染を必要とせず、水彩画でも描くようにして模様を描き染めたものです。本友禅よりもさらに自由で、のびのびとした表現ができます。こうしたところから描き上げ友禅、仕立て友禅とも呼ばれます。また、無線友禅の一種で、濡れ描き友禅というものがあります。これは模様の輪郭が、ぼかしたような感じになっているもので、斬新な味わいがあります。

おそくなりましたが、友禅はどのように誕生したのか、「扇のみか小袖にもはやる友禅染、、、、」これは貞享四年(1687)の春に出版された『源氏ひひながた』の一節です。すでに当時、友禅染めが流行していたことは明らかですが、その起源となるとあまりはっきりしていません。ともあれ技法と名称との二面から歴史をさかのぼってみよう。まず技法ですが、これはかなり古く、奈良時代(710〜794)の「臈纈 ろうけち」にまでさかのぼることができます。臈纈は現在のロウ染めで、ロウで防染するわけです。友禅染めというのは、このロウの代わりにモチ米の糊を使ったもの、といって過言ではありません。奈良時代は模様染めの第一黄金期といってよく、臈纈のほか、現在の絞り染めの「纐纈 こうけち」板締め染めというべき「夾纈 きょうけち」(模様染めの一種 板締 天平の三纈にあてはまる)の三種が生まれていました。さらに染料や顔料を使って筆で模様を描き染める「描き絵」、木版に染料や顔料を塗って布に摺りつける「摺り絵」など、模様染めの原型がほとんど出そろっていたのです。また、現在でもよく使われている「繧繝 うんげん」とか「村濃 むらご」「裾濃 すそご」といった、ぼかし染めの技法も生れ、繊細な染めの味を出していました。繧繝というのは、ぼかし、くまどりのことで、濃淡の変化に段層のあるぼかし染め、とでもいえばいいのでしょうか。模様に立体感がでて、色が生き生きします。村濃は班濃とも書き、同じ色で濃いところと薄いところがあるように、むらをつけて染める技法ですし、裾濃は裾の色が濃く、上部にいくにしたがって次第に薄くなっていく、ぼかし染めの一種です。美しい季節の花や草を布に摺りつける、といった染色技法は、恐らく縄文時代におこなわれていたことでしょう。奈良時代には、これが型染めの一種へと進歩していきます。つまり、木を用いた凸型を作って、それに染料や顔料をつけ、布に摺った、と考えられているのです。

つくってあそぼう 草木染の絵本

やまざきかずき へん

かわかみかずお え

現在のこどもたちに自然とふれあえる場をつくる必要があると編集の山崎氏はあとがきで語る。そのひとつの場としてあげられるのが草木染めだという。土を耕し、種をまき、水や肥料をあげ、染料植物を育てることからはじめるといいと指導する。現代は多忙きわまる生活が多いが述べていることは確かにすじがとおったものである。染めをはじめると工程ごとに布の色が変化するので「なぜ染まるのかな?」、「媒染剤のはたらきは何かな?」などの素朴な染の疑問がうまれわき、その理由を知りたくなる子供の好奇心を大切にしていることが伝わる。そして、「日本で藍染が始まったのはいつごろなのか?」、「日本に木綿が普及したのはいつかな?」などの歴史的、文化的興味も同時に発生して好循環たる疑問と不思議に興味がむけられる。また、「絞り染めでTシャツをつくってみたくなりつくってみる」、「型染めで絵葉書をつくってみる」から美術的興味が生まれるとした。興味が四方八方に広がりをみせると説いて、きっかけをつくり出した資料といえる。情報補足等、草木染めは古書現代2中間資料にて強化をこころみたい。

草木染野帖

大場キミ 「草木染野帖」は草木染めをこれから手がけようとする人のために書かれたものだが、くどくどしい解説はいっさいなくて、さっぱりした随筆風の手引き書になっていると思うと本書の初めに真壁仁が「自然のいのちを染める」と題して解説している。著書のはじめにかかれている言葉で奥深い味わいのある言葉を引用しよう。「春の新緑、そして開花、秋の紅葉、この自然の移り変わりを見ていると、あんな色が採れたら、と思うのは私だけではないと思う。そんな素朴な考えが、私の草木染のような気がする。そして自然から学びえたものは始めがあって終わりがあるということ、生命をもっているものはみな同じであるということであった。としている。さらに、「それに草の一生をあてはめてみると、最盛期に色を採ったほうが一番円熟した、しかも最も鮮明な色が採れるということである。それでは草の最盛期はいつか。花が咲き、実を結び、やがて種子を土に還して、枯れていく。その実を結ぶ、そのころを最盛期と私は呼んでいる。」ということである。昭和の終わり頃の草木染めを楽しむものは、美しい紫色を出す紫根は材料店からでないと入手できなかったため、あまり使われない、使いにくい色であった。もしくはあえてその紫色を出したい場合は素材を自分で育てなければならなかった。著者はどうにか、どうしても紫色が欲しい場合、梅干しのときに使う赤紫蘇から採ったという。紅花と栗のいがとの二色染めもいい色を出したという。染料植物を再度、知識として取り入れたい場合最適な染色資料である。

日本の染織 正藍染

爽やかな日本の色

  この本のシリーズで組紐や博多織なども別冊であとからまとめられたのかその3冊のうち1冊が何かわからない。しかし安定の内容の濃さは御墨付きという感じもするシリーズである。藍染に関して、多々、資料もまとまりをみせている現代で、この本は実はまだ中身を確認していない。今言えることは、藍染の複雑で何度も繰り返し染色することで深い紺色などの青を染めてきた人類において化学のチカラによって、藍染は遠く昔のものになってしまっていて、あえてまわりくどい手法を駆使して紺色を染めるのではなく、化学のチカラで簡単に染めることを発見してしまった人類は、その化学のチカラを借りている。藍染による深みに関しては、私はこれからあとに自分も藍染をやる方向にいるのでそのときに藍染がなぜいいかというのを記したい。さて、藍染で有名な日下田さんという栃木に藍染のあり方を残す建物や藍染の技術があるが、その日下田さんが結城紬の講習会でこんな言葉を残している。藍染は滅びゆく運命にあるのではないでしょうか。この言葉は要するに、苦労して作り出した色が、簡単に出せる世の中になれば、苦労して作り出した色を簡単な方法を人類は選ぶようになるので藍染は滅び、化学が残るということを示唆したものだった。私はこの言葉が本当であっても藍染のまわりくどい手法を私は選ぶ。色に関して、たとえまったく同じ化学式である化学と草木染め、という結果であってもそのなかで色に苦心しなければ、つむぎの未来はないと思うし、つむぎで生き残ることは難しい、成長もない、と思っている。草木染めははるか昔の茨城の常陸紬という原型とされるものが残されているのにその頃の時代の染色の意図するものをくまなければ、常陸紬をつくった人はがっかりしてしまうだろう。そして化学でよかったといえる人はおそらく、草木染めが消えた本当の意味や、この世界のものはなんでも理解できるものだと勘違いしている。1+1=2が化学の染色の理論、1+1=-1 , 0 , 3になるのが本当の染色においての化け学であるとすれば1+1=3になる染色を目指すのが人間ってものでないかな。

きものと着付け91保存版

 

古書現代と名をつけて200冊の染織資料を読みあさるという企画をたてて、間違えて同じ本を2冊買ってしまったり(そういう場合、織物教室の生徒さんにプレゼントしたり)、資料の写真をとってそのあと行方不明になったりした。この本もどこかにいってしまい、紹介不能となった一冊。これはとなりの小山市のブックオフで購入し、その道の求道者くらいしか1990年代の着付けに関するものは読まないのではないだろうと思うと漠然たる思いのなか購入に至ったのであるが、まったくもって魂の抜ける買い方をしたから当然のように行方不明になるのだ。ブックオフにひっそりと陳列されていた。25年の月日は何かをガラリと変えてしまっていて、本質的には同じことであっても誰しも新しい情報、最新の着付けに興味がうつり、最新の情報は興味があっても、好き好んで流行り廃りを経過した古いものをわざわざ読んだりはしないかもしれない。私は着付けに詳しくないので現在とどう違うかなどの内容は知ってもその後は活用できないし、とりわけ説明もできない。90年代の保存版、それはいまどれほど通用して保存価値があるのだろうか。ただ着付けの本をどう移り変わりや構成が違うのかなどで考察するという誰も試みないとこを記事にするとそれはそれで変わった視点が持てるかもしれない。昔の文章や構成をみて、着付けのポイントはそこから発見できたり、また最新と今も昔も変わっていなかったりしている点もあるとも考えられるし、そういう意味においてまったくこれを目を通すことが無意味、とも言い切れないのが着付け、着物の資料、ともいえることではないかと密かに感じている。画質がよくなった、みやすくなった、ポイントは同じだったとなれば着付けの世界はそれほど進化や変化をしていないということになる。

草木染め手織り紬

高橋富葉作品集 

高橋富葉 紬の道、染織の道を目指して、この道決めたらとにかく苦労をすること。これが私のメンタリティである。この資料の作者著者は親切なことに秘密をもたない。紬の世界ではどうしても作品に秘密持させたいと考えて、それがどんな技法を使ったのか、といった技術の解説は極めて少ない。であるから紬の世界を読み解くのであればこの資料は優れているといえる。作品は作者が自分で着たいと思ったものを表現してきたので、この紬の生き方がきついとか厳しいとかつらいとかそういう思いよりも、楽しいという感情が強かったという。私との紬の道とはイメージが違う。私は作品に関しては、確かに自分が作りたいものを作るという点は同じである。しかし、つらい思いや厳しい思いが楽しい感情を下回ることはない。楽しい感情は必要なことだが、作品をつくるには、厳しさやつらさをとことん考えてその先にみえた心象風景が私の作風であり、残すべき作品たちだと私は考えている。紬の道は厳しくけわしく、時には人生をゆさぶられる。その思いが紬への愛着であり、この道を進んでよかったとひととき感じれればそれでいい。前途したが、紬の資料価値は高いのでおすすめできる。私は資料を自分でつくっても、本にまとめようとかそういう感情はこれからもない。ただ、記録していったものがある程度まとまれば、この人は本気だ、って感じてそこで人と人のつながりができることがある。私は資料を記録してきて、たくさん読まれている人がすすめる本は、買いたいという意見をきいて、この世界に書評家が成立つのがわかった気もした。

日本の染織 民芸染織

暖か味と地方色の美

 

この著書の目次をみて現在の統計では生産者及び従事者がいないもの、もしくは技術が途切れてしまった地方の織物があることに気がつく。では目次を引用しよう。出羽の古代織物/科布・ぜんまい紬など 山村精 暖か味のある津軽こぎん 大林しげる 素朴な美を持つアツシ(これはアットゥシといまは呼ばれている)米村哲英 愛情こめたアイヌの織物 中江克己 信濃露の民芸紬 本吉春三郎 楽しい紬との出会い 浦沢月子(こちらは浦沢月子さんの文はあとで特別ページで紹介します) 私が着た手織紬 佐々木愛子 ふるさとの味を持つ民芸紬 中江克己 摺り染めの美 吉村貞司 泥染が生む素朴な色 遠藤靖夫 紫草の匂える染め/紫根染め 中江克己 黄八丈のふるさと 中谷寿志 黄八丈を織って六十五年 奥山おなよし 黄八丈の染めと織り/工程と技法 日野英司 黄八丈物語/歴史と風土 遠藤靖夫 民芸染織の事典 となっている。とくに黄八丈の資料が目立ち、また北海道の織物は従事者が統計上ではいなくなっていたりしている。民芸紬として上田紬などの郷愁のただよう織物を中心として出版された頃であれば、実際にその製法などにふれることもできたかもしれないが、いまはそれも難しい田舎の風景も近代化でみることができないような文章になっているので、まだ町が不便であるがゆえに残されていた郷土の織物の資料価値はある意味、珍しい封印をされているといった気が私にはある。

下記、資料はデザイン勉強資料

として特別枠とする

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原色日本植物図鑑 

北村四郎

 村田源 共著

植物をデザインのモチーフにする着物の世界では植物は染色のときも天然素材からの染色がされてきた歴史もふまえ、無関係でもないというのが染織資料として追加した理由となる。そして2015年から植物に焦点をあて、デザイン独学を開始した。その資料はこちら2015植物学Design独学 また、ひきつづき2016年もおこない、カメラを花に向け続けていると、ある種、こころがリセットされてほっとすることが多いので気分がよくなりいまだにつづけて撮影中である。それはホームページで詳細を更新で書いているのはそのためである。参考の一部資料はこちら

京都国立博物館編

日本の染織 技と美

  未読の状態で織物教室の生徒さんに借したらすごくよかったといっていた。さて比較的、出版が新しく、日本の染色の歴史が活字でよみやすく素晴らしいまとまりをみせている。ここでは、それらをつづりより、「日本における天然染料の流れ 吉岡常雄」より抜粋を行うものにする。なかでも色別の解説で緑色系が珍しい資料なためそこを抜粋する。緑色系・自然界にはいたるところに緑が存在し、どこからでも緑の染料を得ることは簡単だと思われがちであるが、それらの成分は葉緑素で、染色性をもたず、およそ天然染料で単に緑の色素を呈するものはきわめて稀である。染め色としての緑は、単独ではわずかに山藍の摺り染などに見受けられる。山藍は山野の日陰に自生する植物で、その名から藍の色素をふくむように思われるが、実際にはもたず、この生葉を布に摺りつけると緑色を呈するものの、時間たつと黄褐色に変化し、実用的なものとはいえない。一般に緑を染めるためには、藍と黄檗刈安など黄色系の染料とを染め重ねる方法が用いられる。 となっている。その他、この著書は辞典、事典としての染織資料とも活用できると思われ資料価値は高い。

