中間染織資料55

中間資料集 染織資料

 

染織資料は、染織家のサポート役として機能すると願いつつ、引き続き古書現代2から、情報強化し、

基本的なことは、情報にさらにあつみをもたせるために、<中間記録>を開始しています。

いってみれば、染織資料の肉づけ作業です。コンビニ夜勤明けにつむぎ業と記事作成をおこなうことが多いです。

 

古書現代 染織厳選読書 (100冊分)はこちら


古書現代 染織厳選読書2nd (101冊から200冊)and中間

本場結城紬 北村陵

つむぎの歴史

@中間資料を一度記録

2015.9.16.

つむぎ(紬)の原型といわれる<あしぎぬ 施 >と紬とはどのような違いがあったのかの探求は続いている。<日本後記 七 >によると、承和五年(838)十月甲寅、大政官處分、太宰府例進、緋綿紬一百端、今定紺紬十端、黒緋紬四十端、緋紬五十端、(後 略)とある。ここから九世紀のはじめに九州の太宰府(だざいふ)から都へ送られてきたのは綿紬であった。と記述記録上確認できる。綿紬とはなにかといえば追加として<延喜式 えんぎしき>(えんぎしきは昔の紬の歴史的資料と覚えてください。)巻二四主計上の調(物納税のようなもの)の規定によると、豊前国については、<綿紬十七疋(あし 単位数)、自餘輸絹、綿、糸、サヨミ、鳥賊、(略)との記述がありはじまり句読点まで綿紬の表記、その次に絹と思わしき表記で、綿紬と絹は別のものとして、判別されているために綿紬は、現在の糸とり道具つくしから真綿をひいてとった手つむぎ糸による織物、すなわち紬としてよみくだいてよしとしていいのではないだろうか。豊前国とは調としてとにかく糸を納める養蚕主要地であったといわれている。この養蚕もまだ技術的にすべての繭が上出来というわけにいかず、玉繭や出殻繭などの繭を使用して、真綿にしてから手つむぎ糸生産をおこない、紬をつくっていた。この過程として、あげるならば、玉繭や出殻繭などの繭もどうにか糸生産(製糸)をおこなう試みがあったが、いままでの歴史ではどうしても繊維学上からも糸は生産できなかった。捨てるにはあまりにも高級な素材の絹は、セリシンとフィブロイン(繭の構造)といった繊維学的研究といった学術があったかどうかは確認できないが、一般的には繭を真綿にするという技術は難しい問題ではなく真綿にしてから手つむぎ糸生産を行っていた。(私の独断的な見解は、養蚕での真綿にもどす繭は、現在の紬の産地といわれるところに集めていたのではないか と推測する。あくまで私の想像である。ただ実際には現在は紬の産地といわれないまでも全国に相当な数の織物産地が存在したと推測する。これも私の想像である。)

平安時代後期「新猿楽記」には諸国の紬名があるという。その中に「石見紬」との表記があり「延喜式 えんぎしき」にも石見国の調、との表記から歴史的資料にも共通点をみいだせる。のちの資料「庭訓往来(ていきんおうらい)」から石見紬の表記から常陸紬(結城市のパンフレットはこの紬名をとっているがもともとは石見紬ともいえうる)とある。またしても私の推測であるが、鎌倉幕府の成立は強烈だったとして、鎌倉から近い常陸は重要人物の出入りが激しくなったために急速に知名度が常陸紬(ひたちつむぎ)で定着したとみて結城市パンフレットの表記は石見紬より常陸紬という解釈でよろしいと私も思う。ただこの鎌倉の人間、とくに武家は紬を普段着として定着させてしまうほど武家の間で愛好されたと考えられる。

染織の日本史について @中間資料を記録二度目2015.9.22. 織物が税や労役の代価として農産物などと共に一般の人々の経済生活の基をなしていたことを忘れるわけにはいかない。10世紀のはじめには、ほとんど全国各地で布、生糸(きいと)、平絹、施、綾などが生産されるようになり、一方中央の官営工房では引き続き各種の高級織物が織り出された他、染色も例えば赤系統の色が9種類もあるように様々な色相に染め分けられていた。延長5年(927)に編纂(へんさん)された「延喜式」(えんぎしき)にはその情況が詳しく記されている。その後、11世紀12世紀の和風文化の華が咲いた平安時代の盛期になると服飾文化をうんだ貴族たちの要求に応えて、特に文様を現す緯糸を浮かして織った浮文の技術の発達をみるにいたり、また今日一般に有職文といわれる特色ある文様の出現もみるに至ったのである。貴族のつくり出したものはその他に社会不安もあった。絹一疋は米2石馬2匹と同じであり麻布でも米1石と5反が同値であったから決して安いものではない。このような経済情況の中で都の貴族たちは地方の広大な荘園から納められる富をたくわえ、ひたすら消費的な生活を送っていたから、やがてそれに反対する乱戦がおこった。社会不安が増して納税の織物も途中の強奪を恐れて、他のものに替えられるようになり、地方の機業は次第に衰えていった。こうして次第につのってきた経済的な社会の動揺は政治の実権が武家の手へ移っても止まず、織部司(おりべのつかさ)も廃止されて、機業は官業から民業へと移ったのである。しかし官業に比べて経済的な保障もなく技術練磨の便宜も少ない民営ではこれまで維持してきた優れた技術を伝えることも次第に困難となり、技術は衰える一方であった。しかし、また一方で常陸の紬等、特に品質の優れた染織品が商品として流通しはじめた。信濃の布、加賀の絹、京都の綾や染物もその優れた染織品として商品流通したものである。皮肉なことにもこうした基盤が確立してきた一方で応仁元年(1467)正月早々に火蓋が切られ、以後10年の長きにわたって都を焦土と化して争われた応仁の乱の勃発によって永い伝統を有する京都の機業は一時中断せざるを得ない状態となった。そればかりか、大乱の波及は地方にも及び社会の混乱は全国に拡がったから機業は全国的に衰えてしまったのであった。13世紀14世紀の間における国内機業の不振による高級織物への要求は、中国との私貿易によってもたらされた。15世紀のはじめには中国明との勘合貿易を開始し、生糸をはじめ金襴(きんらん)、緞子(どんす)、間道(かんどう)、錦(にしき)などの織物を輸入したのであった。京の都を焼け野原と化したが中国から生糸を手に入れた織物職人はそこから逃れるようにして移住し中国のそうした珍しい織物に接する機会を得、新しい織法等も学んだ。今日、名物裂と呼ばれる珍重されているものの多くは、この15世紀16世紀の間に渡来した優秀な中国の裂類であるが、現在これらの裂をみてその中に異質なものを感ずる人はほとんどいないといっていいくらい、日本人の意匠の感覚はとけこんでいる。16世紀中葉から末にかけての、室町時代末から桃山時代における染織は特に注目されるのは、刺繍と絞染(辻が花)と摺箔(金箔を押しつける 金箔を用いる)のめざましい進展であるといえる。この三つは、織物界の不振をおぎなって余りあるものがあった。しかし、織物も16世紀の中葉には再び復興し中国の新しい技術を学んだ製品がつくられるようになった。現在でもなお機業界の王座をしめている京都西陣が新しい機業の中心となって再出発したのはこの時である。この新規な織物の内、繻子(しゅす)は絹のもつ艶光り(つやびかり)を一層強めた滑らかな光沢のある織物として特異な存在であったばかりでなく、その組織は各種の織物に応用されて、織物の発達に非常に大きな影響を与えたのであった。この他、唐織、金襴、緞子などが織り出され、急速な発展を遂げた。また綿花の栽培が普及し、新たな利用価値をもった織物として木綿織物が盛んに織られるようになった。これに引続く17世紀18世紀の永い平和な時代は品質の向上と生産量の増大によって、一層の進歩発達をみたのであった。その原因は中国だけでなく、ヨーロッパ、インド、南方諸島の染織品の輸入が可能となったことにつきるであろう。幕府は生糸、綿花の生産を奨励し、原糸が安価となって、高級品の消費を暗にすすめた幕府の政策、経済力を得た町人が出現しはじめる。小袖が社会の主体的な衣服となった結果、その生地として、羽二重、綸子、紗綾、縮緬、絽などが新たに織り出され、その生産は非常に盛んになり、上質なものが織り出されるようになった。おどろくべき染織史とのつながりを随筆家白洲正子の言葉はここで私の中で一致した。幕府の式楽となり武士はもとより町人にまで普及するにまで至った能の隆昌は能装束の製作を盛んにした。各大名家はそれぞれ能役者を抱え、能舞台を設けて、しばしば演能を催すという有様であったから、能装束の需要は甚だ多く、競って優品が作られた。この結果、唐織、厚板、絽金、紋紗、錦等紋織物の大きな発達をもたらしたのであった。また西洋に倣ったものにモール、ビロード(天鵞絨)があり、毛織物の織法もオランダ人によって伝えられ、兎の毛を交ぜた織物も試みられた。更に舶載(はくさい)されたヨーロッパのタピストリィや中国の刻糸に刺戟されて、綴錦が再び織られるようになった。文様染は南方から輸入された更紗をまねた更紗染がいちはやく行われたが天和3年(1683)の刺繍や鹿の子絞(かのこしぼり)や金紗に対するきびしい禁令は各種の染技法の急速な発達を促し、染色の新しい世界を出現したのである。その中の一つである友禅染は今日なお文様染の主流として続いているが、自由な文様表現や華やかな彩どり、軽快な仕上がりに染技法は元禄以後の小袖の文様加工の中心となってきたのである。型紙を使って染める小紋や中形も、それぞれ裃とか浴衣などの別の用途と趣をもつものとして発達した他、摺や絞の技法にも種々の工夫をこらしたものが作られるようになった。木綿は民衆的な織物として、急激に各地方に発達した。松阪、三河、河内、真岡、久留米、伊予、備後、山陰、川越などである。この木綿の普及と発展は永いこと大衆に親しまれてきた麻の織物を暑中の高級織物にするという土台をつくった。麻織物は越後上布(現在 国の重要無形文化財 ユネスコ無形文化遺産登録 織物)や奈良、近江、薩摩などがある。このようにして19世紀の中頃まで染織界にもしばしば奢侈禁止令(しゃしきんしれい 贅沢をさせないきまりをつくった)、倹約令などによって若干の消長はあるものの、明治の新時代を迎えて、西洋文明を全面的に受け入れた結果、ここに現代染織の基礎が築かれたといえよう。