日本染織辞典 

上村六郎 辻合喜代太郎 編

辻村次郎

日本の染織に関するものをできるだけ多くの題材をもって、さらには埋もれている重要な事項をも取り上げようと考えながらも、2016年は景気は最悪になる予兆で、私自身、強烈な閉鎖性と孤独にして孤立したかのような状況でしばらく染織資料とは向き合いたくはないというほどコンディションが整わないものだったため、しばらく時間を置いていた。上村六郎さんに関しては古くからの染色や色彩に関するものはいままでの功績、資料からも現代にまで通用する素晴らしき資料を残されている。古くからの伝統ある織物に関しては辻合喜代太郎さんは芭蕉布をはじめとした残されている著書は超高額で貴重な著書ばかりで現代では芸術、美術書にも位置する完成度みせている。また二人は、以前、私は本紹介を兼ねて述べたように古くから伝わる古典から染色文化を現代によみがえりみせる染織文化の研究で二人は競いあうかのように研究成果の功績を残し、ライバル関係にありつつも協力している著書が残されており、今回においても無視して資料収集するわけにはいかないという結果である。二人チカラもってして、技術の面からしてそうした技術史をつくることも可能であったと思えるが、そういう専門的な技術史ではなく、むしろ染色と人間の生活というような、いわば文化的な問題を主軸とした染色文化史に位置づけられて、刊行されている点が最大の特長といえる。文化的な考究をこころみているのは、そのあとに続く染織資料の殆どが、技術的な面から制作などの解説を行なう資料が多いことからもこの資料の目指した目的は、染織資料の内容より濃くしているためそうした研究者がごく一部しかいない背景も、現在、染織に関する研究学者が増えた要因とも見受けられる。研究すべき分野の開拓にあたっていたともいえよう。本来本紹介は興味をひくように書かれていくべきでるが、今回はそうした珍しい背景のみなぞって紹介する手法をとらせていただきたい。上村六郎氏による万葉集から染色考察するという当時画期的な着眼を一部取り上げれば、万葉集の中に登場する、つきくさ、からあい、かきつばた、はぎ、その他各種のものが草や実などの名称が登場するのである。そのなかで、クチナシ、くさぎ、あるいは、つるむらさき、といった植物の草木染めのものは、通常であれば、こすりつけて煎じたりすると緑色が出るのであるが、そうではない美しい色をみせ、そうしたことから出発して、古代における藍草の発見というようなことがはじめて可能になったとみている。万葉集にかかれ記録される前後の人間が、いろいろな草や木や実を煎じては、こすりつけて染色のような行為をしているうちに、やがて緑色ではない他の色となって、緑色にならずに藍色を帯びてくるということが分かり、その草や木などの材料を特別な色の染色のために使うようになってきたというわけである。こうした研究成果を上村六郎氏がおこなったのが、じつは昭和三年(雑誌 奈良文化)というわけである。現在では多くの草木染めの染色家がこの意見に賛同しているというわけである。それぞれ世界各国においても藍と一括りとしたものの発見、大和民族と山藍との関係、あるいはその染色のことについては昭和六年に「万葉染色考 上村六郎著」に記録されている。(ヤフオクにて私はこの著書が出てきたが競り負けてしまって手に入らなかった。)
宗廣力三展

宗廣力三

郡上紬(ぐじょうつむぎ)の人間国宝、宗廣力三(むねひろりきぞう)氏であるが、彼については私の調べた範囲については商用サイトに掲載したので、時間があればチェックしてください。情報が多くて発見しにくいとの声をいただきましたが、私個人としましてはスタイルを変更させる方向にはないことをお知らせします。この方のすごさは作品集をみれば一番わかりやすいのですが、どうすごいかというのは絣の職人としての目線からも、あまり織物やつむぎを知らない人もすごいというのはなんとなく作品をみていくとその端々の技術力の高さのようなものは垣間見れるので、それに彼の作品は展示している現状からして現代の人は大変ラッキーだと思います。話が変わりますが、地球というのは太陽がいつかなくなり宇宙がすべて闇になってしまうときがくるそうです。そうしますと、宇宙人などが光をもって文明を探っていたら、日本の郡上で宗廣さんの作品をライトアップしたら宇宙人も人間はここまでやれた生物なのかと思うという感じが致します。今年はなんといってもブラジルのリオでオリンピックがあってサッカー男子ブラジル代表が初の金メダル獲得ということで代表選手のネイマールが決勝戦最後のキッカーとなり、決めて金メダル獲得しブラジルがいままで優勝していないことにも驚いたものです。さて話を戻しますと、宗廣氏の絣についてですが、これはさらに資料集と解説をあとで私なりの解釈としてページがつくれればいいと思っていますが2016年は不景気という背景で、資料集の資金が工面するのが最も困難で数冊を増やしただけでした。商用サイトからブログへ一時期に掲載を始めたのはホームページの契約会社を変更したためです。更新が8月の末から11月末までできないもどかしい日々でした。そしてオリンピックですが次の開催が東京というのですから、現代の日本人は幸せなものです。

着物の織りと染めがわかる事典

滝沢静江 この本のはじめに、をよんでみてなるほどそうかもしれないと思ったくだりを引用してみましょう。「きものは、儀式や行事、日常生活の中から必要に応じて生まれ、長い年月をかけて育まれてきたものです。その時々の場で呼びやすい名で呼ばれ、それが習慣づけられて伝わってきたため、学問的に体系づけられたり整理されてこなかったために、さまざまな呼び方が生まれたのでしょう。」私のみじかな結城紬という地名がくっついた名前の紬と鹿児島の大島紬などもそうですが、たとえばこの二つは紬で絣の名称も呼び方が同じでもあて字になる漢字が少し異なることがある。絣のよこそうという、よこ絣糸のみで絣を織ったものをそう絣のことをよぶが結城紬は「緯総」とよび、大島紬は「横双」といったりするのでどっちが正しいのかわからなかったときがあった。それでこの説明で納得してしまったのである。染めと織りの産地の地図などはわかりやすくイメージしやすい。それからその織物の解説と着こなしのアドバイスがかいてあり、どうしたらいいかわからない場合はそれをよみ、上級者を目指していくつくりとなっているが基本的には、きものをはじめて着る人がはじめに勉強しておきたいことが中心のつくりで、その織物に興味があれば産地に行って見学を重ねるなどの情報あつめをして研究しそのうえできものを買うようにすればそれほど道からそれてしまうことはないのではないかと私は思う。きものは文化の中で磨かれていったりしたものであり、蓄積されているものが結構あって、それを理解しようとすれば10年20年の月日もあっというまである。

日本美術大系(全十一巻)

第五回配本第八巻 染織

 

著書は8つの階層別に従って項目を分けている。

1上代の染織

2公家の染織

3外来の染織

4武家の染織

5小袖の染織

6芸能の染織

7庶民の染織

8近代の染織 である。

なかでも7の庶民の染織と8の近代の染織がもっともなじみやすいものであったため、7の庶民の染織をとりあげる。いつの時代にも庶民がいて、その庶民の知恵や工夫によって発展した染織品があって、個性に富むものも庶民の染織であったりする。たしかに上流階級の染織にしかない華やかなものもあるのも確かで、沖縄の紅型も、王様へ上納し、色もその国の王様しか着られない色などや模様もあってそれはそれで面白い。では庶民の染織をとりあげる。庶民の染織が主材料が絹以外の雑繊維、主として麻、近世以後は木綿に依存したものであるという結論があらかじめ予想されていたといわなければならない。この事は、しかし、庶民の染織材料がすべての時代を通じてことごとく雑繊維のみであったというわけではもちろんない。近世に入って庶民、ことに商工町人階級が経済的に富裕化してからは、庶民といえども必ずしも麻や木綿ばかりを着ていたわけではない。それどころか中には、封建社会の位地づけでは士農工商の再下級にある商人でありながら、大名も及ばぬような豪勢なくらしをしていた町人貴族ともいうべき豪商もある。たとえば染織資料で藍染が盛んな地域にはそうした豪商についての記録の資料も少なくない。もしかしたら染織が盛んであった地域にはやはりなんらかなる形で豪商が出現し富を集めやすかった環境があったといえるのではないか。過去のいずれの時代でも、庶民階級というのは、公家にも武家にも属さない階級で、社会的には、それよりも低い地位にあり、比較的少い経済力をもって、みずから生産的な仕事、もしくはそれに準ずる様な生業を営んで生活していた人々の階層である。肉体労働が基本にあるために、どうしても丈夫で消耗に堪え、しかも安価な、自家生産的な衣料が必要となってくる。かくして中世以前の一般庶民の衣料というものは、実際には何一つ実物資料は残っていないのだが、おそらくそのほとんどが布、すなわち麻もしくはこれに類する絹以外の雑繊維であったと考えられる。公家や武家につかえた関係にあった非公武階級の人々の着物、それは今日、正倉院にも身分の低い人々のおしきせであった麻の浄衣が残っているし、また公武階級に召使われた下級者の衣料としては、白張や退紅というような麻製の召具装束があり、大名や貴人の駕籠を担った陸尺の用いた麻や木綿の陸尺看板といったものが残っている。これらは公服に類するものであり、純粋な庶民の服装ではなく、むしろ広い意味での貴族、公家、または武家の服装に入るべきであろうが少なくても材料の上では庶民性というものを強く表しているものといえる。

染織標本集 基礎篇  長沼静 監修 染織標本集の基礎篇では、この長沼静(ながぬましず)さんの生徒さんとおぼしき生徒さんの名前が最後に書き込まれている。この教材シリーズは3000円前後だったようだ。キモノの教育という意味では基礎をしっかりみにつけるというのは他の事柄を考えてもみにつけて当然、完璧にしていればそれなりに応用力もついてくるものだと思う。この基礎教材ではTwitterで紹介する程度の短い文章で実布をはりつけているが、その単純明快さが素晴らしいと思う。私にしてみれば、文章をよみとるちからが不安な生徒さんだとこのさきが思いやられてしまい、基礎を学ぶどころの話の前に挫折もおこりうるからその点は気配りしたといえる。目次に一覧がありそれを紹介して終わろう。これは知らないという点もTwitterで情報収集するくらいの手軽さがまさにキモノにおいての栄養補給のベストな状態といえる。縮緬、紋綸子、羽二重、塩瀬羽二重、紅絹、御召、紬、紗、絽、上布、久留米絣、阿波しじら、唐桟、琉球紬、米琉、黄八丈、秋田八丈、大島、村山大島、斜子織、博多織、仙台平、型友禅、江戸小紋、紅型、ろうけつ染、匹田絞り、有松絞り、中形となっている。この本紹介は以上である。最近、昼夜逆転ぎみであるが、私はコンビニ夜勤をしていたころ、どうしても体調が悪いとき、しじみの味噌汁をのんでいた。リポビタンやRAIJINやレッドブルなどのエナジードリンクでもダメなときに摂取していた。この話題で、しじみが好きな方が、このしじみの裏切ることない安定感の味を<しじみは攻撃してこない。>というので納得してしまった。その人によって、最後の切り札の食材は違うかもしれない。私はしじみである。余談も以上である。

日本染織文様集1

  社寺、個人の収集家の方々の深い理解と協力がなければ、到底、日本染織文様集シリーズを完成させることは不可能であったという。日本の染織文様の性格と特色を明らかにするためこうした資料をいかに分類して編集する、それは従来この面における研究が皆無に等しいため、資料収集とともに困難な課題であったというが、幾多の検討の結果、日本の染織文様を原則的に、自由構成、幾何構成という繊維意匠の本質に即して把握し、なお別に特殊なものとして琉球、アイヌの染織品ならびに日本染織文様の発展、あるいはその形成上重大な地位をもつ外来染織品という、大観の方針を決定したという。このシリーズは日本染織品の紹介において、画期的な意義をもつものといって過言ではないと編集者はいう。本書の刊行が、広く日本の繊維意匠に対する認識と理解への一助となり、今後真に日本的な創造精神の発展へつながれば幸いとのことである。私はこのシリーズを高額で落札し収集したが全3巻を資料の完成とともに結城図書館への寄贈を視野に入れている。昭和30年代に刊行されている、それは結城紬が国の重要無形文化財の指定をうけるなど、文化的な法律を、文化的価値を、国が整え始めている時代のあたりのもので、その姿勢がよく出ている良書といえ、資料内容もカラー写真の撮影がまだ充分自由にとれる環境下にないもとでつくられているため、苦労は計り知れないものがある。

日本染織文様集2

  財団法人日本繊維意匠センターの設立当初から長期事業として計画していたシリーズ2作目。第一巻は自由構成を主とした文様において、日本人特有の自然観照の精神の発露とし、絵文様的なまでに発展を遂げた染織文様の世界を眺めてきたが、2作目は、従来紹介されることの少なかった幾何学構成文様において、わが国の染織文様がどのような発展を示しているかを把握するには欠かせない資料編集といえる。幾何学文様(きかがくもんよう)は、世界の国々において、自然発生的にみられるもの、いってみれば日本の、日本人だけのものというよりは、人間であれば、共通のものといえると私は思う。そういう意味では国特有をそこから見出すのは難しいものともいえよう。しかしながら、センターは、そこに古くから文化の交流につれて次第に普遍的なものをもつに至っているという。自然を愛し、優雅を求める日本人の感性は、純粋幾何図形のもつ冷厳非情の性格に満足することなく、図形的にも色彩的にも、やわらかい暖か味を求め、またその用い方にも種々変化 に富んだ、我が国独自の世界を発展させたものという。そうしてさらに、別の本や絣の本を再読してみると、日本の絣の始まりに沖縄の琉球絣を中心としたものにも、世界を通してみた場合、それが大きな視野で見たときに日本特有となっている幾何文様、幾何学を感じることができるといえるものがある。中国などの日本に近い国から伝わって、それが日本特有の文様に変化していったものがあり、国独特ものを幾何文様から確認できるといえる。引き続き、日本特有の幾何を調べて、まとめ、中間資料に公開していこう。