2012年社会の側面を追う

俺は、中小企業のおやじ-鈴木-修

@中間資料三度目の記録2015.9.27.

2012年に作成した記事であるが、ちょうど2012年あたりから経営者とはどうなるべきで、どういった舵取りをしていくべきだろうかと日々苦心しながらも考えていた。そのときに一度ネットに反映させてある程度の手応えがあったように思う。

2015年社会の側面を追う

老後の真実 不安なく暮らすための新しい常識

文藝春秋 編

老後のお金 絶対減らさず少しだけ増やす常識

文藝春秋 編

@中間資料三度目の記録2015.9.27.

同上資料と同時追加

染織資料おこし作業で、社会の現代人とは別世界で仕事をすすめられていると思われても私は困る。掲載の資料は出版から離れてはいるが大変実用性や応用性にたけたものであるように思う。消費増税、ブラック企業などの2015年のかかえる社会問題は常に私の今後とのつながりがあってかならず自分にも巡ってくるものだと私は考える。好循環も悪循環もほとんど巡ってくるタイミングは都会とは時間差があるかもしれないが基本的には田舎にも到達する問題であり、そうした社会問題等を含む危機管理は、とくに不景気の経済では、文藝春秋がチカラを発揮して、良書を出版する傾向があると、私は思う。予期して避けられる問題は私も早期にめをつみたい。また1000円でそれ以上の期待や効果、刺激剤となりうる出版物は貴重なものである。頭の悪い経営者は、満腹状態にいて、空腹感になることを無視してすすめていく傾向があるために、立場的に違うが相手の立場になって考えてはくれないのである。なんでもかんでもついていってはいけない危険を予測しよう。

越後上布と結城紬のふたつの織物が織りなす不思議について

@中間資料作成

四度目の記録

2015.9.29-30.

 

伝統織物は日本各地で織られている。土地の自然風土や生活環境のなかから生まれ育ったものが少なくないというのが一般的な見解といえる。その典型ともいえ、いまだに自然環境と一体化して織り継がれている織物たち。越後上布と結城紬は、たぐいない価値を有する人類の無形遺産が集積されているとの評価より<ユネスコ無形文化遺産の登録>をこのふたつの織物はうけた貴重な伝統的な技法による織物であり、たぐいない価値を有する民衆の伝統的な文化の表現形式でもあるとの評価もされている。越後上布をみてみると、米どころとして知られている、新潟県の魚沼は一千年にもわたる歴史をもつこの地では、かつて江戸時代の最盛期には年間二十万反ものを産してこの地の多くの人々の生活を支え魚沼の地を潤し続けた。米作りの裏側で絶え間なく続けられた上布の製織が、国の重要無形文化財の文化財保持の指定がもっとも早かった。そしてこの環境とまったくといっていいほど同じような環境をもっているのが結城である。結城紬は農業が盛んな地域であり、冬の農閑期は農作業を一時的にストップさせてしまうために家内制手工業として結城紬を農閑期に農作業のかわりのように仕事にしていたのである。越後上布も結城紬にとっても、米の生産と織物はきってもきれない仲なのである。ともに年間生産反数は減少をたどりながらもなんとか昭和という時代をかけぬけた。ユネスコ無形文化遺産登録が一番早かったのが越後上布であり次に結城紬となった。

越後上布の糸の原料の青苧(あおそ)は昭和村から送られてきて、その青苧の繊維を爪先で細くさいてつなぎ(熟練の技がいるといわれている)、糸としておくのが苧績み(おうみ)である。上布は慶長三年上杉景勝が福島県会津へ転封されると共に青苧の栽培も会津へ移り越後での栽培はその後減少した。原料は会津の昭和村から越後上布の産地におくられている。(慶長三年のことについては(a)文章にて情報補足を下記で行う)。結城紬も原料の袋真綿を福島県の保原にゆだねていて原料は福島産のものである。もともとは結城や小山などの結城紬産地で養蚕からの原料づくりはおこなわれていたが、鬼怒川(きぬがわ)の氾濫によって結城家とつながりのある福島へ養蚕の地を移動させた。

青苧をその繊維を爪先で細くさいてつなぎ糸としていくのが苧績み(おうみ)といったが上布は薄く軽いほど上質になり、糸はできるだけ細いほうが望ましい。江戸時代越後産地の嫁は糸が汚れないように当時既婚女性の一般的風習であった歯を黒く染める<お歯黒>をせず白歯であったということが「北越志」や「越の山都登(こしのやまづと)」という寛政十二年に書かれた書物に記録されている。原糸を作るときは青苧をくちにふくんで唾液で濡らして繊維を爪先で細くさいていたからで上布の生産が彼女たちの生活にとって風習を変えさせる程重要な仕事であったことをそれは物語っている。この他、第二の要件、第三の要件がまたしても結城紬ににているのである。模様をつける場合は手くびりによることとあり、織りは地機で織ることとあり道具類も含めて同一のようだ。緯糸の管を入れる穴をもった刀状の杼(ひ)を使って手前の直線の刃型になっている部分で強く緯糸を打ちこむ。腰で経糸のテンションを加減しながらこの刀杼(とうひ)で緯糸を強く打ちこむところに高機織りとは違う、地機の独特の地風がうまれていくといわれている。第四の要件は「しぼとりをする場合は湯もみ足ぶみによること」とあり、結城紬の縮布にも似てこちらは「しぼ出し」と呼ばれている工程に同じくみることができる。第五の要件は越後上布の「さらしは雪ざらしによること」とある。これは結城紬の産地は豪雪地帯ではないのでおこなわれていない工程である。さらしの目的は漂白することにある。晴天の日を選んで雪上に布をひろげて天日にさらす。雪ざらしは水分が布目を通って蒸発するときのオゾンの作用と言われ、その 期間は一週間から十日ぐらいとされている。この越後上布と結城紬のふたつの織物に不思議なまでに共通点があると感じる。

(a)慶長三年について:越後から会津へ国を替えることになった。会津百二十万石の地といわれている。関東平野へぐっと接近入り。上杉景勝を支えた唯一無二の家臣がNHK大河ドラマでご存知の方も多いかもしれないが、愛の兜をかざす直江兼続である。上杉謙信の後継者争いの戦いが上杉景勝と上杉景虎の間でおこり、身内に矢を引いて戦わなければならない身内同士のいくさを景勝を直江兼続は影でささえたという話は有名である。慶長三年にはすでに織田信長が幕府を滅ぼし勢力がかわりはじめてまたおちついてきたころかもしれない。歴史専門家のほうが詳しいだろうと思う。

きもののきろく

小袖にみる歴史のなぞり

@中間資料記録

五度目の記録

2015.10.4.

現代のきものの祖型である<小袖>は中世半ば頃から服飾の中心的な形式として浮上し、近世にはその装飾に独自の展開を示し、桃山から江戸初期にかけての小袖は特権的な武家階級の好尚を反映して、肩裾(かたすそ)や段替わり(だんがわり)のような左右対称で区画内に充填的(じゅうてんてき)に文様を配する意匠が主流をなしていた。しかし、17世紀も半ばを過ぎた寛文のころになると寛文小袖と呼ばれる自己主張の強い特権的な意匠が流行するに至り、江戸のファッションは町人主導のものへと移行していく。町人たちは、遊女やかぶき者たちの異装を健全な市井の装いと同化しつつ、小袖デザインを一気に拡大していった。

きもののきろく2

着付け、意匠のきもの変化

@中間資料記録

五度目の記録

同上資料と同時追加

2015.10.4.

ファッションの主導権が特権的な武家階級から町人たちの手に委ねられる。伝統的な規範にとらわれない彼らは遊女やかぶき者たちの奇抜な装いに刺激を受けながら、あらゆるモチーフを積極的に文様の世界にとりこんだ。

かぶき者は、流行するデザインをあんに先取りしている場合が多かった。

たとえば、背中に橋をえがいたデザインを着て、遊女を誘う。その橋は、織姫とひこぼしが再会を果たすための橋であったり、天の川に織姫と彦星の架け橋を描いてしまうスケールのデザインであったり、京都の恋愛で有名な橋をモチーフにしたりしている。着物デザインを挑発に使うのである。

きもののきろく3

華から粋への志向へ

爛熟の果てのきもの

@中間資料記録

五度目の記録

同上資料と同時追加

2015.10.4

友禅に代表される染色技法の発展は、江戸中期の染織界に華麗な意匠の世界をもたらした。しかし、急速な流行の拡大の結果、意匠の創造性が消耗していったこともまた事実であった。江戸時代の後期になると、ファッション界を席巻したのが「粋」の意識に導かれた縞や小紋の流行であり、ここでは表面的な華やかさは敬遠され、見えないところに贅を尽くす感覚が尊ばれる。重要なのは見栄ではなく、質であり、生地の風合いや染の仕上げ具合など、装いの微細な部分がポイントとなる。流行の拠点も京都だけでなく、江戸の果たす役割が大きくなりはじまっていく。

浦沢月子さんについて

記事引用

(日本の染織2 紬 

素朴な美と日本的な味わい 

p114 草柳大蔵 )

より 引用

2015.10.15

紬とともに 浦沢月子 追加2015.11.4

六代目「紬屋吉平」の着物人生  織り子の生命を伝えたい女 浦沢月子さん

(日本の染織2 紬 素朴な美と日本的な味わい p114 草柳大蔵 )

より 引用

紬とともに 浦沢月子 追加2015.11.4

 

多様な織物を生んだ数の文化

中間資料作成 六度目記録

2015.11.4

織物の文化はエジプト、メソポタミア、中国など各地に誕生しそれぞれユニークな特徴をもちながら発達してきた。それらの土地で織物の文化が発達したのは、原材料としての麻、木綿、絹などがあり、それを糸にする技術があったほか、糸から布にするのに欠かせない「数の文化」があったからだ。かつて布や織物が未発達だった原始時代、人々は狩猟で得た動物の皮を着たり、草木の葉をつなぎ合わせたものや、縄を縫い合わせたものなどを着ていた。青森県から出土した縄文晩期の土偶を見ても、縄の肩衣と縄の袴をつけており、古い衣服形式の一つは「縄衣」であったことがわかる。その後、藤、楮(こうぞ)、麻などの植物を水に浸けたり、蒸したり、煮たり、叩いたりして、繊維質を取り出したうえ、糸をつくることを考え出したのである。こうして織物文化の第一歩を歩み始めた。織物というのは、いうまでもなく平行に配列された一組の経糸と、これと直角の方向に平行に配列された一組の緯糸とを、一定の規則にしたがって交差させ、その交差させる作業を連続して作り出したものである。経糸と緯糸とを交差させることを「織る」といい、その規則、つまり糸の交差のさせかたで、織物に美しい多様な変化があらわれるのである。規則とはいいかえれば「織組織」であるが糸を交差させて織物にし、そのうえ織物に模様を表現しようとするには、その織組織を考えなけれなならない。そのために数の概念が欠かせず、したがって「数の文化」があったからこそ、織物の文化が発達したのだといえよう。実際、現在も盛んに使われている和服地の多様な織組織は、それらの織組織を実にさまざまに組み合わせて生み出されいるわけである。

織物の組織について

中間資料作成六度目記録

2015.11.4

経糸と緯糸とを直角に交差させて織物をつくるが布を織る場合に問題になるのは、どのような織組織によるか、ということだろう。この織物の組織には多くの種類がある。しかし大別すると次のまとめのように7種類に分けられる。

(1)原組織=平織、斜文織(綾織)、繻子織 <代表的な織り方の三原組織ともよばれる>

(2)変化組織=変化平織、変化斜文織、変化繻子織 

(3)特別組織=蜂巣織、模紗織、梨地織、ハック織、混合組織など

(4)重ね織組織=緯二重織、経二重織、二重織、風通織

(5)添毛織(パイル織)=別珍、天鵞絨、二重天鵞絨

(6)搦み織

(7)紋織

とわけることができる。以上のうち、(1)の原組織が織物の組織の基本となるもので「三原組織」とよばれている。

絣以前の絣の系譜

中間資料作成七度目記録

2015.11.4

日本に伝来し、現存する最古の絣は太子間道の愛称で親しまれている法隆寺裂「広東錦」である。これは経糸の非常に密な絹織物で、紅地に黄、藍、白、緑、黒の五色で波状の杢がうねっている模様の、明らに南方系に属する「経絣」であるのに「錦」として分類されている。まだ「絣」というカテゴリーが未成立の時代であったからである。その意味で、室町時代の能装束の「しめきり」も、経絣とまったく同じ技法で、経糸を赤、緑、白等の段染めにし、緯糸も経糸が赤の部分には赤、白の部分には白で織り、装束全体に市松のような効果を出す。明らかに絣の技法であるが、これはあくまでも装束全体を引き立てる背景であるので、まだ絣とは考えられていない。さらに江戸時代の武士の礼服であった「熨斗目」にいたっては、袖や腰の部分にだけ縞や格子を表して、「しめきり」よりさらに絣的、いやまさに絣そのものであるにもかかわらず、熨斗目絣とは呼ばれなかった。しかもこの時代には、すでに「かすり」という日本語も生まれていたのであるから、これもまた絣以前の絣の系譜として考えるべきであろう。
南蛮貿易による絣の系譜

中間資料作成八度目記録

2015.11.5

御朱印船、南蛮船渡来等、室町末期から徳川初期にかけて、東シナ海から南シナ海一帯は各国の商船でにぎわい、フィリピン、ベトナム、カンボジア、タイ等に日本人町が誕生したほどであった。南シナ海を囲む国々は絣の産地でもあったので、これらの島々の物資、即ち「島物」の中には、当時数多くの絣織物が含まれていたに違いない。勿論琉球絣も十四、五世紀頃から南方系の影響を受けて芭蕉布に絣を織り込むようになり、この時代にはほぼ完成されていたし、南方貿易の重要な中継地であったのだから、これもまた相当量が日本に送り込まれたと考えられる。こうして縞ともちがう「掠れ」た面白い柄に対して、日本独自の「かすり」という名称がつくり出されたのも、1603年に長崎学校で編纂された日葡辞書に「かすり」の項があることから考えても、この時期であったといえる。この時期にカテゴリーとして「絣」が成立していた。
麻布による絣の系譜

中間資料作成八度目記録

2015.11.5

日本ではじめて絣が織られたのは麻布で、場所は越後であったと推測する織物研究者もいる。理由は色々あるが、基本的には裏日本の物資を大阪に廻送する西廻海運によって、越後と琉球がつながった。漂流したこともあっただろうが、鎖国以後は密貿易も多かったにちがいないとしているのである。帆船であるからすぐに帰るわけにはいかない。その風待ちの二、三ヶ月、越後布と同じ麻布や、よく似た芭蕉布に織り出された美しい絣をみて、船員たちがその技法を習得して帰ったという説である。しかもこの時期は薩摩絣が織り出されたとされている元文五年(1740)よりもはやい。渡辺三省著「越後縮布の歴史と技術」によれば北越機業史に「享保年間(1716-35)越後小千谷の織工カスリチヂミを織り出せり」とある。いずれにせよ、麻布は庶民の衣料として古くから日本の各地で織られていたのだから、当然これらの自家用や村々の市で売り買いされる麻布にも、次第に絣が影響し伝播していったと考えられるとしている。木綿が普及する以前には、庶民の衣料といえば、たいま、苧麻、葛、芭蕉、しな、藤、こうぞなどの植物の繊維を繋いで糸で織った布だけであった。これらの糸には薄褐色の色素のむらがあり、織りあがった布はこのむらが縦横にはしり、乱絣のようになる。これをとるには十日あまりも日光に晒す作業をしなければならない。自家用にそんな手間をかけることもないからそのまま着てそのうえに藍染して着た。このように布の中には、まだ自覚されない絣の赤子が、ねむっていたのである。日本の絣が麻布にはじめて表れたのは単なる偶然ではなかったとみられている。
木綿織物による絣の系譜