日本染織文様集3

  昭和30年以来、6年の長期を費して編集を続けてきた日本染織文様集3、第三作目。第三作はアイヌなどの北海道の昔から伝わる独自の染織文様、沖縄の琉球王国の染織文様、それから外来染織品の文様の刊行が主になっている。激しい国際的な文化交流のなかに、常に伝統と現代、地域性と世界性の問題に対しているものであり、我が国の歴史は、古来常にこの問題に直面しながら、世界に独自の文化を築きあげてきたのであり、我が国の染織文化は、飛鳥奈良時代に続く平安時代において流麗優雅な日本美を創造し、江戸時代において、三百年の鎖国の間に、こんにちにみる近世の日本美を確立してきたのであるが、そこには目に触れ身に感ずるものすべてを消化し発展させていった、優れた芸術感覚と不断の創造精神の流れを感じることができる資料は、おおくの染織資料から読み解くことが可能なまでの環境が現代には、整えられつつある。このシリーズはそうした染織資料の大先輩といまではいえよう。以後、新しい国際環境のなかにあって、すでに百年以上の消化期ともいうべきものを過ごしてきたが、傍観的な伝統美の自賛や単なる郷愁をもってしては、新しい日本的なものを創造していくことは不可能であり、飛躍的な科学の発展のもとに、すべてをひとつの国際的な視野のなかに融合させ、共通にして総合的な国際文化の確立を求め、シリーズは過去一千年にわたる長い染織文化の伝統とその精神的基盤を探求することによって今後の展開のあり方を考えている。それは昭和の偉人に感謝しながらも、常に念頭に置きそのうえで現代織物に高度な技術をよみとき活用し、さらなる発展を考えなければならない時期になっている。そういう意味では私は出発地点にすらたっておらず、まだまだこれからの身なのだということであろう。
日本の優れた染織品があることは世界に知られるようになっているが、昭和30年のこのシリーズ刊行前は、世界の認知度は極めて知られていないものであったといえる。日本の文化的な染織品は、その他の芸術的な陶芸品や美術品と比べると知られていないも同然に近いのだったという。染織文様の全貌が明らかになって、認識と理解をより深める環境が昭和になって完成されたといいかえることもでき、昭和の中頃から世界に少しづつ知られていったともいえる。現在では日本の文化を愛好する海外の一般人が東京を観光している姿は日常的な光景となっているが、日本の映画をみて、日本の風景があまりにも美しいので一生に一度は自分のめでみて観光してみたいと思われる国になっているという。

日本染織芸術叢書 紋織3

北村哲郎 (シリーズ全10巻) 応仁元年正月早々、京都は主戦場として火蓋切られた応仁の乱は、以後11年長きにわたって全国を戦乱の渦に巻き込む形となった。その結果は足利幕府の支配体制を根底からつき崩し、戦国時代をむかえることになる。応仁の乱は、伝産センター、青山スクエアさんの伝統工芸士の試験問題に重要ポイントとして応仁の乱をあげている。それもそのはずで政治史上、中世から近世への大きな変革のあった時点だからである。それは染織史でも中世と近世の染織の二つをわけてしまうほどの大きな分岐点であったからである。高度な技術を要する紋織物類の生産全く不可能にし、紋羅のごときは以後、製織不能の有様としてしまったのが応仁の乱であり、また応仁の乱のあとに、これを契機に、唐織や金襴、緞子、縮緬などの各種の新規な織物の生産が、開始されてわが国の織物の技術や意匠は新たな発展を遂げるに至ったのである。中世と近世では著しい相違がみられ、とくに紋織物においては、全くその様相を異にしているのである。紋織物は江戸時代に一層の発展をみせ、わが国の優れた近世紋織を形成したのである。近世の紋織物のまとめは本書にゆだねるが、この資料シリーズが3冊におよんでまとめられているが、あくまで研究は甚だ意義あるものと考える、しかしその調査、研究実情は極めて不充分であり、今後にまつところが多いという。まとめられた資料の一部を引用し、今後の染織家の参考残す 福本誠「筑前志」・竹内理三編「福岡県の歴史」・福岡県史料第6輯・「糸綢之路一漢唐織物」1972年中国文物出版社  
 
なを 紋織1は古書現代3へ掲載する(2ndで枠外 100冊をうわまわったため)

日本染織芸術叢書 紋

北村哲郎 (シリーズ全10巻)

紋は友禅や小紋、プリントなどの平面的な染色とは違い、その技法上の必然的な結果として、布面に生じた凸凹や縮皺を第一の特色としている染物である。こうした立体的な効果を表した染色品は、現在でもエバグレーズのように樹脂加工によるもの以外にはなく、染物の中では特種なものである。しかもこの紋は豪華な振袖や訪問着、絵羽羽織あるいはしゃれた浴衣をはじめとして、帯、帯揚げ、長襦袢、半襟、兵児帯、風呂敷などいろいろなものに広く利用され、愛好されているところからユニークな日本の染色工芸の一つとされているのである。事実日本程絞染の盛んな技法をもっている国は、他にないといっていい。しかし、この絞の技術は日本でこそ極めて高度な変化に富んだ発達を遂げたが、その布の一部を括ることによって防染をするという基本的な技法は甚だ素朴な考え方に基づくものであって、決してわが国独自のものではなく、他の国でも行われてきたし、現にわが国同様その仕事のなされているところがある。たとえば、中央アジアのアスターナの古墳からは小菱文様を鹿子絞で染出した絹の断片二枚が出土しており、それが6世紀頃の中国製であることは疑いないし、また南米ペルー古代文化のチャンカイ遺跡などからも10〜15世紀の製作にかかる幾何学的な格子などの文様を鹿子絞とした木綿や毛織物のベールなど、多数の遺品の出土をみているのであって、これらの国々において絞染が行われてきたことは明らかである。更にインドにあっては、従来東洋の絞染の根元地と言われてきたように、古い歴史を有しており、現在でも北西部ラジャスタン州のジョドプル、アジメール、ジャイプル、パリ、アルワル、中西部マドヤプラデシ州のインドールなどはその産地として知られているし、「バンダーナ」と呼ばれる鹿子や巻上、縫締などの技法による美しい絹ショールは、特に新婚の婦人に愛用されるものとして有名である。また西アフリカのナイジェリア、ダオメー、ガーナ地域のいくつかの種族間でも、現にこの仕事がなされていて、根巻絞あるいは三浦絞とほとんど変わらないものがつくられている。特にナイジェリアのアベアクタではその技術が発達していて、ヨルバ族ではこれらを「アディレ」と呼んでいる。このように絞の技術は世界の各地に分布しているのであるが、基本的には簡単なものであるだけに、おそらく自然発生的に世界で始まったものと考えられる。ただ他国におけるその後の発展はそれ程著しいものではなかったように思われるのに、独りわが国ではめざましい技術の発達、発展を遂げ、染色工芸の一つとして独自の領域を確立したのである。これは日本の絞は最も優れた、多様な変化を有する独特の染色工芸として、世界に誇り得るものなのである。

日本染織芸術叢書 縞

山辺知行 (シリーズ全10巻) 日本の縞その特性、縞が織物の組織に最も自然に順応して生まれた模様織りであること、したがってその起原は非常に古く、しかもその後染織技術が進んでくると、それにしたがってあらゆる技術の分野においてこれがおこなわれてきたこと、そしてそれは一方に色と形に複雑多様をきわめた染織文様の発達する反面、つねにわれわれの素朴なものに対する郷愁のよりどころのようになって、今日まで続いている。そしてその縞にもこれを構成する直線の太細、広狭、配色の組み合わせによって千差万別があり、さらにこれに他の文様が加わって加飾されてくると、そこに数かぎりない多様の縞柄が生まれ、これが一見最も素朴なものに見える縞模様に各国、各地方の特長をあらわし、また一地域のものでも、時に各時代によるいちじるしい変化を作り出していく。今ここで日本の縞がこの地理的にも風土的にもまた文化の上でも特殊な性格をもった一地域の中で如何に生まれ育ってきたかを考察するに当たって、近世とそれ以前とで、その間に著しい違いのあることを考えてみなくてはならない。そこにはもちろん、現存する実物資料の数の上での甚だしい(はなはだしい)違いもあることではあるが、それを充分考慮に入れて見ても、日本人がその衣生活において縞というものに対して持った近親度において、近世はそれ以前とは比較にならないくらいの強さを持っていたといっていいのだろう。縞の名称にしても、近世前まではほとんど見るべきものがないが近世、特に江戸時代中期以後の縞の名称の豊富なことは、たとえば縞の構成による、千筋、万筋、微塵縞、三筋縞、子持縞、やたら縞、形や色を擬物化した障子格子、天井格子、棒縞、碁盤縞、味噌こし縞、鰹縞、ごぼう縞、地名から来るサントメ縞、ベンガラ縞、セーラス縞、八丈縞、上田縞、越後縞、はては芸術や能に関係した翁格子、童子格子、弁慶縞、金春縞、菊五郎格子、璃寛縞などと、一々枚挙にとまがない。これはいかに縞柄というものが豊富になってこれを区別するのに細かい名称がこれを作る側にも、また使う側においても必要になってきたかということを示しているといっていいであろう。日本の縞というものを考えてみると、それは原型となる縞柄があって、それが染織技術の発展に伴って伝統的に多少変化しつつ伝わってきたというような生やさしいものでなく、その重点は近世以後に圧縮集約されていてそれ以前はここに至るまでのきわめてゆるやかな準備期であったといいい得るのではないだろうか。

日本染織芸術叢書 絣

山辺知行 (シリーズ全10巻) 日本は現在世界一の絣王国だといわれている。たしかにその生産量やその技術の多様さ、さらにその多様、多量の生産をこなして、これが人々の衣生活に使われている点からいえば、おそらく世界にその比を見ない、まさに世界一の名に恥じないものであろう。この日本の絣織というものが、世界の絣織の中でどのような位置にあり、どのような特長を持っているものか、端的にいえば日本の絣の世界一といわれる基盤を支えているものは一体なんなのか、ということを、主としてその技術、特に絣織の中で最も中心となす絣糸作りの手法という点から検討すると問題が大きすぎて徒らに不完全な技法記述の羅列に終わってしまう。一向要を得ぬことになってしまったが技術的に日本の絣織というものを分解してみると大体次のことがいえるのではないかということである。(私自身、絣括りや絣ロジックという絣ページをつくっているがどう説明していいかわからない。というのも生産するさいに一から十を説明しても、生産の流れをおうものであって一向に解説できないという壁にあたってしまったのである。)さて、第一に、世界的に見ると絣の歴史というものは、紀元前にまでさかのぼり、古いものである。日本の染織は、その主たる技術的な発展、というよりも絣織自体すらが近世以後、特に江戸時代後期以後に押しつめられていて、それ以前には技術的に大した伝統というものを持っていなかったということが考えられる、というとんでもない事実があるように思われる。日本の染織史に飛鳥奈良時代の現存資料として、其の多彩な経絣の姿を残している広東錦は、今日尚、其の産地も謎につつまれた外来品であり、それから2世紀余りを経た延喜式にも何の記載もなく、当時その技術はおそらく我が国には根をおろさなかったのであろうと考えられる。その後の唐組のだんも、中世末に最も古い遺品を残す締切の段にしても、絣糸を用いてはいるが、近世の模様絣としては異質のものといわざるを得ない。ただ段の縞切に経緯絣の祖形である経緯の糸合わせという技術の用いられていることが問題として残るけれども。いづれにしても今日われわれが考えるような絣織の伝統は、各地の伝統的な創始年代を考えても、たかが2世紀から3世紀にすぎないというものである。第二に、この短い日本の絣織の歴史の中でその技術が目ざましく発展するのは、またその後半部である、江戸時代末期から明治、大正の間につめられてしまうので、いわば非常に短い期間のあいだに、様々ないわゆる日本独特な技術が発達したことになる。そしてそれはちょうど明治の機械文明と資本主義経済をバックにして量産と合理性とに結びついていったので、絣の原態である<括り>を離れたものがあらわれ、遂には圧力防染の世界からも脱け出した、摺り(スリコミ、直接染色法)やプリントによる絣糸作りがおこなわれ、これが又逆に、圧力防染の機締めや板締め<括り>の領域にまで、部分的な色つけや抜染等の形でどんどん取り入れられて、そのもとの形を全く変貌させてしまうようなものさえ現れているのが現在の姿であろう。今日世界の先進国といわれる国々では絣織というものはほとんどおこなわれていない。ヨーロッパでは半ば観光的な土産品化してはいるが、地中海のマジョルカ島と北欧のフィンランドにしか残ってないとまでいわれている。これはおそらく伝統的な手括りの絣織を指して言っているものであろうがいずれにしても非常に少なくなっているのは明らかである。絣織がおこなわれている大体において従来、文化的には中央を離れた南の島々やアジア、中南アメリカなどの僻地とも言える国々に多い。そして其処では材料も、技術も文様もすべてが昔のままの形を伝えている。ただ、ここ半世紀ほどの間に、染料や繊維などに輸入品が用いられ始めてから、素朴な原地の人々は、次第に骨の折れる手つむぎの糸づくりから安易な機械製の糸にのりかえてしまい、又化学染料のもつ華やかな多彩さに惹かれて、一部では昔ながらの姿が次第に失われつつある傾向がみられる。日本の場合は技術的な伝統も浅いし、特に絣の文様といったものに非常に古い時代からの伝統や原始的な信仰の表現があるわけがない。日本の絣織の伝統の浅さを知らない外国の研究者は、たとえば井桁絣は、水に対する日本人の原始的な信仰心をあらわしたものであろうか、米の字の文様を日本人の主食に対する感謝の気持ちだろうかと考えるようだが、これらは唯織りの組織から表しやすい形が出たものであえて原始時代へ遡るものではない。もちろん絵絣などには数かぎりない瑞祥模様や古代の物語の伝説などに取材したものがある。これはなにも絣だけの模様でもなんでもない、またこうした技術によらない沖縄の絣それも今日ではごく少ないがそこにはこうした形象表出上の自由さがないのでたとえば精霊である鳥や蝶の模様や水、雲などの形が始めありし如くに伝承されているものがみられる。日本の絣はその点で歴史が若いだけにやかましい伝統の枠もなく、はじめから非常に自由なところがあったということができるだろう。貴族的な長い伝統を背負った織技にしても文様にしても一定の範囲からはみ出すことは容易なことではない。最も庶民的な染料である藍で染め上げたようなものが多かったから技術や文様にもこれといって制約もない。各地の絣の始祖とか創始者といわれる人やこれに続く功労者と目される人たちは殆ど例外なしに新技術の工夫発明、開発を熱心に試みている。こうした自由さがあったからこそ上述したような短い期間で目ざましい発展がおこなわれたともいいかえられる。自分たちでつくるものはよりよくしようと努力する。井上伝、鍵谷カナといった江戸時代に各地の絣織を創始したといわれる人々は、極めて素朴な技術を一つの完成形にまでまとめあげた人たちだと思われるし、またかならずしもそうした創始的な人物がいなくても自然と伝統のねは育てられていったのであろう。かくして各産地特有の繊維素材を用い、技術にも模様にも其処の特長を生かした日本の絣の伝統がはぐくまれていった。絣というのは、実は思ったより浅い歴史の上に、しかも短期間に異常な発展をとげたものであることを考えて、そのはじめに先人たちが骨をおってつくりあげた各地の特質をもった絣織の初心と伝統を、その多様な技術の中でももう一度反省してみるべきではないだろうか。