中間資料作成@

九度目の記録

2015.11.7

インド原産の草棉が中国南、中部を経て、朝鮮で栽培されるようになったのは十四世紀後半である。この朝鮮綿布が応仁の乱(1467-77)前後に大量に輸入され、文明以降には一年に10万匹にも達した。やがて日本の綿布に対する需要が朝鮮の生産量をはるかに越え、日本でも木綿の栽培が始まるのであるが、それは「ほぼ明応、永正(1492-1520)以前と指摘できると思う」(岡野和子 高田幸枝 共著 「近世庶民衣料の一考察」)ただ木綿栽培の北限は三十七度、日本は棉作が可能な北限ぎりぎりにあるので、その栽培の苦労は大変なものであった。しかし棉花を手に入れれば、それ以後の製糸、製織の手間は、例えば麻糸の中程度のものでも、一日約九、十匁しか績むことができないのに、綿糸では約四十五匁も紡ぐことができる。製織にあたっても堅くてまったく伸びというものを持たない麻類の糸に対し、綿糸には柔軟性も伸び(伸縮性)もあり、扱いやすく効率的であった。その上染色性はよく、保湿性にも富んで柔らかい。さらに各工程が容易であるということは、麻類よりも安価であるということに通じるのであるから、木綿の伝来は庶民の衣生活を変化させた。しかもこの木綿の普及と、南蛮貿易による多彩な南方系の縞木綿の伝来が重なったということは、日本の庶民の染織文化にとって幸運であった。サントメ島によって代表される南方系の縞(サントメ縞)の柄は、それまでまったくといっていいほど縞柄を知らなかった日本人、特に庶民の心を激しくとらえた。藍は紺屋で染めてもらい、色糸は野山の植物を煎じて染め、縞を織った。唐桟縞には及ぶべくものではなかったが、それでも彼らは十分に満足したのである。この木綿縞の流れと、麻織物による絣の流れが十八世紀中期に合流したのである。その点を含め、以後の考察のために、ここで各産地に伝承された絣創製の時期にしたがって簡単な年表をおくことにしよう。

文中元年1372年 琉球 芭蕉布

寛文延宝1661年 越後 麻

元文五年1740年 薩摩 木綿

元文五年 同   河内 木綿

宝暦年間1751年 大和 木綿

宝暦年間1763年 米子 木綿

安永年間1772年 近江 麻

天明元年1781年 村山 所沢 木綿

寛政十一年1799年 久留米 木綿

寛政年間1789年-1800年 名古屋(佐々絣) 木綿

享和年間1801年 伊予 木綿

文化年間1804年 米沢 紬

文政年間1818年 倉吉 木綿

文政年間1829年 広瀬 木綿

文久年間1861年 備後 木綿

慶応年間1865年 結城 紬

となる。こうして表をつくりみてみると、麻と木綿の絣の合流が前期にあり、中期には庶民の衣料が綿布にうつり、各地で一勢に木綿絣がうまれ、後期になると絹の紬にも絣が浸透してゆくのである。同時に一般によく言われる、絣は琉球(沖縄)から薩摩、久留米、伊予、備後、山陰という伝播は地図のうえでの、観念的で図式的、無責任な説であることが理解されよう。この俗説の根本的な誤りは、薩摩と久留米を同じ九州であるという点で、実に安直に結びつけたことにある。久留米が他国の絣の影響を受けたとすれば、博多、長崎等の古くからの貿易港に近いという地理的な条件と、隣接した甘木に久留米絣よりも以前に、絣と同一の技法の絞染めがあったということをむしろ重視すべきだろう。絣の伝播は、琉球絣にあるという点は同じである。琉球絣の日本への伝播の道は<ふたつの道>があったと考えてみようではないか。

ひとつは、前記してきたように琉球から越後である。そしてこの絣の流れが西にむかって近江上布につながると共に、一方関東地方等にも影響をあたえた。米子絣(弓浜絣でこれが倉吉絣と広瀬絣の母体という説)海路の中継港であり、伯州棉の産地であったのでこの系列にはいる。

ふたつめは、琉球から薩摩を経由し海路大阪へという道である。これが「河内絣の文様の基本型はいずれも琉球絣の文様を踏襲したものである」と辻合喜代太郎が著書「河内木綿譜」でのべるものであり、河内、大和、そして近江で越後絣の流れと合流する。

さらにみつめは、久留米絣はまったく独自に創製され、(井上でんの説を久留米絣からみるとわたしはこの説は充分におこりえるとみている。)伊予、備後に伝播した。

というものである。勿論、当時の日本の織物は各産地をはじめ自家用織物にいたるまで木綿布の普及にともなう染織技術の向上があり、以上の三つからはずれても独自の工夫によって絣の技法をうみだす水準にあったと考えることもできうる。さらには伝播は一方向でなく、しばしば逆流することがあることを頭にとどめたい。

日本にある赤について

赤染材料

@中間資料 作成

2015.10.11.

日本にある赤、茜(あかね)、紅花(べにばな)、蘇芳(すおう)、臙脂虫(エンジムシ)の4種類について

茜:日本古来より自生していた茜の根による染色 4世紀には遅くても染色されていたとされる。正倉院に収蔵されている染織品のなかで「平螺鈿背八角鏡」(へいらいでんはいのはっかくきょう)は、螺鈿(らでん)や赤い琥珀(こはく)、トルコ石が埋め込まれている印象的な鏡でこれを納める「漆皮鏡箱」の身の内面、ここが茜染による糸で綾地の唐草文が織られている。前後するが、国産ものとはいいきれない正倉院の収蔵のもので世界のいたるところの染織品を保存した可能性があり国産であるとはいいきれない。しかしながら日本茜の自生していた事実や中国から技術伝来などで、茜染めは日本に定着しやすい環境にあった。

紅花:<日本の染織 紅花染 花の生命を染めた布 >評にて、技法等などを情報追加し、まとめたいとおもう。

蘇芳:インド南部、マレー半島、インドネシアなど熱帯、もしくは亜熱帯地方に生育するマメ科の植物。そのみきの芯材に赤の色素がある。蘇芳には薬としても効果があり下痢や嘔吐をおさえる効果がある。気温の低い日本ではどうしても生育する環境にならず輸入して使用するしかない。正倉院の収蔵物「黒柿蘇芳染金銀絵如意箱」(くろがきすおうぞめきんぎんえのにょいばこ)があり、黒柿の木でつくった箱を蘇芳で赤く染めかさねたものであるという。さらにそのうえに金銀で唐花木文様をほどこすという装飾性の高い箱。平安時代になってからも赤色は高貴な色として人々を魅了する。

臙脂虫 エンジムシ 紫鉱:カイガラムシともよばれる。昆虫であるが植物とともにいきる種類は一万種といわれている。運動機能を失った雌は、一部の雄とともに植物に寄生し樹脂で身体をおおう。カイガラムシの分泌物は赤の色素を含んでいるために染料や薬物として採集されてきている。ラックカイガラムシはよく知られる種類でオオバマメノキ(マメ科)、アコウ(クワ科)、ライチ(ムクロジ科)、イヌナツメ(クロウメモドキ科)などの樹木に寄生する。インド、ブータン、ネパール、チベット、ミャンマー、ベトナム、タイ、中国南部で採集できる。正倉院に「紅牙撥鏤尺」(こうげばちるのしゃく)「 紅牙撥縷撥 」(こうげばちるのばち)があり、象牙(ぞうげ)を研磨したものにエンジムシの赤、もしくは上記三種のいずれかの赤染材で染色したと考えられる。

宮古上布の機織りの苦悩と歓喜、そして本場結城紬とにている運命

@中間記録2015.11.25

 