日本染織芸術叢書 綟

北村哲郎(シリーズ全10巻) 現在うすものと言えば夏衣裳を意味しているのが普通である。この夏衣裳の条件の第一は申すまでもなく、涼しさにあるが、それには着た上での涼しさと、見た目の涼しさがある。着心地としての涼しさは専ら生地、つまり材質の織組織にあり、視覚的な涼しさは織の風趣や色、文様にある。盛夏に帷子が着られるのは、麻の冷ややかな感触、肌に添わないある程度の硬さと張りのある地風、水きりの良さというような材質上の特色によっているし、縮やしじらは皺(しぼ)を作る糸の扱いや組織によって、布が肌に付きにくいという特長に基いてのことである。また紗や絽は、組織の上から隙間のある地風となっているので、薄地で通気性がよく、涼しいわけだが、それは同時に透けて見えるという点で視覚的に涼味も感じさせる。一般に紺や浅葱など寒色系の色合いや白や黒、灰の如き無彩色の色相が主調となり、流水や秋草等が文様とされるのも、みな視覚上のことである。このように、衣服の上での涼味というのは、材質、地風にもよるが、見た目の上での心理が大変大きな要素となっているのも事実である。一方、薄地であり、隙間のある生地は、涼味だけでなく、軽快で優美な趣も感じさせる。西暦紀元前の中国漢代において、高度な技術を要する羅が、多くの彩糸を用いた華麗な錦に先行して織られていることは、うすものの文羅の美麗さに魅せられたからに他ならないと言えるだろう。数年前日本でも大きな話題となった中国の長沙で発掘された馬王堆一号漢墓出土の彩絵羅の綿入の袍はそれを実証しているといえよう。綿入の袍であるから当然冬物であるのに、その表地が文羅であることは、羅を実用的な生地としてではなく、明らかに薄く透けた美しいうすものとして扱っていることを如実に示していると言ってよいであろう。こうしたうすものに対する考え方はわが国にもあったのである。「紗の狩衣は四季通用して用いらる」と中世の文献にみえているように、色目や文様の自由な狩衣などは紋紗や顕紋紗に裏を付けて夏冬共に用いられたのであろう。また紗の直垂が冬の最中に着用された例もある。近年の紋紗やレースのおしゃれ羽織も、伝統をつなぐものと言えないこともないが、海洋性気候の四季のはっきりしている日本では、夏の衣裳が占める割合は、極めて大きいので、うすものは主として夏の料とされて特色のある発達をみてきたのである。

日本染織芸術叢書 友禅

今永清士 (シリーズ全10巻) 江戸時代の前期(17世紀)、大体慶長末から元禄にかけての頃、工芸の世界に一つの注目すべき現象を認めることができると著者はいう。染織、陶磁、漆工、金工とそれぞれ用途や材質、技術の上で独立性を主張しているものの表出の面ではこれを超越したある意図、共通した蓋然性の存在が設定され得るように思われる。染織における友禅染に代表される多色な模様染と陶磁における仁清、柿右衛門、九谷などの上絵付による色絵磁器との間に創作の契機の面で何か潜在的、内的な要求の附会が感じされるように思う(人間国宝シリーズにもそれらは確認できる)宮崎友禅斎が絵画の手法を染物に応用したという、また柿右衛門が苦心惨憺の末、赤絵の秘法を完成したというエピソード(最近ではドイツの高級メーカー、マイセンが柿右衛門の赤に美をみいだし真似てスタートするなど世界的な動きがった。)、その背景には単にこういった個人の才覚ではすまされない普遍的な時代の息吹きを想定しないわけにはいかない。友禅染にしても、柿右衛門の赤絵にしても、カラフルで対象の自由な抽出、即ち色彩における絵画性の強調ということがその根底に横たわっているといえる。歴史事実の解釈とか、歴史材料からその材料のよりどころとなる非材料的な前提内容を推理すること、つまりわれわれのもつ前提ではどうしても理解できないような不可知な暗黒の世界に突入していく認識活動である。「歴史は出来事が実際に如何なるものであったかということの生写しでしかない。これはかって生きた現実を改造したものにすぎない」というメンジルの言葉は歴史的真理と歴史的真実とは一致しないことを意味しているのだが、それを洞察する力の養成にはこの認識活動が不可欠に思われる。この著書の意図するところは友禅染の生成の必然性を桃山から江戸初期への様式史的発展の中に意義づけ、その技術の存在理由を色彩主義と絵画性の強調ということによって見出そうとするものである。また以前、日本の染織友禅に記したように、友禅は自由奔放なまでの技術の中にいきるすぐれた染織であることはいうまでもない事実であろう。

日本染織芸術叢書 刺繍

山本らく (シリーズ全10巻) 刺繍にこめるものはいろいろあるかもしれない。思いもそのひとつであったり願いであったりする。こめるものは刺繍をする前より刺繍をした後のほうがよいということと美意識を表現し、さらにはこめられた暗号をよむなどのロマンがみえかくれしているというのが私の意見である。刺繍というのは通常裂地、必ずしも織ったものとは限らないというのだ。編物、組物、時には革や紙の上に行われることもあるという。それらの上へ針と糸で模様を繍って加飾すること、又そうして作られたものをいう。裂地へ糸と針で細工をするのはもちろん刺繍だけではない。恐らく刺繍というもののできるもとになったものに「縫う」という技術があった筈である。縫うというのは通常二枚以上の裂を一つにつなげる操作である。今裂をヨコにつないで行く場合と、上下に重ねて綴じて行く場合とがある。前者を縫う、縫い合わすというのに対して後者は刺す、刺し綴じるという。「縫う」「刺す」という言葉のは、裂の上に針で糸を通してつけるには違いないが、それによって裂を装飾するというよりも、 裂そのものを加工するという実用的なひびきが感ぜられる。然し縫うと刺すとでは前者がつとめて縫目、つまり糸を表へ出さないようにするのに対して、後者はその技術的な性質からどうしても刺した糸が裂の表面へ現われることが多い。そこでこれが次第に装飾化していく傾向を生じてくる。雑巾に麻の葉を刺したり、刺子だとか遠山袈裟といったように裂地をとじつけること自身が、実用のみでなくアプリケ風な装飾的なものになり、更に細い刺しの針目自体が装飾として働くこともあり得る。又刺しは必ずしもキルティングの様に二枚以上の裂を刺し綴じることばかりではなくなり、こぎんや菱刺しのように裂に厚味をつけたり補強したりすることから、しまいにはこれが絽刺し、紗刺しというような純粋な装飾的なものにまで発展していく。今日使っている刺繍という言葉は、それほど古くから用いられていたものではなく、多分外国語のエムブロイデリー(Embroidery)という言葉に対して新しく作られたものであろう。エムブロイデリーというのは一つ一つ縫目(stitch)が集 って模様を表したもの、つまり我が縫いに当る。刺しというのは、元来、串刺しなどというごとく、原則としてはいわゆる串縫いで縫い進めていくものであるから、縫いと同じく先へ進む一方で後へ戻ることがない。そしてもともとが裂地を刺し綴じる針目が装飾化したものであるから、その一針づつがきちんと同じ幅で揃わなければならない。このことから刺しものでは裂の織目を拾って刺していくということが多く行われている。こぎんや菱刺しから絽刺し、紗刺しに至るまで精巧なものになるほど裂の織り目を拾うという数理性といったものがついてまわる。こうした刺しものに対して繍いものというのは、はじめから実用的な裂地の加工などということとは全く関係なく、ただある形象を種々の色の糸で繍って装飾するためのものであるから、裂地というものは単に糸を留める台として役割しかない。これをタテに使おうがヨコに使おうが斜めに走ろうが先へ進もうが後へ戻ろうがまったく自由である。もちろんそうはいっても刺繍の素材である裂の材質、特に糸の繊維の種類、絹、毛、植 物性繊維などその加工方法の相違、太細、撚りの強弱などによっておのずから繍法というものも決まってこようし、或る地方、或る時代によっては或る程度の制約もありきまりも出来てくる。けれども元来は全く自由であるべき筈である。即ちもともとが裂一枚に針一本、糸一筋以外には何の仕掛けもない仕事であるから、作業上の制約などあろう筈がないので、他の模様加工の方法である織りや染めに対しても、色と形の上の自由な点では問題にならない。仕事が針の一針づつの動きに頼るのであるから制作過程多くの時間と労力を必要とすることはまぬがれられない。刺繍を織りと染めによる模様加工の方法と比較してみると、まず織りに対しては、色数に対する制約が全くない。織物で刺繍と同じように色の自由な変化と種類持っているのは、タペストリー(綴れ織り)か唐織系の繍取り織又はカーペット以外にはないであろう。次に形象的にも織物のように織機というものの制約がないのだから、文様の反覆の必要もないし形の大きさにも関わりがない。即ち刺繍は織物が染物に 対して持っている制約から完全に解放されているといっていい。染物も元来は、形や色のついては多くの制約を持っていたのであるが、友禅染め系統の塗り染めや、プリント染めの発達によって一応形と色に対する制約は解消している。織り模様染め模様を比較してみると、いわゆる先染めと後染めの違い、色糸の立体的な重なりと、単なる裂地の上での染め色の交錯による文様表現の重厚さの相違は、覆うべくもない。染模様の薄く軽い味はいわばペラペラで、織模様のどっしりとした感触には及ぶべくもない。ところが刺繍はその厚く重い質量感では、いかなる織物にも対抗し得るものを持っている。結局、刺繍は織りと染めの間にあって、少なくとも形と色の表現に関してはその何れもの持っている性格を独り占めしているといっていい。

日本染織芸術叢書 型染

神谷榮子 (シリーズ全10巻) 結城紬をやっておりますと糸を染める場合ですので布地を染める場合の型染という分野は少々、その気になって勉強できない部分はありますが、その布地を染める場合について書いていきましょう。染とは織りあがった布地を染料で処理して加色することであり、つまり色をつけるのが第一の目的である。しかしこれは、織というものが糸を組織して布をつくるというのと同じことであって「如何に色を着けるか」ということが問題にされないとならない。ここに無地染と模様染の二つ世界が生まれる。無地染は色だけの問題である。模様染となると表現するために種々の模様染めの技術が生まれる。大きく分けると彩色法は布地に直接色を加えてその原理は顔料によって彩色を行う絵画の制作過程と同じである。(結城紬でいう直接染色法、スリコミも彩色法である。)プリントもこれに相当する。防染法は布地に防染施し染めの過程における染料の浸透しない場をつくり、これによって形象をあらわす方法である。(結城紬でいう絣括りも防染法である。)この防染法は圧力によって防染する絞り、板締めなどがある。それから物質で覆って染料の浸透を防ぐ方法でバチックや糊を用いる友禅染・小紋・中形がこれにあたる。切った紙や木の葉を置いたり貼りつけたりして色を吹きつけたり刷り込むものもこの方法である。この二つは友禅染の色挿しのように互に併用して行われることもある。さて問題は型染はどちらなのかということだが神谷榮子さんによれば防染法にあたるとしている。詳しく知りたい場合はこの本を読むしかない。もうひとつつけくわえれば彩色法、防染法、地染(浸染・引染の二種)と大きくは三つに模様染めは分類されている。

日本染織芸術叢書 紋織2

西村兵部 (シリーズ全10巻)