宮古上布と結城紬を私なりにおりまぜてつづりたしましょう。もともと宮古上布は、現在のような形のものではなく、無地もの、縞ものが多かったようです。(本場結城紬にも同じことがいえます。絣生産到来以前は織物はすべてにいえるでしょう。絣は海外から、まず日本には沖縄、琉球王国に伝来し、全国へ伝わっていく歴史のことから宮古上布のほうが絣生産は本場結城紬より、幾分はやかったことと思われます。)麻がたくさん栽培できること、琉球藍という染料が豊富なことで、独自の織物が栄えた島でしたが、今日のように貢納で発達するような土壌もあったのです。沖縄では、芭蕉布が民衆のふだん着として愛用されていましたが、その他にも木綿や麻の織物も着用されていました。とくに宮古では、宮古頭職に任ぜられた下地真栄の妻が、紺細上布(今の宮古上布の前身)を工芸品として、琉球王府に献上したのです。ところが、それがかえって悪い結果をよび、あまりにも素晴らしいものなので、それをみた薩摩政府が、わがものにしようと乗り出してきたわけです。また宮古では、機を織る女には「苦労米」といって米を支給した。家族には非常に喜ばれた。しかし、機織りの女たちの苦しみは想像を絶するものがあり、毛髪が抜け落ちる女は多かったということでした。ただ織るならまだよいのですが、ここに「貢布検査」という難関があります。一反一反につき、織った本人の前で、原料、染め方、織り方、量について検査をするのですが、織り傷や、染料のムラは絶対に許されず、糸も太さが全部揃っていないと、はねられたのでした。これが不合格になると、これまでの苦労が水の泡になるので、彼女たちはひざをつき神に祈りながら、検査結果を待つのです。(備考と参考文:本場結城紬のこんにちもにたようなところがあります。検査制度があること、織り手の心理も非常によく似ています。こうした想像は売り手側にも理解があればよいことかもしれません。上記ページ内の浦沢月子さん紹介記事を参照、参考にしていただけるとわかりやすいと思います。)糸の不揃いも(素人目にはまったくわからないのですが)、新案の意匠の前では、少し大目にみてもらえたようです。ですから、先を争って新柄を考案し、検査がよりスムーズに行くことを願ったのですが、この検査のおかげで、逆にすばらしい宮古上布の技術が現存している、ともいえそうです。自家用から献納布になり、明治の中期以降やっと自分で織ったものは、自分で売れる時代がきました。こうした織物の自分で売ってよい時代の到来をむかえた織物産地はたくさん全国にあります。しかし、その価格も、原料の買入れと、1人分の食費が出るくらいのものでしたが、監視されながら献納のために織るとは、もう雲泥の差です。(2015年現在時、本場結城紬は常に監視下にあります。こうした検査制度の確立が時代時代で厳格化を増し、非常に大変な思いがかさなっていっているのです。これは生産者にとって大変なる課題と宿命です。皮肉にも私(北村陵)が言わせてもらうなら、検査は2時間あれば一連の検査は終わるでしょうが、検査員は公平を保つために第三者(扱いは公務員等、学識者等)がおこない、落ち度が見当たらないようなものも厳しい目線で不合格となった検査依頼者が激怒してしまう場面はいまだにあるといいます。私も激怒した依頼主の気持ちは織元の人なのでよくわかります。学識者は頭がよい、らしいですが、ではいちからつむぎをつくった人の気持ちはわかんのかといいたいものです。場合によっては織るだけで約一年、また半年など長期にわたって出来上がったつむぎに数時間の検査で、あなたのつくったものはダメといわれれば、激怒する人の心は折れます。だから生産者にお前はなってみなさいといった激怒話になるのは当然なきが私はするのです。やけぼっくりにみず状態の激しい口論になるといいます。どちらの主張もそれなりにいいぶんはあるでしょうけど、検査員はそうした学識以外にも、学ぶべきことは多々あると私は思うのです。検査員は世の中学識だけではないことをも理解を深め、頭がいいといって優越感にひたって有頂天のままではいけません。頭がいいというのは脳みそのシワが年をとれば誰だってうすれてなくなっていきます。誰でもいずれ単細胞になるのです。その道数十年という生産者(いってみれば反物検査依頼者)にとって検査員の判断がただの屁理屈にきこえてしまう場合だってあると思われ、どうしても私は激怒する生産者の人の気持ちと同じようになってしまいます。)話がだいぶそれましたが、女たちは競って機を織りました。明治二十六年の生産反数は960反で、その前の献納布がだいたい1400反以上ですから、約3分の2の生産量です。数が落ちておるのは、身体を無理しない程度に織るからですが、この時代は機の種類が地機織りであったことも影響しています。高機織りになったのは、大正時代になってからといわれ昭和には生産量もかなり増えて3000反くらいの大量生産で、どっと市場に出まわりました。(こうした問題は需要と供給、さらには上布ブームなどに対応したものであり、様々な視点からは賛否両論でしょう。手織りの地機織りにこだわって欲しい、という人もいれば、供給が過剰時は、地機織りでは手に入れられる人も少数となります。商人にしてみれば、とにかく数をつくりたいのです。こうした時期は当然ながら品質は低下します。)薩摩上布(歴史解釈によって呼び名は多少異なる)が庶民が着られるようになったので、この言葉は戦前まで、宮古上布と改められずにつけられていたようです。そして宮古上布と呼称がかえり、いきいきとしてきましたが、東京の力の強い問屋が、またまた宮古上布をひとりじめして、高く売りさばき、ごくわずかな人にしか手に渡らないようになってしまいました。宮古上布は、大衆の手には渡らないような運命にあるのでしょうか。本場結城紬もまた同じようなカテゴリーに分類されている印象があるように私は思います。そして、後継者不足問題もかかえています。そうした問題に答えはまだでていません。

中形

@中間資料を一度記録

(古書現代2の再掲)

2015.12.5

きものに夏姿ということがある。そして秋姿、冬姿、春姿ということはない。これはわが国の高温多湿の夏の季節から生まれた、風土的なきもの美をいうものである。夏姿には絽や紗、上布を着た姿もふくまれるが、夏のきものはマテリアル、織り方、文様、色彩にいたるまで、他の季節とがらりと変化がみられる。きものの形が一年中同じで変化がないことが、必然的に視覚的に涼感をだすことに、工夫がこらされてきた背景がある。浮世絵には美人画の外にも、北斎などが描く風景画の空の色、水の色に藍からつくった藍蠟(あいろう)という絵の具が用いられていた。藍ガメの中の藍液は黄土色を呈している。この中に糸や布をひたして空気中にさらすと、藍は空気の酔素と化学反応をおこしてはじめて青く発色する。紺屋のものは、これを風を切るという。藍はかつて世界中の暖かい地方で用いられたが、現在、植物藍を用いているのは日本と数カ国を残しているのみである。きょくちてきにはその民族が藍染めの技法を昔ながらの染色をおこない、なおのこるといった感じである。藍の色は日本の風土によく調和する。藍の色をアメリカの人は「ヒロジゲブルー」「ジャパンブルー」と呼んで珍重するのも、日本人の生活に密着した藍色に対する魅力によるものがある。中形には、地色が藍で文様を白く染め抜いた地染まりの中形と地が白のままで文様を藍染めで表した地白中形がある。昼間は地染まり中形をきても、夜ともなれば地白中形が粋に見えて調和がよい。三遊亭圓朝の人情話『牡丹灯篭』にカランコロンと下駄の音をひびかせて出てくる幽霊は、地白中形でないと凄味が出ない。また「生き堪へて身に沁むばかり藍浴衣 橋本多佳子」の句には、紺の地染まり中形が連想されるといふものが多いという。歌舞伎役者によって流行した中形をあぐれば、

仲蔵縞:仲蔵が毛剃九右衛門にふんしたときに元船の場面できた変わり縞 

芝翫縞(しがんじま):四筋に釻つなぎ(かんつなぎ)を配し、芝翫に通じさせた模様

鎌輪ぬ(かまわぬ):鎌の絵のなかにぬの字を入れた図を三筋縞の中に配し、「染めもかまわぬ江戸自慢、、、、」の長唄の文句に合わせたもの

市村格子:十二代派左衛門好みで、白地に紺で破れ格子に片仮名のラの字を配した柄

その他、歌舞伎芝居にゆかりのある粋な中形も多い。以上、ふれた中形は、重要無形文化財として指定されている江戸中形(長板本染中形ともいう)主としたものである。中形には明治年間に大阪からはじまった注染中形(折付中形、手拭中形の名もある)がある。現在の中形の大部分は、この方法で染められる。

郡上つむぎの蘇生 宗廣力三

宗広力三

 