原史時代の紋織・わが国古代の織物については、縄文晩期における布目文土器の出土以後、弥生時代においては中部(静岡・野呂)、近畿(奈良・唐古)、九州(大分・安国寺)などから紡織機が発見されていて、織技のさまを知らしめるが、なお当時においては麻布生産が主であった。絹については古墳時代にはいらなければその遺品は見られないが、それにしても平絹であって、紋織みとめ得るものはごくわずかである。いま『魏志倭人伝』によって古代日本の織物事情をみるに、当時わが国においては、「禾稻、紵麻、蠶桑緝績。出細紵、縑綿。其地無牛馬、「禾稲、紵麻をうえ、蚕桑緝績し、細紵、縑綿を出だ」していて麻布と絹帛が生産されており、それは朱崖(華南・海南島)と同様であるともいっている。また麻布のうちには班布があり、絹には帛布等があった。班布は『太平御覧』820所引の「南洲異物志」の文から察すれば、模様を具体的に把握しがたいものであるというから、絣の一種と思われる。ただ南方の糸が木綿であり、わが国は麻である点だけがわかっている。当時わが国において、錦織のための操作を要する複雑な織機があったともおもわれないから、これも地機を用いつつも、綜絖の数をふやして織られたのであろう。異文雑錦もまた倭錦と同様のものとかんがえられる。3世紀のわが国においては、固有の技法によって紋織も行われていたことを知るのである。

人間国宝 佐々木苑子

絵絣紬に生きる

  この人間国宝に位置する染織家に共通している点は、制作意欲を最後まで失わないものといえる。では佐々木さんとはどんな方なのか、ということで本書からわかりやすく順をおって説明し、あとは読者の判断にゆだねるのがベストであると思う。佐々木苑子は1963年に桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン学科を卒業する。デザインの勉強をもとに織物の図案を描き、織元に制作を依頼していたが、イメージ通りに仕上がってこないことを深く思い知る。ここがまず、生産者としての第一の開眼といえる。自分のイメージを表現するために、自分で糸を染め、織ることを決意して織物の道を志すこととなった。染織研究家の佐々木愛子を母に持つ佐々木は、幼少期から身の回りで優れた染織品にふれる機会に恵まれていた。しかし、織物制作の過酷さをよく知る母は、娘がその道に入ることを強く止めようとしている。佐々木は65年より、静岡県の手織り紬工房にて3年間織物(平織、縞、格子)の技術を学ぶ。また67年より7年間にわたり重要無形文化財「衣裳人形」保持者、堀柳女(1897-1984)の指導を受ける。71年、第11回伝統工芸新作展に<紬織着物「早春」>が初入選、72年には第19回日本伝統工芸展に<紋織着物「水葵」>が初入選し、伝統工芸展での奮闘が始まった。1972年の第19回日本伝統工芸展に佐々木は初入選したが他の技術者の水準の高さを目のあたりにしてより高度な表現を必要を痛感する。自由に絵を描くように曲線的な模様を織だしたいと望んだ佐々木は鳥取県の米子に通い、弓浜絣を学ぶ。このとき絵絣の基礎を学んでいた。さらに鳥取県の広瀬で経絣の広瀬絣を学ぶ。佐々木は艶があり細くて強靭な性質をもつ紬糸に植物染料による華やかで繊細な色を与えて絵絣の紬織をつくることを思い立つ。緯糸が一本一本絵絣がずれないように調整しながら数ヶ月もかけて織っていった。品格を高めていった結果、1975年第22回日本伝統工芸展に出品した作品が日本工芸会総裁賞を受賞し洗練された芸術性の高い絵絣紬という新しい表現の可能性をひらいていくことになる。私が一番、彼女のことで印象深いことは、外国の王室の方に自分の作品をひざまづいて、渡すというものでそこには生産者として腰がひくく謙虚であったことである。美しいキモノに掲載されていた。
琉球布紀行  澤地久枝

沖縄を中心に奄美大島の諸島まで自然条件による「孤島苦」と政治的処分の過酷な歴史にさらされた亜熱帯の島々の辛酸のなかで高い文化を生み出してきたこれらの琉球とよばれる島々を四半世紀をかけて旅を続け、澤地さんがそれらの高い文化を布を通じて学んだものを330ページでまとめる。奄美大島紬に心ひかれ、奄美をふくめての琉球ににげたという。はじめは沖縄に生活をうつし、身をおいてみて、琉球の染織家の言葉を会話を聞いていくだけでいいと思っていたというが、その漠然とした旅は、焦点を与えられたときに、旅や生活をふくめて一つの物語になっていったという。琉球の布は手しごとによっていまもつくられ、作り手たちの長い沈黙と語りかけが布にはひそんでいることを知る。首里の紅型という題目では、沖縄本土にいて紅型のきものをきている人に出会うことは滅多になく、静かな骨董ブームという古布のなかに紅型をみかけたことは一度もなかったといい、厳しい試練をこえてよみがえった沖縄独得の紅型は愛されはしても大切に箪笥にしまわれているのだろうか、そうだとしたら悲しすぎるとのべ、60ページにわたり独自の調べと足でかせいだ情報を披露する。次に読谷山花織について同じくのべていく。私がまとめた読谷山花織をより緻密に描写していくかのようで、澤地の視点が際立つ。冒頭から知らない自分から勉強をして学びより深く知るためにかけてきた生き方がまとめられていくもので着物の著名人が旅と独学の世界から物語がまとめられていく様を文学でみるという感覚で染織資料を記録していくが、私もただその著書をまとめるだけでいいのか、沖縄にいって調べてみたいとも思わせるものがある。希望のきらめき点絣、奄美大島紬と続く題には、旅を重ねての旅ならではの文章、表現がひかり、本をめくるたびに高揚感と絶望の波長に静かに澤地の世界へひきこまれていく。澤地は奄美大島紬にモダンを追求してきたせいか、島でみる奄美大島紬といままでみてきた奄美大島紬とに違いを感じる。イメージは産地におもむくことで変化するというのは私も経験している。旅でありながらも実際には市場に出るまでに濾過しきれなかったものが産地には忽然とあったりしてそれが新鮮なまでにあたりまえのこと、ではその布の産地であったりする。久米島紬についても、特有な焦茶と絣が必ずしも一定ではなくある場所からはみだしたりそれが「自由」で布に動きをもたらしているという。久米島紬の章の最後に佐多稲子さんが1998年10月に亡くなられて、著者が最後のわかれをとむらうときに、焦茶の長年愛用された久米島紬がきせられて、彼女の人生の哀歓すべてを吸い込んで「終の衣裳 ついのいしょう」はこれ以外一枚はないというものだったという。佐多稲子さんの文学を私は図書館で読んでいると私の曾祖父、北村勘一が人間国宝扱いされいた時期をインタビューしており、私の生まれる前に勘一はすでにこの世にいなくなっていたので、貴重な資料にも思えた。今は懐かしきひとつの記憶である。このようにして宮古上布、喜如嘉の芭蕉布、八重山上布、 琉球藍、琉球絣続いていく。この旅のなかには人間国宝、平良敏子や久米島紬の優れた織り手、玉城カマドなど、沖縄の名人が多く登場する。いま、沖縄へ旅をしてもここまで染織の重要人物に巡りあうのは難しい。

澤地さんというと私は『このお仕事(絣くくり)好きですか?』『きらいです』『好きとこたえたら本に登場させたのに』という実際の会話をおもいだし、ピーマンの炒め物なみにほろにがい思い出がある。今回、私は逆に彼女を登場させた。

そだててあそぼう アイの絵本

ひびあきら へん

やまだひろゆき え

内容はこのシリーズは前に述べたように充実の内容となっており大人も楽しめるものとなっている。古書現代シリーズで藍染についてのべてきたがどのような流れで数少ない藍を栽培している国日本なのか、また植物学的なことなどもろもろ知ることができるものになっている。あとがきについてのべているものが本書の詳細と舞台裏を知ることができるのでその部分を引用してみよう。藍は木綿の普及とともに江戸時代から盛んに使われてきた染料植物であり、とくに藍、木綿、麻の三種はかかすことのできない栽培植物の代表的なもので、これを三草といって栽培が奨励されてきた。大名たちは、衣生活で着物中心であったためにそうした後押しをしてきたわけである。江戸時代から明治時代のころはどこの町や村にも一軒はあったほどであった。19世紀の終わり頃、合成藍(インディゴピュア)が発明されて工場で大量に安くつくられるようになり染色も工場でつくられるようになり、天然藍の栽培は激減していった。藍の栽培では阿波の国(徳島県)では良質の藍が栽培されてきました。また阿波の藍では藍染の研究成果として「阿波藍譜」という名作や「阿波藍史」といった藍染めに関する名著が残されているほどです。それらは現在でも高額な貴重資料として取引されています。徳島県ではそのほか、藍住町(あいずみちょう)、藍場町(あいばちょう)、藍畑(あいはた)などの地名がのこされているのでいかに藍染に有力なちからをもって親しまれていたかが伝わるほどです。その名の由来は藍染というのだから藍に関して親しまれ素晴らしいものであったかが伝わりますね。またそのほか藍神様として親しまれた「愛染明王 あいぜんみょうおう」というのは藍染に通じることから信仰されてきたもので、日本の各地にある愛染堂(あいぜんどう)、愛染庵(あいぜんあん)、愛染寺(あいぜんじ)などのお寺は藍染に関する信仰のあったものとされているのでみつけたら面白いと思います。長い歴史で藍染が親しまれてきた藍染ジャパンブルーは藍を育てるのは難しいことではないので(プランターでも畑でもさいばいできるほど)チャレンジしてみてはいかがだろう。

そだててあそぼう ワタの絵本

ひびあきら へん

やまだひろゆき え

あなたはジーンズを何本くらいもっているでしょう?さてと、汚れを気にしないで洗うときは思いっきり洗っていいという繊維の丈夫さ、そして栽培が盛んであることから安価で世界中にその素材、繊維、普及度は説明の余地はあるまいが、ワタの木にできる綿花(めんか コットンボール)は花ではなく実であり、その綿花を丁寧につむいだ糸を織ってつくられる。いたって原始的な方法によって糸づくりから製織りまで繊維的な丈夫さでそのポジションを不動のものとしたのが、日本でも爆発的に拡張し、きものの素材は、麻や絹などの素材より安定して供給することができたため、木綿織物は日本でも布地の布持ちの良さも手伝って広まったといえる。庶民にとってその木綿の栽培から織物にするまで比較的、妨げる要素があまりなかったことも、広まった要素といえる。とくに当時の日本の大名は木綿の栽培をおしすすめて手厚い保護(推奨しすぎたともいえる)をしたこともあり一気に木綿織物の栽培から大衆にうけいれられ容易なまでに普及した。丈夫で洗濯もいいとなれば、絹や麻などの素材の扱いにくさと比べればそれもそのはずである。話がそれるが私は、栃木県の小山市にあるイオンが好きで、休日をイオンで過ごす人をイオニストとよぶそうである。茨城県の下妻にもイオンがあり、そちらにもいく。私は、普段着は安いものが好きで、高いものは買わない。しかし木綿などのシャツ製品の多くは、結城紬のデザインを考えるときに参考になる。そのためにイオンに、わたしは目をくばらせている。とくに格子柄のシャツがお目当てである。そして、だいたいにおいて綺麗なあがりの格子柄は紳士売り場で高額なのである。しかも田舎には珍しく、そういった高級品売り場は、接客してくれる売り手が、よってきて説明してくれる。最近だと、木綿ことコットンでは、スノーコットンという素材ですから他社と木綿が違いますとかいう。また話はとんでしまうが、テレビでタオルについて取材している番組をわたしは、たまたまみていた。その製品はおそらく化学繊維(かせん)ではなく木綿だと思う。その企業が開発して人気爆発になった商品名は<一秒タオル>というそうだ。吸水力がそのほかのタオルとは別次元のものであるといい、実際に、その具合はわたしもびっくりする吸水力であった。糸の太さ、ぬくもり、やわらかさのなどの重要要素もクリアしており、繊維の多くは毛羽が特徴を決定づけるといっていい。毛羽はいとをよったときにはみでた、短い繊維で、木綿や絹などに多く確認できる。しかし一秒タオルにしても、企業秘密なんだろうけど、もう少しその秘密をえぐってもらいたいという感想がわたしに残った。研究のすえに獲得したのであるから、たやすく教えられないのだろうが、日々、木綿や絹は、使い方次第で、私たちの生活を豊かにしているアイテムであることをつけくわえ本の紹介を終えたい。

つくってあそぼう 藍染の絵本

やまざきかずき へん

じょうめはやと え

人間はいろんな植物や動物、鉱物を利用して染色したが、圧倒的に植物による染色が多かった。植物をこすりつけて染色することから始まり、やがて青や赤、紫といった鮮やかな色に染めるために苦心し、研究を重ねて、染めることを可能にしてきた。古い時代のうたを集めた「万葉集」に「鴨頭草(つきくさ つゆくさの別称)に衣色どり摺らせめども うつろふ色といふが苦しさ」という歌があり青い色がすぐにあせてしまうことをうたったものである。さて、藍染についてふれておきたいのがどういった始まりがあるのかということについて記すると、藍草の汁が服についたときに青いシミができ、そこから沢山の布を染めるために藍の葉から染料をとりだす方法が工夫されたのではないかということである。藍建て(あいだて)は、絹、麻、木綿ともよく染まるし、染料は運搬や保存もできて沢山の布を染められる画期的な方法となった。藍染で染めた青は、うすい青色から中間色、濃色の順に、色名(しきめい)が江戸時代にふられ、瓶覗(かめのぞき)→水浅葱(みずあさぎ)→浅縹(あさはなだ)→花色(はないろ)→千種草色(ちぐさくさいろ)→縹(はなだ)→深縹(ふかはなだ)→紺(こん)→褐色(かちいろ)などと呼ばれるようになった。瓶覗は水色よりうすい色であり、使い込んでうすくなった藍甕にちょっと浸す(一寸浸す)、一染(いちせん)の意味でこれを「覗く のぞく」と表現した。この絵本シリーズは大人にも役立つ充実の内容なので是非手に入れてじゅくどくしてもらいたい。