@中間資料を一度記録

2015.12.5

郡上八幡は、岐阜から越美南線に乗り換えて、約二時間、飛騨山系の山塊にいだかれた小さな城下町である。人口は約二万人、町の中央を長良川の支流、吉田川が貫流し、紅殻格子の古い家並が続く、小さな町である。この郡上八幡町から、北に5kmほど山に入った小駄良郷に宗廣力三さんの主催する「郡上郷土芸術研究所」がある。大きな民家を改造したもので、一階が「郷土織資料館」となっている。自然の草木染絣として、独特の風合いを持つ郡上紬は、戦後、宗廣さんによって創始された。宗廣さんは、大正三年四月二十五日生まれであるから、62才になる。郡上紬の歴史は、宗広さんと共に始まった。もともと、郡上八幡は、源平の昔、平家の落人たちがこの地にわけ入り、村をつくったところであったから、郡上織と呼ばれる伝統絹織物が織られていた。柳宗悦とも交流があり蘇生を志す。郡上紬は野性の蚕糸を紡いで、草木染めしたもので、10世紀に醍醐天皇の命により編纂された「延喜式」にも『曾代糸』と記されており、伊勢神宮の神官の装束に用いられた。宗廣さんは、眼鏡の奥で柔和な笑みを浮かべ、苦労話を語ってくれた。それは、苦難と希望に満ちた、闘いの人生であった。宗廣さんは、農家の次男として、初音の町に生まれた。三男のものが家を継いだ。宗廣さんは、小さい頃から研究熱心で、一つのことを思い込むと、かならず完成させなくては気のすまぬ性格であった。郡上農林学校の生徒であった時にも、寒冷の地では作ることができないとされていた、西瓜やメロンをセロハン張りの室をつくり、実らせている。この成果が何事もやろうと思えば出来る、という自信を植えつけた。学校を卒業すると、県立畜産試験場に入る。ここで、羊毛加工などの技術を修得する。昭和14年、25歳の時に、留学生として、約六ヶ月、ドイツ各地の農場を視察した。このドイツ留学の経験が宗廣さんの視野を世界に向けさせた。郡上八幡地方は寒冷の地であり、貧しい土地であった。この貧しさゆえに、この地の人は、向上心に燃え、反逆の精神があった。また、幕末には、会津白虎隊と共に、最後まで官軍と戦った郡上凌霜隊が、よく知られている。この反抗の精神は、昭和12年になると、青年運動へと発展する。「凌霜隊塾」と呼ばれる修養道場の建設である。これは、郡上郡の次男、三男たちが、八幡町城山の山麓に、山小屋をつくり、荒野を開拓し、自給自足による共同村の建設を計ったものであった。農家の次男たちにとって、土地ではなく、働く場所をもたなかった。この青年達は、共同村の建設によって、理想郷の村づくりを計った生活革新運動であった。戦前の気風も、国策として、海外への飛躍を望んでいたし、県も、この「凌霜隊」に補助金を与え援助した。最初は10人程の小さな運動であったが、やがて、県内から青年達が集まり、満州開拓団、郡上村建設へと発展していった。共同作業によって、山地を開墾し、羊をかい、ホームスパン加工をした。宗廣さんは、この「凌霜隊」に入所し、やがて、広い知識と指導性をかわれ中心的存在となっていく。ようやく実りを結びかけたこの運動も、終戦によって挫折する。敗戦の焦土の中で、希望に燃えて旅立った青年達は、現在の中国東北地区から続々と郡上に引き上げてきた。失意と飢えに怯えた灰色の時代であった。宗廣さんは、これらの青年達に、生きる希望を与えようと、昭和21年、大日ケ獄山麓の国有林三百町歩を払いさげてもらい、五ヶ所に小屋をたてて、太平開拓農場を開いた。それは、山林から木を伐り出して建てたバラック小屋であり、食べるものとてない極貧の生活であった。宗廣さんは、妻とうきさん(55歳)と二人の子供をかかえ、生活苦と闘った。毎日、荒地でできる大根とジャガイモの生活であった。米粒など一粒もなかった。現金収入はゼロに近く、食塩を買うお金もなく、近くの農家にもらいにいったという。衣服は、特需物資を払い下げ、古着を直してあった。共に作業している人々の家を訪ねて見ると、陽がかんかん照りなのに寝ている。腹が減って働けぬというのだ。宗廣さんは困った。そして思い出したのが郡上織であった。織物のことなど全く知らぬ宗廣さんは、京都染色試験場を訪ね、インド原種エリ蚕研究家として知られる浅井修吉氏に面会を申し込んだ。浅井さんは、宗廣さんの情熱にうたれ、つむぎ制作の指導を約束してくれた。その時の心境はまさに藁をもつかみたい気持ちであったという。昭和22年、浅井さんから都合してもらったヒマと「神樹」(うるわしの種)を、農場に持ちかえり、植えた。だが、その年は、水照りが続き、発育せず、わずか10kgのまゆがとれただけであった。エリ蚕はインドのアッサム地方では、親子三代に着られるという上質の絹糸で寒冷の地で育てることは難しい。しかし、宗廣さんの不屈の闘志は、この難点を打破した。品種の改良を行い、やがてマユの木はすくすくと育つようになった。ようやく糸ができると、宗廣さんは、付近の農家から高機をかりだし(のちに地機織り、結城紬の織り機で日本最古の織り機で織るようになる)、浅井さんの指導で、織り方の勉強をした。自ら修得した織りの技術を妻に伝え、やがて、共同農場の人々に教えていった。染めは、山麓にある自然の草木を用いて草木染めした。黄色は、黄八丈と同じように刈安(かりやす)、淡黄色は渋木、茶は阿仙にクルミ、赤は蘇芳、紅花、(生涯の代表作の赤には日本茜をつかうあとあとである)、藍色は藍である。しかし、色調の度合や、かんが解らず、自分の考えていた色がでない。この頃化学染料などまだない。寒風の吹きすさぶ早朝に起きては、火を焚き、草木を入れて、何度も試験を重ねた。ようやく、昭和25・26年頃になると、紬らしいものが出来上がった。それまでの三、四年間は、まったくの無収入で、共同農場の人々など、「前途もわからんし、かってなことやってて…」と非難の声があがっていた。国から十万円の開拓資金をかり、どうにか飢えをしのいだ。また、繊維会社の社長をやっていた山田栄三さんも、販売、資金の面でバックアップしてくれた。こうして完成した郡上紬も、まがいものが出たりして、思わぬ災難にあったりする。商標登録したのは、昭和47年になってからである。郡上紬は、緯糸にエリ蚕のつむぎ糸、経糸は、玉糸とつむぎ糸を使っている。撚りは経糸を強撚りしてある。浅井さんの指導でここまで織れるようになり、本来の草木染めの美しさが郡上紬の評価をたかめている。白洲正子さんの著書に宗廣力三氏の記事があるのでそちらも参考にしていただきたい。

原始布架空論(1)

原始的織機について 

2015.12.11

記録

作成 北村陵

現代の日本の紬

絣産地一覧表 作成 現代編集2015

2015.12.21

@中間資料を一度記録

現代の日本の紬 絣産地一覧表 作成: 北村 陵

現代編集2015

上布が衰退した三つの理由

2015.12.21

中間記録

なぜ、こうなったのか。まず第一に、木綿の普及があげられる。応仁の乱の前後から朝鮮を経由し、日本に普及しはじめた木綿は、やがて江戸中期には栽培の可能な日本中の農村でつくられるようになって、庶民の衣料の中心が布から木綿に移った背景がある。第二に、庶民から成り上がった武士階級は、麻布をその服制の中に取り入れていた。これが木綿以後の麻布の最大の顧客であり、このために上布の技術が発達したのであるが、この武士階級は明治維新で完全に没落した。第三に、今次大戦後の日本は工業化し、日本人の衣生活は欧米化して、仕事着、普段着、街着としての和服は激減し、特に夏の和装における麻布は、ごく一部の人々以外は使われなくなった。絹物の絽や紗の方が正装となり、しかも安価で、麻布のようにしわにならないということが主の原因であろう。このようにして上布は、社会的な存在理由を喪失したといわざるをえない。「縮は死のうとしている。が、まだ完全に死に絶えたわけではない。かすかでも息のあるうちはあらゆる手だてを尽くして、それを守ろうが、無理やりに、なにがなんでも生かそう、生き続けろというのは、かえって残酷ではないか。せめていくらかでも美しさの面影をとどめているうちに、やすらかに死なせてやりたいのだ。」:小千谷の西脇新次郎氏のことばである。彼は江戸時代からつづいている縮問屋の9代目であり、昭和45年には『越後のちぢみ』という、いってみれば越後上布の記念碑ともいうべき本を編纂されている越後上布の第一の理解者である。その氏にして、この言葉である。はじめてきいてみると喉がつまる思いであるが、しかし今、この言葉は素直に私の心におさまるのである。
滅び去らせるには惜しい上布

2015.12.21

中間記録

上布は、まだ死んではいないが、越後上布の場合には、上布の古格を厳しく守り、苧麻の栽培から苧積み、よりかけ、そして地機で織る技術さえも習得した、六日町の鈴木苧紡庵氏のような人もいる。機を織る人たちからは、例えば「自分は昔機を織っていたが、悪い糸にあった時は本当に泣かされたものだ。だから今、織る人が織りいいような素直な糸を績んで(うんで)あげたいと、それだけを念じて糸を績んでいる。」というような胸をうつ多くの言葉がある。たまたま切れた経糸をあっという間に繋ぎ合わせ、しかもそのつなぎ目が、まるで鋏で余分な部分を切り落としたかのようになっている。八十歳をすぎた老婆の手わざのさえである。こうした人々が数名残っている。宮古島にも石垣島にも同じことがいえる。一筋の糸を追って生き抜いた人々の心の深さは、外部からはうかがい知れぬ深い深いものであろう。そこには長い庶民の歴史がまだ息づいて、あたたかい血が流れている。滅び去らせるにはおしい。本当になんとかならないものかと非力な自分を責める思いにも涙もない。しかし、いかに美しくても、新しい社会に適応することができないものを、仮借なく、非情に滅びさせるのもまた、伝統というものなのであろう。

沖縄県、読谷山花織について 記事作成 中間資料集

2016.1.6

中間記録


沖縄県、読谷山花織について

記事作成 中間資料集2

絣括りとスリコミ(直接染色法)と逆スリコミについて

2016.1.9

中間資料 作成

久米島紬草木染絣の制作の考察 北村陵
久米島紬、八丈島紬の技法を吸収して改良改善をはかる、について

2016.1.11

中間資料作成

久米島紬が古くから人々に愛好されてきたのは、その色調が草木染めであり、その上、泥染をおこなう染色技法に巧みな技法の日本の紬の染色をみる。そうした原始的な方法によってひきだされてゆく渋みのある落ち着きは着用をかさねてゆくとなんとも深い味わいがある。本土では琉球紬とよばれていたという。17世紀に始まった薩摩島津藩の支配下にあった寛政4年(1792)に江戸の人々の目に初めてとまり、重宝されたといわれている。久米島紬の推移については、琉球国由来記(1713)、琉球国旧記(1731)、仲里旧記(1706)、具志川旧記(1743)、更に具志川村上江洲家家譜等にそれぞれ述べられていることを辻合喜代太郎氏が記述されていることを現在確認した。それらの資料によると、久米島は中国と南方諸島との交易の中継地として船舶の往来が繋く、紬の原料となる絹糸の生産について、もともとこの島に古くから野蚕が存していたことが知られ、更に養蚕技法は15世紀半頃、堂比屋という人が明国に渡り、その地の技法を新しく学んで導入したことや、漂着した中国人から養蚕、製糸の技法を学んで、絹の粗布を製したことなどが、この島の紬の起源であると伝えている。上江洲家家譜、琉球旧記によると更に万暦47年(1619)に越前国の住人宗味入道が琉球を訪れ、国王尚寧王の茶道の指南役となっていたが、たまたま、彼は養蚕、製糸の技法に精通していたことから、王命にしたがってこの島に渡り、従来の伝統的な技法を改良し普及に努めたということである。崇禎5年(1632)<寛永9年に相当する。>に、島津藩の酒匂四郎右衛門(酒匂友寄親雲上)が琉球王府の招きに応じて久米島に渡り、八丈島紬の技法をこの島の紬製作法にとりいれ、大いに改良に努力した。その主なる点は、草木染<刈安(かりやす)、マダミ、椎、泥染)についての研究、オヤリ糸という紡糸法とである。この技法は繭をまず真綿状にし、これから手ひねりで糸を引き出し、その糸先を手紡錘を回転しながら撚り(より)をかけ、手錘に巻きとり紬糸を得るという方法である。このように久米島紬の技法改善に王府がなみなみならぬ努力を尽くしたのは、当時既に琉球は島津藩の治政下にあったため、貢布の制度が定められていたからである。
図説 オサノカラメドについて

2015.10.10

作成日順列前後

オサノカラメドについて
図説 染色  ばいせん剤と助剤のイリグチ染色 

2015.11.18

作成日順列前後

染色基本知識強化記事

紬の昭和住み込み生活

つむぎ風土記  

2015.1.14

作成日順列前後

作成 北村陵

本場結城紬の図案紙より考え抜かれた織物図案紙は日本に存在しない。

考え抜かれて誕生した本場結城紬の図案について 

2015.2.3

作成日順列前後

 

作成 北村陵
絣の誤謬(ごびゅう)

2014.10.7

作成日順列前後

作成 北村陵
久米島紬の種別

2016.1.13

中間資料

島内で紬糸は宇江城、比屋定で養蚕を行い、座繰生糸(ざぐりきいと)と手引紬糸とを生産しているが、到底、自給自足は困難であり、多くは那覇、鹿児島等から移入している。しかし、年々栽桑も増加して、自給自足も可能に近くなったという。久米島はそうした歴史もあった。 

久米島紬の銘柄には

(1)黒物 グール染、テカチ染に泥染を施したもの

(2)色物 福木、クルボー、ヤマモー、ユウナで染め、その後、明バンの媒染によるもの

(3)白紬

(4)ユウナ染

がある。これらの色調に必要な染料について述べると、グールはサルトリイバラの根を細かく切り、窯で煮て染汁を採る。テカチはシャリンバイともいい、その幹を細分して煮て染汁を採るものであって、久米島紬の最も特性とされている。赤染色という焦茶色のものはグール染十回、テカチ染十回、泥染八回の工程を経ている。福木は琉球地方の防風林として重要な樹木である。その幹の皮を煮て染汁を採るもので美しい黄色である。クルボウ(クロバイの皮)、ヤマモ・ユウナ(オオハマボウの灰)も用いる。ユウナはグーズミと呼ばれた古来からの伝承染色法があり、その幹を焼いた灰をサンゴ礁で作った臼に入れて十分に粉末化し、これに豆汁を加える。糸染を何回も繰り返して明バンで媒染すると灰色を呈し、すこぶる優雅な色調になるという。このように色調はすべて草木染めを原則としてこれに泥染を施す。泥は仲里村阿嘉地区から採集する。泥染は古くから内地でも行われていた方法であり、丹波布とよばれた布はこの方法によった美しい布とされている。泥染というのは泥のなかにふくまれた鉄分が媒染剤になり発色するものである。久米島紬の場合、テカチ染に泥染を施すとテカチ染のタンニン酸鉄と泥中の鉄塩が化合して、タンニン酸鉄が生じ、黒焦色を呈する。また、緑色は福木の下染に泥染媒染を行って得られ、赤紫色は蘇芳の下染に泥染を行って得られている。

久米島紬、琉球布の図柄と文様

2016.1.14

中間資料

図柄と文様は<御絵図帳>に基づいたものを原則とし、経絣、緯絣、経緯絣、経縞と絣、緯縞と絣がある。文様によって御殿柄(王、貴族によって用いたもの)、城柄(士族の用いたもの)、小柄(庶民用)と区分されていた。最もよく知られているものは杢糸(もくいと 二本の異なる色の糸のあわせ糸)を用いた色糸による格子縞、格子縞と絣文との組み合わせである。文様主題はトグワー(鳥形)、矢形、花形、亀甲形、番所金、カマシキ、犬足形、十三群、二玉、三玉、ゴーヌーイ、眉形、波形、十字形、雲形、菱形、餌箱形等が用いられ、二つ以上の主題が互いに組み合わされているのが通例である。このような文様は琉球で生産される織物に共通したものであり、いわば琉球産織物の特性といえる。

首里紬について

2016.1.14

中間資料

首里は旧琉球王府の地であり、古くから琉球の織物の中心地でもあった。旧王府頃には麻布、芭蕉布、トンビアン、花織、琉球絣、手縞、綾中、ランラミ、ロートン織などのすべての織物が生産されていた。したがって現在でもその伝統を守って高度の技法とその洗練された意匠を表現したものが見られる。首里紬は<御絵図帳>に示された図柄を基として織られ、紬糸は伊平屋、伊是名島(いぜなじま)で養蚕された繭から手引きした糸を用いる。色調は草木染によったもので、その主なる染料は福木、藍、テカチ、ヤシャブシ、紅花、ウコン、クロトン、クルボウ等である。文柄図柄は士族以上の人に用いられた多色の美しい格子縞と絣との組み合わせであり、これを手縞という。また、経縞(竪縞)に絣文の組み合わせのものを綾中という。これらの縞糸は二色の色糸を撚った杢糸を用いる。最も多くみられた絣文は鳥形、矢形、眉形、水雲形である。色調は赤、黄、青の三色を基とした美しい構成であって琉球織物の伝統意匠の特性を示したものである。

きもの…ありがとう

 宮崎恭子

2016.1.18

中間記録


きもの…ありがとう 宮崎恭子

つむぎについて

結城市史第六巻 結城市郷土資料

2012.7.-2012.12.