藤本均コレクション 絣の道

 

2016年年末、もうじき2017年が始まろうとしている。絣の資料をある程度、集めてきたのであるが、幾ら調べてもわからない、という点に落ち着き、かの結城紬技術保持団体の指定者、北村勘一が人間国宝として君臨し、そのあとに田中林次が指定者になった。しかしこの指定者にしか恩恵がないために人間国宝という枠は結城紬にはなくなり団体指定となった、という説明の繰り返しになり、絣に関して、一定の理解と説明として法隆寺に伝わる太子間道が年代を知ることができる絣として世界最古という点になる。これは私が調べてきた資料に再三かくことになって、バカのひとつ覚えのごとき連呼になるが、それが大筋でマトをえていてこの絣は日本でつくられたものではない、ということである。ではどこかといわれるとタイ、インド、インドネシアが現在ではそれにもっとも近い絣を生産している。ただし、現在といっても、いまは観光主流でおおもとの生産が観光向けになっていればそれも変化して自然淘汰をなぞっているおそれがあり、一概に決め付けることもできないが、タイ、インド、インドネシアが太子間道の絣の生産された織物に近い、のではないかということである。さて、沖縄織物の研究という田中俊雄氏の定説が有名であり、引用されているのはご存知であろうか。現在は高額図書で借りて読むのが最も経済的であるが、その説は、絣のルーツはビルマ、インドなどの南方が基点となって絣の生産はインド、というものである。インドのアジャンタに壁画があり、そこに描かれている女性たちは絣布らしき衣服を身にまとっている。このことは壁画が7世紀ごろのものとされている点からするとインドの絹絣の歴史は古くから技法もかなり複雑で多彩なものが多い。インドに端を発した絣の技術は、一つは北と西に流れてチベット、アフガニスタンからシルクロードを経て中国北部にまでおよび、他方は南に下ってインドネシア、フィリピンに達し、やがて14世紀末から15世紀にかけて沖縄に伝わった。絣のことに関しては続きは柳悦孝さんの言葉も借りて中間資料集に調べをつづりたいと思っている。

千年の色 古き日本の美しさ

吉岡幸雄(七冊目紹介) 古法というのは古法による染織の仕事をしてはじめて精神的な伝承を勉強することができる。私の書いたものは一元的で底浅く、幼稚にみえることも否めないがいまやっていることが、最善、最良の選択であるという自負も同時に私にはある。ノーベル賞で、日本人の研究者が、そうした素晴らしい成績が残せたのは、研究というのは30年、40年と研究結果が出るまでにかかり、すなわち30年前、40年前にやっていたことがいま、なのだといったそうである。そうするとほとんどの紬従事者は出発地点にすら立っていないのが厳しい言い方でいえば、そういうことになる。日本の歴史をさまざまな分野から勉強して、とくに先人の残した佳品(かひん)をじっくりとみる必要がある。私には北村勘一という曽祖父がいる。北村織物の二代目にあたる人物で、祖父が頑固一徹の北村敏雄、その子に私の父である。先祖の残した佳品に蚊絣という古法の絣がある。これは到底、たどりつけないであろう技術が込められており、結城市が200蚊絣を保存していてまれに公開される。それをみたとき自分のいまに失望を覚えることさえあった。そうしたときに、さまざまな分野から角度を変え、勉強することで、より良き未来を描こうとそのとき私は考えた。吉岡さんのこの本は実は2016年のような、ご時世にこそ再読する価値がある。この言葉の底流をだれも振り返らない。彼のいいと思った文章や印象深いものは商用サイトの中間資料集に追筆を試みたい。模倣は手段であり目的ではないのだ。
日本人の愛した色  吉岡幸雄(八冊目紹介) 著者、吉岡幸雄氏がまだ若い頃の原稿である。源氏物語から古典としての教養だけを吸収していくのとは違い、本当に源氏物語が彼の支えであると思う。シルクロードブーム到来によって染織の世界が見直された時期がかつて日本にはあった。それは丁度、日本が戦後処理をはじめてから高度経済成長をとげて、大量生産、大量消費の世界はむなしきことこのうえなし、といった民藝活動が東京の至るところにその志がかかげられて手仕事の尊さに目が向けられる。シルクロードの歴史から絹産業が発達していき、東の終着地、日本までのはるかなる道の長さ、染めによってできあがる天然の染料の風合い、日本は忙しさのあまりに見逃していたものをシルクロードの歴史から再びくみとる動きがあった。こうした世間的なものも見方にしている染織の世界は当然、活気が戻ることであり、再びのふたたび、染織またはシルクロードブームがおこるのかときかれれば、これは私が生きている間の時間くらいではおきそうもないが、染織の世界はブームがおきようがおきまいがあくまで自然のいとなみの中で繰り返されている仕事でありさして影響はない。染織の世界は、専門知識がいると思われている。専門知識は、厳密な手仕事をするときに必要な知識であってはじめて有効的な知識、かつ技術となる。そのために専門知識をつぎからつぎへと吸収しては、技術へと還元していき、他者へ伝承か刺激になり、それらがどんどん好循環していくのが染織ブームである。生産者がよりよい環境にいるためにはブームの追い風は、ちからになるが、すぐに簡単に、といった具合では技術者というのは実力もつかなければ、考えもしなくなる。これでは自然淘汰をまつだけのものになってしまうのであるから、そうならないように努力する。一概にブーム歓迎、というものではない。吉岡幸雄さんの著書をぜんぜん説明しないで終わってしまった。
和更紗の文様  吉岡幸雄(九冊目紹介)

図譜 和更紗の文様 は文様に色彩に魅了された日本人がたくみに更紗の真髄を他国から吸収しようとしたものである。さらさ とはジャワの古語「セラサ」(花の模様を撒く)からきたという。インドで生まれた華麗な色彩の木綿布が室町の末期に日本にもたらされ、異国情緒な文様で人々を驚かせたことであろう。江戸時代になると舶載品を模して京都や堺、長崎や鍋島などを中心に「和更紗」がつくられるようになる。技術も意匠もしだいに巧緻をきわめていくことになる。万華鏡をのぞいているかのような色とりどりに、具象、抽象、幾何学、インド風、西欧風、中国風など、和様の文様が弁柄、黄土、藍蠟、群青の色彩が多彩な世界を構築している。ページ数250に近いビジュアル和更紗生地の文庫である。直感的雑誌のような構成で著書は成立している。

では、著書の最後の著者吉岡幸雄氏の解説にて紹介を引用して紹介を終えたい。

インドから日本へ 和更紗の誕生 吉岡幸雄

さらさ。というここちよい響きで呼ばれる華麗な色彩綿布は、木綿の国インドで生まれた。木綿のような植物繊維はタンパク質を含まないため赤系統の染料が染まりつきにくく、日本でもヨーロッパでも、木綿といえば藍を中心に茶色や黄色といった染色にとどまっていた。ところがインドでは、この地に生育する茜系の染料を用いて、鮮やかな赤を染めだす技法が開発されていたのである。それは、まず、木綿布を水牛の乳に浸けることで繊維を動物性に近づけ、つぎにタンニン酸を多く含むミロバランで下染めして、媒染剤の定着を促す。そして、赤く染めたいところへは明礬液(みょうばんえき)を、黒く染めたい部分には鉄塩を、紫はその混合液を塗る。そのあとで沸騰したインド茜の染液に浸けると、それぞれが反応して赤、黒、紫の文様があらわれ、媒染剤のついていないところは白く残るというものである。さらに藍色や緑色を加えたいときは、蝋伏せのあとで藍で染め、緑は黄色の染料ミロバランを重ねる。高温多湿の風土のため、インドには歴史を探る遺品がほとんどなく、更紗がいつの頃からあったのかは詳らかではないが、紀元十世紀頃の製品と思われるインド更紗がエジプトのフォスタート遺跡から発見されており、古くから交易品であったことがわかる。やがて十四、十五世紀の航海術の発展にともなって交易もさかんになり、更紗も世界各地にもたらされて、その華やかさで人気を博した。日本には室町時代末期から桃山時代に、南蛮船により舶載されたと思われる。これらの裂々は珍重され、武将や数奇者の競って求めるところとなり、陣羽織や仕覆に仕立てられて、その富や権力を誇示するものとなった。その後も更紗の輸入量は高まり、富裕な町人たちの小袖や下着、風呂敷、煙草入れなどに仕立てられて彼らの身の回りを飾るようになった。江戸時代になると、インド更紗を真似て日本でも模造更紗が制作されるようになる。インドで染めたシャム(タイ)向けの更紗が日本へ運ばれて「シャムロ染め」と呼ばれていたが、正保二年(1645)に刊行された、発句付句の作例のほか諸国の名産なども記した「毛吹草」に、京都山城の特産として「紗羅染」(シャムロゾメ)を見ることができる。このような京都、堺、長崎、鍋島などを中心に各地で生産された更紗を総称して「和更紗」という。(続略)

よしおか工房に学ぶ

はじめての植物染め

吉岡幸雄 監修(十冊目紹介) 本書の企画は、染色にまったくふれたことがない若い人たちの植物染めに挑戦する、それも1年間にわたって工房で伝統の技を学ぶ。草木染めなどは確かに高度な技術、複雑な技法によってはじめて染色されるものも存在するし、それなりに技術は必要となってはくる。それらは本書にもあるように<基本>をおさえ、しっかり学びワンステップづつスキルアップしていくことによって<可能>になるとしている。誰でも<基本>を覚えて学べばできるということは、染色にまったくふれたことがない若い人たちの一年の成果をみれば、まんざらとっつきにくき染色ではないといった理解も深められよう。また吉岡幸雄氏に実際にあって工房見学したという方は、気さくな方だという意見は少なくない。若かりしころは確かに誰をもよせつけない印象はあったともいわれている。長い歴史の流れのなかで日本人が育んできた伝統的な美しい色彩を本書を参考にして再現できる。ただし、活字をよむ習慣があまりない人は、若干初心者向けでも厳しいものもあろう。話は変わり、結城紬は専門的で高度な技術職といったイメージがある。しかし、これもこの本と似て、それぞれ<基本>があり<基本>を覚え、<基本>をつかって習得するという<基本姿勢の繰り返し>によって習得する。伝統産業は衰退しているが、姿勢は同じであろうこと私の知る範囲はどこの産地もそういえると感じる。12年の従事歴とその12年の証明者がいれば伝統工芸士という、次世代の従事者の励みになる資格制度も用意されている。私は2016年4月でその許可がおりるが、取得は自信をもたらすだろうとは思うが、資格が全てではないとも考えている。実際に私は、しばらく受験はしない。本書に目を戻そう、たまねぎの皮やどんぐりや紅茶や栗のいがなどの自然物を染色の素材として、みのまわりを探してみて染色素材になるものを中心に染色の面白さを<探す>ことでまず読者のこころをつかむ。表装から中身も女性中心というか女性目線でつくられていることから編集者は女性がターゲットである。実際に何かを始めようと考えるのは男性より女性の方が多い。とくに子育てを終えてひと段落となると、夢や希望をすてないで生き抜くのは、あきらかに女性のほうが多いように感じる。男性は常に経済的中心の存在をにないつつ誰かを養わなくてすむと、役名を終えたかの如く、ぼーっとして何もしなくなるように思う。そうした性別間の心理をついた染織資料としても私は評価、いやある種の2011年出版物という現代のストレス社会を反映している点は興味深い。とくに私も古書が中心であったせいか書物というものは時代をうつし出すものであると改めて感じた。またもっと染色したい向上心がつきなければ「自然の色を染める 家庭でできる植物染」吉岡幸雄、福井伝士、監修の出版物を推奨しよう、これは工程写真1200枚によって植物染めを家庭でできるスケールに置きかえた染め方、染色の書物である。台所でできる染色というのは、染色のプロでも利用者が多いのは最小限の設備であり、キッチン設備、それだけでも主に技法があくまで中心で充分染色ができてしまうためである。
野草の染色 上村六郎(三冊目紹介) 染料の製造の化学研究が専門だった上村六郎(うえむらろくろう)は、喜多という偉い先生をこの業界で追い抜くことができないと思い、文科からの仕事によって<染織文化>という専門を志すものなしの道へ進んでゆく。<染織文化>という言葉は上村六郎がつくりだしたいわば造語であった。中国の<四書五経>からはじめてさらに<大蔵経>をよむ。古事記や万葉集から染織をえぐりだしていく手法は勿論、中国のそうした古いものに手をつけて、文化、染織はインドとの関係を無視することができないと<大蔵経>などを勉強する。さらにローマギリシャなども勉強する。一般に現在の染織家が染織文化をなぞる上で辿った道を全て日本訳で猛勉強する。博学でないにもかかわらず、内藤湖南先生に<本を一生懸命に読んだことだけは認める>といわしめた努力家である。<古事記>や<日本書紀>からはじめるとどうしても<万葉集>にいかざるをえないとし、当時<万葉集>からの染織の考察は着眼するものがなく、極めて画期的な発表となった。明治のロマンチストといわれた。(のちに家族の人はなにをいい加減なことをいうかと思ったでしょうが と上村氏は振り返った。)さらに正倉院の政府から任命された調査員としてでた上村氏は、何万個というおびただしい数の名物裂をみて、こりゃあ百年はかかると表現するものであった。野草の染色は、そのあたりで採取可能なものをそのとおり染めるというみじかな染色方法を再確認する、という染色書物である。平安時代から藍染めに黄檗(きはだ)などを混ぜて(この混ぜるという概念は中国になく、中国から日本に染色が伝わったが、中国は混ぜることはその後もしない、日本は平安時代に混ぜる染色をはじめる)染色するという文化は日本特有の染織文化とし、この発表は強烈な注目をうけた。そしてこの染色の<混ぜる>という日本特有の染色技法は今日の世界の複雑な染色を支えているのである。
日本の色彩  上村六郎 (四冊目紹介) 浮かんではすぐに消える記憶や自我を人は文字を書くことで、忘却を逃れ、記憶を鮮明にするようになったように上村さんの哲学的な生き方が、文章を原始的な思想というか現代では、なかなか残せそうにないような思想を当時もって生きていたので、生きにくい人生だっただろうし、理解も凡人をこえていた。以前上村さんの本紹介に記したように万葉集から染色を読み解き、当時そういうことをやったものがいない取組、もちろん万葉集の記録から推測するなどの古法の再現や関連付け、現代の草木染めを尊重する染色家は、ただ草木染めといっても万葉集から続いている技術で現代にまでつながりのあるものだという目に見えないつながりや時代時代で隠れてみえなくなったものを上村さんは記録することで、迷いのあるのこされた染色に関わる人へ何らの手段で伝えたかったのだと思う。それがこの本や彼の染色テーマだ。それに彼はもっともっと記録したかったんだろうな、という思いが私には伝わっている。当時、古代染色で考察などが食い違うなどの解釈でもめていたという有名な人にありがちなエピソードも多々記録されて残っている。前田千寸さんとの解釈の違いはいい例で、やりとりはいまや知るひとぞ知るものになりつつあるが、やがては二人は互いにその研究どうしを認めあうようになっていた。成熟のなせるわざであろう。色に関してのうるささときたら平安時代の有名貴族に匹敵し、視点に慈悲深いところもある。草や木は生命の断片であるが色に生命があることを上村は伝え、教えてくれる。ときは流れ、前田雨城さんの著書、色という本はいままでの思想からより近代的な哲学になったものでよみやすく、そうした色に関しての哲学的な出版物の厚みが増した形になった。先人の哲学的な色の著者、上村さんに敬意を示そう。
ものと人間の文化史 絣 福井貞子(二冊目紹介)