中間記録

作成日順列前後

結城図書館、茨城繊維工業指導所に保管してある結城市の郷土資料。とくに紬に関しては、結城市の市長をこの資料を編纂した時期、奥順の先代の社長が、過去の資料などからまとめたもので、産地問屋の社長としての輝かしい紬時代を一冊にまとめたのかと思うのである。産地問屋の社長が結城市長であったのだから紬業がいかに盛んな時代かおわかりいただけよう。私も何度か会話したり可愛がられたのであまり悪くは書けないが、2012年の6ヶ月でレポート化および電子化で、結城図書館では、この後持ち出し禁止重要資料となった。結城市史は第1巻から6巻まであり、最後の6巻にて先代が紬について義理でもまとめてくれていたので、作業にとりかかったのである。政治に結城市議会議員など政治に関わる紬業のものが数名いるが、私は紬業のものが政治に入っていくものではないと思って冷ややかな視線を彼らに送っている。政治特有のうさんくささが仕事にも出てしまうと私は考えている。収入は少なくても黙って紬業にうちこむのが本来の姿ではないのかと思うし、政治に介入する紬業の彼らは反面教師である。

栃木県足利市 織姫神社へ

 

2016.1.24.

歴史と文化のまち 足利織姫神社

レポート作成 北村陵

 

足利織物資料館の八丁撚糸機について

2016.1.24.

足利織物の資料館内撮影(1)

八丁撚糸機について

ちぢみ(縮)の糸づくり

結城紬産地の八丁撚糸機と杢糸生産機について

2015.7.29.

中間資料作成

八丁撚糸機と杢糸生産機の画像と動画:取材先:くらもち撚糸杢糸生産店

2015.7.29.

縮織物の糸づくり(強撚糸)、杢織物の糸づくり(杢糸)について

栃木県足利市 足利織物資料館

 足踏織機について

2016.1.24

栃木県足利市 足利織物資料館

 足踏織機について

と 結城紬産地高橋式半自動織機のリンク
結城紬産地の道具の変遷について 2015.記録 結城紬産地の道具の変遷について 上記の資料とかさねて勉強してみる

組物機械(組紐機)の展示とそのほか

 

足利資料館内撮影

2016.1.24.

組紐、座繰り糸関連道具の展示
蜘蛛の糸と蛍光繭の議題

2015.7.22

中間記録

2015年茨城の講習会のまとめ(1)

iPadでリアルタイムに記録していった。よみにくい部分あり

玉繭の養蚕の指摘と考察2015

2015.7.24

中間記録

意図的に、遺伝子組み換えや玉繭生産できるというのは、あまり評価できないレポート

2015年茨城の講習会のまとめ(2)

現代の化学染色の時代、

今後の草木染め時代、

もう一度、古文献をみつめて

2016.1.28

中間記録

1856年、イギリスのウィリアム・パーキンという青年がコールタールを原料とした赤紫色の色素を発見した。このウィリアムパーキン氏の色素の発見が化学染料開発のおおいなる化学染料および化学合成染料のはじまりをつげたものとなった。この赤紫色を彼はモーブと名をつけ、世界で最初の合成染料会社をつくり彼は大成功をおさめる。この合成染料の発見で、これまでの植物や貝や昆虫などの天然染料を抽出する時代から合成染料の時代へと大きく変わっていった。その後、アリザニン、インジゴ(インディゴ)といった、様々な合成染料が開発されてゆく。19世紀後半には人造繊維も開発されて、現在のようにカラフルな衣服をまとった人びとが街にあふれるようになった。現代の染色は化学染色といえる。しかし今後の<日本の伝統>を重んじるとなると、この化学染料を用いた染色より天然染料などの草木染めにこだわった天然染料、草木染色にたどり着く。古き<万葉集>を筆頭に登場する文献には天然染料のみの染色であることは広く認知されている。草木染めブームなどの染織ブームのときもこうした古い文献<万葉集><源氏物語><徒然草><延喜式>までさかのぼって草木染めが一時的に盛り返した。そしてまた化学染料時代へと戻ってしまった。そして私も着々とすすめているのが、こうした古き文献までさかのぼる従来の天然染料を用いた染色の技法のものであり、それは伝統を草木染め主流から化学染料主流、そしてまた草木染め主流になるものだと私の結城紬染色はあるべきであり、草木染め推奨派である。優しい色合いは決して化学染料にはない奥行きがあると私は思うのである。私の記録を参考に草木染めが、ふたたびのふたたび見直される日がくると思ってやまない。それまで私は産地をひっぱってゆく。

 

文明、いにしえの色彩

2016.1.28

中間資料

ところで、人はいったいいつから、服地を染めるようになったのだろうか。人類の歴史の中で自然に対する祈りや儀式のために、色彩の利用がはじまったといわれている。1万5000年以上前の遺跡、スペインのアルタミラやフランスのラスコーの洞窟では天然の顔料の絵が描かれている。衣服が発展する前には、どの民族も赤土などの顔料をからだに塗りつけ模様を描いていた。繊維を天然染料で染色するようになるのは、もっとあとのことで、紀元前4000〜3000年にかけてといわれている。世界各地で染色工芸の技術が確立されてからのことだろう。
古代エジプト文明と染色

2016.1.28

中間資料

現存する最古の染色された布は、エジプトのピラミッドから発見された藍染の麻布である。いまから約4000年以上も古いものとされている。古代エジプトでは、ツタンカーメン(紀元前1352年没)の墓から、茜染の帯も発見されている。紀元前15世紀ごろから、地中海で染色を行ってきた民族として有名なのがフェニキア人である。貝からとりだした分泌液で布を紫色に染める技術を発見したといわれる。1個の貝には、とても微量の色素しかふくまれていなく、1グラムの色素をえるために、約1万個の貝が必要であった。ローマ帝国時代には、この紫色は帝王紫(ロイヤルパープル)とよばれ豪華なくらしの象徴とされていた。クレオパトラの船の大きな帆が貝紫で染められており、その色で権力を誇ったともいわれている。
アンデス文明と染色

2016.1.28

中間資料

アンデス文明では、紀元前1万2000年ごろから織物が制作されたといわれる。南アメリカのペルーにあるパラカス半島では、紀元前1世紀ごろのものとされる、鮮やかな黄色と紫色の織物が発見されている。この時代には、アンデス地帯では、藍、茜、くるみ、貝紫も使われ、鉄分を含んだ泥、石灰、ミョウバンを利用して染色していたと考えられる。
中国文明と染色

2016.1.28

中間資料

中国では、4000年以上も前に、蚕から糸をとりだして織物にする絹織物の技術をあみだした。その絹は軽くてしなやかで光沢があり、よく色が染まることから、多彩で澄んだ色の布が生み出された。紀元前3世紀に中国を統一した秦の始皇帝のころから、絹の染織技術が発展したといわれており、中国からローマ帝国までの道が<シルクロード>とよばれているように絹を代表とする交易のための道が、その後の東西交流の重要なルートとなった。日本にも、このシルクロードを通って、西域ペルシャなどからの染織文化が伝わった。それらの影響は正倉院宝物(しょうそういんほうもつ)の染織品をみるとわかる重要な宝である。
インダス文明と染色

2016.1.28

中間資料

インドでは、紀元前3500〜2500年前にインダス文明がおこって木綿が栽培されるようになった。その木綿の布に華やかな草花文様を木版などで染色したものがインド更紗(サラサ)である。インド更紗は、高度の染色技術による染め布で、紀元前6世紀ごろに発展して生産されるようになった。インドは東西交流の真ん中に位置しており、その染織品が東西に運ばれるようになっていった。

植物学に学ぶデザイン独学2015

2015.4-

中間記録

植物モチーフのデザイン学、独学。

レポート作成: 北村陵

格子柄(チェック)に学ぶ格子のデザイン独学、研究と素材

格子柄究極への思考

2015-

中間記録

格子柄(チェック)のデザインを考える デザイン学、独学。

レポート作成:北村陵

本場結城紬九寸名古屋帯婦人用格子柄草木帯2015< 一品好>シリーズ第一弾 2015-2016.1

格子柄のデザインをつくり、草木染め100%による染色の九寸名古屋帯

たった一回での制作シリーズで世には一品しかないカジュアルエレガント

のコンセプトの婦人用帯を制作し付加価値を追求。その第一弾の帯

一品好第二弾草木染婦人用格子帯のデザイン考案

2016.1.25

中間記録

上記の制作シリーズ帯の第二弾。草木染め100%による染色の九寸名古屋帯

こちらも市場には一品しか出回らないまたしてもカジュアルエレガントの

コンセプトの婦人用帯を制作し引き続き希少性の付加価値を追求。

その第二弾の帯のデザイン

絣の履歴と生産 過去の絣生産分

絣括りによって絣が生産されていく記録をとった。結構なボリュウムであると振り返る。

まず、こうした記録は生産者ならではと言えるものがそこにはある気がしている。