木綿絣は、無名の庶民たちが育てた文化遺産ともいえると著者はいう。江戸末期から明治にかけて急速な発展を遂げ、その技術と絣文様は世界に誇りうるものであった。しかし昭和40年代の高度経済成長と新繊維の出現によってオートメーション化され、手織りの技術はすたれたという。明治時代から愛用しているという高機で手織りを楽しんでいる老女たちに出逢い、彼女らからの聞き取り調査を続け、郷土の倉吉絣を研究の第一歩に踏み出して<40年もの長期間記録>という凄まじい研究心によって記録され続けた。残存する絣の遺品や使い古されたボロ布を収集し、本書に一部本書に収録されている。調査を通じて絣文様の多様性に強く衝撃をうけたという。西日本の絣(九州 四国 山陽 山陰)を数回にわたり現地調査をして、同地の工業試験場や工場経営者と後継者、紺屋(こうや 染屋のこと)と古老、元女子従業員の技術保持者らから、絣見本帳や縞帳をみせてもらい、その他の諸記録を実地に記録を重ねつつ、さらに無名の名人の意見を採録するとともにそれらの人々の生活も記録した。手元に収集した資料と記録をもとにして、不満足ながら絣文様を分類し、移り変わりと特徴を整理し発表、出版したという。2015年現在から40数年前の同著者の名著『図説 日本の絣文化史』(京都書院)に、その後の調査研究の成果をつけくわえ、大幅に増補、改訂したものとなった。絣の体系的研究として文様史として活用されることを念願するとしているが、読み応えは抜群であり、同著者の名著『図説 日本の絣文化史』とこの著書であわせてよみ解くことで発見と見方も広がることであろう。さらにはビジュアル文庫『出版社:青幻舎SEIGENSHA 日本の染織1 絣<かすり>』の三冊で、絣読本の鬼に金棒、腰巻きにはきびだんごつき、といった感じである。西日本の絣研究者、いや絣研究者として右に出る存在はいないほどの研究成果となっている。

また、シリーズ『ものと人間の文化史』では今後、「染織」「古着」「裂織」「藍」「藍2」「紫 紫草から貝紫まで」「草木布」「織物」等々、なども追加の方向でいる予定である。

染織標本集 組織と技法  長沼静 監修(二冊目紹介) 染織資料では織物の組織が三つあるんだよ、ということが多い。この本も同じく織物の組織は多いがその基本となるのは平織、斜文織、繻子織の三つが織の三原組織だよ、という説明がある。こうした基本が三つあってそれを応用したものや変化させたものが他の組織のほとんどということで、基本は三つである。ではどういうものが紹介されているのか、目次をみてみると、縮緬、一越縮緬、絽縮緬、錦紗縮緬、紋綸子、羽二重、塩瀬羽二重、御召、紋御召、紬、紗、絽、縦絽、駒絽、上布、宮古上布、小千谷縮、絣、絵絣、阿波しじら、唐桟、黄八丈、大島、村山大島、斜子織、博多織、仙台平、紅梅織、八橋織、染色の技法の解説があってそのあとに、型友禅、手描友禅、糸目友禅、江戸小紋、紅型、南部型染、鹿の子絞り、匹田絞り、有松絞り、三浦絞り、くも絞り、嵐絞り、桶締め染、長板中形、折付中形、ろうけつ染となっている。それらに織物の組織の基本は何かがかいてあり、短文でわかりやすい説明がある。これは長沼静さんの教材で生徒さんは、基本をおさえる勉強で使っていたと思うし、実布がついてわかりやすくしてある。そして生徒さんは勉強したあとに、自分の好きな織物を専攻していったのではないかなんて思う。今はインターネットで手軽に検索できるので、便利にはなった。着物が好きな人はいまも勉強を続けて新しい境地にいるのかもしれない。
染織標本集 上  長沼静 監修(三冊目紹介) 長沼静さんというと、彼女の指揮する学校に実演をみせてきたのではあるが、本人に会ったことはない。しかし、着物低迷はこうした着物学校の生徒の数からはとても衰退しているという実感をその時代でよみきることは不可能であった。バス二台で生徒をじかに結城紬の作業している職人をみせて、そのあとはどうなったのかというのは聞いてないけない暗黙のルールがあったように感じられる。その共同体にいていまは離脱している、という着物関係者は少なくないと私はみているが、それはバブルのころから、牽引してきた先生であり、どのような結末であろうが、ただ静かに時代の流れにのっていくほかにない、という時代のいわば影があったわけであり、さして長沼静さんをせめることはしてはいけない。少なくても、彼女の残している染織資料は完成度が高くしかも実布で標本集にしているのであるから、根底に流れているものは着物への愛と興味であったといえる。私が2歳のときにすでに標本集が世に知れわたっていた、という事実が残った。そして標本集にはしっかりと着物は全国単位でみるめをもつことの大切さをこんにちに伝えている。木をみて森をみず精神では、この世界を生き抜くことが困難であるという教訓を残した。
染織標本集 下 長沼静 監修(四冊目紹介) 染織標本集の下であるが、前回、上の標本集では結城紬はそれは機械織のもので実布や標本であるから、まぁ微妙だがそれも許容範囲だろうといった箇所がみうけられたのも事実ではあるが、こんにちの全国の産地をまとめたものでこの2冊から、現在はたった布の端切れ、ハギレ一つでこの標本集の価値(いくらで販売された教材か不明であるが)のもとを充分にとってしまえる織物標本があるのも事実である。とくに絹織物では国の重要無形文化財の指定の久米島紬にもそうした真贋をこえて伝える何かがあるようにも思えるし、絵絣といえば伊予の伊予絣を思う、備後にわたりやがて鳥取県に絣が伝わる江戸時代中期に弓浜絣が誕生している。弓浜絣も実布がある。絣に関して私がまとめてきた記録を含めて言えば、きわめて日常的にあった生活用品に多くみられたものだったという点がこんにちにはもう日常的というより意図的に絣を追求していかないと発見できないものになっているといえる。絣にあなたは何を思いますか、という問いがあったとすれば、その人と織物を考える上で参 考になるだろう。語ることができなければ、知らないですむかもしれない。しかし織物と絣の関係は日本の着物を考える上では無視できないものであるという結論にいきつくことではないだろうか。機械と人間と織り機、それから近代化にせまられた結果、合理性と大量生産大量消費の時代を経過して残ったものが、現代の人が日常の贅沢を考えると、はるかに昔より貧しい日常にいることに気がつく。それは白洲正子さんなどの随筆家がすでに未来を予想して予言したかのごとく記録されていたことであったりするのであるから、奇妙な世界の国にうまれたものだと感じてしまう。
続草木染野帖 大場キミ(二冊目紹介) 昭和58年1月10日の第1冊目の草木染野帖の続きになるものである。自身のみのまわりの草木や友人から届けてもらったものなどあわせて51種類。欲しい草や木があれば苦労して自分の足で一日がかりで70kmも離れた山にはいりこみ、染料にする実をがくからはずすのに一週間もかかってしまうこともあったという。染め上がったものは、わずかに反物一反となれば、染料代は計算できないものがそこにはあるから、現代の草木染を入手できる環境に感謝せねばなるまいところ。読者カードに、木綿染を是非とか、人形や書道をやっっておられる方からは和紙染をなどの申し入れがあったので前回載せられなかった染草もあわせて第2冊の今回になったというわけである。1冊目は少々、短文ですませて、爽やかな作風だった、まわりくどい技法はないといった書評とは、今回は言いがたいがその反面、濃厚なタッチの文章であつみがあるとでもいえばいいのか、それでいて1冊目の爽やかさをやはり引き継いでいる面があるように思える。草木染の媒染剤は薬局で購入していたということからも、草木染ブーム前の、ささやかな娯楽で現代ほど、環境が充分でないことが伝わろう。
日本染織総華  紅型・藍型 浦野理一(二冊目紹介)

てんさこ(鳳仙花)の花

や ちみさち(爪先)にす(染)みて

うや(親)のよせことや

ちむ(肝)にす(染)みれ

てん(天)ぬぶり星や

ゆみ(数)ばゆまりしが

うやのよせことや

ゆみならん

(寄せ事=教訓の意)・さて解説はシリーズすべて著者のことばをなぞり、模倣したい。鳳仙花の赤い花を爪先染めるように、親の教訓は肝に染めよ。美しい天の星は、数えれば数えられるが、親の教訓は数えられぬほど多くよいことをいうものだ。意訳するとこうなることであろうか。私は偶然の機会から、ある若く美しい沖縄の女性が、低い声でこの歌を口ずさみ、内容を説明してくれたとき、ちょうど本書を編集中であったことから、たちまちにその美しいメロディと素直な歌詞に魅せられてしまったのである。聞けば、沖縄にむかしから伝えられている有名なわらべ歌の一つとか、あの強烈な美しさを誇る紅型や素朴な藍型の底辺にあるものは、実はこの歌にあるようなてらいのない、心豊かな人間性ではないか、と改めて感じ入ったしだいである。てんさこの花は現在でも咲きつづけているであろうが、沖縄独特とされている風物、たとえば、しっくいでとめられた赤瓦の屋根や石垣、石畳、緑したたる亜熱帯の植物など、今次大戦を境にしだいに姿を変えつつあるようである。そして、本書の主題である紅型、藍型もその姿を失うかのように見えた一時期もあった。幸いにして、最近にいたり、心ある人々によって、伝統をふまえながら紅型、藍型の製作がなされるようになったのは、とりもなおさず、その本質にかえろうとしていることで、むかしながらの心豊かな人間性が、現在の沖縄にもなお脈々と承けつがれていることに、深く感動する者である。昭和46年の本土復帰により、紅型、藍型はもはや沖縄という一地方の染色ではなくなったのであるから、他の染色同様、その将来を全国民で暖かく見守ってゆきたいものである。 紅型、藍型の決定的な価値のある資料の発見されるまでは、紅型、藍型の発生の歴史を謎のベールに包むことにしたいのである。浦野理一

日本染織総華 刺繍  浦野理一(三冊目紹介) はじめに・浦野理一・「日本染織総華」の一巻として「刺繍」を加えたことに疑問をいだかれる方も多いと思われるので、まず、その釈明からさせていただくことにする。たしかに、刺繍は染めや織りとは明らかに区別されるべきものであろう。それにもかかわらず、本書を通してごらんいただければおわかりのように、日本の刺繍はさまざまな用途のなかでも、とくに、日本独特の衣服である小袖等の服飾において、染織と完全に融合し、世界でも類を見ない服飾美をつくりあげてきたことに、注目いただきたいのである。刺繍は染織ではないが、あるときはそれらを補ったり、効果づけたり、あるときは刺繍だけで模様を出すなどして絢爛目を奪うばかりの服飾美を打ち建てたのである。今日、諸所の博物館や資料館には、数多くのすぐれた小袖、りょうとう、能装束などが残されているが、それらが衣服という用の美をこえて芸術品として鑑賞できるものも少なくないのを見ても、その優秀性はうなずけよう。刺繍は、本来、衣服の装飾が大きな目的の一つであるとされているが、日本においてはとくにこのことが顕著で、衣服の染織と一体となり複雑至妙な発達を遂げたところに、日本刺繍の大きな特長があるので、あえて刺繍をして、日本染織の一分野となしたしだいである。古くから行われている刺繍は「日本刺繍」と呼ばれて、中国刺繍、フランス刺繍、デンマーク刺繍、ノルウェー刺繍、南米・中近東の刺繍などと区別されているが、その起原をたずねれば、他の文物と同様に中国よりの渡来である。ただし、手工芸の常として、同じ材料、同じ技法を用いても、そこに表されたものは、民族特有の性情によって、始祖の国の刺繍とは、大きく様相を異にするものであったのである。ここに、私たちは汲めどもつきぬ興趣を感じるとともに、日本民族の優秀性改めて認識するしだいである。 本解説においては、日本における刺繍の歩みをたどることによって、その独自性と意義をごいっしょに考えてみたいと願っている。ーーー
日本染織総華 更紗  浦野理一(四冊目紹介) はじめに・浦野理一・現在、私たちが更紗ということばを耳にするとき、友禅や小紋、紅型などと違ったひびきをだれしも感じるはずである。この違ったひびきを感じる更紗という染色は、これら友禅、小紋、紅型などとどのように違い、区別されるものであろうか。また唐草、印花布などのなかには、その色彩、図案などにより更紗と往々混同されるものもないではないので、更紗を解説するにあたり、更紗とはどのような染色であるか、また、まぎらわしい他の染色とどのように区別したらよいか、などから考えてゆきたいと思う。はじめに記したように、更紗ということばを耳にするとき、友禅や小紋などと異なったひびきを感じるのは、更紗という染色が外来染色であり、いまだに外来的な染色であるからである。日本の染織において、厳密な意味では国産の染織はないといってもよいかもしれないが、友禅や小紋、辻が花、茶屋辻等、世界に誇る日本の染色の多くは日本独自の発展、完成示した。また、織りにおいては、中国や朝鮮など諸外国から学んだものを基礎にして、金襴や錦をはじめ縞、絣にいたるまで、師祖の国々と同等、もしくは、はるかにしのぐ優秀かつ独特なものを完成しているのにたいし、更紗は伝来以来、和更紗という独特のものをつくりあげてはいったが、それはきものに完全に消化された染色とはいいきれぬものである。この意味で、更紗は舶載された時から現在にいたるまで、いまだに外来染色という印象を拭い去ることができず、これを裏返していえば、更紗は日本に同化しきれない異国の染色であり、多分に未来性を込められた魅力がある染色である、ともいえるようである。
日本染織総華  縞・格子  浦野理一(五冊目紹介) はじめに・浦野理一・むかしから、日本人は清く明く直き心ばえの民族である、とされていた。第二次大戦中はとくにこのように鼓吹されたので、ご記憶の方も多いであろう。今、ここで、この事実について云々するわけではないが、たしかに私たち日本人の一面の性格をうがっているようである。こうした日本人の心ばえを、最もうつしている日本染織は何か、と問われれば、だれしもが縞・格子をまずあげるのではあるまいか。そして大部分の人々が、縞・格子こそ日本民族特有のもので、世界に誇る日本染織の一つである、と信じているのではあるまいか。日本の縞・格子は、たしかに世界に誇るにたる日本染織の一分野である。そして、縞・格子持つ表情は素朴で明快であり、てらいのない美しさがある。しかし、けっしてそれだけのものではない。それは、さきにあげた私たち日本人の性格が、もっと奥深く複雑であるように、縞・格子にはもっとひねった味わい、いき とか いなせ と呼ばれる渋い面も持ち合わせている、きわめて変化に富んだ多様なおもしろさを、その平明さのなかに秘めていることに、注目すべきようである。と同時に、この縞・格子も他の染織と同様に、遠く異国から将来されて、日本で独自の発展を遂げた、近世の織物であることをまず申しあげて、縞の歩みと、それと密接なかかわりを持つ木綿、江戸時代の庶民などとの結びつきに焦点をあてて、日本の縞・格子ごいっしょに考えてみたいと思う。ここで一言お断りしておきたいことは、本書は「縞・格子」編であるが、そのすべてを採り上げることは、あまりに多岐にわたり、かえって煩雑のそしりをまぬがれぬように思われたので、「絣」編と同様に、縞本来の姿である木綿縞それも、江戸から明治にかけて日本各地の農山村で手織りされた地縞(じじま)と呼ばれる縞・格子を主として採りあげてあることをご諒承いただきたい。また、縞と格子は今日でははっきり区別されているが、かつては「格子縞」ということばもあったように、格子も縞の一種と考えて、ことさらに、格子も縞の一種と考えて、ことさらに縞・格子と並べて解説せず、単に「縞」として話をすすめた個所も多いことをお断りしておく。浦野理一
日本染織総華  金襴・緞子  浦野理一(六冊目紹介) 本書は題名を「金襴・緞子」とし、室町時代以降の渡りの裂から明治、大正までの、各時代の特色をよく表わす高度な織物を採り上げて一書となしたもので、金襴、緞子をもってその代表とされたのである。掲載裂のすべては、小生所蔵のもののなかから選択したもので、未公開のものである。渡りの裂を日本染織のなかに入れることについては、懸念をいだかれる方も多いであろうが、日本染織、とくに織りの分野は、ほとんどそのすべての源を外国、わけても中国に発しており、これらは、日本染織に大きな影響与えただけでなく、渡り裂とはいえ、長年月日本の風土になじむことによって、全く日本の裂となったものである。その代表的なものが名物裂であるが、本書においては、名物裂は蝦夷錦(えぞにしき)程度にとどめ、それと同程度の価値を有する古裂の優品を収録したものである。なお、奈良〜平安〜鎌倉時代の織物については、種々の専門書によりすでに紹介されているところであるので、図版の掲載は割愛し、解説においてのみふれることにした。また、解説にあたっては、時代により織物の種類や趣がどのように変化していったか、を重点的に述べ、各織物の織技については、必要以上にわたることをさけてある。技術的な事がらは、専門の方々はすでにご承知のところであり、一般の方々にとってはいたずらに煩瑣になるばかりであることを恐れたからである。日本染織のなかでも最高峰に位置する金襴、錦、緞子等の織物が中国より技術を学びながら、きわめて日本的にこれを消化し、師家以上に発展させたその道程をたどりながら、高度な織物が現代の私たちに語りかけてくるものは何かを、ごいっしょにさぐりたいと思う。浦野理一
日本染織総華  唐草・印花布  浦野理一(七冊目紹介) 唐草といえば、ゆたんやふろしきに多く用いられていた蔓状のごくかんたんな模様を唐草と思い込んでいる向き見受けられるようであるが、唐草の需要が増すにしたがって、夜具地などに見られる菊唐草、牡丹唐草、あるいは他の草花、鶴、亀などをあしらった複雑な唐草が染められるようになって、改めて唐草というものが注目浴びるようになったようである。「唐草」と日本で称されている文様は、洋の東西をとわず古くから存在し、現在でも全世界の人々に親しまれているもので、文様のなかでは主流をなすものということができるであろう。蔓によって互いに結び合い、軽妙にくりひろげられる文様は、流動、発展、願望などの人間の心理をそのままに表象している文様ともいえようである。唐草は、表されている文様の題材や様式によって、アカンサス、パルメット、ロータス、葡萄唐草、牡丹唐草等々または、ギリシャ様式、アラベスク様式、ゴシック様式、ビザンチン様式、ロココ様式などと呼ばれている。これら唐草の細部にわたる説明は省略させていただくが、日本にも「唐草」として、他国の唐草文様とは歴然と区別される様式のものが存在しているのである。それらが本書で紹介されているので機会があればご覧いただきたい。
日本染織総華  友禅  浦野理一(八冊目紹介) 史実=友禅・浦野理一・江戸初期の末に出現して、染色界に新しい道を開いた「友禅」。この友禅が、江戸初期の末のいつ、誰によって創案されたか、ということになると、きわめて漠としているのである。一般には、友禅は元禄のころ中心に活躍した画工宮崎友禅斎の創案と伝えられ、友禅という名称もこれに由来するといわれて、今日残されているが、私はこの通説にもとずいて、今日残されている当時の文献や実物資料について、 長い時間をかけてあらゆる角度から研究を重ねるうちに、この巷間の通説を裏づけるよりも、むしろ否定せざるをえなくなったのである。それなら、友禅はいつ、だれによって創案されたか、という史実のなると、残念ながら断定を下すだけの資料にとぼしいものである。むしろ曖昧模糊としたところにこそ真実がひそんでいるのではないか、つまり、友禅という染物は、日本人庶民のすぐれた感覚によって大成された染物ではあるまいかという、いちおうの結論にたどりついたので、このたび「日本染織総華」の一巻として「友禅」編を発刊するはこびとなり、ここに自説を記して、友禅という染物の解説に代えるものである。多くのご批判をお願いするとともに、染織に関心あるか方々に、なんらかのご参考になれば幸いである。
日本染織総華  小紋  浦野理一(九冊目紹介) 技によって支えられている美・浦野理一・日本の小紋の概略を述べるにあたり、冒頭でぜひお話ししたいのは、私の脳裏に焼きついてはなれぬ、小紋の技術者たちの仕事姿である。型彫りにしても、型置き、染めにしても、いささかの乱れも、いささかの無駄も見せず、確実な手さばきで、リズミカルに仕事を運ぶ職人たちの仕事場は、ピーンとはりつめた空気の中にも十分な余裕を見せたものであった。それは、約400年に及ぶ日本の小紋を支えつづけてきた至芸ともいうべき仕事であり、今日のように安直な労働意欲しか持ち合わせない一部の人々には、とうてい理解できないきびしい世界であった。先輩の罵声のもとに、ときには刷毛やさしで叩かれながら修業を重ねて、一人前になりえた人々、もうその人たちは70歳以下では見当たらないはずである。移りゆく時代といえばそれまでであるが、感無量のものがある。・日本の小紋とは・さて「日本の小紋」とはどのようなものを指すのか、例によって小紋の定義もしくは範囲から限定してゆきたいと思う。小紋とは、読んで字の如く小さな紋のことで、大紋(大形)、中紋(中形)ということばに対するものである。これらのうち、大紋は家紋を大きく染め出した素襖(すおう)の謂いであり、中形(ちゅうがた)は浴衣(ゆかた)の別名となっていることは、ご存知のとおりである。ただし、ここで留意したいことは、現在はかなりの大きさの柄、それも友禅とまぎらわしいものまで、も小紋と称していることである。これにたいし、本来の細やかな柄の小紋をとくに「江戸小紋」と称しているが、これは戦後、文化財委員会によって名づけられたもので、けっして江戸時代の小紋全般を意味しているものではない。 本書においては、江戸時代の小紋帳に見られるような小紋を中心にお話しをすすめている。・北村陵・
日本染織総華  小袖  浦野理一(十冊目紹介) 「小袖」の呼称について・浦野理一・「小袖」とは、優にやさしく、禀としたひびきをたたえたことばだと思っている。私はこのことばが好きで、多くの作品のなかでも訪問着に類するものには、しばしば「〇〇小袖」という名称を使ってきた者であるが、私のように、「小袖」という呼称を現代のきものに使用している例は、きわめて少ないようである。「小袖」は博物館などに収められている古いきものだけに与えられている呼称で、現代のきものに〇〇小袖などと使うのは誤りなのであろうか。また小袖とは、いったい何を指すのであろうか、などからいっしょに考えてみたいと思う。現代の私たちにとって、「小袖」ということばが、耳遠い存在になっていることは事実である。「小袖」といえば、古い歴史的なきもののすべてを指すように漠然と考えがちであるが、博物館や美術書などの解説を注意深く見れば、「小袖」が古いきもののなかでもごく一部の限られたものにだけ用いられている呼称であることに、すぐ気づくはずである。現在、「小袖」と称し、絹でも袷仕立のものは袷、単仕立のものは単となっており、木綿の綿入は布子(ぬのこ)、麻の単は帷子(かたびら)という表示を与えられているのが普通である。染織や服装を専門にしている人々も、こうした分け分にほぼ同調しているようであるが、このような分け方はいつごろから行われてきたものなのか、また、当を得た分け方であるか、などを考えるために、つぎに古い文献を少々引用してみたいと思う。「貞丈雑記 三 小袖」小袖と云事、上古は装束の下に着する衣服をばうちかけとて、袖を大にしてひろ袖にして着したる也、そのうちきの袖の大なるに對して、常の衣服をば小袖と云なり、かたびら、單物、あはせにても、袖を小さくして袖下を丸くしたるは、皆小袖なり、わた入たるばかりを小袖とふは、あやまり也 「武家名目抄稿 衣服十三下」按、かたびらというは、〇中略 〇 昔は絹にもあれ、布にもあれ、ひとへの小袖を帷子といひて、5月5日より絹帷子、6月7月は布帷子を着用しけり、近世は絹帷子を單物、又は單などいひ、布のひとへに限りて帷子といふからに、端午の朝きのふの袷に頓て布帷子をぬぎかふることとなり、昔の小袖は、綿に袷に絹と布との帷子にて四種なりしを、今は絹帷子を單といひて、晴れて着る時なければ、唯三種のごとくなりたるにや 以上のほかにも、呼称について述べている文献は種々あるが、だいたい似たような記載なので省略させていただく。これらの文献は江戸中期から後期にかけて呼称にたいして確と断定できるものとは思われない。ここで紹介したいのが、神社仏閣などに残されている古い目録などの資料である。日本には、古くから人の死後、故人が身につけていたたいせつな衣料を神社仏閣に寄進する風習があり、これらの目録には「小袖一領」と記して麻の単にも小袖という表記が見られることに注目したいのである。著者が専門外であるため、だれかに聞いて書き記したという例も多かったであろう。とくに服飾や染織に関する事柄は、服制などを除くと、学的に明確に体系化されたものではないので、一部の慣行をもって全体を断定する場合も多かったようである。推論すれば、室町時代に小袖が成立してより、今日のきものの長着にあたるものは、すべて小袖と呼ばれていたのであはあるまいか。それが江戸中期ごろより呼び名に分化が生じ、絹の綿入をとくに小袖と呼び、その他は帷子、単、袷、縞、絣と呼んだが正式にはすべてべて「小袖」と呼ばれていたのではあるまいか。しかし、それは、たとえば麻の茶屋辻などは帷子であって、「小袖」の呼称はあたらない、というように考える向きがあったら、大きな誤りであるので、ぜひご訂正いただきたいと思う。